2009年3月18日 (水)

1205年 (元久2年) 八月七日「宇都宮頼綱謀叛発覚す」

1205年 (元久2年 乙丑)
「吾妻鏡」八月七日 辛酉 陰
「宇都宮頼綱謀叛発覚す」
 宇都宮の彌三郎頼綱の謀叛が発覚した。すでに一族並びに郎従等を引率し、鎌倉に参ろうとの疑いあり風聞が有り、相州(北条義時)・廣元朝臣・(安達)景盛等が尼御台所(政子)の御屋敷に参り、評議が有りました。事終わり小山左衛門の尉朝政(曳柿の水干袴を着す)を呼び出した。朝政が参上し、相州(北条義時)の御座に対し跪いた。廣元がお言葉を承りて云く、近日諸人の道理に背くこと相続せしめ、東関は騒がしい。その慎みこれ重きの処、頼綱また悪巧みを計画し、将軍家を謀りたてまつろうと欲すという。しかるに朝政の先祖の秀郷朝臣は平将門を追討し勧賞を頂いた。以来下州を護り、その職未だ中絶していない。国内(宇都宮)の権勢におごる者、どうしてこれを鎮めない事があろうか。よって去る寿永二年、志田三郎先生が蜂起をうち平げたとき、都と田舎は感動した。よって賞を行われた日、御下文の趣旨は厳密である。これは武芸のほまれである。しからばまた頼綱の驕りを退けるべしといえば、朝政は申して云く、頼綱は親戚のよしみが有ります。たとえ厳命に応じて、そのむつみを変ずといえども、忽ち追討使をうけたまわることについて親切な心は無いだろうか。はやく他人に命令されるべきでしょう。但し朝政は叛逆に味方せず、防戦に於いては、全力を尽すべきと申して、これを辞退した。

(以上の1184年 (壽永3年)五月十五日、1192年(建久3年) 九月十二日、1205年 (元久2年)八月七日の記述から1181年(治承5年、7月14日改元 養和元年)の志田義広の反乱は1183年 (壽永2年)かもしれない。)

以上で、志田義広史は終了です。4月から一条忠頼史となります。

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2009年3月17日 (火)

1192年 (建久3年) 九月十二日「小山朝政、常陸国村田下庄を賜る」

1192年 (建久3年 壬子)
「吾妻鏡」九月十二日 辛巳
「小山朝政、常陸国村田下庄を賜る」
 小山左衛門尉朝政は先年、勲功により恩賞を受けていた。常陸国の村田下庄である。そこで今日政所の下文を頂いた。その内容は次の通り。
   将軍家の政所が下命する。 常陸の国村田下庄(下妻宮等)に。
   地頭職に任命する事。
     左衛門尉藤原朝政
 右、去る壽永二年、三郎先生義廣が謀叛を発し戦乱を企てた。そのとき朝政はひたすら朝廷の威を仰ぎ、独り防ごうとした。そこで官軍を待ち、ともに同年二月二十三日、下野国の野木宮の辺で合戦したとき、ぬきんで以て軍功を立てた。そこでその時地頭職に任命したものである。庄官はよくよく承知し、間違いがあってはならない。お言葉はこの通りである。よって下命する。
     建久三年九月十二日      案主藤井俊長
     令民部少丞藤原行政       知家事中原光家
     別当前の因幡の守中原朝臣広元
       下総の守源朝臣邦業

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2009年3月16日 (月)

五月十五日「波多野・大井ら志田義広を誅す」

「吾妻鏡」五月十五日 壬寅
「波多野・大井ら志田義広を誅す」
 午後四時頃のことですが、伊勢国の飛脚が着きました。報告して言うには、先日の四日に波多野三郎盛通・大井兵衛二郎實春・瀧口三郎經俊と大内左衛門尉惟義の部下たちが、伊勢国の羽取山で、志田三郎先生義廣と戰を始め、一日中戦って、とうとう志田三郎先生義廣の首を取ったという。この志田三郎先生義廣は元々、頼朝様に従う意思が無くて、昨年軍勢を連れて、鎌倉を襲おうとした時に、小山四郎朝政がこれを防いだので、不成功のまま行方をくらまし、木曾義仲につきました。義仲が滅んだ後も、またもや逃げ去って、生死も分からなくなっていたので、頼朝様も憤慨は収まりませんでした。そこへこの知らせがあったので、特にお喜びになりました。

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2009年3月15日 (日)

四月二十三日「下河邊政義、功により所領国役を免ぜらる」

「吾妻鏡」四月二十三日 辛卯

「下河邊政義、功により所領国役を免ぜらる」
 下河邊四郎政義は、戦場では素晴らしい手柄をあらわし、幕府に仕えては苦労を惜しまず熱心に仕事に励むので、(頼朝様の)覚えもめでたかった。そのうちでも特に三郎先生義廣の謀叛の時に、常陸国の武士たちは小栗十郎重成を除いて、殆どが志田義廣の謀反に加担するか、奥州へ逃げてしまいました。政義は最初から頼朝様の下へ従ってきたので、常陸の国の南郡を下河邊四郎政義に与えられました。この一二年は国役が続いたので、経営が成り立たないと、筑後權守俊兼を通して訴えた。そこで、配慮するようにと、丁寧な常陸国の目代(代官)宛の御文書を送られました。

 常陸の國務について、三郎先生義廣の謀叛の時に、常陸国の武士たちは小栗十郎重成を除いて、殆どが志田義廣の謀反に加担して(私頼朝の)味方に弓を引いたか、奥州へ逃げてしまいました。その時に常陸の国の南郡を下河邊四郎政義に与えました。政義はこの一二年は、京都へ攻め上り、何度もの合戰に忠義な手柄を立てました。それなのに、南郡で色々な国役を無理やり押しつけたので、地頭の取り分も、代官の取り分も、全然儲けが出なくて収支が合わないと嘆き申しております。この下河邊四郎政義は、私頼朝が特に目をかけている者です。年貢と恒例の労働奉仕以外は、配慮をしてほしい。年貢は、怠けたり、滞らせたりすることの無い様に、良く言い聞かせておきますので、きっとそのとおりにするものと思います。地頭としての割り当てられた年貢を怠ることが無ければ、誰であろうと面倒は無いでしょう。この内容を伝えよとの、鎌倉殿の命令である。よってこの通りお伝えします。

 四月二十三日 筑後權守俊兼が代書しました。

謹んで申し上げます。常陸御目代殿へ

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2009年3月14日 (土)

一月二十日「範頼・義經、義仲を討伐のため上洛す」

「吾妻鏡」一月二十日 庚戌
「範頼・義經、義仲を討伐のため上洛す」
 蒲の冠者範頼・源九郎義経等が頼朝の使者として数万騎の軍勢を引き連れて京都へ入りました。これは義仲を追討するためです。今日、源參河守範頼は勢田から京都へ入り、源九郎義經は宇治道から京都へ入りました。木曽義仲は三郎先生義広め今井四郎兼平以下の武士たちを、勢多・宇治の両道に派遣して防戦させたが、全て敗北した。
 蒲冠者範頼・源九郎義經は河越太郎重頼・その長男小太郎重房・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・澁谷庄司重國・梶原源太景季達を連れて後白河法皇の六条殿へ走って行き、法皇の御所を警護した。その間に、一條次郎忠頼を初めとする勇士達は、あちこちへ競って戦い、ついに近江の国粟津の辺りで、相摸國の住人の石田次郎為久により、木曾冠者義仲は殺された。その他に錦織義廣は何処かへ逃げたという。
「義仲戦死す」
没年記事 征夷大将軍従四位下行伊予の源朝臣義仲「年三十一」東宮帯刀長義賢の男子

      寿永二年(1183)八月十日左馬頭に任官。越後の守を兼任して従五位下に叙せられた。同様に十六日伊予の守へ転任した。

      十二月十日に左馬頭を辞任した。同様に十三日には従五位上に叙せられた。すぐ同様に正五位下に叙せられた。

      元暦元年(1184)正月六日従四位下に叙せられた。十日には征夷大将軍に任命された。

     檢非違使右衛門權少尉源朝臣義廣 伊賀の守義經の男

      寿永二年(1183)十二月二十一日右衛門權少尉に任命された。「元は無位無官」檢非違使の宣旨を受けた。


 この義広は志田義広とは別人のようだ。

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2009年3月13日 (金)

一月二十日「義広敗績す」

[玉葉]一月二十日 天気晴れ、物忌みなり、

 6時頃、人告げて云く、東軍は、すでに勢多に到着した。未だ西地に渡らずという。相次いで人云く、田原の手勢はすでに宇治に到着したという。その言葉が未だ終わらざるに、六條川原に武士等が馳走するという。よって人を行かせて確認した処、すでに事実である。
「義広敗績す」
 義仲方の軍兵は、昨日より宇治に在り。大将軍は美乃の守義廣という。しかるに件の手勢は敵軍の為打ち敗られた。東西南北に散じた。
「東軍入京」
 たちまち東軍等追い来たりて、大和大路より入京した(九條川原の辺に於いては、一切狼藉無し。最もな神仏のお助けである)。
引き返さず六條の末に到着した。義仲の軍勢は元々幾ばくもあらず。。而るに勢多・田原の二手に分けた。その上行家を討伐の為また軍勢を分けた。独身で在京するの間このわざわいに遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
 先ず法皇御所中に参りお出かけ有るべきの由、すでに御輿を寄せようとと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来た。よって義仲は法皇を棄て奉り、あわてふためき対戦するの間、相従う所の軍兵は僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるによって、一矢も射ず落ちた。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
 長坂方に懸けようと欲した。更に帰り勢多の手勢に加わろうとする為、東に向かう間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたという。
「東軍一番手梶原景時」
 東軍の一番手、九郎の軍兵は梶原平三という。その後、多くの軍兵が法皇の御所の辺に群れ参じたという。法皇及びお仕えの者どもは虎口を免がれた。実に三宝の神仏のお助けである。およそ日頃、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべし。しかるに一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。
「義仲の天下六十日」
 義仲が天下を執る後、六十日を経た。信頼の前例(平治の乱)に比べ、猶そのおそきを思う。
今日、公卿等が参院すと雖も、門中に入れられずのようだ。
「師家参院すれど追い帰される」
 入道関白(藤原基房)は藤原顕家を以て使者と為し、二度意見書を差し出した。共に答え無し、又甘摂政(藤原師家)は顕家の車に乗り参入した。追い帰されたようだ。弾指すべし、弾指すべし。私は風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。

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2009年3月12日 (木)

1184年 (壽永三年)一月十九日「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」

[玉葉]1184年 (壽永三年)一月十九日 
「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」
 昨今天下頗るまた騒動した。武士等多く西方に向かう。行家を討伐の為という。或いはまた宇治に在り。田原地の手を防ぐ為という。(志田)義廣(三郎先生)が大将軍という。

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2009年3月11日 (水)

閏十月二十四日「義広に備後国を賜い追討使とすべき事を義仲主張す」

[玉葉]閏十月二十四日 天気晴れ、
「義広に備後国を賜い追討使とすべき事を義仲主張す」
 伝聞、義仲は法皇に重ねて申し上げた。義広に任せて平氏を追討すべきの由、申請を許されないのは、未だ納得出来ない。なお強いて義広を使わしたいとした。兼ねて又備後の国をかの義広に与えていただき、その勢力を得て平氏を討つべしという。お言葉があり、全く許さないのではない、件の男は弱体の由をお聞きなされた。よって叶うべからずの由思いなされ、故に指図のお言葉が無いのである。しかしなお宣しかるべき由、協議し申すならば、異儀におよぶべきでもないという。国事又お聞きなされた。但し忽ち役人に任ぜらるべきではないという。
 奈良僧正(信円)が文書を送ってきた。法皇より内密にお呼び出し有り、よって明日、急に上京すべしという。

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2009年3月10日 (火)

閏十月二十三日「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」

[玉葉]閏十月二十三日 天気晴れ、
 早朝人告げる、今夕から明朝の間、法皇は南都(奈良)にお出かけなさるようだ。疑うらくは、吉野に引き籠もりなさるべきか。但し未だ一定ならずという。
「頼朝の縁者たるにより公衡恐れを成す」
 10時頃、観性法橋が来て語り云う、少将藤原公衡は大宮権亮藤原能保(頼朝の妹の夫)の縁に依り(公衡は能保の妹の夫である)頗る恐れを成すという。
「義仲三ケ条の事を院に奏す」
 12時頃、静賢法印が来て語り云う、昨夜、義仲が法皇御所に参り、静賢・(大蔵卿、高階)泰経等を以て伝え申し上げたという。
其の申し状に云う、先ず法皇をお連れなさり、北陸に引き籠もるべき由が風聞した。以ての外の無実、極まり無き恐れである。この事相伴う所の源氏等(行家以下を指す)がとりついで申し上げる所か。返すがえす恐れ申す。早く証人を承るべきであるという。
「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」
 次いで、当時は平氏追討使無し。尤も不便。三郎先生義広を以て討たせようと欲した。
又平氏の入京を恐れるに依り、法皇御所中の僧と俗人、京都市内の上下、資材を運び妻子を隠す、おおいに穏便に非ず。早く御制止有るべし。
この三ケ条であるという。
 お言葉があり、先ず法皇を取り奉るべき条、全く源氏等の取り次ぎ申すに非ず。只世間があまねく申す為に依りお聞きなされる所である。然れども全く御信用無きを以て、指図に及ばずという。
 次いで義広を追討使の事、お言葉言い切られると雖も、頼朝が殊に意趣存ずる者かといえり。
静賢又云う、実に法皇をお連れなさるべき事は、必ずしもそう有るべきではないことか。事の道理無く、又其の必要無き事である。
「義仲に意趣を存する輩あり」
 只毎事いきどおり恨むこと許さない間、もし北陸に逃げ籠るか、その時意趣を存ずる者ども、武士と云い、法皇の近臣と云い、自ら怨みを報ずるか。
然らば定めて物騒かという(武士の中には、葦敷重隆、殊に意趣を結ぶという。又法皇の近臣(大蔵卿、高階)泰経の如く、同じく内々相を怨むという)。
然りと雖も、其の恐れ、他人に及ばざるかという。又云う、かの宣旨の趣の事、定長が宣を伝え、頭弁(藤原)兼光が宣下したという。頭弁(藤原)兼光に問わるる処、たちまち改め直した。しかるに修正以前の宣旨を以て聞き及ぶか。全く用いるべきではない事である。
其の由を以て義仲にお言葉あるべき由、頭弁(藤原)兼光は申したという。良久しくありて帰り出でた。
 伝聞、摂政(基通)の愛物・母堂等昨日の明け方鞍馬の方へ行かせたという。又入道(藤原基房)関白の家中は太く以て騒動したという。
又聞く、義仲の郎従等は多く伊勢国・美濃国等に派遣した。京中に勢力は無しという。尹(いん)明語り云う、平氏再び繁盛すべき由、衆人の夢想等有るという。(藤原)範季(院の臣)が申し云う、昨日義仲に会見した。申し状の如くでは、謀反の儀は無しという。
夜に入り、定能卿が来た。世上・法皇御所中の事等語る。南都へお出かけの事、未だ聞き及ばずという。

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2009年3月 9日 (月)

十月九日「志田義広の上洛を欝申す」

[玉葉]十月九日 庚子 天晴 
「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」
 静賢法印が来た。世間の事を談じた。頼朝が使者を進上した、忽ち上京する事が出来ないという。
「藤原秀衡頼朝上洛の跡入る事を恐る」
1は(藤原)秀衡・(佐竹)隆義等が上京の跡に入れ替わるだろう。
2は数万の軍勢を率いて、入京すれば京中は堪える事が出来ない。
この二つの理由に依り、上京は延引したという。
 凡そ、頼朝の様子は、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決という。
「志田義広の上洛を欝申す」
 今度、使者を献上し、不快を申す所は、三郎先生志田義広の上京である(本名義範)。叉義仲等は、平氏を追討せず朝家を乱した、尤も奇怪、しかるに忽ち報償を行われたのはおおいに謂われ無しという。申し状等にその道理は有るか。この他多く雑事を談じた。詳細に記録する事は出来ない。
 伝聞、義仲は播州(ばんしゅう、播磨、兵庫県南西部)を経廻し、もし頼朝が上京すれば、北陸方へ超えて逃げるべし。もし頼朝が忽ち上京しないならば平氏を討つべし由の準備をするという。
「小除目」
 今日、小幅の人事異動があったという。陰陽頭の賀茂宣憲は名誉無しと雖も、代を重ねる老衰により、抽任せらるるか。尤も然るべし。
「頼朝本位に復す」
 叉頼朝がもとの位に復帰する由のお言葉が下されたという。

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