2007年6月18日 (月)

1212年 (建暦2年) 2月14日「武蔵の国諸郷に郷司職を補す」

1212年 (建暦2年 壬申)

2月14日 辛卯
「武蔵の国諸郷に郷司職を補す」
 武蔵の国の国務の間の事、(北条)時房(父時政・兄義時)朝臣に政道を盛んにするようの指図を致され、郷々に於いて郷司職を任命された。而るに匠作(泰時)いささか執り申されるの旨有りと雖も、「入道武蔵の守(平賀)義信」の国務の例に任せ、指図せしむべきの旨仰せ下されるの間、その趣を存ずる所である。承諾し難きの由答え申されたようです。
(解説)
泰時(やすとき)・・・2代執権北条義時の嫡男

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2007年6月17日 (日)

1211年 (承元5年) 11月3日「永福寺惣門焼く」

1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)

11月3日 辛亥 晴
「永福寺惣門焼く」
 午前4時頃、永福寺の外構えの正門並びに墓一基(「前の武蔵の守源の(平賀)義信」建立である)が焼亡した。他所に及ばなかった。
「天変により泰山府君祭等を行ふ」
午後8時頃、天変の事に依って、御所に於いて泰山府君・歳星等の祭を行わる。加藤判官光員がこれを指図した。清図書の允清定が執行人である。
(解説)
泰山府君(たいざんふくん)・・・中国山東省の山の神。
歳星(さいせい)・・・木星の漢名

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2007年6月16日 (土)

1207年 (建永2年)2月20日 「北条時房武蔵守に任ず」

1207年 (建永2年、10月25日改元承元元年 丁卯)

2月20日 丁卯 霽
「北条時房武蔵守に任ず」
 (北条)時房(父時政・兄義時)朝臣去る月十四日武蔵の守に任ずるの間、国務の事、「故武蔵の守(平賀)義信入道」の例に任せ、指図を致すべきの旨仰せ下されました。
(解説)
故武蔵の守(平賀)義信入道となっているから、1203年以後に入信し、死亡したようだ。

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2007年6月15日 (金)

1203年 (建仁3年) 10月8日「実朝元服す」

1203年 (建仁3年 癸亥)

10月8日 癸卯 天霽、風静々
「実朝元服す」
 今日、将軍家(実朝)(年十二)御元服である。午後8時頃、遠州(時政)の名越の亭に於いてその儀式が有りました。前の大膳大夫(大江)廣元朝臣・小山左衛門の尉朝政・安達九郎左衛門の尉景盛・和田左衛門の尉義盛・中條右衛門の尉家長以下の御家人等百余人、侍の座に着座した。江間の四郎(義時)主・左近大夫将監(源)親廣が武具を持参した。時刻に御出になられました。理髪は遠州。加冠は「前の武蔵の守(大内)義信」。
 次いで休憩所に御渡りになられた。後、御前の物を進上した。江間(義時)・(源)親廣が配膳役です。配膳の取り次ぎ役は結城の七郎朝光・和田兵衛の尉常盛・同三郎重茂・東の太郎重胤・波多野の次郎経朝・桜井の次郎光高等である(各々近習の小官の中、父母見存の者を選ばれ、これを召すと)。次いで鎧・御劔・御馬を献上しました。佐々木左衛門の尉廣綱・千葉の平次兵衛の尉常秀以下この役を勤めた。

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2007年6月13日 (水)

1202年 (建仁2年)3月14日「永福寺の多宝塔供養」

1202年 (建仁2年 壬戌)

3月14日 己未
「蹴鞠」
 御蹴鞠(けまり)有り。人数前に同じ。員三百六十・二百五十。
「永福寺の多宝塔供養」
今日、永福寺内の多宝塔の供養である。尼御台所(政子)並びに金吾(頼家)御結縁の為御参りした。導師は栄西律師。これ金吾の乳母、「入道武蔵の守源の(大内)義信」朝臣亡妻の追福である。導師の施物等、尼御台所よりこれを調え遣わされた。所右衛門の尉朝光が指図した。

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2007年6月12日 (火)

1195年 (建久6年) 7月16日「大内義信の国務を賞す」 

1195年 (建久6年 乙卯)

7月16日 戊戌
「大内義信の国務を賞す」
 武蔵の国務の事、「(大内)義信」朝臣の政治の執り方、尤も人民の意思に叶うの由お聞きなされ及ぶに就いて、今日御感心の御文書を下されました。
「府庁に壁書を掲ぐ」
 以後国の長官に於いては、この時の趣旨を守るべし。壁書(へきしょ)を国府の役所に置かれました。散位(さんに)の(平)盛時が執行人です。
(解説)
壁書(へきしょ)・・・役人の守るべき心得などを壁に張り紙をして掲示した。
散位(さんに)・・・官位があるが、役職のない者。

(参考)
1196年(建久7年)から1199年(建久10年)1月までの記録が無いようだ。

1199年(建久10年)
3月2日
「頼朝49日の仏事」
故将軍(頼朝)49日の御仏事である。導師は大学法眼行慈である。
1200年(正治2年)
1月13日
「頼朝1周忌」

1212年(建歴2年)
2月28日
「頼朝、相模河橋供養の帰路に落馬し、のち死す」

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2007年6月11日 (月)

12月26日「永福寺新造薬師堂供養」

12月26日 壬午
「永福寺新造薬師堂供養」
 永福寺内の新造の薬師堂の供養、導師は前の権僧正勝賢と。将軍家(頼朝)御出で。北條の五郎時連が御劔を持ちました。愛甲の三郎が御弓矢を持ち従いました。
  供奉人(布衣)
    源蔵人大夫頼兼  「武蔵の守(大内)義信」    信濃の守(加々美)遠義   相模の守(大内)惟義
    上総の介(足利)義兼   下総の守(源)邦業    宮内大輔重頼   駿河の守(藤原)宗朝
    右馬の助(村上)経業   修理の亮義盛    前の掃部の頭(中原)親能 前の因幡の守(大江)廣元
    民部大夫(藤原)繁政   小山左衛門の尉朝政 下河邊の庄司行平 千葉の介常胤
    三浦の介義澄     同兵衛の尉義村      八田右衛門の尉知家
    足立左衛門の尉遠元  和田左衛門の尉義盛    梶原刑部の丞朝景
    佐々木左衛門の尉定綱 佐々木中務の丞経高    東大夫胤頼
    境兵衛の尉常秀    野三刑部の丞盛綱     後藤兵衛の尉基清
    右京の進(藤原)季時     江兵衛の尉(大江)能範
  最末
    梶原平三景時
  随兵八騎
    北條の小四郎(義時)      小山の七郎朝光     武田兵衛の尉有義
    加々美の次郎長清    三浦左衛門の尉義連   梶原左衛門の尉景季
    千葉の新介胤正     葛西兵衛の尉清重
  布施取り
    右兵衛の督(一条)高能朝臣   左馬権の頭公佐(三条)朝臣   上野の介憲信
    皇后宮大夫の進(伊佐)為宗   前の対馬の守(藤原)親光    豊後の守季光
    橘右馬権の助次廣    工匠蔵人        安房判官代(源)高重
  導師の布施
    錦被物三重    綾被物七十重  綾百反  長絹二百反    
    染絹三百反    白布千反
  加布施
    金作の劔一腰   香呂箱(綾紫絹等を以てこれを作る)
  この外
    馬二十匹     供米三百石
  請僧の布施(人別)
    色々の被物三十重 絹六十反  染絹三十反 白布二百反
    紺百反      馬二匹     供米百石

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2007年6月10日 (日)

8月8日「頼朝、日向山薬師に参る」

8月8日 丙申
「頼朝、日向山薬師に参る」
 今朝午前4時頃に将軍家(頼朝)は相模の国日向山に参りなされた。これ行基菩薩(奈良時代の名僧)建立の薬師如来の霊場である。当国に於いて祈祷のききめがならぶものがないの間思いなされ立つようです。御騎馬、水干(詰め襟、脇あけの衣服)を着用なされました。
  先陣の随兵
    畠山の次郎重忠    土屋兵衛の尉義清     八田左衛門の尉知重
    曽我の太郎祐信    足立左衛門の尉遠元    比企の彌四郎時員
    渋谷の庄司重国    岡崎の先次郎政宣     三浦左衛門の尉義連
    梶原左衛門の尉景季  加々美の次郎長清     里見の冠者義成
    北條の五郎時連    小山左衛門の尉朝政
  御劔役
    結城の七郎朝光
  御調度懸け
    愛甲の三郎季隆
  御後(水干を着す)
    「武蔵の守(平賀)義信」     上野の介憲信       上総の介義兼
    伊豆の守義範     開瀬修理の亮義盛     因幡の前司廣元
    下河邊の庄司行平   下河邊の四郎政義     千葉の新介胤正
    千葉の六郎大夫胤頼  三浦の介義澄       三浦兵衛の尉義村
    稲毛の三郎重成    葛西兵衛の尉清重     八田右衛門の尉知家
    佐々木中務の丞経高  佐々木の三郎盛綱     加藤次景廉
    江兵衛の尉義範    和田左衛門の尉義盛    梶原平三景時
    北條の小四郎
  後陣の随兵
    武田の五郎信光    榛谷の四郎重朝      小山の五郎宗政
    江戸の太郎重長    長江の四郎明義      梶原三郎兵衛の尉景高
    相馬の次郎師常    野三刑部の丞成綱     新田の四郎忠常
    下河邊の六郎光脩   所の六郎朝光       境兵衛の尉常秀
    梶原刑部の丞朝景   佐々木の五郎義清
 因幡の前司(広元)が下毛利の庄に於いて弁当を献上しました。御礼佛の後、夜半に及びお帰りになりました。御通夜有るべきと雖も、放生会の忌たるに依ってその儀無し。この御参りの事は、内々姫君の御祈りと。

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2007年6月 9日 (土)

1194年 (建久5年) 2月2日「泰時元服す」

1194年 (建久5年 甲寅)

2月2日 甲午 快晴
「泰時元服す」
 夜に入り江間(義時)殿の嫡男(泰時)(童名金剛、年十三)が元服した。幕府(将軍の館)に於いてその儀式が有りました。西侍に敷物を三行に構えた。
  一方の着座
    「武蔵の守(大内)義信」          上総の介(足利)義兼
    伊豆の守(山名)義範          信濃の守遠義
    相模の守(大内)惟義          江間の小四郎(義時)殿
    大和の守重弘          八田右衛門の尉知家
    葛西兵衛の尉清重        加藤次景廉
    佐々木の三郎盛綱
  一方
    千葉の介常胤          畠山の次郎重忠
    千葉の新介胤正         三浦の介義澄
    梶原平三景時          土屋の三郎宗遠
    和田左衛門の尉義盛       籐九郎盛長
    三浦左衛門の尉義連       大須賀の四郎通信
    梶原刑部の丞朝景
  一方
    北條(時政)殿             結城の七郎朝光
    下河邊の庄司行平        小山左衛門の尉朝政
    宇都宮の彌次郎頼綱       岡崎の四郎義實
    宇佐美右衛門の尉祐茂      榛谷の四郎重朝
    比企右衛門の尉能員       足立左衛門の尉遠元
    江戸の太郎重長         比企の籐内朝宗
 時刻に、北條殿(時政)が童形(泰時)を相具して参上された。則ち将軍家(頼朝)お出なされ、御加冠の儀が有りました。「武州(武蔵の守大内義信)」・千葉の介(常胤)等が照明を取って左右に従いました。名字は太郎頼時と名乗りました。次いで御鎧以下を新冠に献上された。また御引出物を頂いた。御劔は里見の冠者義成これを伝えた。次いで三献(さんこん)・椀飯(わうばん)、その後盃酒数巡し、殆ど歌舞に及びました。次いで三浦の介義澄をそばに呼び、この冠者を以て聟と為すべきの旨命じなされました。孫娘の中、良き娘を撰び、仰せに随うべきの由これを申しました。
(解説)
三献(さんこん)・・・三つの杯で一杯ずつ飲ませ膳を下げ、これを三回くりかえす。
椀飯(わうばん)・・・食事の接待

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2007年6月 8日 (金)

7月2日「義信、十郎弟を召し進す」

7月2日 丙寅
「義信、十郎弟を召し進す」
 「武蔵の守(平賀)義信」、養子の僧(律師と号す)を召し進上しようとした。去る夜参着した。これ曽我の十郎祐成の弟である。日来越後の国久我窮(くがみ)山に在るの間、参上は今に延引したようだ。
「律師自殺す」
 而るに今日さらし首にされるべきの由を聞き、甘縄の辺に出で、念仏読誦の後自殺したようだ。景時この旨を申し上げた。将軍家太だ悔み歎きなされた。本より殺すべきの志に非ず。ただ兄に同意せしむか否か、お呼びし質問される為ばかりである。
(解説)
甘縄(あまなは)・・・甘縄神社の近く、安達藤九郎盛長の屋敷がある。
律師(りっし)・・・僧官の位で、僧正、僧都、律師となる。

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