2008年10月13日 (月)

8月10日「服部左衛門六郎の奉公志願を却下す」

「吾妻鏡」8月10日 甲申
「服部左衛門六郎の奉公志願を却下す」
 備前の国の住人で服部左衛門六郎が御所中の奉公を致したいと望み申すについて、小侍所(御家人の統制)に於いて、先ず先々の奉公の証拠を尋ねられた処、伊豫大夫判官義経が平氏追討使として九州に在る頃、父祖等に扶持をなすべきの旨、廷尉は書状を送り、さらに乗馬を与えた。また軍忠に感心し、重ねて賀章を出されたという。仍って件の両通の書状を進めてご覧にいれた後、その裁断が有りました。今日吟味し評定の処、承久元年以来、医道・陰陽道の如きの類、御簡(おんふだ)等に召し加えられる事は、京都より御所に仕官させた故である。父祖の例無きと雖も、御家人と称し今更奉公を聴された事に於いては、いちじるしい者達であるべきだろう。遠国の住人等、ただ廷尉の内々の消息の書状ばかりを所持し、御家人の応募については、御許容に及ばないとのお言葉を出された所である。

(お知らせ)
「義経史」は本日で終了します。
10月20日より「安田義定史」を始めます。

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2008年10月12日 (日)

1248年 (宝治2年) 2月5日「永福寺を修理す」

1248年 (宝治2年 戊申)

「吾妻鏡」2月5日 癸未
「永福寺を修理す」
 永福寺三堂の修理の事、去る寛元二年(1244年)七月その指示に及ぶと雖も、従来すこぶる遅々としたものであった。而るに左親衛(時頼)の明年は二十七歳の御慎み(厄年)である。当寺を興行されるべきの由、霊夢の告げ有るに依って、特に思し食し立つと。当寺は、右大将家(頼朝)が文治五年伊豫の守義経を討ち取り、また奥州に入り藤原泰衡を征伐した。鎌倉に帰還されて後、陸奥・出羽両国を知行せよとの天皇の裁断をいただきました。これは泰衡管領の旧領によるのものである。而るを関東は長久の遠慮を計画なされて、怨霊を宥めんとしました。義経と云い泰衡と云い、指せる朝敵ではない。ただ私の遺恨を以て誅亡するが故である。仍ってその年内に造作を始められた。
 随って壇場の荘厳さは、偏に清衡・基衡・秀衡(以上泰衡の父祖)等が建立の平泉の寺院を模倣されました。その後六十年の雨露や月日が神殿を浸食したという。明年は、義経並びに泰衡一族滅亡の年の支干(えと)60周年に相当する所である。

(お知らせ)

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2008年10月11日 (土)

1202年 (建仁2年) 6月26日「政子、昨日の知康の言動を怒る」

1202年 (建仁2年 壬戌)

「吾妻鏡」6月26日 己亥 陰
「政子、昨日の知康の言動を怒る」
 尼御台所(政子)がお帰りになられました。昨日の儀、興有るに似たりと雖も、知康の独り歩きの思いを成した。はなはだ奇怪である。伊豫の守義仲が法住寺殿を襲い合戦を致したので、卿相(けいしょう、公卿)雲客(うんかく、殿上人)が恥辱に遭遇した。その根元は知康の凶害より起こるものである。また義経朝臣に味方し、関東を亡ぼそうとしたので、先人(頼朝)は特にお怒りでした。解官し追放されるように、天皇に申し上げました。而るに今彼の過去のあやまちを忘れ親しみ近づく事を許された。亡者の御本意に背くとの御意向があるようです。

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2008年10月10日 (金)

1195年 (建久6年) 2月12日「行家・義経の残党確認のため、能員・常秀上洛す」

1195年 (建久6年 乙卯)

「吾妻鏡」2月12日 戊辰
「行家・義経の残党確認のため、能員・常秀上洛す」
 今朝方、比企の籐四郎右衛門の尉能員・千葉の平次兵衛の尉常秀が使節として急遽上洛した。これは前の備前の守行家・大夫判官義顕(義経)の残党等が、今も南海道や西海道の周辺に在存し、今度御上洛の次いでを伺い、復讐の本意を遂げんと欲するの由、風聞が出て来たので、進路の障害たるべきに依って、先ず駅々に於いて詳細を調査し、もし事実ならば、秘密の計略を廻し逮捕すべきの趣旨の將軍の命令を含むという。両人共に上洛のお供の人数であると雖も、勇敢を守り忽ちこの儀に及ぶという。

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2008年10月 9日 (木)

4月8日「九郎義経如意宝珠を欲す」

[玉葉]4月8日
「九郎義経如意宝珠を欲す」
宗頼を勝賢僧正の住房(清浄光院)に派遣し、如意宝珠を迎え奉り、皇居に安置した。・・・。
去る寿永の比、九郎義経取り奉らんと欲した。

「吾妻鏡」7月12日 
「頼朝征夷大将軍に任ぜらる」

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2008年10月 8日 (水)

1192年 (建久3年) 1月5日「平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱」

1192年 (建久3年 壬子)

[玉葉]1月5日
「平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱」
 国家の理乱は、病に例えて知るなり。急病ありといえども、即時平全、即ち更に余残無し。・・・暴悪国に満といえども、追罰励しければ、即ち一時に退散し、旧に復する本の如し。当世の貴賤、目に見、耳に聞く所なり。
 平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱、皆以てかくの如し。頼朝の勇、峰を争ふ無し。今に至りては太平に属したり。而るに漸々国衰え、面々人かたましく、万民これがために困窮し、四海それより滅亡し、・・・

[玉葉]3月13日
「後白河法皇死す」

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2008年10月 7日 (火)

12月15日 「昌俊の母参上す」

「吾妻鏡」12月15日 己丑
「昌俊の母参上す」
 故土左房昌俊の老母が下野の国の山田庄より参上したと申した。すぐ御前に呼び付けた。亡き息子の事を申して、しきりに号泣した。幕下(頼朝)は太だ歎かしめなされ、綿衣二領を下されたという。故豫州(義経)が幕下に反逆なされた時、討手を派遣しようとした時、勇士等は支障があると申す処、昌俊は僧侶ながら了承した。遂に命を関東にささげたので、没後から今に至るまで、精兵の比較に引用なされたという。

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2008年10月 6日 (月)

1191年 (建久2年) 11月14日「景時、平康盛を捕ふ」

1191年 (建久2年 辛亥)

「吾妻鏡」11月14日 己未
「景時、平康盛を捕ふ」
 梶原平三景時が由比の辺に於いて、一人の男を逮捕した。この男は反逆の残党と自称した。景時が名字を問うと雖も、直に幕下(頼朝)に申すべきと答えなかった。仍って召し進上した。幕下(頼朝)は簾(みす)中に於いてこれを御覧になられた。朝宗・俊兼に申すところを記述させた。故伊豆右衛門の尉(有綱)の家人で前の右兵衛の尉平康盛である。北條平六左衛門の尉を謀ろうとして密かに探索中に、不運で此の様になった。金吾(有綱)は前の豫州(義顕)の聟である。彼の叛逆に味方したので、平六を派遣し殺されました。その遺恨を果たそうとしたのか。鶴岡遷宮以後に、罪名の指図が有るべしという。

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2008年10月 5日 (日)

3月9日「法金剛院領怡土庄の地頭の事院宣」

「吾妻鏡」3月9日 癸亥
「法金剛院領怡土庄の地頭の事院宣」
 法金剛院領の怡土(いと)庄の事、地頭職を退去させるように、度々法皇の命令を下されました。而るに奥州征伐の後お言葉に従うべきの趣、先日御答申書を献上された頃、義経・泰衡が滅亡しました。然れども猶能盛法師は知行し難いとの御指図が有り、法皇の命令を下され今日到来したという。
 法金剛院領の怡土庄の地頭の事、詳細は度々お言葉を下されました。而るに去々年お言葉を遣わすの処、奥州の事が終了した後、重ねてお言葉に随うべきの由申されました。今に於いては、異儀に及ばない事でしょう。そのうえに彼の院領は他に異なるの上、能盛法師は相伝の領地を知行出来ないので、特に歎き申しました。その理由は無きに非ずでしょう。あわれにお聞きなされました。是非を云わず、地頭を止めなさるのが宜しいでしょう。捨て去り難き事であるので、重ねてお言葉を遣わす所である。詳しい事情は、廣元にしっかり命じました。その主旨を存知なさるべしということです。院宣は此の如し。仍ってお伝えします。
     三月一日           権中納言籐(経房)
   謹上 源二位(頼朝)殿
    私に申し上げます
 地頭の事、詳細を申し置きなさるに依って、御猶予ありと雖も、この事に至りては、あわれと思いなされました。尤も停止されるべきです。御不審かと思い、このように申すものです。重ねてつつしんで申し上げます。

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2008年10月 4日 (土)

1190年 (文治6年)1月6日「泰衡の臣大河兼任叛乱を起す」

1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)

「吾妻鏡」1月6日 辛酉
「泰衡の臣大河兼任叛乱を起す」
 奥州の故泰衡の郎従の大河の次郎兼任以下が、去年の冬以来謀反を企てた。伊豫の守義経と称し出羽の国の海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲の嫡男で朝日の冠者と称し同国山北郡にて挙兵し、各々反乱軍を結成した。遂に兼任の長男の鶴太郎は次男の畿内の次郎や七千余騎の反乱軍を引き連れ、鎌倉方に向かい出発した。その路程は河北・秋田城等を経由して、大関山を越え、多賀の国府に出ようとした。ところが秋田・大方より、志加の渡を打ち通る時、氷がにわかに消えて五千余人が忽ち溺死した。天罰を受けたのか。ここで兼任は使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親(父母兄弟妻子などの六種の親族)若くは夫婦の怨敵の者にむくいるのは尋常の事である。未だ主人のかたきを討つの例は無い。兼任が独りその例を始めようとする為、鎌倉に赴く所であるという。
「由利惟平討たる」
 仍って維平は小鹿嶋の大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、合戦は四時間に及ぶ。維平は討ち取られた。兼任もまた千福・山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑務職の澤安等を殺したという。これに依って在国の御家人等はそれぞれ飛脚を進上し、事情を言上したという。

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