2007年4月24日 (火)

10月13日 「吾妻鏡」「義仲の右筆覺明筥根に住む」

10月13日 「吾妻鏡」乙丑
「義仲の右筆覺明筥根に住む」
 故木曽左馬の頭義仲朝臣の右筆て大夫房覺明と云う者が有りました。元これ奈良の学僧である。義仲朝臣誅罸の後、本名に帰り信救得業(しんきうとくごふ)と名乗りました。当時筥根山に住むの由これを聞きなされ及ぶに就いて、山中の外、鎌倉中並びに近国に出るべからざるの旨、今日御文書を別当の許に遣わされたようです。
(注釈)
右筆(ゆうひつ)・・・文書にたずさわる人。文官
学僧(がくそう)・・・学問に長じた僧。修学中の僧。

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2007年1月28日 (日)

5月1日 「吾妻鏡」「頼朝、義仲の妹に美濃遠山庄を与える」

5月1日 「吾妻鏡」癸未
「頼朝、義仲の妹に美濃遠山庄を与える」
 故伊豫の守「義仲」朝臣の妹公(字は菊)が京都より参上した。これ武衛(頼朝)が招待されたが故である。御台所(政子)は殊に哀れみなされた。先日所々横領の由の事、わるだくみのある族が名を仮り面に立つの條、全く詳細を知らざるの旨陳謝すと。豫州(義仲)は朝敵として、討罰に預かると雖も、指せる雑怠無きの女性、なんぞこれを憐まざらんかと。仍って美濃の国遠山庄の内一村を賜う所である。
(中略)

(注釈)
美濃の国遠山庄・・・美濃国(岐阜県)恵那郡遠山荘馬籠村らしい。木曽に近い。

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2007年1月11日 (木)

3月3日 「吾妻鏡」「義仲朝臣の妹公有り」

3月3日 「吾妻鏡」丙戌
「義仲朝臣の妹公有り」
 左馬の頭(さまのかみ)義仲朝臣(あそみ)の妹公有り。これ先日武衛(頼朝)御台所(政子)御養子の契り有り。而るに美濃(岐阜県南部)(一村御志有るの間在国)より上京し、御息女の威光に力がついて強くなり、在京するの間、悪巧みのある者ども多く以てこれに従属した。むかし棄損(きそん)の古い文書を捧げ、不知行(ふちぎょう)の所々を件の姫公に寄附するの後、またその使節と称し、官位高く権威のある家柄の庄公等を押し入って乱暴したり、不当な課税をした。この事、当時人民の愁う所である。既に関東の御遠聞に達するの間、これを乱心の女房と名づけた。且つは彼の乱暴を停止し、且つは相順う族を逮捕し進上すべきの由、今日近藤七国平、並びに在京・畿内の御家人等の許に命令を遣わされた。但し御一族の中に於いて、過度の悪巧みをする人相交るの條、世のそしりを恥なされるに依って、御文書の面に於いては乱心の由を載せられると雖も、潛かにあわれみの御志有り。関東に参向すべきの趣、内々いさめご命令されると。
(注釈)
左馬の頭(さまのかみ)・・・左馬寮の長官。
左馬寮(さまりょう)・・・馬寮(めりょう)。官馬の役所。左右がある。
朝臣(あそみ)・・・三位以上のひとの姓の下、四位の人の名の下につける敬称。
不知行(ふちぎょう)・・・知行・領地を持たないこと。

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2006年12月24日 (日)

5月15日 「吾妻鏡」「義廣の首を獲る」

5月1日 「吾妻鏡」
 故志水の冠者義高の従類等が、甲斐・信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと似せるの由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由、その指図有り。足利の冠者義兼・小笠原の次郎長清が御家人等を相伴い、甲斐の国に出発すべし。また小山・宇都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林の輩、信濃の国に下向せしめ、彼の凶徒を捜し求むべきの由定めらると。この外、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人等、同じくこれを相招集し、今月十日進発すべきの旨、義盛・能員等に仰せらると。

5月2日 「吾妻鏡」
  志水の冠者誅殺の事に依って、諸国の御家人が馳参した。凡そ群を成すと。

5月15日 「吾妻鏡」
「義廣の首を獲る」
 午後4時頃、伊勢の国の馳駅が参着した。申して云く、去る四日、波多野の三郎・大井兵衛次郎實春・山内瀧口三郎、並びに大内右衛門の尉惟義の家人等、当国羽取山に於いて、志田三郎先生義廣と合戦した。殆ど終日に及び雌雄を争う。然れども遂に義廣の首を獲ると。この義廣は、年来反逆の志を含み、去々年軍勢を率い、鎌倉に参らんと似せるの刻、小山の四郎朝政これを相防ぐに依って、成らずして逃亡し、義仲に従属した。義仲滅亡の後また逃亡した。かってその生死を判別出来ない間、武衛(頼朝)の御憤り未だ休まざるの処、この告げ有り。殊にお喜びなさる所である。

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2006年12月22日 (金)

4月10日「頼朝は義仲追討の賞により正四位下に叙さる」

4月7日 天晴 
 雅頼卿が来た。世上の事を談じた。頼朝卿の後見の史大夫清業、去る比納言(雅頼)の許に来たり語りて云く、兼実の事、頼朝は推挙堅き事を存ずるようだ。奏聞の日、八幡(頼朝が祝い奉ると)の宝前に於いて、能く祈念致すの後、廣元に仰せこれを書かせたようだ。

4月10日 「吾妻鏡」
「頼朝は義仲追討の賞により正四位下に叙さる」
 源九郎の使者が京都より参着した。去る月二十七日除目(人事異動)有り。武衛(頼朝)正四位下に叙し給うの由これを申した。これ義仲追討の賞である。彼の文書を持参した。この事、藤原秀郷朝臣は天慶三年三月九日、六位より従下四位に昇る例がある。武衛(頼朝)の御本位は従五位下である。彼の例に准ずるもののようだ。また忠文(宇治民部卿)の例に依って、征夷将軍の宣下有るべきかの由、その指図が有り。而るに越階の事は、彼の時の准拠然るべし。將軍の事に於いては、節刀(天皇が与える刀)を賜い、軍監(征夷使の第3等官)軍曹(軍監の次)に任ぜられるの時、除目を行わる。今度の除目に載せらるの條、始めてその官を置くに似たり。左右無く宣下せられ難きの由、諸卿が議論有るに依って、先ず叙位のようだ。

4月16日 去る夕より雨降り、午上甚雨、午後天晴れ
「元暦と改元」
  改元。壽永三年を改め元暦元年と為す。
この日改元の事有り。去年その儀有りと雖も、即位以前たるに依って、遂げられずと。然れども天下猶静まらざるの間、即位また急ぎ行はれ難し。年を踰えるの後すでに数月に及ぶ。仍って乱逆止まざるに依って、即位以前行われる所である。
俊経卿(大応・弘治・大喜)、
兼光卿(元徳・文治)、
光範朝臣(元暦・恒久・承寛)、
業實朝臣(顕宝・応暦)。

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2006年12月 5日 (火)

2月21日 「吾妻鏡」「木曽殿の御下文」

2月20日 天陰
「頼朝勧賞につき過分事望まずと申す」
 去る月二十一日頼朝の許に遣わす所の飛脚が帰参した。頼朝申して云く、勧賞の事ただ上の御計らいに在り。過分の事一切欲する所に非ずと。
(注釈)
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または者を賜ること。

2月21日 雨下
「僧事あり」
2月21日 「吾妻鏡」
「木曽殿の御下文」
 尾籐太知宣と云う者有り。この間義仲朝臣に従属した。而るに内々御意向を伺い、関東に参向した。武衛(頼朝)は今日直接に詳細を質問された。信濃の国中野の御牧、紀伊の国田中・池田両庄、知行せしむの旨これを申した。何の由緒を以て伝領せしめたかの由を質問された。先祖の秀郷朝臣の時より、次第に承け継ぐの処、平治乱逆の刻、左典(義朝)厩の御方に於いて、牢籠するの後得替した。これを愁え申すに就いて、田中庄は、去年八月、木曽殿の御下文を頂いたの由これを申した。彼の下文を召し出しこれを御覧なされた。仍って知行相違無しの旨仰せられた。

2月22日 天晴 
「法恩講」
「諸国兵粮米を責め取り他人領を押し取るを事を停止す」
左大弁経房卿が来た。語りて云く、諸国への兵粮の責め、並びに武士が他人の領を押し取る事、停止すべきの由宣旨を下さる。武士実に申し行うと。

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2006年11月28日 (火)

2月2日「平家追討は院の素懐なり」

2月2日 天晴れ
「院の子と称する人伯耆半国を伐り取る」
「入夜火事あるも院御所難を免る」
「平家追討は院の素懐なり」
或る人云く、西国に向かう追討使等、暫く前進せず。猶大江山の辺に留まるようだ。平氏その勢は弱少に非ず。九州の勢力が少々付いたようだ。下向の武士、殊に合戦を好まないようだ。 土肥の二郎實平・次官親能等(この両人頼朝の代官である。武士等に相伴い、上京された所である)、或いは御使が誘い仰せられるの儀、甚だ感心を申したようだ。而るに近臣の小人等(朝方・親信・親宗等が少弁・北面の下級武士等に命ずるようだ)、一口同音に追討の儀を勧め申した。これ則ち法皇のかねてからの願いである。仍って時流にさからいかれこれ言うこと無き事か。この上左大臣(経宗)また追討の儀を執り申されるようだ。凡そこの条その道理然るべしと雖も、三種の神器を重要視されない条、神虜は如何。天意叉主とせざる者か。
「光長基房の縁人により棄置かるという」
人云う、摂政(基通)の執事は家実(兼光の子)年預は棟範のようだ。光長は松殿(基房)の縁人たるに依り棄て置くようだ。

2月2日 「吾妻鏡」辛酉
 樋口の次郎兼光をさらし首にした。渋谷庄司重国がこれを奉り、郎従平太の男に命じた。而るに斬り損ずの間、子息渋谷の次郎高重これを斬る。但し去る月二十日合戦の時、負傷するに依って片手打ちのようだ。この兼光は、武蔵の国兒玉党の者どもと親しいの間、彼等の勲功の賞に募り、兼光が命を賜うべきの旨申請するの処、源九郎主事情を申し上げされると雖も、罪科は軽くないとして、遂に以てお許し有ること無しのようだ。

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2006年11月24日 (金)

1月26日 「吾妻鏡」「義仲等獄門首」

1月26日 晴
「三神の安全のため平氏追討止むべきか」
 去る夜より、京中では平氏が入京するとの由の風説がおおいに流布した。信受せざるの処、果たして以てデマのようだ。或いは云く、猶平氏の追討を止めらるの儀、静賢法印を以て御使として、詳細を仰せ含めらるべしと。この儀は私のこいねがう所である。これ全く平氏を引級するに非ず。三種の神器の安全を思うに依るものである。
1月26日 「吾妻鏡」
「義仲等獄門首」
 今朝検非違使(けびいし)等が七條河原に於いて、伊豫の守義仲並びに高梨忠直・今井兼平・根井行親等の首を請け取り、獄門(ごくもん)の前の樹に懸けた。また囚人の樋口兼光同じくこれを引き連れ渡された。儀式を指揮する公卿は籐中納言、実務担当は頭弁光雅朝臣のようだ。
(注釈)
引級
検非違使(けびいし)・・・京中の警察・裁判官。
獄門(ごくもん)・・・獄屋(ごくや、ろうや)の門。

1月27日 天晴れ
「平氏征伐朝方等の和讒によるか」
定能卿が来た、世間の事等を語る。その次いでに云く、平氏の事、猶御使を遣わす事を止め、偏に征伐されるべしのようだ。近習の卿相等の和讒(わざん)か。所謂、藤原朝方・藤原親信・平親宗である。小人君に近づき、国家を擾(みだ)す。誠かなこの言。
「余の庵借り上げの指示」
法皇より武士を住まわせるため、私の庵(いおり)を借られるべく、家を指定する由仰せあり(定長奉行)。承知したの由を申した。事の体は言うに足らず。然れども逓れ避く事は出来ない。末代の事勿論勿論。
「任子慈円より観音経等を受く」
(注釈)
和讒(わざん)・・・一方でやわらぎ親しんで、他方でそしり陥れること。仲介。密語。

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2006年11月23日 (木)

1月25日「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」

1月25日 天気晴れ、
「仏法の験により良通回復す」
「基通・実定還補の事」
「近衛亭にて吉書を覧ず」
「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」
私は案ずるに、去年11月19日以後、行はれた所の叙位、除目、宣命、宣旨、官府、昇殿、侍中併しながら用いるべきではない由、宣旨を下されるべきである。その故何となれば逆賊が朝務を執り、時人猶その権力に媚び、任ずる所の官位官職を、猶その身に帯びる。依って謀反の者と雖も人猶これに帰順している。甚だ以て奇怪である。自今以後、賊臣にへつらう条、後世の人をして厳粛たらしめんためである。

「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」
平治・治承の乱は、この条は同じと雖も、皆成人の御宇(天子の御世)である。依って号する所皆勅定(天皇の定め)である。更に今度の乱に斉しくは無い。天子と臣下共に幼稚、未だ成人の度量に及ばない。法皇叉禁固の如し。何ぞ政事の沙汰に及ばないのだ。あにひとえに義仲一人の最である。あに木曽の下知を以て、専ら竹帛(ちくはく、書籍、歴史)の証拠に備えるのか。この条は法皇が尤もご存知あるべきである。而るに一切お考えなし、人叉申し行わないようだ。後に聞く、この事は数日を経し後申し行うことあり。人少しのようだ。然れども期に違ふ後、尤も見苦しかるべし。叉天気(天皇の機嫌)お考え寄らず。小人の異見に依り始終無しのようだ。この事二月下旬の比指図あるものである。依って追って書き入れるところである。

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2006年11月21日 (火)

1月22日「兼実院より尋ねらるる条々」

1月22日 天気晴れ、
「兼実院より尋ねらるる条々」
風病はいささか減有り。仍ってなまじいに参院した。定長を以て尋問される事は五箇條、
「平氏追討の事」
一、かれこれ言うこと無く平氏を討たるべきの処、三種の神器は彼の手に御座います。この條は如何。協議し申し上げすべしといえり。兼ねてまた公家の使者を追討使につきそえ下し派遣するは如何と。
 申して云く、もし三種の神器の安全の計略が有るならば、忽ちの追討は然るべからず。別の御使を遣わし、語り誘われるべきである。また頼朝の許へ、同じく御使を遣わし、この詳細を仰せ合わされるべきである。御使を追討使につきそえられるの條、甚だ拠る所無きか。
「義仲の首の事」
一、義仲が首を渡さるべきや否や如何。
申して云く、左右共に事の妨げを為すべからず。但し道理の出る所、尤も渡されるべきか。
「頼朝の賞の事」
一、頼朝の賞如何。
申して云く、申請に依るの由仰せられるべきか。然れば又もし恩賞無き由を存ずるか。暗に行われ、その由を仰せられる。何事か有らんや。その官位等の事に於いては、私の案の及ぶ所に非ずといえり。
「頼朝上洛の事」
一、頼朝上洛すべきや否やの事
申して云く、早く上京させるべし。殊に仰せ下さるべし。参否に於いてはごぞんぢであるべからず。早速に行かせて呼び出しすべきであるといえり。
「院御所の事」
一、御所の事如何。
申して云く、早々に他所にお移り有るべし。その所は、八條院御所の外、然るべきの家無きか。
「昨日の議定大略兼実申状に同じ」
定長語りて云う、昨日左大臣(経宗)、左大将(実定)、皇后宮大夫(実房)、堀川大納言(忠親)、押小路中納言(長方)、左右大弁等参入し議定あり。各の申し状は大概兼実の申し状に同じ。但し平氏追討の間の事、左大臣左大将猶三種の神器を知らず、追討すべきの趣か。これ即ち法皇のお考えはかくの如しと(他事、定能卿密にこれを示す)。各形勢に従われるなり。然るべからず然るべからず。叉首を渡される事、長方いわく、もし遠国の賊首を渡される事かと(この事然るべからず然るべからず)。叉賞の事、左大将云う、恵美大臣を討ちし時の例に任せ、三品に叙せられる、宜しかるべしと(この事叉過分である)。この外の事一同と。退出した後、人告げていう、摂政(基通)内大臣(実定)、各元の如くの由仰せ下されたようだ。天は国を棄てずと雖も、法皇はこれを棄てた。末世受生の恨み、宿業を訪ね報いんと欲するのみ。

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