2007年4月26日 (木)

(建久10年1月に頼朝死亡)

(建久6年・・・9年、建久10年1月 「吾妻鏡」記載無し)

(建久10年1月に頼朝死亡)

1199年 (建久10年、4月27日改元正治元年 己未)
「愚管抄」「頼朝死亡」
カカル程ニ人思ヒヨラヌホドノ事ニテ。アサマシキ事出キヌ。同十年正月ニ関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ。ヤガテショウガツ十一日ニ出家シテ。同十三日ニウセニケリト。十五六日ヨリ聞ヘタチニキ。夢カ現カト人思タリキ。今年必シヅカニノボリテ世ノ事沙汰セント思ヒタリケリ。万ノ事存ノ外ニ候ナドゾ。九條殿ヘハ申ツカハシケル。コノ後イツシカ正月廿日除目行ヒテ。通親ハ右大将ニ成ニキ。故摂政〔良経〕ヲバ後京極殿ト申ニヤ。ソノ内大臣ナリシヲコシテ。頼実大相國入道ヲバ右大臣ニナシテキ。コノ頼実ハ右大将ヲ辞セサセテソノ所ニナリニキ。コノ除目ニ頼朝ガ家ツギタル嫡子ノ頼家ヲバ左中将ニナシテキ。
(現代文)
かかる程に人思いよらぬほどの事にて、意外な事が発生した。建久10年一月頼朝は病気が良くないとほのかに言う程に、やがて1月11日に出家して、1月13日に亡くなると15.6日から評判が立った。夢かうつつと人思いました。今年必ず、静かに上りて世の事指図しようと思いました。・・・

「吾妻鏡」1200年 (正治2年)1月13日 
「頼朝一周忌」


「吾妻鏡」1212年 (建暦2年 壬申)2月28日 乙巳
「頼朝、相模河橋の供養の帰路に落馬し、のち死す」

|

2007年4月17日 (火)

7月20日 「吾妻鏡」「頼朝、征夷大将軍に任ぜらる」

7月20日 「吾妻鏡」庚寅
「頼朝、征夷大将軍に任ぜらる」
 大理(能保)の飛脚が参着した。去る十二日に征夷大将軍に任命なされた。その任命書、天皇の使を差し進せられんと欲するの由申し送られたようです。

7月26日 「吾妻鏡」丙申
「勅使征夷大将軍の除書を持参す」
 天皇の使の法皇庁の官吏肥後の介中原景良・同康定等が参着した。征夷大将軍の任命書を持参する所である。両人(各々衣冠を着す)例に任せ鶴岡のやしろの庭に列び立ち、使者を以て任命書を進上すべきの由これを申した。三浦の義澄を遣わされた。義澄、比企左衛門の尉能員・和田の三郎宗實並びに郎従十人(各々甲冑)を相具し、宮寺に詣で彼の書状を請け取る。景良等名字を問うの処に、介の任命書未だ到らざるの間、三浦の次郎の由名をつげました。則ち帰参した。頼朝(御束帯)は予め西廊に出御した。義澄が任命書をささげ持ち、ひざまずいて膝で進退してこれを進上しました。
 千万人の中に義澄この役に応じた。名誉はこの上なく巧みである。亡父義明は命を将軍に献上しました。その勲功は髭を剪ると雖も没後に酬い難し。仍って子葉を抽賞せられた。
  除書に云く、
    左少史三善仲康           内舎人橘の實俊
    中宮権の少進平の知家        宮内少丞藤原の定頼
    大膳の進源の兼光          大和の守大中臣宣長
    河内の守小槻廣房(左大史の任を辞す)尾張の守藤原忠明(元伯耆の守)
    遠江の守藤原朝房(元陸奥)     近江の守平の棟範
    陸奥の守源の師信          伯耆の守藤原宗信(元遠江)
    加賀の守源の雅家          若狭の守藤原保家(元安房)
    石見の守藤原経成          長門の守藤原信定
    対馬の守源の高行          左近将監源の俊實
    左衛門の少志惟宗景弘        右馬の允宮道式俊
      建久三年七月十二日
   征夷使
     大将軍源の頼朝
   従五位下源の信友
 左衛門の督(通親)参陣、参議(壬生)兼忠卿これを書く。将軍の事、本より御意に懸けらるると雖も、今にこれを達せしめなされなかった。而るに法皇崩御の後、朝政の初度に、殊に指図有りて任命されるの間、ことさらに以て天皇の使に及ぶようです。また(八田)知家の指図として、武蔵の守(大内義信)の屋敷を選び指定し、天皇の使を招き酒食の接待をしました。

[愚管抄]
  殿下(兼實)、鎌倉の将軍(頼朝)、仰せ合わせつつ、世の御政はありけり。

|

2007年4月15日 (日)

6月13日 「吾妻鏡」「皆河権六太郎厚免せらる」

6月13日 「吾妻鏡」癸丑
「頼朝、永福寺造営工事を観る」
 頼朝様は新造の御堂の地においでになられた。畠山の次郎・佐貫の四郎大夫・城の四郎・工藤の小次郎・下河邊の四郎等がはりや棟木を引く。その力すでに力士数十人の如し。筋力を盡すべき事等各々一時に功を成し、観る者の目を驚かせた。頼朝は感心なされた。凡そ地ならしと云い営作と云い、江間(義時)殿以下手づからこれを指図した。
「皆河権六太郎厚免せらる」
 爰に土を夏毛の行騰(むかばき)に納れて運ぶ者が有りました。その名を尋ねられるの処、景時申して云く、囚人皆河の権六太郎であるようです。その功績に感心し、忽ち特別の厚意によって罪を許されました。これ木曽の典厩(義仲)随一の者である。典厩が誅せられるの後、囚人として梶原に召し預けられたようです。
(注釈)
行騰(むかばき)・・・毛皮の腰から脚にかけての被い。
典厩(てんきゅう)・・・左右の馬寮(めりょう)とその頭(かみ)の唐名。

|

2007年4月14日 (土)

1192年 (建久3年) 3月16日 「吾妻鏡」「後白河法皇崩御」

1192年 (建久3年 壬子)

3月16日 「吾妻鏡」戊子
「後白河法皇崩御」
 午後2時頃に京都の飛脚が参着した。去る十三日の午前4時頃、太上(後白河)法皇が六條殿に於いてお亡くなりになられた。御病気は大腹水のようです。大原の本成房上人を召し、御善知識と為した。高声に御念佛七十反、御手に印契を結び、臨終の正念、居ながら睡るが如く死去なされたようです。法皇の年齢を計るに六十七、すでに半百を過ぎたり。御治世の四十年と謂うは、殆ど昔を超えた。白河法皇の外此の如きの君は御いでになりません。頼朝様は御悲歎の至りに誠意心底を砕く。これ則ち合体の儀をかたじけなくして、君臣の礼を重んぜられるに依ってであるということです。
(注釈)
腹水(ふくすい)・・・腹腔内に液体の溜まる症状
上人(しょうにん)・・・僧位の名
善知識(ぜんちしき)・・・仏道に導く高徳の僧
印契(いんげい)・・・両手の指を組み合わせ、理念を表現。
正念(しょうねん)・・・一心に念仏すること

|

2007年4月13日 (金)

10月1日 「吾妻鏡」「奥州・越後の駿牛を召し進す」

10月1日 「吾妻鏡」丙子
「奥州・越後の駿牛を召し進す」
 佐々木の三郎盛綱・宮六兼仗国平等の指図として、奥州並びに越後の国より駿牛十五頭を召し進上した。今日御覧有りました。これ法住寺殿、義仲が叛逆の時悪徒が乱入し、また文治元年の地震に悉くすたれ傾くの間、関東の御指図として修理を加えられた。その牛屋を立てられんが為である。而るにこの牛然るべからざるの由、前の少将時家・大夫屬入道善信等これを申した。仍って京都に於いてあれこれ苦労することは、還って甲斐無きに似たり。御馬を以て牛の替わりと為すべきの由、御指図が有るようです。

|

2007年4月10日 (火)

11月7日 「吾妻鏡」「頼朝入洛す」

11月7日 「吾妻鏡」丁巳 雨降る、午の一刻晴に属く。その後風烈し
「頼朝入洛す」
 二品(頼朝)が御入京された。法皇は内密に御車を以て御覧になられた。見物の車、轂(こしき)を輾(きし)りて河原に立つ。午後4時頃、先陣が花洛に入る。三條の末を西行し、河原を南行し、六波羅に到着された。その行列、
 先ず貢(みつぎ)金の唐櫃(からびつ)一合
  次いで先陣
   畠山の次郎重忠(黒絲威の甲を着す。家子一人・郎等十人等これを相具す)
  次いで先陣の随兵(三騎これを列す。一騎別に張替持一騎、冑・腹巻・行騰。また小
           舎人童上髪、征箭を負い行騰を着す。各々前に在り。その外郎従
           を具せず)
    (以下略)
11月7日 [玉葉]天晴れ。時々風吹く
 この日、源二位頼朝卿が入京した。午後4時頃、六波羅の新造の屋敷に到着したようだ。騎馬で弓矢を装備し、甲冑を着けないようだ。法皇以下の京中の諸人が見物したようだ。私はこれを見なかった。白昼の騎馬の入京は存ずる旨有るようだ。
(注釈)
轂(こしき)・・車輪の中央部の部品
輾(きし)り・・・こすれあって音をたてる
花洛(からく)・・・はなのみやこ。京都
唐櫃(からびつ)・・・脚つきの櫃(上開きの容器)

|

2007年3月31日 (土)

12月23日 「吾妻鏡」「義経・義仲・秀衡の子ら鎌倉に発向すとの風説」

12月23日 「吾妻鏡」戊申
「義経・義仲・秀衡の子ら鎌倉に発向すとの風説」
 奥州からの飛脚が去る夜参り、申して云く、與州(義経)並びに木曽左典厩(義仲)の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に向け出発せんと擬すの由の評判の説が有るようです。仍って軍勢を北陸道に分け派遣すべきかの由、今日その指図が有りました。深雪の時期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御文書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱以下越後・信濃等の国の御家人に遣わされるようです。(藤原)俊兼が、これを奉行しました。
(注釈)
旧暦1189年12月23日 は新暦1190年1月30日
御家人(ごけにん)・・・将軍と主従関係を結び、所領安堵などの保護を受けた武士

|

2007年3月30日 (金)

9月3日 「吾妻鏡」「泰衡、郎従河田次郎に誅せらる」

9月3日 「吾妻鏡」庚申
「泰衡、郎従河田次郎に誅せらる」
 藤原泰衡は数千の軍兵に圍まれ、一旦の生命への迫害を遁れる為、隠れることねずみの如く、退ぞくこと貎(げき)に似たり。夷狄(えぞ)嶋を差し、糠部郡(陸奥)に向かって行く。この間、数代の郎従河田の次郎を相恃み、肥内郡贄(にえ)の柵(出羽)に到るの処、河田たちまちに年来の旧好を変じ、郎従等をして泰衡を相囲ましめさらし首にした。この首を二品(頼朝)に献上する為、鞭を揚げ参向したようです。
   陸奥押領使藤原朝臣泰衡(年三十五)
   鎮守府将軍兼陸奥の守秀衡が次男、母前の民部少輔藤原基成の娘、
   文治三年十月、父の遺跡を継ぎ、出羽・陸奥の押領使として六郡を管領(支配)す。
(注釈)
貎(げき)・・・想像上の水鳥?
郎従(らうじゆう)・・・家来、従者、
鞭(むち)・・・細長い杖
押領使(あふりゃうし)・・・暴徒・盗賊などの鎮定・逮捕を管掌した職
鎮守府(ちんじゅふ)・・・陸奥・出羽の蝦夷を鎮圧するための役所
鎮守府将軍・・・鎮守府の長官
出羽・・・山形・秋田両県

|

2007年3月29日 (木)

閏4月30日 「吾妻鏡」「義経、奏衡に襲はれ自殺す」

閏4月30日 「吾妻鏡」己未
「義経、奏衡に襲はれ自殺す」
 今日陸奥の国に於いて、藤原泰衡が源與州(義経)を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品(頼朝)の命令に依ってである。豫州は民部少輔(藤原)基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦した。與州の家来等相防ぐと雖も、悉く以て敗績した。與州は持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺したようである。
   前の伊豫の守従五位下源朝臣義経(義行また義顕と改む。年三十一)
  左馬の頭義朝朝臣六男、母は九條院の雑仕常盤。寿永三年八月六日、左衛門の少尉
  に任じ検非違使の宣旨を頂く。九月十八日叙留す。十月十一日、拝賀(六位の尉の時、
    謝辞を申さず)、則ち院内昇殿をゆるされる。二十五日、大甞會御禊ぎの行幸に供奉す。
    元暦元年八月二十六日、平氏追討使の太政官符を頂く。二年四月二十五日、神鏡が九州
    より還宮した。太政官庁の庁舎にお入りの間供奉した。二十七日、院の御厩司に任命された。八月十四日、
    伊豫の守に任ず(検非違使は元の如し)。文治元年十一月十八日、免官。
(注釈)
陸奥(みちのく)・・・磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥
磐城(いわき)・・・福島県東部、一部宮城県
岩代(いわしろ)・・・福島県中央部および西部
陸前(りくぜん)・・・宮城県、一部岩手県
陸中(りくちゅう)・・・岩手県、一部秋田県
陸奥(むつ)・・・青森県、一部岩手県
叙留(じょりゅう)・・・位だけあげて官職をそのままに留めおく
大甞會(だいじょうえ)・・・天皇が即位後、初めて行う穀物の祭り
御禊(おみそぎ)・・・神事の前に身を清める
行幸(ぎょうこう)・・・天皇の外出
供奉(ぐぶ)・・・行幸などの行列に加わること
厩司(うまやのつかさ)・・・馬のことをつかさどる役。
(解説)
 義経は公家の一人と名前が似ているので紛らわしいとの理由で、義行また義顕に変更させられた。

7月10日 「吾妻鏡」戊辰
「伊勢沼田御厨地頭の押妨を停む」
 太神宮(伊勢大神宮)領の伊勢の国の沼田御厨(みくりや)の人民等、訴状を捧げ、去る比参着した。当所は元畠山の次郎重忠に充て与えた処、文治3年6月29日、員弁(いなべ)大領家綱の訴状に依ってこれを没収せられ、吉見の次郎頼綱にあたえました(10月13日)。而るに頼綱また不義を巧み、民戸を追捕(ついぶ)し、財宝を調べて没収したようです。仍って今日指図が有りました。平民部の丞盛時の奉行として、早く彼の非道を停止させるべきの由、命令すべきの旨、山城の介久兼に命令を遣わされました。征伐の御祈祷を抽んぜんが為、以て急速の裁許に及ぶようです。
(注釈)
御厨(みくりや)・・・皇室や神社の領地
追捕(ついぶ)・・・没収、略奪
奉行(ぶぎょう)・・・命により行事を執行する担当者。

|

2007年3月22日 (木)

12月12日 「吾妻鏡」「廣元、島末庄知行の由緒注進の案文を進ず」

12月12日 「吾妻鏡」癸酉
「閑院・六條殿修造により頼朝御感を蒙る」
 因幡の前司廣元の使者が京都より到来した。申して云く、今月三日、熊野参詣に出発する所である。而るにその精進中、天子のおほめのお言葉を頂いたようだ。閑院(臨時の皇居)並びに六條殿(法皇御所)修造以下、事に於いて勤節し、殊に神妙であるようだ。凡そ歓喜の涙抑え難し。このお言葉は、偏に人に知れないように施す恩徳の致す所かと。
「廣元、島末庄知行の由緒注進の案文を進ず」
次いで廣元が知行する周防の国の島末庄の事、女房の三條の局が申請書を捧げ所望するの間、師中納言(経房)の奉行として知行の由緒を尋ねられるの間、詳細を記録し書状を進上しました。定めて直に命令下されるか。廣元は言上の様子を知りなされないが為、彼の状の案文を進上すの由のようです。
   周防の国島末庄地主職の事
 右件の庄は、彼の国大島の最中である。大島は、平氏謀叛の時、新大納言(平知盛)が城を構え、居住数ヶ月に及ぶの間、島人は皆以て同意した。それより以降、二品(頼朝)家の御命令として、件の島に地主職を置かれるところである。毎事庄務の例を守り、更に新儀の妨げ無し。尋ね捜されるの処、定めてその隠れ無からんか。但し別の御定に於いては、左右に及ばないものである。早く重ねての命令に随い進退すべきである。

|

より以前の記事一覧