2006年12月19日 (火)

参考文献

参考文献Kyoheinoti
 一.訓読玉葉   高橋貞一著   高科書店
 二.全訳吾妻鏡  永原慶二監修  新人物往来社
 三.吾妻鏡・玉葉データベース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 四.新訂吉記2  高橋秀樹    和泉書院
 五.愚管抄全註解 中島悦次     有精堂
 六.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 七.平家物語上下 山下宏明     明治書院
 八.延慶本平家物語6789       汲古書院
 九.圖書寮叢刊九条家本玉葉 宮内庁 明治書院

Cyoufukuji参考史料(事件と史料の記述のあらまし)

一. 義仲軍入京前

治承五年二月八日  「玉葉」「京中在家を計注せしむ」
治承五年二月二十日 「玉葉」「天下飢饉により富を割き貧に与うという」
治承五年閏二月一日 「玉葉」「官軍の兵粮米尽きる」
治承五年閏二月三日 「玉葉」「美濃の追討使粮料無く餓死に及ぶべし」
治承五年閏二月六日 「玉葉」「兵粮すでに尽き、運上物を点定(徴収)し兵粮米に」
治承五年三月六日  「玉葉」「官兵の兵粮尽きたり」
治承五年三月二十八日「玉葉」「官軍兵粮無し」
養和二年二月二十二日[吉記]「人人を食う事実無し」
養和二年三月十七日 [吉記]「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
養和二年三月十九日 [吉記]「道路に死骸充満」
寿永二年四月十三日 「玉葉」「武士等狼藉」
寿永二年四月十四日 「玉葉」「武士等狼藉」「平宗盛に訴えるも止まず」
寿永二年四月、   「平家物語」平家軍は進軍途中で片道分を路次追捕。
寿永二年七月二十一日「玉葉」「其の勢僅か千騎」有名無実の風聞かくのごとし。
寿永二年七月二十五日「玉葉」「宗盛以下安徳天皇を奉じ」「法皇御登山」平家軍退却。
「愚管抄」平家軍退却時「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」
寿永二年七月二十六日[吉記]「山僧等京に下る。路次の狼藉・・放火、追捕・物取。」
「愚管抄」法皇退避時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」
寿永二年七月二十七日「玉葉」「義仲、行家等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか」

二. 義仲軍入京後

寿永二年七月二十八日「玉葉」「義仲・行家入京す」「京中の狼藉の停止すべき」
寿永二年七月三十日 「吉記」「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ」
寿永二年七月三十日 「玉葉」「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
寿永二年八月六日  「玉葉」「京中の物取り追捕逐日倍増」
寿永二年八月十日  「玉葉」「源氏等の悪行止まらず」
寿永二年八月二十八日「玉葉」「武士十余人の頸を切る」
寿永二年九月三日  「玉葉」「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
寿永二年九月五日  「玉葉」「京中の万人存命不能」一切存命出来ない。
「愚管抄」義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」
寿永二年十月九日  「玉葉」「頼朝数万の勢を率い、入洛せば京中堪えるべからず」

三. 義仲軍敗北後

寿永三年一月二十七日「玉葉」「余の庵借り上げの指示」義経軍は兼実の庵を徴用。
寿永三年一月二十八日「玉葉」「隆職追捕さる」頼朝軍の乱暴狼藉の記述がある。
「元歴元年二月四日、「平家物語・延慶本」鎌倉軍追捕「梶原摂津の国勝尾寺焼き払う」
寿永三年二月二十三日「玉葉」「武士押妨停止」「公田庄園への兵粮米を徴集停止」
元暦二年一月六日  「吾妻鏡」「船無く粮絶え、」「乗馬を所望、馬は送らぬ」
元暦二年二月五日  「吾妻鏡」「散在の武士、事を兵粮に寄せ狼藉を致す」
元暦二年四月十五日 「吾妻鏡」「庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取り」
文治元年十一月二十八日「吾妻鏡」「兵粮米(段別五升)を課す」
文治二年三月二十一日「吾妻鏡」「諸国の兵粮米催しを停む」

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2006年12月18日 (月)

七.「食料の調達」

Photo七.「食料の調達」

七.一 寄付・・・反乱軍の食料の調達

 木曽義仲軍などは最初は朝廷から見れば反乱軍として出発する。食料の調達はどうするか。当時の土地の支配は国有地と荘園という貴族や神社仏寺の私有地があった。まず官庁や政府軍の食料を略奪するか、神社仏寺または地方の豪族に寄付を請うしかない。また配下となった武士豪族から食料は入手出来る。信濃、北陸地方は食料調達は容易であったようである。源平盛衰記でも、延暦寺と対峙したとき、百斉寺から米五百石の寄付を受けたと記述する。 
 まず出発するとき、何日分の米が持参出来るか。現在の軍隊のような食料補給部隊は無い。本人持参が原則である。不足したらどうするか。寄付に頼るか、追捕(略奪)しか無い。当時は大軍の遠征の兵糧米は数ヶ月分持参し、不足分は略奪方式が普通であり、不可能となつたら、やむをえず停戦し本国へ帰還した。
 兵士は一日米何合必要とするか。通常米一石が一人一年分と計算したようであるが、これは一日三合弱となり、宮沢賢治の詩にあるように一日四合の玄米を食すとすれば、一.五石必要である。若い兵士なら一日五合以上必要である。つまり十日で五升。三十日で一.五斗、二ヶ月で三斗必要である。昔は米俵を使用した。米俵一表には約四斗が入り、約六十キログラムとなり、通常の大人なら軽々と担いだようである。米俵一俵で一人約二ないし三ヶ月持つことになる。米以外の食糧その他も荷物となる。これを牛か馬で運ぶことになる。一人一頭は必要かもしれない。五万騎の軍勢ということは、全員が騎乗するかは不明だが五万人と五万頭の馬ということになる。実際に武器を手にして戦う戦闘員以外に馬の世話をしたり、食糧の調達をする非戦闘要員が必要である。さらに現在の工兵隊の働きをする人夫も必要である。
 義仲軍も四月に信濃や越後を出発してから当然最初の米は無くなっているから、どこかで寄付を受けたり、強制調達して進軍したと思われる。義仲直轄軍は入京前に百斉寺から寄付を受け、北陸からも少しは補給があったかもしれない。しかし各地から乱入して義仲軍に合流した数倍以上の軍勢の分には不足したはずである。京都に入る前、比叡山延暦寺で法皇、公家と会見した時、兵粮米の調達について追捕を認める旨の指示があつたと思われる。兼実は義仲軍は追捕をしていると非難しているが、法皇以下他の公家は何ら非難せず、やむなしと黙認している。多分慈円も。

七.二 追捕・・・官軍の食料の調達

 現代の軍隊の遠征軍は補給部隊が本国から武器・弾薬・食料を補給するのが原則である。アメリカ軍は補給を重視し戦闘員と非戦闘員(補給担当)の比率が五対五といわれている。日本の自衛隊は旧日本軍と同じく補給を重視せず九対一のようである。
 当時は遠征軍に補給部隊など無く、食料は本人持参が原則である。「寄付」も奨励したようである。天皇の命令書たる「宣旨」によると功ある者には賞を与えるとあり、官位や官職を与えようとした。平家の北国追討軍の遠征から、状況が変化した。不足したら現地調達(追捕、強制取立、略奪)が当たり前になっていた。補給部隊が注目されるようになったのは、後の戦国時代でも秀吉の小田原城攻めの頃である。小田原の北条氏は籠城策をとった。これは以前越後の上杉謙信軍に攻撃されたとき、城下付近の食糧を城内に集め、上杉軍が略奪出来ないようにしたので、上杉軍は持参の食糧が無くなると撤退した。同様に籠城戦が有利と判断したが、秀吉軍は船などにより食糧の補給を続け、結局小田原の籠城策は失敗し落城した。
 治承五年二月八日には京中の諸家を左右京職官人・官吏・検非違使等が計る。備蓄米とか家の広さを調べ、兵士の食料、宿舎に徴用したようである。さらに、頼朝が悪法と非難した院宣「諸国からの兵粮米の徴収」が発令される。
 兵粮米不足であるから征伐を休むよう議論もしている。しかし、無理矢理兵粮米をかき集め路次追捕をしながら追討軍は進軍した。兼実はこの追捕を認める会議に参加出来ず、その宣旨の記述が無いが、この追捕を取り消す宣旨が出ている事(寿永三年二月二十三日)から、追捕、路次追捕は当時としては、合法だったようである。追捕される側からすれば、酷い命令ではある。京都から撤退した平家軍は、相変わらず官軍と称し、同様の追捕による兵粮調達をした。新たに官軍となった義仲軍も鎌倉軍も同様である。兼実は平家軍・義仲軍が京内外で追捕を行ない、どのような結果になるか知ったようである。そらみろという口調で或人に云わせて記述している。責任は法皇にあるとも言っている。
 路次追捕(現地略奪)は平家軍が始めた。進軍途中で参加した将兵は平家軍が負けたので、義仲軍に投降し、従軍した。当然平家軍と同様な調達方法だった。さらに彼らは後に義仲軍が敗色濃厚となると頼朝軍に鞍替えした。当時の武士の一般的傾向である。家系の継続のため、どちらに付くのが有利か不明の場合は、親子、兄弟で敵味方に分かれた。当然、追捕を続けた。
 義仲直轄軍は略奪はしなかったかもしれない。しかし、元平家軍に従い、後に投降し義仲軍に参加した将兵は追捕(略奪方式)が当然と考えていた。これは頼朝軍も同様で、頼朝軍に参加した将兵は元は平家軍、義仲軍に参加したものも多く、やはり追捕(略奪方式)が当然と考えていた。頼朝が略奪方式を禁止する命令を出してもなかなか止まなかった。略奪(路次追捕)の実行者は平家軍に従軍し、義仲軍に投降し、頼朝軍に鞍替えした将兵である。おそらく他の将兵もそれを真似したようである。愚管抄(巻第五)より左大臣範季(のりすゑ)の「東国武士は夫(〈ふ〉)までも弓箭(ゆみや)にたづさいて候へば」から推定すると、平家軍、源氏軍ともに本来は非戦闘員たる人夫がいたことを示す。人夫は多分、武器・兵粮の輸送任務のために徴発された農民などである。その他工兵担当の木こり、大工職なども徴発されたと思われる。これらの人夫なども食糧の追捕(略奪)を担当したかもしれない。

七.三 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」

 頼朝は「一の谷合戦」以後、この「路次追捕」のような兵粮米調達と全国への「兵粮米」徴収の禁止の宣旨を出させ通達したが、そのため源氏の現地軍は兵粮の調達に苦労し、「一の谷合戦」以後平家追討は遅れた。まさに「腹が減ってはいくさは出来ぬ」のであり、度々の現地軍からの兵粮米不足の要請に頼朝が応じ、後方からの補給や義経の参戦もあり、ようやく平家追討が終わる。また平家滅亡後、義経以下が頼朝に無断で法皇より官位を受けたことを非難する文書にもかれら将兵が略奪などをしたとついでに非難している。しかし頼朝は約一年半後の文治元年十一月二十八日、新たに全国一律の五パーセントの兵粮米を割り当てた。旧日本軍が各地で略奪暴行した例が報告されるが、やはり食料の補給が不充分なため、現地軍としては現地調達と称して略奪せざるを得ない。
 「平家物語」にも各種あり、平家軍・木曽義仲軍の追捕乱暴は共通に記述されているが鎌倉軍の追捕乱暴の記述は「平家物語・延慶本」のみである。梶原景時の軍勢が勝尾寺を追捕し放火する場面である。当時鎌倉の悪口は書きにくいはずだが、延慶本が記述されたころは、梶原景時は追放された時期でもあり、「平家物語・延慶本」には義経軍は宇治川の合戦のとき、川端の家三百軒に放火して焼き払ったので、逃げ遅れて隠れていた女子供、老人、病人などが焼け死んだと記述されている。
 当時の遠征軍の武士の食糧調達はこの「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」による。頼朝が発令させた宣旨の文面から推理し判断すると、義仲軍は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり、義仲軍は「武士達の自由横領」つまり路次追捕の禁止のみはつとめたが、「公田庄園への兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり弱者であり貧者たる庶民に被害の及ぶ路次追捕(略奪)は禁止し、強者であり富者たる法皇、宮家、公家、寺社、諸国荘園等のみから兵粮米の徴収をしていたことになる。義仲は弱者・貧者の味方である。
 頼朝は「諸国の荘園等からの兵粮米徴収」は悪法なので禁止と言いながらも、後日、再びより強固な兵粮米の徴収を始めている。ここで注目すべきは、頼朝は路次追捕が悪いとは言っていない。法皇の院宣が無いのがいけない。路次追捕についても現場指揮官の判断でやるな、必要な場合は頼朝に申請し、頼朝が法皇に申請して院宣(法皇の命令書)を頂いてから実施せよと命令している。ここで奇妙な事を指摘すると、「玉葉」には「宗盛追討宣旨」「源義仲党類追討宣旨」「武士押妨停止の宣旨」「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」の記述があるが、「吾妻鏡」には「武士押妨停止の宣旨」のみ記述する。これは単なる記述漏れか、すでに平家や義仲の追討は既定方針なので記述しないのか。「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」は無視したのか。
 いずれにしても広く普及している語り物系の「平家物語」における義仲軍のみの庶民に対する乱暴狼藉は捏造である。「平家物語・延慶本」に記述する平家軍や鎌倉軍の路次追捕による乱暴狼藉を義仲軍のみに編集している。平家軍の乱暴狼藉の場面は短縮し、鎌倉軍の乱暴狼藉は削除している。さらに義仲軍入京前の京都市民や僧兵の略奪の場面は記述していない。

まとめ

 木曽義仲軍と同時に入京した源氏軍の乱暴狼藉は、当時の食糧調達のための追捕という朝廷公認の軍事行動の一部であり、民間人から見れば乱暴な行為であるが、当時の平家軍も鎌倉軍も同様な追捕をしていた。その他、警備の空白や混乱に乗じて僧兵、一般市民も略奪に参加していた。平家物語の語り物としては、琵琶法師は彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者や聴衆に不都合な部分は削除された。そのため敗者となった木曽義仲軍の乱暴のみが強調された。しかし、平家物語・延慶本や愚管抄には事実の記録が残っていた。「平家物語」に基づく木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。また「平家物語」では法住寺合戦の前に義仲軍が乱暴狼藉を働いたり治安が悪化したと記述するが、「玉葉」「愚管抄」にそのような記述は無い。

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2006年12月16日 (土)

六.四 「風聞・伝聞は事実か」

六.四 「風聞・伝聞は事実か」

 兼実は平家その他の武家に反感を抱いていた。当然である。兼実は天皇の後継問題に平家や義仲が口出しするのが不愉快だった。これは現代でも同じでガードマンに雇った男が家の跡継ぎに特定の者を推奨するなどの口出しをしたら不愉快である。
 情報を伝える側も義仲の悪評を大袈裟に伝える方が兼実が聞き入れる。良い評判を伝えてもいい顔をしない。それなら悪評のみ伝えよう。捏造しても話そうとなる。これは現代でもある話しで、イラクが核兵器を保有している確かな情報があるとのことで、イラクに進攻したが、実際には核兵器は無かった。
 このように情報は集める側が公平でないと偏った情報が集まり易い。なぜか頼朝の上洛を期待しているので、頼朝上洛すの風聞、伝聞、或人云うは多い。実際の上洛まで何回あるか。数えてみると、8回以上。10回。やはり伝聞、風聞の10分の9は誤りか。
 兼実は当時右大臣であり、後には太政大臣も務めた人物である。その人の日記だから間違いは無いと誤解している小説家・歴史解説者は多い。「玉葉」を頭から信じて、記述は真実と思い込んでいる人が多い。朝廷の行事、儀式の記述は間違い無いと思うが、「玉葉」の風聞・伝聞・或人云うは疑問視すべきである。火の無い所に煙りは立たぬという言葉もあるが、風聞・伝聞は最初の事実の見聞からいかに変遷するか、簡単な「伝言」ゲームや「伝言」実験でも良く知られている事である。兼実の日記のみで決めつける事は出来ない。兼実がそのような風聞を聞いたのは事実かもしれない。しかしその風聞の元の事実があったかどうかは定かでは無い。「玉葉に見られる表現の大袈裟なことは大変なものである」と堀田善衛氏は「定家明月記抄」で述べている。

六.五 義経が検非違使でも放火強盗事件が多発

 翌年、範頼軍が中国地方で苦戦し、義経が検非違使(警察官兼裁判官)として京都にいるころ、放火強盗事件が多発する。「玉葉」元歴元年十二月七日
「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」。とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、ほぼ全員が武器を持ち、いつ強盗に変身しても不思議ではない。
 兼実は取り締まりを申し込むがその時の上申書は義仲軍が乱暴狼藉したと勘違いした記述と類似している。贔屓の頼朝の関係者への上申書であるから、かなり穏やかに書いてあるが、京都内外の治安が悪いと嘆いている。中身は義仲在京中の八月から九月に記述したものと酷似している。義仲には反感を抱いているからかなり厳しい表現である。比較的治安が良いと思われていた義経在京中も、義仲在京中もあまり違いが無いのか。義仲の在京中に治安が悪いと嘆いたのもこの程度か。しかし、義経軍も平家追討の準備に忙しく、翌月には群盗事件が発生した。一一八五年 (元暦二年)一月九日[玉葉]「光輔宅に群盗乱入す」。

六.六 「方丈記の記述」

 「方丈記」はこの時代に京都市内で生きた「鴨長明(一一五一年生、一二二一年没)」が晩年に記述したものである。安元の大火(一一七七年)、治承の旋風(一一八〇年)、養和の飢饉(一一八一年)、元歴の大地震(一一八五年)の惨状を克明に記述している。その彼が平家軍や義仲軍の行動の記述が無い。慈円と同じく後年に冷静に検討すれば、前述のような災害に比べ、記述するほどの事件でもなかった。

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2006年12月15日 (金)

六.「風聞と実態の違い」

六.「風聞と実態の違い」

六.一 兼実は病弱で神経過敏で大袈裟

 「玉葉」の著者の兼実は右大臣ではあるが法皇や平家の権力中枢から遠ざけられている。いつか返り咲きを期待し、宮中や市内外から各種情報を集め記録している。親類縁者をはじめ、平家関係者からも情報を集める。但し病弱のせいか伝聞・風聞・或人云うが多い。伝聞・風聞であるから、真偽明らかではない事も、後日に真偽の確認のため記録するとしている(治承五年三月十七日参照)。風聞は大袈裟だから注意すべしと云いながら、風聞等を実によく記録している。風聞を後日訂正している場合もあるが、修正してない場合も多い。特に義仲軍、頼朝軍の入京の風聞は何回も出て来るが殆ど修正していない。記述した事が真実とは限らない。
 その風聞の程度は約十分の一に割り引いて受け取る必要がある。その理由は本人も自覚しているように「有名無実の風聞かくの如し」と軍勢の数の風聞と実数の違いである(寿永二年七月二十一日参照)。かなり神経過敏で、地震、雷鳴、大雨、大風などの天変地異にも驚き、官軍(平家軍)が大敗したとか、南都(奈良)の七大寺が焼き討ちされた、熊野の那智が荒れた、自分の意見が採用されない、除目(人事異動)が気に入らないときなど、得意の「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」(みぞう)、「不能左右」(左右する能わず)、「可弾指」(弾指すべし)を連発し大袈裟である。又記録漏れもある

六.二 「有名無実の風聞かくの如し」「其の勢僅か千騎」

「玉葉」の寿永二年七月二十一日に、「追討使兼実家の傍を経て発向す」、「其の勢僅か千騎」「午の刻(十二時)追討使が発向する。その勢千八十騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所七、八千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし」と記述し、平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら千八十騎だった。これを普通世間では七・八千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。
 もっとも当時の遠征軍の編成方式は天皇の命令書である「宣旨」を旗印として、大将軍とその中心部隊が京都を出発し、進軍途中で、あちこちの将兵などが参加する「駆り武者方式」だったので、京都を出発したときの人数の数倍以上になるようである。初期の平家軍が順調な時期は十倍くらいになったかもしれない。「吉記」の同日の記事では三千騎と記録する。平家物語中の合戦の人数と玉葉の記事を比較するとほぼ十分の一となっている事が多い。平家物語で軍勢五万とある場合、実数は五千と見るのが良いようである。ただし、騎馬武者一騎とは、予備の馬一・二頭、従者一・二人が付くのが普通である。

六.三 情報提供者の信頼度

 「玉葉」では「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。(「風聞」約百七十回、「伝聞」約三百八十回、「或人云う」約二百三十回、「人伝」約百回・・・約四十年間の回数)この「或人」は誰なのか、信用に足るのか。後日検証すると誤りも多い。義仲軍等乱暴の記述についても「或人云う」であり、兼実は病弱のため自分の眼では見ていない。多分、下級の役人か京都の庶民の何人かが市内外の情報を集め報告していたようである。自分の仲間の不正は報告するはずがなく、信憑性に欠ける。風聞・伝聞・その他を報告する者も大袈裟にしないと意味が無い。「昨今売買の便を失う」と言わせているから商売人か。確実な情報は必ず情報提供者の名前を書いている。前述の如く兼実自身も「有名無実の風聞かくの如し」と「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべしと。事件の数は十分の一に、被害の程度はやはり十分の一に割り引いて処理すべきである。兼実は平家など武家には反感を持っているが、何故か頼朝には期待している。兼実が義仲に反感を持っているとわかれば、義仲軍の悪評が集まる。一寸した事件も過大に報告され、記録される。その悪評記事も九月五日を最後に止まる。

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2006年12月14日 (木)

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.一 追捕(ついほ、ついぶく)

 当時の乱暴狼藉とは「追捕」による食料・兵糧米の調達のときのいざこざである。平家軍に始まった路次追捕の朝廷の許可について玉葉に記述は無いが、法皇以下の朝廷の暗黙の了承は出ていたと思われる。その理由は「一ノ谷合戦」後に頼朝の申請により、この路次追捕を取り消す宣旨(せんじ)が寿永三年二月に記述されている。つまり平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに路次追捕(による乱暴)をしていたことになる。
 この追捕(ついふく)が官軍となった義仲軍にも引き継がれた。平家軍に参加し、徴兵徴発された将兵の大部分は義仲軍に投降したり、はやばやと逃げ帰った京都近辺の将兵なども義仲軍と同時に源氏軍として入京した。また大部分は後に義仲軍不利となると頼朝軍に鞍替えした。当時の不安定な政治情勢ではそれぞれが家系の存続のため右往左往していた。それらの将兵の食糧の調達は平家軍と同様に官軍としての追捕(つまり略奪)によるものであった。義仲軍は源平盛衰記によれば、百斉寺から米五百石の寄付を受けたようである。しかし全軍に支給するには不足している。木曽軍五万騎、五万人とすると一人当たり一升つまり二日分しかない。仮に実数五千人としても一ヶ月分もない。義仲軍は入京後は法皇から兵粮米の支給を期待していたようだ。法皇側も議論はしたが、実際の支給は無かったようである。とすると京都周辺で追捕による食料調達をしたと思われる。この時期の武士達の食糧調達は「本人持参」や「寄付」以外には、この「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」などの追捕による。頼朝が後に発令させた宣旨から判断すると、義仲は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米」は継続したようである。荘園を保有している法皇・宮家・公家・神社・仏寺からは追捕徴集したかもしれない。入京時の旧暦七月二十八日(新歴八月二十四日)は米の収穫前で特に食料が不足していた。その後新米の収穫が始まり兼実の風聞でも一ヶ月ほど(旧暦九月五日、新暦十月一日)で追捕は終了したようだ。食料の確保が出来れば治安の回復は容易である。その後上京した義経軍は京都市内では遠慮したが、平家側とみなした公家や京都以外では追捕・乱暴した。二月二十三日「玉葉」に「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」を取り消す宣旨(せんじ)が記述される。ただし、「武士押妨停止の宣旨」については、院宣(法皇の命令書)があれば許可された。頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。「吾妻鏡」元暦二年二月五日、四月十五日に追捕・狼藉を非難する記述がある。

五.二 「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である
        では真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である

 「愚管抄」によれば、義仲軍等の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。何も無く無風であったわけではない。大混乱の中へ進駐したのである。当時、京都市内の民家は公卿の家も含め、官軍平氏の兵舎として徴用されていた。なお兼実は右大臣であるから、平家や義仲は遠慮したが、義経軍は兼実の庵を徴用したようである。
 頼朝、義仲の反乱を始め各地で反乱が起き、平家は追討軍を発するが、その軍の集結地として、京都市内の徴用された民家などが使用された。出発する前の平家軍による追捕などの混乱があった。さらに僧兵、市民による略奪の混乱中であった。それを義仲軍は一応制圧したようである。しかし、六波羅の放火略奪、市内の市民等の略奪、落武者狩の惨状に比べれば、平家軍、義仲軍の追捕によるごたごたなどは慈円から見れば問題ではないようだ。
 とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、市内は強盗、群盗、放火など平家軍、源氏軍、僧兵、公卿の従者、庶民の乱暴が横行した時代である。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者、鎌倉の頼朝や京都の朝廷に逆らう事は困難である。それらをまとめて義仲軍のせいにしたようである。「平家物語」の「創作・誇張」である。「玉葉」による風聞の「大袈裟」な表現によるものである。「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。

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2006年12月13日 (水)

四.「愚管抄」に見る乱暴狼藉の記述

四.「愚管抄」に見る乱暴狼藉の記述(愚管抄巻第五より)

四.一 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

 慈円の著書「愚管抄」には、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍入京前、平家軍が六波羅の屋敷などに火を付けて京都からの退却の時、「京中の物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」と記述し、火事場泥棒が発生したようだ。法皇・貴族が比叡山に退避し、京都の権力・警備が空白になった時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」と記述する。平家物語、玉葉、吉記にも平家軍が京都を撤退するとき、六波羅の屋敷を焼き払った記述はある。しかし「ものとりが争い入る」とか「たがいについぶくした」などの混乱の記述は見あたらない。「京中はたがいについぶく」この場合のたがいは誰と誰の組み合わせか、単純には市民同士だが、落ち行く平家軍に市民が襲いかかり略奪した、平家軍が民家などから略奪しながら退却したというように、平家軍と市民ではないだろうか。いわゆる「落武者狩」と追捕か。いずれにしても美しい話しではない。最近ではイラクの首都に米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪い時など、一般市民が略奪に走るのを見ると、人間の心理行動は万国共通のようである。
 さらに、慈円の「愚管抄」では「法住寺合戦」も詳細に記述している。「愚管抄」では政変とか合戦の記述がメインであり、天変地異や、火事、放火、強盗、群盗のような事件の記述は非常に少ない。その慈円が義仲入京前の京都市内の混乱「ものとりの略奪」や市民の「たがいについぶく」を記述しているのは、よほど印象に残っているのだろう。このような人物が、「玉葉」に記述するような「義仲軍等の乱暴狼藉」を見逃すだろうか。兼実は弟の慈円の面倒をよくみており、当時慈円は法性寺座主であり、七月二十五日には行動を共にしている(玉葉の寿永二年七月二十五日参照)。多分、九条兼実の風聞では混乱が約一カ月続いたようである。しかし、慈円から見れば、義仲入京前の平家その他僧兵や一般市民の略奪の混乱、法住寺合戦に比べれば、記述するほどの事件でも無く、武士団の追捕は従前の平家軍と同様の食料調達のための当然の軍事活動とみなしたようである。

四.二 「火事場泥棒」と「落武者狩」か

 「平家物語」は琵琶法師による一般市民などへの語り物として広まった。そこで慈円の記述するような平家が都落ちするとき、京中の物とりが集まって物とりした(火事場泥棒)とか、京中の一般市民が互いについぶく(略奪)をした、平家軍から略奪した(落武者狩)などの混乱の真実を語れるはずが無い。物語の原作者は真実を忠実に記述したかもしれないが、次第に琵琶法師や編集者が、聴衆の反発を受けないように、さらに権力者たる朝廷や頼朝から迫害を受けないように変形編集した。平家物語の作者は僧も加わっているからやはり仲間の悪口は書けない。死人に口無し。義仲のせいにしておこう。とんだ濡れ衣を着せられたものである。庶民に媚び、権威に逆らえず、真実を語れない「平家物語」の限界である。いつの時代でも同じだが、事実のそのままの記述では反発を受ける、売れない、没収されたり、処罰されるかもしれない。しかし後日記録された「愚管抄」や「延慶本」には記述された。

四.三 兼実・慈円は頼朝贔屓

 慈円は「愚管抄」を記述するにあたり、史料を集め、「平家物語」を耳にし、兄の日記「玉葉」も眼にしたはずである。しかし、真実を記録しておこうと記述したに違いない。養和の大飢饉のとき、鴨長明の方丈記によれば餓死者が四万人も出たほどの大都市に五万の軍勢が入れば、かなりのひしめきあいでかなりの摩擦ごたごたは有るだろう。義仲軍入京前の混乱に比べれば、それほどの混乱では無いようだ。
 平家物語、源平盛衰記、玉葉には義仲軍等の乱暴について非常に詳しく記述するが、義仲入京直前に「ものとりが集まる」とか「たがいについぶく」などの記述は無い。「火事場泥棒」とか「落ち武者狩り」「たがいに略奪」など聴衆は聞きたくないだろう。
 入京後「愚管抄」では「かくてひしめきてありける程に」のみである。入京前の「ものとりが略奪」とか「たがいについぶく」などの混乱ぶりに比べれば随分あっさりしている。義仲軍のついぶく、ものとりの記述はない。更に、平家軍、鎌倉軍も追捕による略奪や放火をしたはずだが、その記述が無い。各軍の追捕があえて記述するほどの事でもないのか。軍事行動の一部としての追捕なら、民間人から見ればひどい話しだが、戦とはそのようなものである。平時において民間人の殺人や放火は重大な犯罪だが、戦時において焼き討ち(放火)や征伐(殺人)は当たり前で、将兵や軍人の大量殺人者は英雄になる。
 慈円は義仲贔屓では無い、どちらかといえば頼朝贔屓である。後に頼朝贔屓の兄兼実の推薦により、天台(比叡山延暦寺)座主にも就任した。

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2006年12月12日 (火)

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

 殆どの平家物語には義仲軍入京後「およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。」とあり、後世の小説家や歴史解説者の多くがここだけ取り上げて、いかにも義仲軍のみが乱暴狼藉したように説明している。しかし、義仲軍入京の前に義仲軍追討のため派遣した平家軍が北陸への北国下向の場面において「かた道を給はッてげれば、道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」と記述している。延慶本には、さらに「人民を費やし国土を損ずる事なし。」と詳細に記述する。兵粮米不足であるが、反乱軍の鎮圧はしなければならない。やむをえない選択である。正式な天皇の命令、宣旨が出たか、暗黙の了解かは不明である。当初院宣は出なかったようであるが、後に頼朝は院宣を受けるように変更した。食糧だけでなく、色々な資材や、人夫としても徴発したようである。多分、食糧や資材の調達や輸送その他の雑用に使用された。つまり、保元・平治の乱以後、約二十年間権勢を誇った清盛平家軍も頼朝や義仲などの各地で起こる反乱軍の鎮圧に官軍として追討軍を派遣している内に飢饉も重なり兵粮米が不足し、とうとう寿永二年四月の義仲追討軍の場合は進軍途中で片道分を路次追捕(ろじついふく)という名目の現地調達・強制取り立てを認めさせた。進軍途中の官庁、神社仏寺、民家から強制取り立てをした。追捕の名目とはいえ実態は略奪に等しいと見られ、普通の民間人の略奪をも追捕(ついほ、ついぶく)というようになった。(注:追捕の本来の意味は罪人などを追跡し逮捕し、資財を没収すること)そして、高野本などでは鎌倉軍の乱暴狼藉の記述が無い。しかし「平家物語・延慶本」や兼実の日記「玉葉」には平家軍、義仲軍、鎌倉頼朝軍ともに追捕による乱暴狼藉の記述がある。また兼実の「玉葉」、経房の「吉記」などの貴族の日記、慈円の「愚管抄」によれば、京都市内の混乱は平家軍退却前後から、つまり義仲軍入京前から始まっており、その混乱の鎮圧を義仲軍に期待したのである。
 「平家物語」延慶本には、平家軍、義仲軍、鎌倉軍の追捕の記述があるが、義仲軍入京直前の僧兵や市民の略奪による混乱の記述は無い。平家軍の追捕乱暴は、同様な状態が義仲軍・頼朝軍にも繰り広げられたと想像するのが普通である。実際の現場で追捕の活動を行うのは「かり武者方式」により各地からかり集められた下級の武士や農民などである。平家軍が始めた追捕の方式がそのまま義仲軍・頼朝軍にも引き継がれた。義仲軍も京都に入る前までは寄付に頼っていたようであるが、入京後は寄付のみでは食糧が不足するので追捕やむなしとして、追捕禁止の命令は直ぐには出せなかったようである。
 鎌倉軍の追捕乱暴は「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に「元歴元年二月四日、梶原一ノ谷へ向かいけるに、民ども勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵襲いせめしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣(さんえ、僧の着る三種の衣)一鉢(鉄鉢)を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ちにければ、」とあり、義経の目付役として有名な梶原景時が食料調達のための追捕の軍勢の指揮官として登場している。一の谷の合戦場へ向かう途中である。食糧や衣類を追捕(略奪)している。勝尾寺は焼失したが、戦後、頼朝は再建し、梶原景時が尽力したと記録されている。このように鎌倉軍は京都市外では追捕を行ったが、京都市内では追捕を遠慮した。なお鎌倉軍の乱暴狼藉を記述した延慶本は一三〇九年頃(延慶二年)作成されたようである。

三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述

 平家軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年四月十三日に「武士等狼藉」と十四日に「武士等狼藉」「平宗盛に訴えるも止まず」の記述がある。義仲軍追討のため北陸方面に向かう平家軍は先ず京都近辺で「追捕」を始めた。この後、平家物語の「北国下向」の追捕、乱暴狼藉の状況が続くことになる。著者の兼実は右大臣であるが、当時は政権中枢から外れており、病弱であったので、「追捕」について法皇以下の暗黙の了解がなされたことを知らなかったようである。また「他所の事に於いては知るべからず、近辺の濫吹太だ畏怖有り」とあり、兼実には京都近辺の情報しか届いていない。
 義仲軍の入京前、[吉記]七月二十六日に「山僧等京に下る。」となっており、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり物取追捕したようである。「玉葉」七月二十七日に「今においては、義仲、行家等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。
 義仲入京後も混乱は続いたようである。「吉記」七月三十日に「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。」と記述されている。これらの乱暴が義仲軍とは限らない。義仲追討の平家軍に参加し、逃げ帰り今度は源氏軍として義仲軍に合流した将兵が平家軍と同様の追捕を行った。どさくさに紛れ込んだ強盗、夜盗、平家の残党かもしれない。なにしろ現代のように警察官や軍隊のような制服を着ているわけではない。田舎を出たときの粗末な服装か途中で平家の落ち武者から略奪した服装かもしれない。義仲軍か平家軍か野盗か判別も出来ないだろう。
 義仲軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年八月六日、九月三日、九月五日に記述がある。田は全て刈り取られた。運上物は全て奪い取られた。一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれかえりそうであるが、そのような報告、伝聞、風聞は無い。追捕に逆らった民間人が殺されたという風聞すら無い。八月二十八日に「武士十余人の首を切る」と取り締まりの伝聞がある。なお九月六日以後は乱暴狼藉の記述が無い。善意に解釈すると、ほぼ一か月で混乱を制圧したようである。頼朝軍の乱暴狼藉は寿永三年一月二十八日に「隆職追捕さる」の記述があり、頼朝軍は京都市内および近辺では追捕を遠慮したが、平家関係者や京都以外の遠方では追捕をした。

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2006年12月11日 (月)

一.二 義仲軍入京直前

一.二 義仲軍入京直前

 寿永二年七月二十五日に平家軍は六波羅の屋敷などに火を付け、京都から退却した。この時法皇は比叡山に退避した。「愚管抄」には平家軍の京都からの退却の時、「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」の記述がある。火事場泥棒が発生したようだ。七月二十六日[吉記]に「山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将の縁辺と称し放火し、或いは追捕・物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。」と記述し、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり追捕、略奪が横行した。平家関係者の屋敷は特に狙われた。
 「愚管抄」には、法皇・貴族が比叡山に退避した時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」の記述があり、平家軍が退却し、京都市内の警備が空白になったので、市内は一般市民や僧兵などが互いに略奪する大混乱になった。寿永二年七月二十七日「玉葉」に「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」「今においては、義仲、行家等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。

一.三 義仲軍入京後

 寿永二年七月二十八日「玉葉」に「今日義仲・行家等、南北より入京すと。京中の狼藉の停止すべき由」。[吉記]に「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」とあり、義仲軍が入京し、京中の狼藉の停止を命令された。七月三十日「吉記」に「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。」と、源氏軍その他が追捕・物取したようだ。義仲に京中守護を命じた。さらに、七月三十日「玉葉」に「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」と、法皇からは軍勢が多過ぎるから減らせ、京都市内の治安を回復せよ、平氏の追討もせよ、食糧の支給はしないと無理難題が要求された。八月六日「玉葉」に「京中の物取り追捕逐日倍増」、八月十日「玉葉」に「源氏等の悪行止まらず」と乱暴狼藉が継続の記述がある。
 八月二十八日「玉葉」に「武士十余人の首を切る」と取り締まりの伝聞がある。九月三日「玉葉」に「四方の通路皆塞がる」「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」と、全て刈り取られた。全て奪い取られたと記述がある。九月五日「玉葉」に「京中の万人存命不能」と、一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。十月九日「玉葉」に「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」と、頼朝に上京を促がしたが鎌倉軍も兵粮米の調達のために追捕をすると京都市内は堪えられない、その他の理由もあり断った。しかし、「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。義仲軍等の「ものとり」「ついぶく」の記述は無い。

一.四 義仲軍敗北後

 寿永三年一月二十日義仲軍は義経軍に敗北した。一月二十七日「玉葉」に「余の庵借り上げの指示」とあり、義経軍は兼実の庵(別宅)を徴用したようである。さらに、一月二十八日「玉葉」に「隆職追捕さる」と、義経軍の武士が兼実の部下の隆職を平家関係者と誤認して追捕し乱暴した。二月四日、「平家物語・延慶本」の「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に鎌倉梶原軍の追捕乱暴の記述がある。二月二十三日「玉葉」に「宗盛追討宣旨」「源義仲党類追討宣旨」「武士押妨停止の宣旨」「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」として、平家軍、義仲軍の残党の追討に続き「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」を取り消す宣旨(せんじ)が記述される。ただし、「武士押妨停止の宣旨」については、「但し由緒有るに於いては、彼の頼朝子細を相訪らひ、官に言上し」とあり、院宣(法皇の命令書)があれば許可された。また「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」についても、「況や源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。」となっているので、義仲は路次追捕は取り締まったようだが、公田庄園への兵粮米の徴集は続けたようである。元暦二年一月六日「吾妻鏡」に「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」「乗馬を所望、馬は送らぬ」と記述されるように、頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。元暦二年二月五日「吾妻鏡」「散在の武士、事を兵粮(ひょうろう)に寄せ狼藉を致す」。四月十五日「吾妻鏡」に「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」と、平家滅亡後、義経以下の武士の自由任官を非難する頼朝の有名な文書にも「庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り」と追捕を非難する記述がある。さらに「渋谷馬の允(じょう)、父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、」と、平家、義仲、義経と次々と主君を変更する渋谷馬の允の例がある。しかし、文治元年十一月二十八日「吾妻鏡」に「兵粮米(段別五升)を課す」と、再び全国一律の兵粮米(段別五升)の徴収を始める。そして兵粮米の徴収を停止するのはさらに後である。文治二年三月二十一日「吾妻鏡」に「諸国の兵粮米催しを停む」とある。

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2006年12月10日 (日)

「木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相」

「木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相」

目次

あらすじ
一.当時の食糧事情と事件の概要
二.「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述
三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述
四.「愚管抄」に見る乱暴狼藉の記述
五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣
六.風聞と実態の違い
七.「食料の調達」
まとめ
参考文献
参考史料(事件と史料の記述のあらまし)

(この論文は木曽義仲史学会誌第8号に掲載されました)

本論文のあらすじ

 「平家物語」には、木曽義仲軍の京都での乱暴狼藉の記述がある。後世の歴史解説者や小説家がこの一部の記述のみを取り上げて、さも義仲軍のみが乱暴狼藉を働いたように大袈裟に記述している。しかしどの平家物語にも、まず平家軍の乱暴狼藉の記述があり、そして平家物語・延慶本には鎌倉軍の乱暴狼藉の記述もある。さらに公家の日記「玉葉」「吉記」などには平家軍、義仲軍、鎌倉軍、僧兵、一般市民などの乱暴狼藉の記述がある。
 その平家軍などの乱暴狼藉とは近代の軍隊が都市部などへ進攻したとき、規律を乱した一部の兵士による略奪や婦女子への乱暴とは明らかに異なる。当時のそれは食糧の調達のための軍としての組織的な「追捕(ついほ、ついぶく)」である。追捕とは従来の年貢以上に兵粮米(軍用米)の取り立てと称する現地調達である。しかし実態は略奪に等しく、民間人の略奪をもついぶくと言うようになった。これが当時の庶民や貴族から乱暴な行為と見なされ記録された。当時は飢饉も重なり、武士団の遠征軍には追捕が許可されていた。つまり当時の軍隊(武士団)としては兵粮の調達、追捕は朝廷公認の軍事活動の一つである。軍隊(武士団)とは平時の民間人から見れば、異常な行動が正当化されるものである。例えば敵を討つということは殺人であるが、平時に民間人が殺人をすれば殺人罪で罰せられる。また戦闘行動のときの放火や破壊は正当な軍事活動だが、平時に民間人が実行すれば放火罪、器物損壊罪となる。平家物語の原作者は事実を正確に記述したかもしれない。しかし琵琶法師の伝承の過程で聴衆や権力者に不都合な部分は削除された。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。その後再度文章化されたとき、敗者となった義仲軍の乱暴狼藉の場面のみが残った。平家物語に基づく木曽義仲軍のみの乱暴狼藉は捏造であり、真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である。本論文の論点は次の五つである。
 一、平家軍、鎌倉軍の乱暴狼藉の記述はあるのか。
 二、一般市民、僧兵の略奪の記述はあるのか。
 三、追捕は朝廷公認であるのか。
 四、各史料の記述の信憑性。
 五、平家物語の成立過程。
それぞれについて検討し、何故平家物語は捏造されたか、また特に玉葉の記述の信憑性について考察する。

一.当時の食糧事情と事件の概要

一.一 義仲軍入京前

 当時、京都付近及び以西の西国は大飢饉であった。官軍たる平家軍も兵粮米の調達に苦心し全国の荘園からも、かき集めた。治承五年二月八日「玉葉」に「京中在家を計注せしむ」とあり、京都市内の民家は公卿の家も含め、点検され、食糧の徴収、官軍平氏の兵舎として徴用された。二月二十日「玉葉」に「天下飢饉により富を割き貧に与うという」とあり、京中市内から徴集した食糧などは軍用米(兵粮米)としてのみでなく、飢饉の為、貧者に分け与えるものでもあると説明された。治承五年閏二月六日「玉葉」に「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」「反逆を宥行(ゆうこう)せられるべきか、なお追討せられるべきか」と、清盛の死後、宗盛は政権を法皇に返還したが反乱の征伐は困難である。「兵粮すでに尽き、征伐の力無し、清盛の沙汰の如く西海・北陸道の運上物を点定(徴収)し、兵粮米にあてるべきかと」と兵粮米が不足なので、荘園からの運上物を徴収すべきと提案し、了承を求めている。さらに各地で発生する反乱に対し、官軍として派遣する毎に兵粮米が不足し、治承五年三月六日「玉葉」に「官兵の兵粮尽きたり」と官兵(平家軍)の兵粮が尽きた、三月二十八日「玉葉」に「官軍兵粮無し」の記述が見られる。養和二年二月二十二日[吉記]に「人人を食う事実無し」と人が人を食うの珍事の記述がある。勿論たんなる風説(デマ)である。記述は誤りと後日訂正した。また養和二年三月十七日[吉記]に「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」と、諸国の庄園に兵粮米徴収の院宣(法皇の命令)を下した。三月十九日[吉記]に「道路に死骸充満」の記述がある。
 しかし未だ不足し、とうとう寿永二年四月の義仲追討軍の場合は「平家物語・北国下向」に「かた道を給はッてげれば、道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」と表現されるように、兵粮米の片道分は進軍途中で現地調達(強制取り立て・略奪)を認められた。これを「路次追捕(ろじついぶく)」という。現地調達との名目とはいえ実態は略奪に等しく進軍途中の官庁・神社仏寺・民家は大迷惑である。抵抗すると殺されたり焼き討ちされた。平家軍は京都を出発する時は京都市内外でも追捕をした。寿永二年四月十三日「玉葉」に「武士等狼藉」「武者の郎従等、近畠を刈り取るの間狼藉と」、さらに四月十四日「玉葉」に「武士等狼藉」「武士等狼藉昨の如しと、凡そ近日の天下この事に依りて上下騒動す、人馬雑物、眼路に懸かるにより横に奪ひ取る」、「平宗盛に訴えるも止まず」と、平家軍の追捕による乱暴狼藉があり、平宗盛に連絡しても止められないとの記述がある。

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