2009年9月29日 (火)

建久六年(1195)2月12日「行家・義経の残党確認のため、能員・常秀上洛す」

「吾妻鏡」建久六年(1195)2月12日戊辰。
「行家・義経の残党確認のため、能員・常秀上洛す」
 今日の明け方、比企藤四郎右衛門尉能員と千葉平次兵衛尉常秀が使節として急に上洛した。これは、前の備前守行家、 大夫判官義顯(義経)の殘黨等が今も東海道あたりに於て在存す。今度の御上洛のついでを伺い、復讐の志を果たそうとしているとのうわさがあるので、道中の妨げになることから、先ず驛々に於て事情を尋ね聞き、若し事實ならば、計略を廻らし逮捕するべしの旨、將軍の命を受けていたという。兩人共に供奉の人數となっていたが、勇敢で知られ、急にこのようになったという。

(源行家史は終了です)

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2009年9月28日 (月)

建久3年(1192年)1月5日「平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱」

[玉葉] 建久3年(1192年)1月5日 甲戌
「平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱」
 国家の理乱は、病に例えて知るなり。(中略)暴悪国に満つといえども、追罰はげしければ、たちまち一時に退散し、旧に復する本の如し。当世の貴賤、目に見、耳に聞く所なり。平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱、皆もってかくの如し。

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2009年9月27日 (日)

文治5年(1189)4月4日「頼朝、朝方が行家に同意すという」

[玉葉] 文治5年(1189)4月4日 甲子 
「頼朝、朝方が行家に同意すという」
 昨夜、公卿の勅使が入京した。(中略)
 夜に入り天王寺より帰り来たる。頼朝卿が申した、大納言の朝方卿は行家に味方するの間の事、お言葉を下さる所であるという。

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2009年9月26日 (土)

文治四年(1188)6月17「昌明の上洛に便宜を計る」

「吾妻鏡」文治四年(1188)6月17日辛巳。
「昌明の上洛に便宜を計る」
 常陸房昌明は、最近京都から参った者です。元は延暦寺に住んでいて、武勇で名の通った人です。特に前備前守源行家を討ち取ってからというもの、人は彼に一目置くようになったという。それなのに、強田あたりに領地を持っていたのですが、思わぬことに地頭職を取上げられてしまったので、憂い訴えるために京都へ上ろうと考えました。便宜を図ってもらうように、お手紙を京都駐屯の御家人に対し、一筆書いて下さいと望んで言上しました。そこで、昌明が京都に居る間は、旅行用の食料を希望したら望みどおりに与えるように、一条能保に言いつける手紙を、昌明に与えられました。昌明は内緒でその手紙を開いて読んでしまい、怒りながら手紙を持って文句を言いました。このお手紙は、わざわざ申し出たのにです。でも、この趣旨を良く考えてみたら、一見恩を与えられたように思えるけど、まるで罰のようだ。どうして恥ではないと云えるだろうか。全然旅行の為の食料を望んだわけではない。訴えに京都へ行くので、単に用心のためなのだ。勇敢な武士だとの褒め言葉には、有り難い事だと云ったので、頼朝様はお気にいられ、直ぐに筑後權守俊兼に命じて、書き換えさせました。僧ではあるけれども、勇士である。京都に駐屯している間は、そばにおいて警備させると良いでしょう。右兵衛督殿。と書いてあげましたという。それ以来、昌明は特に機嫌が良いとのことです。

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2009年9月25日 (金)

8月27日「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」

「吾妻鏡」文治三年(1187)8月27日乙未。
「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」
 下河邊庄司行平は、鎌倉幕府の公式の京都朝廷への交渉の使者として京都へ向かい出発しました。これに、色々な事を京都朝廷への申し入れるためです。
一つ 強盗の群れのこと
  京都に詳しいものの仕業か、もしくは京都周辺の武士であろうか。どちらにしても良くお調べいただくことです。
一つ 江大夫判官検非違使大江公朝の下男が悪い業績について
  河内国で、関東の御家人だと偽って、居座ってあくどい業績をしていると噂に聞いています。全く頼朝とは関係のないやつなので、良く調べてください。
一つ 院の直属の武士の検非違使任命について
   このような官職に就くことは、最近では誰もが望んでいますが、以前はたやすく認められませんでした。よくよくそのふさわしい人柄を選んで、より分けて任命するべきです。
一つ 壱岐鼓判官平知康について
   義経、行家に味方している者です。ですけど特に意見はありませんので、京都朝廷にお返しするので判断してください。
一つ 朝廷へ尽くした人達の子孫について
   先祖が朝廷への手柄の有る人達の子孫が浮かばれないのは、朝廷の怠慢である。特に政務担当に任命されるように。
一つ 西八条の屋敷地について
   平家から没収した領地として戴きましたが、朝廷でもお使いになられたいと、内々にお聞きしましたので、早くどうするか決めてください。
一つ あちこちの地頭たちについて
   前もって、すでにそれぞれに良くいい気かせてあります。若し頼朝の指示に従わない奴がいましたら、教えていただければ、罰を与えます。
 以上の事柄を、朝廷の公平を考えて、申し上げます。
    文治三年八月二十七日

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2009年9月24日 (木)

5月4日 「義経美作山寺で斬らるという」

[玉葉] 5月4日 乙巳 雨降る 
「義経美作山寺で斬らるという」
 伝聞、義顕(義経)が美作の国(岡山県北部)の山寺に於いて斬られました。その次第、南都(奈良)を逃げ去り美州の山寺に移住した。而るに近辺の寺僧の報告が関東に達した。頼朝卿専一の郎従加藤太光員・弟加藤次景廉が件の山の寺僧と知人である。仍って報告を遣わすという)。件の加藤次丸はなお疑貽を成し自身上洛せず、郎従五人(その中一人義顕を見知るの者有るなり)を派遣した。件の案内者を以て示し承るため件の山寺に入る。即ち義顕の頭をとりました。この事去る月の晦日という。即ち四ヶ日上洛、昨日(三日)入京、今日関東に馳せ下向したという。事もし実ならば、天下の悦びなり。
 諸宗にお祈りを命じ、(中略)行家は征伐しました。今またこの修中義顕(義経)が征伐されました。仏法の霊功は仰ぐべく信ずべし。

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2009年9月23日 (水)

治三年(1187)1月23日「知康処分重ねて京に奏聞す」

「吾妻鏡」文治三年(1187)1月23日乙丑。
「知康処分重ねて京に奏聞す」
 前検非違使で鼓判官平知康が、行家や義顯(義経)の反逆行為に加担していた事がばれてしまったので、一時の災いを逃れるため鎌倉へ言い訳にやってきました。罪科を、頼朝様は京都朝廷の役人なので鎌倉幕府では決定できないと考えたので、何度も後白河法皇に処理を尋ねましたが、未だにどうするのか、申し上げた事に対し、はっきりとした院の裁定が来ないので、不満てあると中納言吉田経房のところへ言い伝えました。

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2009年9月22日 (火)

12月11日「平知康陳弁のため関東に参向す」

「吾妻鏡」12月11日 甲申
「平知康陳弁のため関東に参向す」
 去年、行家・義顕(義経)等に味方した逆臣の事、二品(頼朝)の御怒りに依って、或いは現職を解任され、或いは配流の官符を下されました。その中、前の廷尉知康は特に奇怪を現すの間、憤り申されるの処、陳じ申すべしと称し、関東に参向する所である。いかように指図するべきでしょう。天皇のお定めに従うべきの旨、京都の朝廷に申されるべきの由という。

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2009年9月21日 (月)

11月18日「義経捜索の事につき院殿上にて僉議あり」

[玉葉]11月18日 辛酉 天晴 
「義経捜索の事につき院殿上にて僉議あり」
 義行(義経)を逮捕すべきの間の事、細々と相計り、人々に問うべしといえり。(中略)
奉行職事の親経を呼び、命じて云く、人々の議定の趣、完全に申し上げるべし。この上に私の案旨、同じく申し伝えるべし。
    義行召し取らるべきの間の事
 諸社諸寺・京中畿外、宣旨(天皇の命令)を与えるべき事、同じく載せらるべきの趣等、人々の定め申す如く、特に以てお言葉を下さるべし。兼ねてまた猶呼び出す所の縁者等に尋問され、もし称し申す旨有らば、その状に随い、在所と云い境界と云い、尋ね指図されるべきか。兼ねてまたこの事、もし怠慢を致し遂に功績をあげなければ、たちまち武士を派遣すべきの由、各々きつく命令すべし。人々の驚き恐れ、この深きに過ぐべからざるか。
「義経捜求のため五壇法行わるべし」
    御祈りの事
 先ず尤も五壇法を行わるべきなり。これに就いて二議有るべし。一は諸宗知法の輩を召し、天皇の御所もしくは法皇御所の塗連壇に於いて行われるべきか。まさに又天台嶺の如きの結界の地に於いて、一向その所に命じ、丁寧に始修せらるべきか。(後略)

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2009年9月20日 (日)

7月30日「義経が比叡山にあるとの風聞」

[玉葉]7月30日 乙巳 晴 
「義経が比叡山にあるとの風聞」
 午後10時頃、慈円法印が慶俊律師を使いとして示されて云く、今朝、能保朝臣が慈円法印の許に参り、義行(義経)が比叡山の僧兵の許に在るの由風聞有り。その間の事について、能く指図を致さるべしという。よって私の案の評定に及ぶところ、しかるに能保その事を用いず、力及ばずという。
「中原広元関東に下向す」
 大江廣元が昨日下向したという。法皇の数十枚の御書、遅延のため怠慢するという。

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