2009年1月23日 (金)

安田義定

1180年(治承四年、庚子)
「吾妻鏡」8月25日 乙巳
「安田義定、工藤景光ら、俣野景久を波志太山に攻む」
 大庭三郎景親は頼朝様の行き先を塞ごうと軍勢を分けて方々の道を固めた。又、弟の俣野五郎景久は駿河国の代官の橘遠茂の軍勢を一緒に、武田や一条の源氏を攻めるため甲斐国へ行きました。そして昨日夜になったので富士山の北麓に泊ったところ、俣野五郎景久と部下の持っている百張りの弓の弦を鼠に食いちぎられてしまいました。この為思慮を無くしていた時に、安田三郎義定、工藤庄司景光、その子小次郎行光、市川別当行房が石橋で合戦を始めた事を聞いて、甲斐から出発したところ、波志太山で俣野五郎景久らに出会いました。それぞれ馬を回して矢を射て俣野五郎景久を攻め立てました。戦いは数時間続きました。景久軍は弓弦を切られたので刀で戦いましたが、矢は防ぎ様が無く多くが是に当てられました。安田達の部下も刀で切られました。そして景久は敗北して逃げました。
「頼朝箱根山を出づ」
 頼朝様が、箱根山におられる時、行実(箱根山の別当)の弟の智藏房良暹は特別に山木兼隆の祈祷師をしていたので、兄の行実や永実に逆らって、悪徒を集めて頼朝様を襲おうとした。永実が聞きつけて頼朝様と兄の行実に報告した。行実は考えて云いました。「良暹の力は恐れるほどの事は無いので対策を講じる必要は無いが、これを景親が聞きつけ、攻めてくるといけないので早く逃げた方が良い。」いいました。そこで山の案内人を呼んで土肥次郎實平と永実達は箱根道を通って土肥郷に行きました。
 時政はこの次第を他の源氏に伝えるため甲斐国へ向かう事にした。行実が同じ宿の南光坊に送って行くように指図しました。この僧と共に山伏の道を通って甲斐へ向かいました。しかし頼朝様が何処へ落ち延びるのか知っておかないと、源氏等を連れてきても、どうしたものか分からないので、なお、頼朝様の後を追ってお会いして、そこから使いとして出発することに心で決めて戻ることにして土肥を目差したので、南光房は本の箱根に帰りました。

「吾妻鏡」10月13日 壬辰
「木曾義仲上野国に入る」
 木曾冠者義仲は亡き父義賢の遺跡を訪れるために、信州を出て上州に入ってきました。そこで住人は木曾義仲に従ったので、藤性足利俊綱に煩わされても私に従っていれば怖れることは無いと命令をしました。
「甲斐源氏および北条父子駿河国に向ふ」
 又、甲州の源氏と北條四郎時政、北條四郎義時親子は駿河へ向かい、今日も暮れたので大石宿に泊りましたとの事です。
午後八時頃に、駿河目代は長田入道の計略を採用して富士野へ回って攻めて来るとの、連絡が入ったので、途中で出迎えて戦いをしようと武田太郎信義、一條次郎忠頼、板垣三郎兼頼、武田兵衛尉有義、安田三郎義定、逸見冠者光長、河内五郎義長、石和五郎信光達は軍議をして、富士山の北麓の若彦路を越えて行きました。加藤太光員と加藤次景廉は石橋合戦の後、甲州に逃げていましたが、ここで一緒に駿河へ向かいました。

「吾妻鏡」10月21日 庚子
「頼朝、千葉・三浦の諫止に従い軍勢を分かつ」
(頼朝は)平左近少將惟盛を追って攻める為に、京都へ行くように武士達に命令しました。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常達が忠告をして、云いました。常陸国の佐竹義政と秀義は数百の軍勢を擁していながら未だに部下になってきません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東を平定してから、関西に行くべきですとの事でした。これによって黄瀬川宿に戻りました。安田三郎義定を守護として遠江国へ行かせ、武田太郎信義を駿河の守護として置かれました。
「義経奥州より来たり頼朝に謁す」
「頼朝、三島社に神領を寄進す」

(解説)
 10月20日の富士川の戦いでは、義定は信義とともに敵の背後を襲撃し、このときの戦功で信義は駿河国守護に任じられ、義定も遠江国守護になったという(『吾妻鏡』治承4年10月21日条)。しかし、この時点では武田信義や安田義定が頼朝の指揮下にあったというような表現をしているのは鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』のみである。富士川の戦いにおいては『玉葉』や『吉記』は頼朝と甲斐源氏を別個の勢力と認識しており、『玉葉』においては富士川の戦いの主力を甲斐源氏と見ている。また、『玉葉』においては寿永年間まで東国における反乱者は「源頼朝、源信義」と併記されている。この「守護」任命は『吾妻鏡』の史観に基づくもので、富士川直後では、安田義定らの甲斐源氏は頼朝とは別個の反乱勢力であると見方が強い。義定は頼朝とは別個の勢力として遠江国に勢力を張っていた。


「吾妻鏡」10月23日 壬寅
「頼朝、相模国府において勲功の賞を行う」
 頼朝様は相摸国に着きまして、初めて論功行賞を行いました。
北條四郎時政、武田太郎信義、安田三郎義定、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常、和田太郎義盛、土肥次郎實平、藤九郎盛長、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義實、工藤五郎親光、佐々木太郎定綱、佐々木次郎經高、佐々木三郎盛綱、佐々木四郎高綱、工藤庄司景光、天野藤内遠景、大庭平太景義、宇佐美三郎祐茂、市川別當行房、加藤五景員入道、宇佐美平次實政、大見平次家秀、飯田五郎家義以下の人達に今までの領地を認めたり、又は新しい領地を与えました。
 義澄を三浦介に任命し、行平を前のとおり下河邊庄司に任命すると言われました。
「大庭景親降伏す」
 大庭三郎景親はとうとう捕虜になって来ました。すぐに上総權介廣常に預けられました。
長尾新五爲宗は岡崎四郎義實の捕われ召し人となり、長尾新六定景は三浦介義澄の預かりとなりました。
河村三郎義秀は河村郷を没収され、大庭平太景義に預けられました。
又、山内首藤瀧口三郎經俊の山内庄を取り上げて、土肥次郎實平に預けました。
この他に石橋合戦の残党は数人ありますが、処刑したのはほんの十人中一人位だとの事でした。

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
「吾妻鏡」2月27日 甲辰
「安田義定より平軍尾張に入るの報至る」
 安田三郎義定の飛脚が遠江国から参上して申した。「平氏の大将軍中宮亮平通盛・左少将惟盛・薩摩の守忠度等が数千騎を率いて下向し、すでに尾張国に到達しました。重ねて武士を派遣し、防戦の対策を講じられるべきです」。
(1183年(壽永二年)の説あり)

「吾妻鏡」閏2月17日 癸亥
「安田義定軍、浜松にて平氏来襲を待つ」
 安田三郎義定が和田義盛、岡部忠綱、狩野親光、宇佐見祐成、土屋義清、遠江国の住人横地太郎長重、勝田平三成長等を率いて遠江国の橋本辺りに到達した。これは頼朝の命令によるもので、ここが要害の地であるから、平氏の襲来を待ち構えるためである。
(1183年(壽永二年)の説あり)



「吾妻鏡」3月13日 己丑
「安田義定、浅羽宗信と相良三郎の処罰を請う」
 安田三郎義定の使いの武藤五が遠江から鎌倉に到着しました。云うのには、安田三郎義定は頼朝様の代官として遠江の守護として守備を固めて平家の襲撃を待っています。取分け命令に従って橋本(浜松)に向けて防備を厳重に構えようとして、人夫を招集しましたが、浅羽庄司宗信と相良三郎は私を馬鹿にして手伝いをしません。そのあげく、私安田三郎義定が地上に立っているのに、その前をその二人が馬に乗ったままで私の前を通り過ぎました。これは、もう野心を持っているに違いありません。だから、彼らの一族は現在多くが平氏に従っているわけです。早く刑罰を下して欲しいとの事でした。

「吾妻鏡」3月14日 庚寅
「安田の訴に対する頼朝の返事」
 浅羽庄司と相良三郎の事に就いては、片方の訴えだけで罪にすることは出来ないと武藤に言い含めた処、武藤が言うには「彼等の不当な行為を訴えるために使いを鎌倉へ派遣たことは国中に知られています。それなのに、裁許を得られず、空手で帰れば(主人の安田の守護としての)権威がないのと同じです。後日、もしそれが間違いだったことをお聞きになられれば、使いの私を斬罪にしてください。」と言いました。
 この言葉によって、その領地は安田義定の支配と(して命令を聞くように)するよう、文書を出してくれました。但し、浅羽達が後日弁明をしてきて、若しその理由がきちんとしていれば、かえって訴えてきた安田の方を罪とするようにその内容を書き加えたとの事でした。

「吾妻鏡」4月30日乙亥
「浅羽宗信、安田義定の斡旋により収公領を返給せらる」
 遠江国の浅羽宗信は安田三郎義定の訴えにより、領地を没収されたが、謝罪申す内容は無視出来ないものがあり、安田三郎義定もまた取り成しました。そこで、その荘園内の柴村と田所職(荘園の管理職)を当人に返しました。彼は子供達や部下が沢山有り、かなり鎌倉側にとって有用な武士になるだろうとの事でした。



1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

「吾妻鏡」5月12日
「伏見廣綱頼朝の右筆となる」
 伏見冠者藤原廣綱が、初めて頼朝様のもとへ参りました。この人は文筆に優れた者(右筆)である。頼朝様が京都のことに通じている者はいないかとお尋ねがあったので、安田三郎義定が推薦をしました。近頃は遠江の掛川辺りに住んでいたという。

「吾妻鏡」5月16日
「外宮禰宜為保、安田義定の鎌田の御厨押領を訴ふ」
 昼頃になって、老人が一人衣冠束帯の正装姿で、笏(しゃく)を持て幕府に入ってきて、西の廊下に座り込みました。従者二人がお供をしきています。それぞれ二人とも、白いお祈り用の着物を着て、榊(さかき)の枝を捧げ持っています。皆一体なんだろうと疑問に思って、その座っている傍へ来て、入ってきた理由を聞きますが、全然答えません。前少將平時家が来て問いかけると、初めて言葉を言いましたが、直接頼朝様に申し上げたいことがあるとのことだという。前少將時家がなおも名前を聞きましたが、名乗りませんので、この様子を頼朝様に伝えました。頼朝様は御簾の中から見て、その風袋はかなり修行していて神様のように見えた。対面することにしようと仰られて、お逢いなった。老人が言うには、私は伊勢神宮の外宮の豊受太神宮の神官禰宜の為保です。遠江國の鎌田御厨(静岡県磐田市鎌田)は、伊勢神宮領として延長年間(923-931)からずっと為保の先祖代々の領地として伝えられてきましたが、安田三郎義定が横取りをしました。いきさつを話しても聞いてくれません。安田三郎義定の云ってることを曲げてでも、判決を出してくださいとの事だという。このついでに伊勢神宮の優れた事を、昔の記録の所見を引いて詳しく述べた。頼朝様は、信心深いので、訴えには弁論をするところですが、安田三郎義定に聞くことなしに、直ちに命令書を与え、直ぐに新藤次俊長を使いとして、為保の代理人に鎌田御厨を任せるように、仰せ付けるように言いつけましたという。

1183年 (壽永二年 癸卯)
7月30日 [吉記]
「京中所々に追捕あり」
 京中の追捕(強制取り立て)・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司(神職)等相防ぐの間、社司等の家に放火した。梅宮社の神殿が追捕に及ぶ。広隆寺の金堂も追捕に及び、度々合戦した。行願寺また追捕したという。成範卿が院宣(法皇の命令)を奉り、時忠卿の許にお言葉を遣わした。また内々に平貞能の許にお言葉を遣わすの旨等有りという。
「義仲京中守護を支配す」
京中守護を義仲が院宣を奉りこれを支配した。
   源三位入道子息      大内裏(替川に至る)
   高田四郎重家・泉次郎重忠  一條北より、西朱雀西より、梅宮に至る。
   出羽判官光長       一條北より、東洞院西より、梅宮に至る。
   保田三郎義定       一條北より、東洞院東より、会坂に至る。
   村上太郎信国       五條北より、河原東より、近江境に至る。
   葦数太郎重隆       七條北より、五條南より、河原東より、近江境に至る。
   十郎蔵人行家       七條南より、河原東より、大和境に至る。
   山本兵衛尉義経      四條南より、九條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   甲斐入道成覺       二條南より、四條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   仁科次郎盛家       鳥羽四至内。
   義仲           九重(皇居)内、並びにこの外所々。
    以上を義仲が支配したという。
(注釈)
源三位入道子息・・・馬場源氏。頼政の孫。右衛門尉有綱
高田四郎重家・泉次郎重忠・・・尾張源氏。尾張の国の住人
葦数太郎重隆・・・尾張源氏。尾張の国の住人。佐渡の守。
出羽判官光長・・・美濃源氏。検非違使。(伯耆の守)
保田三郎義定・・・甲斐源氏。(遠江守)
村上太郎信国・・・信濃源氏村上系。右馬助  
山本兵衛尉義経・・・近江源氏、甲斐源氏。(伊賀の守、若狭の守)
甲斐入道成覺(義兼法師)・・・近江源氏、       
仁科次郎盛家・・・信濃領主、平姓。左衛門尉
十郎蔵人行家・・・備前の守

いずれも国守級の軍事貴族。       



1184年(寿永3年、元歴元年)1月
「吾妻鏡」1月27日 
「義仲誅伐の報鎌倉に到る」
 午後二時頃、安田遠江守義定・蒲冠者範頼・源九郎義經・一條次郎忠頼などの飛脚が鎌倉へ着きました。先日の二十日の合戦をして、木曾冠者義仲とその家来達を撃ち殺した事を報告しました。三人の使者は全員(頼朝様の)お呼びによって、北側屋敷の内庭へ来ました。細かいことを尋ねているところへ、梶原平三景時の飛脚が着きました。この人は討ち取った敵の死者や捕虜の名簿を持って来ておりました。他の人々の使者が来ましたけれど、記録書面を持ってきていません。梶原平三景時の配慮はとても適切であると、何度も感心をされましたという。

「吾妻鏡」2月5日 雨下る
「源氏両将摂津に到る」
 午後六時頃に蒲冠者範頼・源九郎義經の両將軍は摂津國(播磨との境の一の谷のそば)に到着しました。七日の午前六時頃に開戦の鏑矢を射あう時間と決めました。
「一谷合戦の軍勢」
 正面の大手口の総大将は蒲冠者範頼です。これに従うのは、
小山四郎朝政、武田兵衛尉有義、板垣三郎兼信、下河邊庄司行平、長沼五郎宗政、千葉介常胤、佐貫四郎廣綱、畠山次郎重忠、稻毛三郎重成、同四郎重朝、同五郎行重、梶原平三景時、同源太景季、同平次景高、相馬次郎師常、國分五郎胤道、東六郎胤頼、中條藤次家長、海老名太郎、小野寺太郎通綱、曾我太郎祐信、庄司三郎忠家、同五郎廣方、塩谷五郎惟廣、庄太郎家長、秩父武者四郎行綱、安保次郎實光、中村小三郎時經、河原太郎高直、同次郎忠家、小代八郎行平、久下次郎重光
を始めとして五万六千余騎です。
 裏側の搦手の総大将は源九郎義經です。従う人達は、
遠江守義定、大内右衛門尉惟義、山名三郎義範、齋院次官親能、田代冠者信綱、大河戸太郎廣行、土肥次郎實平、三浦十郎義連、糟屋藤太有季、平山武者所季重、平佐古太郎爲重、熊谷次郎直實、同小次郎直家、小河小次郎祐義、山田太郎重澄、原三郎淸益、猪俣平六則綱
を始めとした二万余騎です。

「両軍三草山の東西に対陣す」
 平家は、この情報を聞いて、新三位中將資盛卿、小松少將有盛朝臣、備中守師盛、平内兵衛尉淸家、惠美次郎盛方を始めとする七千余騎を摂津の國の三草山の西に着けました。源氏は同様に三草山から東へ三里(12km)ほど離れて陣を敷きました。山を挟んで東西に源平が揃いました。源九郎義經殿は、田代信綱や土肥實平と戦の相談をして、夜明けを待たずに夜中のうちに新三位中將資盛卿を襲撃しました。それなので平家は慌てふためいてばらばらに逃げ散ってしまいました。

「吾妻鏡」2月7日 
「一谷合戦に源氏大勝す」
 雪が降りました。午前四時頃に、源九郎義經様は、特に強い精兵七十数名の騎馬隊を選び分けて、一の谷の裏山「ひよどり超えと云います」に到着しました。
 ここに、武蔵の国の住人の熊谷次郎直實・平山武者所季重等が、午前六時頃にひそかに一の谷の前へ回って、海道から平家の建物のそばへ、競争しながら襲撃して、源氏側の一番乗りだと、大きな声で名乗ったので、飛騨三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛盛次、上總五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景淸達が廿三人の騎馬隊を引き連れて、防御用の木戸を開いて、熊谷達の軍と戦いました。直実の子熊谷小次郎直家は傷を受け、季重の家来は殺されました。その後、大手の蒲冠者範頼とその軍勢の足利一族や秩父一族、三浦一族、鎌倉党の軍勢が競争でやってきました。源平の軍勢がお互いに入り乱れて、源氏軍の白旗と平家軍の赤旗が混ざり合って戦う様は、山を響かせて、地を動かすかのようです。さしもの中国の漢王朝成立の立役者の樊會や張良が攻めてさえも、簡単には負けられない勢いです。
 しかもそればかりか、平家軍の構えは城郭の岩山は高くそびえて、馬の蹄では通りにくく、流れる谷は深山幽谷のようで、人の通った気配さえありません。
 源九郎義經様は、三浦十郎義連を初めとする勇士を連れ立って、鵯越「この山の猪・鹿・兎・狐以外は通れない険しさです」から攻め寄せたので、状況を測り考える暇も無く敗走したり、又は馬に乗り鞭を当てて一の谷の建物から逃げたり、又は船に乗って出発して四国へ逃げました。
 ここに、本三位中將重衡は、明石浦で梶原平三景時・家国たちの捕虜になりました。越前三位通盛は、湊川の辺りで、源三俊綱に殺されました。そのほかに薩摩守忠度朝臣・若狹守經俊・武藏守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊の以上七人は、蒲冠者範頼・源九郎義經の軍隊が討ち取りました。但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は、遠江守義定の軍勢が獲物にしたという。

「吾妻鏡」2月15日 
「範頼・義経、合戦記録を鎌倉に進ず」
 午前八時頃に蒲冠者範頼・源九郎義經の飛脚が攝津国(大阪府)から鎌倉へ到着し、合戦の記録を差し出しました。その内容は、先日の七月、一の谷合戦で平家の人たちが沢山命を落としました。宗盛は船に乗って四国のほうへ逃げました。本三位中將重衡は捕虜にしました。越前三位通盛・薩摩守忠度・經俊は、蒲冠者範頼軍が討ち取り、但馬前司經正・備中守師盛・能登守教經の三人は、遠江守義定の軍が討ち取り、大夫敦盛・武藏守知章・業盛・越中前司盛俊は源九郎義經の軍が討ち取りました。このほかにも、首を上げること千人以上です。武蔵・相模・上野の軍勢がそれぞれに大きな手柄を立てましたが、それは追って後から文書により、申し上げるという。

「吾妻鏡」3月1日 
「頼朝、平氏追討の下文を西国住人に遣わす」
 頼朝様は、九州の在地武士たちへ命令書を送られた。平家を追討せよという内容です。殆ど日本中の軍兵を呼び集めましたが、九州の武士たちは平家に味方しているので、未だに源氏方に付いていないからです。その命令書に書いてあるのは
 命令する 九州の在地武士たちへ  
早く鎌倉殿の御家人として、ひとつは本領安堵を受け、ひとつはそれぞれ軍勢を率いて平家の賊軍を追討する事
 右のとおり、九州の武士たちは、皆全員一緒に、朝廷の敵を追討するようにとの院宣を戴いているので、命令をしているのです。そもそも平家が謀反を起こしたので、去年、朝廷から任命された追討使として東海道を安田遠江守義定、北陸道は木曾左馬頭義仲が鎌倉殿の代官として、両方が京都へ上洛したところです。ところが、木曾冠者義仲が平家と和議を結び、謀反とは思っても居なかったことです。それで院宣のほかに、私が代官から勘当して義仲を追討しました。
 しかしながら平家は四国のあたりをうろつきながら、時には関西の港に出没して、人々の財物を奪い取る乱暴が絶えないのです。今となっては、陸地からも海上からも、官軍を派遣してすぐに追討する必要があるのです。だから九州の武士たちは、一つは本領安堵をするので、一つは皆、官兵を引率するように。その旨を承知してすぐに手柄を自分のものにせよ。命令する。
 壽永三年三月一日 
 前右兵衛佐源朝臣
「時政、土佐の大名・武士に平氏追討を令す」
 次に、四国の武士たちは、殆ど皆が平家に味方をしているけれども、土佐国の主だった武士その心に目指しているのは、源氏へ味方しようと思っているので、北条殿が頼朝様から命じられて同様な趣旨の手紙を出しました。その内容は
 命令する 土佐の国大豪族の国信・国元・助光入道たちへ 
早く源氏に味方の意思のあるものは、一緒になって力をあわせて平家を追討すること
 右のとおり、土佐の国の大名及び源氏の味方になる気のある武士は、一つは参上を図り、一つは皆一緒になって力をあわせて、平家を追討するように宣旨を受けている鎌倉殿のお言葉によって、命令しているわけです。なかでも特に現在京都へ来ている御家人の信恒は地元へ帰りなさい。そうすれば、従来どおりの本領を安堵するので、狼藉をしてはならない。大豪族も武士も一緒に合力し、信恒を見放すことがないように。よく承知をして間違えの無いように命令する。
 壽永三年三月一日

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

10月14日 「吾妻鏡」癸亥
「頼朝院宣を奉じ安田義定を召す」
 法皇の命令が鎌倉に到来した。義定朝臣を遣わされるべきものである。彼の朝臣が天皇の命令に背いている。二品(頼朝)が特に戒めの言葉を加えるように、御沙汰があったという。
 当国の小杉の御厨(みくりや)は、神宮の御領として、すでに天皇の命令書を下されている。而るに国司から妨害が有ると訴えが届いている。尤も不都合な事である。早く元のように課役を免除するように。法皇の命令によりこの通り伝える。
     九月二十四日          右馬の助(高階経仲)(奉判)
   遠江の守(安田義定)殿

10月24日 「吾妻鏡」癸酉 天気晴れ、風静まる。
「勝長寿院落慶供養、頼朝臨む」
 今日南御堂(勝長寿院と号す)の供養が行なわれた。午前4時頃、御家人等の中の、特に健士を選び辻々を警備させた。宮内大輔重頼が会場等の事を指図した。堂の左右に仮屋を設けた。左方は二品(頼朝)の御座、右方は御台所(政子)並びに左典厩(一条能保)の室家等の御聴聞所とした。御堂前の簀子(すのこ)を布施取り二十人の座とした。山の麓にまた北條殿(時政)室並びに然るべき御家人等の妻の聴聞所が有った。午前10時頃、二品が御束帯姿で御出ましになった。御徒歩であった。
  行列
  先ず随兵十四人
 畠山の次郎重忠 千葉の太郎胤正 三浦の介義澄 佐貫四郎大夫廣綱 葛西の三郎清重 八田の太郎朝重 榛谷の四郎重朝 加藤次景廉 籐九郎盛長 大井の兵三次郎實春 山名の小太郎重国 武田の五郎信光 北條の小四郎義時 小山兵衛の尉朝政
 小山の五郎宗政が御劔を持った。
 佐々木四郎左衛門の尉高綱が御鎧を着けた。
 愛甲の三郎季隆が御調度(弓矢)懸けを勤めた。
  御後は五位六位の者が三十二人。布衣(ほい)で下括(したくくり)の装束であった。
 源蔵人大夫頼兼 武蔵の守義信 参河の守範頼 遠江の守義定 駿河の守廣綱 伊豆の守義範 相模の守惟義 越後の守義資(御沓)上総の介義兼 前の対馬の守親光 前の上野の介範信 宮内大輔重頼 皇后宮の亮仲頼 大和の守重弘 因幡の守廣元 村上右馬の助経業 橘右馬の助以廣 関瀬修理の亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重 籐判官代邦通 新田蔵人義兼 奈胡蔵人義行 所雑色基繁 千葉の介常胤 同六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門の尉朝綱(御沓手長) 八田右衛門の尉知家 梶原刑部の丞朝景 牧武者所宗親 後藤兵衛の尉基清 足立右馬の允遠元(最末)
  次いで随兵十六人
 下河邊庄司行平 稲毛の三郎重成 小山の七郎朝光 三浦の十郎義連 長江の太郎義景 天野の籐内遠景 渋谷庄司重国 糟屋の籐太有季 佐々木太郎左衛門定綱 小栗の十郎重成 波多野の小次郎忠綱 廣澤の三郎實高 千葉の平次常秀 梶原源太左衛門の尉景季 村上左衛門の尉頼時 加々美の次郎長清
  次いで随兵六十人(弓馬の達者を特に選んだ。皆最末にお供した。御堂に上った後、それぞれ門外の東西に待機した)。

(以下略)
          東方                西方
    足利の七郎太郎 佐貫の六郎            豊嶋権の守  丸の太郎
    大河戸の太郎  皆河の四郎            堀の籐太   武藤の小次郎
    千葉の四郎   三浦の平六            比企の籐次  天羽の次郎
    和田の三郎   同五郎                都築の平太  熊谷の小次郎
    長江の太郎   多々良の四郎          那古谷の橘次 多胡の宗太
    沼田の太郎   曽我の小太郎          蓬の七郎   中村馬の允
    宇治蔵人三郎  江戸の七郎            金子の十郎  春日の三郎
    中山の五郎   山田の太郎            小室の太郎  河匂の七郎
    天野の平内   工藤の小次郎          阿保の五郎  四方田の三郎
    新田の四郎   佐野の又太郎          苔田の太郎  横山の野三
    宇佐美の平三  吉河の二郎            西の太郎   小河の小次郎
    岡部の小次郎  岡村の太郎            戸崎右馬の允 河原の三郎
    大見の平三   臼井の六郎            仙波の次郎  中村の五郎
    中禅寺の平太  常陸の平四郎          原の次郎   猪俣の平六
    所の六郎    飯富の源太            甘粕の野次  勅使河原の三郎
  寺門に入らしめ給うの間、義盛・景時等門外の左右に候し行事す。次いで御堂上り。
  胤頼参進し御沓を取る。高綱御甲を着し前庭に候す。観る者これを難ず。脇立を以て
  甲の上に着すは失たりと。爰に高綱が小舎人童この事を聞き高綱に告ぐ。高綱嗔って
  曰く、主君の御鎧を着すの日、もし有事の時、先ず脇立を取り進すのものなり。巨難
  を加うの者、未だ勇士の故実を弁えずと。次いで左馬の頭能保(直衣、諸大夫一人・
  衛府一人を具す)・前の少将時家・侍従公佐・光盛・前の上野の介範信・前の対馬の
  守親光・宮内大輔重頼等堂前に着座す。武州已下その傍らに着す。次いで導師公顕伴
  僧二十口を率い参堂し、供養の儀を演ぶ。事終わり布施を引かる。比企の籐内朝宗・
  右近将監家景等役送す。これより先布施物等を長櫃に入れ、堂の砌に舁き立つ。俊兼
  ・行政等これを奉行す。時家・公佐・光盛・頼兼・範信・親光・重頼・仲頼・廣綱・
  義範・義資・重弘・廣元・経業・以廣・繁政・基繁・義兼・高重・邦通等、数反相替
  わり布施を取る。
  導師分
   錦の被物五重   綾の被物五百重   綾二百端   長絹二百疋
   染絹二百端    藍摺二百端。    紺二百端   砂金二百両
   銀二百両     法服一具(錦の横被を副ゆ)    上童装束十具
   馬三十疋(武者所宗親、北條殿御代官としてこれを奉行す)、この内十疋鞍を置く
   (御家人等これを引く。残る所二十匹は、御厩舎人等傍らに引き立つ)
    一の御馬  千葉の介常胤      足立右馬の允遠元
    二の御馬  八田右衛門の尉知家   比企の籐四郎能員
    三の御馬  土肥の次郎實平     工藤一臈祐経
    四の御馬  岡崎の四郎義實     梶原平次景高
    五の御馬  浅沼の四郎廣綱     足立の十郎太郎親成
    六の御馬  狩野の介宗茂      中條の籐次家長
    七の御馬  工藤庄司景光      宇佐美の三郎祐茂
    八の御馬  安西の三郎景益     曽我の太郎祐信
    九の御馬  千葉の二郎師常     印東の四郎
    十の御馬  佐々木の三郎盛綱    二宮の小太郎
  次いで加布施、金作の劔一腰・装束念珠(銀の打枝に付く)・五衣一領(松重、簾中
  より押し出さると)、已上左典厩これを取らる。この外八木五百石は旅店に送り遣わ
  さる。次いで請僧分、口別に色々の被物三十重・絹五十疋・染絹五十端・白布百端・
  馬三疋(一匹鞍を置く)なり。毎事美を尽くさずと云うこと莫し。作善の大功を思え
  ば、すでに千載一遇なり。還御の後、義盛・景時を召し、明日御上洛有るべし。軍士
  等を聚めこれを着到せしむ。その内明暁進発すべきの者有るや。別してその交名を注
  進すべきの由仰せ含めらると。半更に及び、各々申して云く、群参の御家人、常胤已
  下宗たる者二千九十六人、その内則ち上洛すべきの由を申す者、朝政・朝光已下五十
  八人と。

1186年 (文治2年 丙午)

「吾妻鏡」4月21日 戊辰
「安田義定鎌倉に参上、鹿皮を献ず」
 遠江守安田三郎義定が、遠江の国から鎌倉へやってきて、日頃、浜中湖周辺の岩室寺などの山寺で、源九郎義經を探させていますが、見つけることが出来ないと報告しました。そこで頼朝様は御前に呼んで、遠江守義定に饗応のお酒を用意しました。その宴の間、色々と雑談になりました。頼朝様が言われるには「遠江の国で、何か出来事はありましたか。」遠江守義定は答えて「勝間田三郎成長が玄番助に任じられたことが、一番の出来事です。次には、狩をしようと二俣山へ向かって行ったら、鹿が九頭も一列に並んで、私の弓手側を走り抜けました。そこで、遠江守義定と倅の義資、淺羽三郎が馬を走らせ、全部弓で射て仕留めました。今日、その鹿皮を持ってきています。」といったら、頼朝様は大喜びでした。鹿皮五枚を頼朝様に献上し、三枚を若君(万寿、後の頼家数えの五歳)に進め、一枚を小山七郎朝光の心づけにしました。目の前でお酌の勤めをしているからです。「勝間田成長の任官の話は、前もって何の話も無い。自分で勝手に推薦するとは、まことにけしからぬ。早く、糾明するように。」と命じました。遠江守義定は多少顔を赤らめて、良く考えずに話したと、後悔しておりましたという。

1187年 (文治3年 丁未)

「吾妻鏡」8月15日 癸未
「鶴岡放生会」
 鶴岡の放生会(捕らえられた生き物を放つ儀式)があった。二品(頼朝)が御出ましになった。参河の守範頼・武蔵の守義信・信濃の守遠光・遠江の守義定・駿河の守廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等が供として従った。
「諏訪盛澄流鏑馬の至芸を見せ厚免を蒙る」
 流鏑馬が有った。射手五騎が、各々先ず馬場に移動し、次いで各々射終えた。皆的に当たらないものはいなかった。その後珍事が有った。諏方大夫盛澄と云う者は流鏑馬の芸を極めていた。秀郷朝臣の秘決を伝承していたからである。盛澄は平家に属し多年在京し、しばしば城南寺の流鏑馬以下の射芸に加わっていた。よって関東に参上するのが大変遅れたので、二品の怒りに触れ、この所囚人となっていた。而るに断罪したならば、流鏑馬の一流が永く廃れてしまうと、何ケ月もお心を悩ましていたが、今日俄にこれを召し出され、流鏑馬を射るようにお言葉があった。盛澄は了承を申した。御厩(うまや)第一の悪馬を召し出して賜った。盛澄が乗ろうとしたとき、御厩の係員が密かに盛澄に告げて云った。この御馬は的の前で必ず右方に馳けます。はたして一の的の前に出て、右方に寄った。盛澄は生まれながらの名人なので、押し直してこれを射た。最後まで間違いがなかった。次いで小さな土器(かわらけ)を以て五寸の串に挟み、三つこれを立てられた。盛澄はまた悉く射た。次いで件の三箇の串を射るべきの由、重ねて命じられた。盛澄これを承り、すでに生涯の運を思い切ると雖も、心中で諏方大明神を祈念し奉り、神社の垣の所にもどり拝し、霊神に仕えるべきものであれば、今ここで擁護を垂れ給へと祈った。然る後鏃(やじり)を平に捻り廻してこれを射た。五寸の串皆これを射切った。観る者は皆感動した。二品の御機嫌また快然となり、忽ち罪を許すとのお言葉があったという。
  今日の流鏑馬
    一番 射手 長江の太郎義景   的立 野三刑部の丞盛綱
    二番 射手 伊澤の五郎信光   的立 河匂の七郎政頼
    三番 射手 下河邊庄司行平   的立 勅使河原の三郎有直
    四番 射手 小山の千法師丸   的立 浅羽の小三郎行光
    五番 射手 三浦の平六義村   的立 横地の太郎長重

「吾妻鏡」8月26日 甲午
「稲荷・祇園両社の修造に重任・成功を募る」
 遠江の守義定に伏見の稲荷社を修造させるようにと、権黄門(藤原)経房の奉書で命令が下された。重任の功を募っていたものである。稲荷・祇園(現八坂神社)両社破損していたので、全て成功により、修理の事業を終える事となった。
(注)
重任(ちょうにん、じゅうにん)・・・ 任期後、その官職を続けること。
成功(じょうごう)・・・ 資材を朝廷に献じて造営などの費用を助けた者が任官・叙位された。



1188年 (文治4年 戊申)

「吾妻鏡」3月19日 乙卯
「義定下人、熊野領民と水争い」
 遠江の守義定の使者が到着した。当国の所領に於いて、下人等に命じて用水を引かせた処、近隣の熊野山領の住民等が抵抗したため、闘乱を起こし相互に刃傷に及びました。仍って彼是の当事者を逮捕して進上しますという。而るに熊野山から必ず詳細の申し入れがあるだろう。それまで拘束しておくように、ということで、これを返し遣わされたという。

「吾妻鏡」7月11日 乙巳
「六條殿造営役を遠江に課す」
 六條殿の御作事について、二品(頼朝)の御知行の国役は、親能の奉行として、大工の国時に命じて造営しようとしていた。遠江の国への賦課については御命令書が下され、今日到来した。ただちに彼の国司の義定に届けらけたという。
 六條殿の御作事については、六條通りに面した築垣(土塀)一町(約100メートル)と門等を造営するようにとの法皇の御意志に依って、このように伝えます。
     六月二十七日         権右中弁(藤原定長)
   遠江の守(安田義定)殿


1189年 (文治5年 己酉)

「吾妻鏡」4月18日 庚寅
「北条時連元服す」
 北條時政殿の三男(十五歳、時連、後の時房)が頼朝の御所に於いて元服した。夕方になり、御所の西侍に於いてこの儀式が有りました。
武州(平賀義信)・駿河守廣綱・遠江守義定・参河守範頼・
江間殿(北条義時)・新田蔵人義兼・千葉介常胤・三浦介義澄・同十郎義連・
畠山次郎重忠・小山田三郎重成・八田右衛門尉知家・足立右馬允遠元・工藤庄司景光・
梶原平三景時・和田太郎義盛・土肥次郎實平・岡崎四郎義實・宇佐美三郎祐茂等が東を上にして着座した。
「三浦義連加冠を勤む」
 二品(頼朝)がお出ましになり、先ず三献(さんこん)が行われた。江間殿(北条義時)が御酌をお取りになり、千葉小太郎成胤がこの役を続けた。次いで童形(時連)が召しに依って参進し、御前にひざまづいた。次いで三浦十郎義連に加冠役を命じられた。義連は頻りに恐縮して、頗る辞退の意志を示した。重ねてお言葉に曰く、只今では上位の者が多く待機しているので、一旦辞退するのはもっともである。但し先年三浦に出かけた時、故(上総)廣常と(岡崎)義實が争ったとき、義連がこれをなだめた為無事にすんだ。その心掛けにたいそう感心した。この小童(時連)は、御台所(政子)が特に慈しむので、将来に渡り援護したいと考えているので、計らい命じる所である。この上は辞退の理由は無い。小山七郎朝光・八田太郎朝重が灯明を取り進み寄った。梶原源太左衛門尉景季・同平次兵衛尉景高が道具を持参した。義連が加冠を勤めた。名前は五郎時連と名付けられたという。今夜の加冠役の事は、事前に定めていなかったので、希望する者は多くいたが、その場でお定めになられたので、どうしようもなかったようだ。

三献・・・酒肴を三回献ずる酒宴。






1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)

「吾妻鏡」2月10日 甲子
「安田義定、遠江守より下総守に遷(うつ)さる」
 遠江守義定が去る月二十五日に下総守に転任させられました。これは表向きには国替の指図といえども、内々には天皇(法皇)のお心に背く事等が有るとの理由であるという。遠州は重任にして多年を送るの上、特に執心し思うの処、今この事が出で来た。嘆き悲しむ事尤も止み難きの由を二品(頼朝)に申し上げたので、とりついで奏上するべきだろうとのお考えにより、御文書を義定の書状に添えられ、飛脚を差し進上なされました。行程は五箇日に定められたという。
「義定の申状」
  義定の申状に云く、
    言上する條々の文書の内容の事
一、朝廷の命に背くとの事
 右催促を受けました事は、一事も怠慢を致しておりません。催促が無い事については、これは文書の内容を知らないので、力及ばずであります。然れどもすでに不忠に処せられた事に依って、嘆き悲しみの余り、源二位殿(頼朝)にお伝えした処、取り次ぎを申すべきの由を以て、委託する所であります。御手紙並びに朝廷の命による事の催符を添えて、請使請け取りの領収書等の写しを、謹んでこれを進覧します。朝廷の命に背くか否かの趣旨は明らかであります。それのみならず、去年恒例の年貢の内の未納分は、任地を去るの由を承り、国を出でたと雖も、国司役所の役人に指図し預けました。請け取りましたとの証文を、同じくこれを進覧します。
一、稲荷社を建造を終えた事の再審査
 右、上中下社の正殿・主たる諸神の神殿、期日までに建造を終え、無事御遷宮を遂げました。その他の舎屋等の事、また以てその営勤の無い事はありません。行事の季遠が怠慢の上反乱しました。仍って俊宗法師を副官としたと雖も、六條殿の門や築垣の事と云い、大内の修理と云い、かれこれ相重なりましたので、自然に遅延しました。更に以ておろそかにする理由はございません。すでに不足の材木分については、ことごとく代価としての米を計算し、指図させ、都と田舎の間に割り当てました。
 件の報告書を同じく以て進覧します。この外、材木・屋根用桧皮並びに製作の代価以下、諸々の用途米等は、修復の見積書に従い、すでに先に運上しました。
  以前の條々について、言上はこのようであります。然るべきの様に計らい御処置下さい。恐れながら謹んで申し上げます。
    二月十日            義定(上)
   進上 中納言(経房)殿

「吾妻鏡」2月25日 庚子
「安田義定の申状についての勅答」
 下総守義定が申す條々の事について、朝廷の答の趣旨は、権中納言(経房)が伝え進上される所の法皇の命令は、右大弁宰相(定長)が担当した命令書である。義定は、これを拝見し終えて、うれえ悲しみは断腸の思いであるという。
  その状に云く、
 二位卿(頼朝)の書状並びに義定の申状等を天子(法皇)様に申し上げました。遠州在国の間の、公の租税の上納の目録も、申し上げました。諸国の長官は、この程度の公役を勤めない事があろうか。ひとえに押領すべきの由を存知するか。在京の国司に於いては、あるいは租税の納入を致すの上、恒例や臨時の課役を相営み、その外また勤節を他人より励もうとする所である。義定に於いては、特別な忠勤が無いの上、諸国は逐日に疲弊した。尋常の国を知行する人物ではあり得ない。しかのみならず六條殿の造営の時、諸国は皆了承した。一国申す旨有りて、たやすく承諾しなかった。二品(頼朝)のお叱りに依ってしぶしぶ勤仕した。私に参詣の時、京都を訪れると雖も事の由を言上しなかった。諸国吏が上洛の時密々に下向するとは、未だ聞いた事が無い事か。此の如き事等、お言葉を遣わす事は出来ないが、大概お言葉がある所である。七箇年の知行の後、他国に転任させられた。どうして寛大なお心での許しでない事があろうか。事情は猶大江廣元が下向の時、お言葉を下されるべきの由、一方では二位卿(頼朝)の許にお言葉を遣わすべきの由、内々の御意向があります。仍って申し上げる事はこのようでございます。
     二月十八日          右大弁(定長)
   謹上 権中納言(経房)殿
    追って申し上げます
     義定の文書等は、返し遣わすべきとする所であります。

「吾妻鏡」6月29日 壬子
「役夫工米の対捍につき請文を進ず」
 諸国の地頭等の(伊勢)太神宮の建造のため課せられた費用について、多くの者が拒絶し抵抗するについて、造宮使は頻りに詳細を申すので、重ねてお言葉を下されました。仍って日頃その指図をされ、一つには地頭等に広く知らせ命令し、一つには答申書を進上されたという。その状に云く、
「頼朝の請文(答申書)」
 去る四月十一日の御命令書が五月八日に到来しました。建造のため課せられた費用について、奉行弁親経朝臣の御命令書、謹んで頂きました。知行する八箇国の管理命令書並びに証明書等を別の目録に載せこれを注進しました。この中で相模・武蔵は近国であるので、よく命令を加え、早速に年貢の完納の勤めを致しました。残りの六箇国は、その行程が遠隔のため、国務の管理者に申し付け、先例を守り指図を致させました。而るにお言葉を下されました趣旨に驚き、古い管理命令書を探しだした処で、此のように記録し申し上げる所であります。詳細は件の報告書等に見えるとおりです。
 尾張の国の住人の高田重家・山田重忠等の割り当ての事、朝廷の法に任せ御指図有るべきであります。凡そ近国のものども、事を左右に寄せ拒絶し抵抗を致しますならば、ただどのようにも御成敗有るべきであります。中原親能・大江廣元が知行の所々の事、造宮使の申し状により重ねて命令しました。この外の者どもは事を頼朝の権威に寄せ、みだりに逃れ避けるようならば、官使でも法皇の御使をも派遣して御指図有るべきであります。天下が落ち着いた後は、万事は朝廷の御定に従うべき事であります。而るに家人を大切と存じて、御定に背こうとは更に存じません。然れば拘わるべきとは思いません、どのようにも朝廷の法に任せお言葉を下さるべきであります。
 遠江国の事、謹んで承りました。木曽義仲は東山道の手勢として、安田義定は東海道の手勢として入京した時、遠江国は義定を任命なされました。然れば頼朝が任命したものではありません。何事も別にして勤仕するべきであります。而るにお言葉が下された趣旨に従い命令いたしました。義定は定めて色々と申し上げますでしょう。條々この趣旨を以て内々に法皇に申し上げるべきであります。そもそも国々の管理命令書を探して調えようとしたため、遅延いたしました。尤も以て恐れの思いをいたします。頼朝が恐れながら謹んで申し上げます。
     六月二十九日         頼朝
   私に啓す。
    国々の証明書は、御閲覧の後猶返しいただきまして、各国務の管理人に返し置くべきと思う所であります。重ねて恐々謹言。


1191年 (建久2年 辛亥)

「玉葉」4月26日 朝夕天気晴れ、午前十時頃午後二時頃に至り雨降る。
「比叡山の僧兵が京へ下り強訴」
 午前六時頃、(弟の)慈円法印の文書が届いた。比叡山の僧兵が、只今京へ下るとの由、聞き及ぶ所であるという事だ。驚きながら人を派遣し偵察させた。すでにその事実あり。京極の寺に集会するという。衣装をさかさまにし天皇御所に参入した。主要な人はいなかった。ただ一条能保卿、宗頼朝臣等がいた。私は大理(能保)に命じた、官人(検非違使の職位)並びに武士等を招集し、御所入り口に待機させるべき由これを命令した。而るに官人(検非違使の職位)は一切来なかった。志(検非違使の職位)府生(検非違使の職位)が僅かに二・三人である。その外は皆法皇御所に待機するという。よって能保を差し向け、法皇の近臣に知らせた。武士、前将軍の侍三人(時定、高綱、成綱)の中、相併せて五六十騎に満たない。また遠江守義定(去る日板東に下りました)の家来が十騎ばかり、招集し待機させた。事体は頗る貧弱という。宗頼を以て法皇御所に進上しようとする処、僧兵はすでに御所入り口に参る由、そのうわさが聞こえた。よつて暫く他の職事を相待ちました。即ち光綱が参入した。件の人を以て法皇御所に申して云う、僧兵の下山は日来の風聞無く、事は未だあわただしく、是非に迷いました。座主以下門徒の僧綱並びに公卿等を法皇御所に召集し、評定されるべきか。天皇御所の不審により待機する所である。兼ねて又検非違使(警察官兼裁判官)が一切待機していない。少々差し進上するべきかといえり。即ち光綱が帰り来たり云うに、驚き思うこと限り無し。官人(検非違使の職位)等を早く召集し進上すべし。僧兵がもし参らば、事を出さず相防がるべしといえり(議定の事左右の仰せ無し)。大夫尉広元が参入した。呼び出しにより法皇御所に参りましたという。僧兵は京極の寺においてその勢力が整うのを待つという。この間、私は又宗頼朝臣を法皇御所に進上した。武士の人数無く、文官も又待機せず。僧兵が御所入り口中に入らば、どのように命令するべきか。前もって承り存じようとした。未だ天皇の命令状を聞かずといえども、大概日来の風聞に過ぎざるか。兼ねて又猶議定あるべきかといえり。宗頼が驚き参りました。この間僧兵は忽ちに御所入り口に参り、二条より西行し、町辻(陣口なり)に到るという。官人(検非違使の職位)二三人並びに安田義定の家来等が件の辻を固めたという。能保は云う、時定は只今待機せず。尋ね求むといえども、見え来たらずという。私は命令して云はく、高綱においては、定綱の弟である。一番に僧兵に対すれば、定めて不慮の事態となるだろう。二条堀川に待機し、不慮の対策を存ずべきか。能保は善しと称した。然る間、僧兵は町を過ぎ、御所入り口中半ばに及ぶという。よって官吏の以業を以て御所入り口外に待機させ、所存を報告すべし。みだりに御所入り口中にに乱入するは、道理然るべからず。訴訟の裁断は、御所入り口中や外に依るべからず。たしかにまかり退くべき由これを命令した。この間に守護の武士は、すこぶる乱闘となり、相互に小刃傷ありという。然れども深く制止を加え、特なる大事に及ばないようだ。良久しくありて以業が帰り来たり云う、全く法皇御所中に参入すべからず。ただ訴訟の成敗を以て望みとなすべし。その趣旨は、詳細に申し上げの書状に載せ、言上は先に終えた。今申請する所は死罪である。平重衡卿は南都を滅亡させたので、身分は公卿といえども、死刑を逃れない。定綱は比叡山を滅亡しようとした。その身分は平重衡に及ばない。早く死罪に行われるべしという事だ。
 この間、左衛門の御所入り口より、民衆が数千人逃げ入り、ほとんど南庭に充満した。ことははなはだ以て乱暴乱雑、しかれども制止するための人無し。私は職事蔵人に命じ、その頭を突かせた。また能保卿に命じしきりに以て僧兵を追却し、未だ西洞院の辻に及ばず、民衆や検非違使の従者等、あまりさえ宮中に逃げいる。実に王化の衰微、眼前に見現した。悲しむべし悲しむべし。よって怒りて顔色を変えて声を励まし、悉く退却に従わせた。良久しくありて隆職帰り参る。全く狼藉あらず。下僧等の中この事あり。あるいは又見物の者どもの中、もしくは定綱の仲間あり、石投げを以て僧兵並びに武士を打つ。尤も制止されるべしという。即ち能保卿に命じこれを制止した。

(以下延々と僧兵(大衆、衆徒)の乱暴狼藉とその対策の記述が続く)
(以下略)


「吾妻鏡」5月2日 己酉
「定綱告訴の神輿皇居に迫り守衛を傷害す」
 大夫尉大江廣元の飛脚が京都より参着した。大理(能保)が書状を献上された。去る四月二十六日、比叡山の衆徒(僧兵)が(佐々木)左衛門の尉定綱を訴え申して、八王子・客人・十禅師・祇園・北野等の神輿(しんよ、みこし)を頭上にささげて、臨時の皇居に参入しようとたので、直ちに多くの公卿の議論が有りました。罪名の死罪一等を減じ、遠流に処せらるべしという。その趣旨を定めて宣下されたようだ。また遠江守(安田)義定朝臣の飛脚が参り申して云う、当時、皇居守護の当番であった。去る四月二十六日の神輿が入洛の時、家人等が防戦にあたり、戦いを開始すべきではないとの、頻りに長官の命令が有るので、謹慎するの処、家人四人・同家来三人、忽ち比叡山の僧兵の為刃傷させられた。朝廷の権威に従い神の鑑を怖れるに依って、すでに武士の道を忘れるが如し。殆ど人のあざけりを招くべきかという。この事についての処置が有りました。善信・行政・俊兼・盛時等が呼び出しに依って参上した。

「吾妻鏡」5月3日 庚戌
「定綱乱行の件、頼朝の奏状」
 天子様にたてまつる書を高三位(高階泰経卿)に送られた。三好善信がこれを草案した。藤原俊兼が清書した。午後四時頃、雑務職の成里がこれを所持し上京した。その状に云う、
   言上
     事由
 右定綱の乱行に依って、比叡山延暦寺より派遣した使者の事務担当二人、義範・弁勝が去る四月三十日到着した。その書状には、罪科に依って、定綱並びに子息三人を衆徒(僧兵)中に預けいただきたいという。この外の詳細は、使者の言葉に尽くした。仍って去る一日に返書を与えた。また私の意見の及ぶ所を相伝えた。答えて云う、定綱の乱暴はどうしようもない。どうしても重科を遁れないだろう。風聞の説に従い、即ち去る四月十六日・同二十六日に罪科に行わるべきの由、二度天子様のお耳に達したようだ。罪名に任せお言葉を下されたようだ。但し呼び出し差し出すべきの仕儀を存じていれば、言上を経ず、先ず頼朝にお知らせくだされば、進止すべきの処、今僧兵達の議決により呼び付け渡すならば、恐らく天子様の裁断を軽んずる事になります。また私が無いのも同然です。連名の者どもの身を呼び付け、法皇御所に進上すべきである。宜しく天子様の定めを待たせるべしという。然れども衆徒(僧兵)が書き付けて申す趣旨が有れば、重ねての書状に随い指図有るべきの由相存ずるの処、去る四月二十六日(午前八時頃)を以て、皇居に群参し、神輿を振り奉り、声を発し乱暴に訴えて、天子様を驚かせなさるのは、言語道断である。この仕儀があるならば、使を差し下すべからず。また使者を派遣して返事を待つべきか。而るに下洛を待ち計るの條、心と事と相違す。更に本意に非ず。頼朝は、いやしくも忠貞を以て奉公し、家業を継ぎ朝家を守る。僧兵は何の意趣有って、あながちに奇策謀略を計画し、待ち計るのか。不満の至り、伝えるに余り有り。定綱を配流し、下手人を禁獄するの由宣下すでに終えた。誠にこれ明時の通常の規範である。而るに僧兵は天皇の裁断に背かんと欲せば、本より天皇への送達を経るべからず。罪科を定め頼朝に知らせば、先例を顧みず、斬罪に行うべし。また僧兵の趣旨に従うべきの処は、天皇のお言葉に背き乱入を企てた。凡そ是非をわきまえざるの性、あたかも木石と同じではないか。定綱の有罪を許し、日吉神社の霊威を軽蔑すれば、僧兵の不満を成すべきの由、縁底存知し終えた。たとえ頼朝の身と雖も、その罪有るの時は、公家より何ぞ御指図があるだろう。そもそも頼朝、比叡山の為法相の為に、忠節有りと雖も、更におろそかにする事はありません。その由何なれば、木曽義仲が謀反の日、座主明雲を殺しました。幾日も経たないうちに木曽義仲を追討し終えた。また平重衡の乱暴の時、南都奈良を焼き払い僧徒を殺しました。而るに重衡を逮捕し、同所において首をはね終えた。彼等は全て一期の仇であるといえども、これ二宗の敵に非ざるか。ここに南都奈良この志に感悦した。比叡山は未だ一言も発しない。今、宮仕法師を刃傷されたの怒りを以て、かたじなくも公家を驚かせなされた。まことに知りぬ、木曽義仲の為天台座主(長官)を殺された時、どうして蜂起して敵対しなかったのか。その勝劣をいはば、天台座主と宮仕と如何に。木曽義仲が如き所を惜かざるの者ありて、山門の訴えに出ず。仰崇余り有るの時、勝ちに乗り乱暴な訴を企てた。後代の濫吹、兼ねて以て推察する所である。縦え訴訟有らば、蜂起して以て洛中に下らずといえども、乱入して以て喧嘩に及ばずといえども、一通の申し上げの書状を捧げ、天子様のお耳に達せしめば、道理の有る事、裁許何ぞ拘わらない事があろうか。委細の旨は筆の及ぶ処ではない。なかんずく今年は三合の暦運に相当します。災いを払い除く祈請を励ますべきの処、小を以て大と成し、心から事を発す、即ち吾が山より騒動を致すの條、もしこれ僧徒の徳行を小にし、はたまた因果の致す所か。凡そ逆徒と謂うべきか。これ則ち悪徒は多く、善侶は少なきか。然れば悪徒のその性は瓦礫に似たりと雖も、善侶のその性いかでか恥じ入る事がないだろうか。宜しくこの旨を以て天子様のお耳にに達し給うべし。頼朝恐惶謹言。
     建久二年五月三日       頼朝
   進上 高三位殿
    追って言上す
 遠江の守義定は皇居の守護を承るに依り、家来を差し置いた。而るに僧兵が乱入するの時、官兵として招集されたようです。天子様の定めに依り、神威を仰ぎ、手を僧兵に懸けないでいた処、乱行の余り、勝ちに乗り彼の家来四人・その従者三人を刃傷するの由、義定の報告書により承る所です。人の報告書を以て此の如く言上するは、もし事実と異なる事が入り乱れるか。縦え、のろい馬と雖も、鞭を負わば何ぞ馳騁の心無からんか。この言のようであれば、官兵は当時のはずかしめに堪えず、もし敵対すれば、僧兵は不慮の若い命を遁れず。また数多の罪業が出来たか。然れども神威を仰ぎ天子様のお言葉を守り手に懸けず。これを以て私は思う、自身の威猛、かえって官兵をあなどりさげすむの由を称し、言咲するか。乱逆が出来の時は、官兵を以て朝家を守る。而るに彼の日の武士を刃傷した。その罪は如何に。僧兵が訴え申すの趣旨に於いては、天子様の裁断は有るべきでは無いだろう。重ねて恐惶頓首謹言。


1192年 (建久3年 壬子)
[玉葉]1月5日 甲戌

平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱、

「吾妻鏡」1月25日 戊戌
  巳の刻に前の幕下走湯山に御参詣。而るに当山住僧等臈次の事、去る文治四年にその
  式を定めらるると雖も、猶ややもすれば違越せしむの間、向後年戒を守るべきの由、
  重ねて定め下さるる所なり。



1193年 (建久4年 癸丑)

「吾妻鏡」11月28日 辛卯
「真円帰洛す」
 真円僧正が帰京された。
「安田義資女の事により梟首せらる」
 今夕、越後守義資(義定の男子)が女の事に依って梟首された。加藤次景廉に命じ実施された。その父遠江守義定は件の連座に就いて御機嫌を損なうという。これは昨日御堂供養の間に、義資は艶書を女房の聴聞所に投げ込んだ。而るに後害を思案して、敢えて報告無きの処に、梶原源太左衛門尉景季の妾(龍樹の前と称す)が夫の景季に語った。また父景時に通報した。景時は将軍家に言上した。仍って眞偽を糾明された時、女房等が申す言葉が符号するので、此のようになったという。三年東家の蝉髪(美女)を窺わずんば、一日あに白刃の梟首に遭わんや。
   従五位下越後の守源朝臣義資(年)、遠江守義定が一男、
   文治元年八月十六日任叙。

「吾妻鏡」12月5日 戊戌
「安田義定の所領収公、景廉を替補す」
 遠江守義定が所領を没収公された。当国の浅羽庄地頭職は、加藤景廉を以てその替わりに任命された。今日御命令の書状を与えた。大蔵丞加藤頼平がこれを担当したという。




1194年 (建久5年 甲寅)

「吾妻鏡」8月19日 丁未
「安田義定梟首」
 安田遠州(義定)をさらし首にされました。子息の義資を殺され、所領を没収するの後、頻りに五噫(ごい)を歌い、また日頃、親交の有る者達に相談し、反逆を企てようと欲した。ことすでに発覚したという。
   遠江の守従五位上源朝臣義定(年六十一)、安田の冠者義清が四男。
    壽永二年八月十日遠江守に任命され、従五位下に叙された。
   文治六年正月二十六日下総守に任官した。建久二年三月六日遠江の守に復官した。
    同年月日従五位上に叙された。

五噫(ごい)・・・世を嘆く漢詩。


「吾妻鏡」8月20日 戊申
「安田の伴類五人誅せらる」
 遠江守(安田)の仲間の五人、名越(なごえ)の辺にて首を刎ねられた。いわゆる前瀧口榎下重兼・前右馬允宮道遠式・麻生平太胤国・柴籐三郎・武籐五郎等である。和田左衛門尉義盛がこの事を担当したという。
 
「吾妻鏡」閏8月7日 甲子
「義時、安田義定の屋地を拝領す」
 安田義定朝臣の跡の屋敷と土地は、江間(義時)殿が拝領されたという。



1195年 (建久6年 乙卯)

「吾妻鏡」7月2日 甲申
「橋下駅に在廰・守護等参集す」
 遠江国の橋下の駅に於いて、当国の国務役所の役人並びに守護・執行役人等をあらかじめ参集した。義定朝臣の後、国務及び裁判等の事、善悪に就いて、いささか尋問し裁断なされる事有りという。



「安田義定史」は終了です。

来年の一月から「上総広常史」となります。
以下「志田義広」「一条忠頼」「武田信義」「行家」「範頼」「畠山重頼」「比企能員」「和田義盛」「土肥実平」「畠山重忠」
「梶原景時」「北条時政」と続く予定です。








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