2007年5月 8日 (火)

「猫おろし事件の真相」11.まとめ

「猫おろし事件の真相」

11.まとめ

 いずれにしても、この「猫おろし」の話しは捏造つまり創作に違いないが、当時勢力を拡張し、貴族や寺社の権益を浸食する鎌倉の関東武士の横暴への反感が含まれている事は間違いない。あからさまに権力者たる頼朝などの関東武士を非難したり、からかう事は出来ない。運悪く滅ぼされた義仲がその代替えになった。つまり義仲や義仲の家臣を関東または越後の武士の誰かとその家来に置き換えても通用する話しである。案外、清盛の父の忠盛などの伊勢平氏の武士の初期の話しかもしれない。
 とにかく京都市内の中央貴族から見れば、京都郊外は勿論、近県でさえも田舎である。作者は義仲または関東武士を非難する気持ちで、貴族をからかう無礼な者として記述したようだが、読者や聴衆の中には義仲は貴族をからかう痛快で面白い奴と好意的に誤解している者もいるようだ。
 なお、義経も頼朝に滅ぼされたが、義経は当時の戦闘方法としては不当とされる「一騎打ちを避ける」「奇襲」「夜襲」「非戦闘員の殺傷」などを多用している事がさりげなく記述されている。後代の戦争では「集団戦」「奇襲」「夜襲」「非戦闘員の殺傷」は当たり前となってしまった。

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2007年5月 7日 (月)

「猫おろし事件の真相」10.九条兼実の容貌観察

「猫おろし事件の真相」

10.九条兼実の容貌観察

 「源平盛衰記」によると「木曾冠者義仲は、貌形(みめかたち)は清気(きよげ)にて美男なり」とか、「平家物語延慶本」では「木曽義仲は、みめ形きよげにて、よき男」とあり容貌は良いようである。義経の容貌は「九郎は色白、背小さきが、むかば【向歯】」とうわさされているが、山本義経という武将と勘違いしたとか、わざと誤報を流したという説もある。兼実は義仲や義経には会っていないようだ。頼朝に会う前のうわさでは、「頼朝の為体(ていたらく)、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決」(壽永二年十月九日)と聞いていた。頼朝とは数回対談した(建久元年十一月九日、建久六年三月三十日、同年五月二十二日)。しかし容貌については記述がない。容貌に無関心なのではない。平惟盛(清盛の孫)については「衆人中、容顔第一」(承安五年五月二十七日)、定能の息子については「生年十五才、容貌美麗」(壽永二年四月二十九日)、実定の息子については「生年十一才、容顔美麗」(元歴二年五月三日)、と観察し記述している。

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2007年5月 6日 (日)

9.九条兼実の義仲観の変遷

9.九条兼実の義仲観の変遷

 当時の右大臣の九条兼実の日記「玉葉」に木曽義仲は寿永二年五月に倶利伽藍峠の合戦が京で報じられた時から記述された。以後約八ケ月間、兼実は義仲の感想を記述している。
 七月末に平家軍が屋敷に放火し京都から退却し、京都市内が僧兵や一般市民の放火略奪の混乱状態になった時は、義仲軍に鎮圧を期待した。
 八月に義仲が皇位継承問題で北陸宮を推した際には義仲の主張を認め法皇を非難した。しかし、「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」と王者(法皇)の指図すべきことなので、臣下の最もすべきものではありません。と義仲も非難している。
 九月には義仲の京中での乱暴行為を嘆いている。
 十一月に後白河法皇が義仲を挑発して法住寺殿への攻撃を起こさせた場合には「王者の行いにあらず」と、法皇を非難し義仲を擁護した。「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」。「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」。私(兼実)は密かに願かけしていた。今度義仲が善政を行うなら私も一役買うと。この事極めて不吉であった。よって今度義仲の仲間に入らず、義仲に従う必要が無いことを神様仏様に感謝した。というように法住寺合戦の後、義仲は法皇の不徳を誡める使いとか義仲が善政をしようとすれば、助力しようと思ったがすぐ撤回した。次兄の基房がしゃしゃり出てきたからである。何等かの策略に気づいたようである。
 これは当時の兼実は右大臣ではあるが、法皇やその近臣と意見が合わず権力中枢から遠ざけられていた。敵の敵は味方とみなす心理が若干働いたようである。
 元歴元年の義仲敗死直後には「天の逆賊」が罰せられるのはもっともなことだ。「義仲の天下が六十日」も続いたのは永過ぎたと記述している。
 義経については、「武勇と仁義は後代の美名にのこる」しかし「頼朝への謀反は大逆罪」と記述した。また後年、義経や義仲を回顧する場面では「義仲の乱逆」や「義経の反逆」の記述がある。
 兼実は頼朝に一時期重用され摂政関白となるが、それぞれ自分の娘を天皇に嫁がせようと画策し不和となり、失脚した。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」の一部の記述のみから兼実は義仲の擁護者とか正当な評価者と勘違いしている人もいるが、兼実はあくまでも武士は敵とみなしていた。特に義仲や義経は逆賊とみなしていた。

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2007年5月 5日 (土)

「猫おろし事件の真相」8.「無塩(ぶえん)」と「猫おろし」という用語について

「猫おろし事件の真相」

8.「無塩(ぶえん)」と「猫おろし」という用語について

 「無塩(ぶえん)」という用語について、当時の京都付近の「無塩(ぶえん)」の意味は「塩気の無い新鮮な魚」を意味したようで、無塩の平茸という表現が誤用で可笑しいとしている。現代では標準語ではあまり使用しないが、一部の県では方言として使われる。「新鮮な魚」、「生で新鮮な魚や卵や野菜」、「刺身」を意味する県もあるようだ。
 「猫おろし」という用語について、現在、「猫おろし」という用語が使用されることは殆どない。通常の小さな国語辞典には載っていない。方言として残っている地方も無い。かなり大きな辞典にのみ「平家物語」の使用例と共に載っている。つまり、「猫おろし」という用語は「平家物語」が文章化された頃のみ使用された用語である可能性が高い。

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2007年5月 4日 (金)

「猫おろし事件の真相」7.ひらたけと松茸

7.ひらたけと松茸

 平家物語では木曽義仲が「ひらたけ」を勧めている。現代人から見ると、なぜ松茸が出てこないのか。4千年の歴史を誇る中国では、現在でも松茸は「変な臭いのするきのこ」に分類されており、食べない。松茸を好むのは世界でも日本人のみのようである。最近は韓国でも少し食べるらしい。松茸の匂いを嗅がせて脳波を調べたら、心地よいという反応が出たのは日本人のみで、外国人は全て不快な反応のようである。松茸を食べる習慣は日本で独自に広まったようである。平安時代や平家物語が文章化されたころにはひらたけは一般にも食べる習慣があるが、松茸はまだ貴重ではなかった。京都の役人が地方へ赴任する旅の途中で崖から落ちた時、ひらたけを見つけ、ついでに取ってくるという話しがある。「今昔物語」に「谷底に落ちても平茸《ひらたけ》を取る話」。「御読経《みどきょう》の僧が平茸《ひらたけ》にあたる話」がある。平安時代は松茸よりひらたけに人気があったようだ。松茸の人気が出たのは戦国時代以後のようだ。(参照3)

参考3. 松茸について

参照 ものと人間の文化史「松茸」有岡利幸 法政大学出版局

 松茸は主に松の木の根本附近に生育する。松茸の菌は雑菌に弱いようである。昔はいろりやかまどを使用した。その焚きつけの材料に松の枯れ葉や枯れ枝が利用された。松の木の根本附近はきれいだった。松茸がよくとれた。現代ではプロパンガスや石油ストーブの普及で松の木の根本は落ち葉が堆積している。雑菌が繁殖し、松茸は採れない。
 奈良時代、三笠山(奈良市)には、マツタケがあふれるほど生えたらしい。官吏の夕げの膳(ぜん)には、焼きマツタケが並ぶこと連日で、「もう飽きた」という声が上がったという。平安時代になっても人気はなく、「古今和歌集」や「新古今集」には載っていない。やっと「梁塵秘抄」に「聖(ひじり)の好むもの……、松茸(まつたけ)、平茸(ひらたけ)、滑薄(なめすすき)」とある。
 マツタケを好んだのは、どうも僧侶のようだ。安土桃山時代から江戸時代初期まで、京都の鹿苑院(金閣寺)の首座が書きつづった日記では、秋になるとマツタケを贈り合い、吸い物で酒盛りをしたり、時には赤松林の中で焼きマツタケを楽しんだりしている。この頃には公家の間でもマツタケは広まり、天皇家の調度品の管理をしていた山科家の日記にも同様の記事が出てくる。
 日本料理が完成する文化文政年間(19世紀初頭)には、京都・丹波のマツタケは早飛脚で大阪・天満に運ばれるようになった。庶民の楽しみはマツタケ狩りで、京都・北山ではどんちゃん騒ぎが続き、奉行所から禁止令を受けている。
 食べ方の横綱は、焼きマツタケだろう。豪快なのは、大きな土瓶にマツタケを姿のままぎっしりと詰め、塩と酒をふりかけてふたをし、注ぎ口を松葉で詰めて蒸し焼きにしたものだ。それに比べると、最近の土瓶蒸しは吸い汁に浮かんだペーパークラフトのようなものだ。
 昭和30年代初めまで、マツタケは一般の食卓によく上っていた。ある名誉教授の話では、京都大の食堂ではマツタケが入ったうどんが28円、ラーメンが30円だったそうだ。ある料理教室でも、他人丼やすき焼きはマツタケと牛肉の組み合わせだった。
 それが、いまでは京都・錦市場の京野菜専門店ですら中国・雲南や吉林産が並ぶ。ほかの店には北朝鮮やメキシコ産もある。丹波産が出回る9月下旬になっても、料理屋は勘定が合わないから外国産を使う。外国産は生える松の種類や土壌が異なるため、味や香りが違う。素材の味を生かす和風料理には向かず、ニンニクや油の力を借りて厚化粧せざるを得ない。
 国内産が採れなくなったのは、近年猛威を振るうマツクイムシのせいだけではない。田舎の家庭にプロパンガスが普及したことで、貴重な燃料だった赤松の林への手入れがおろそかになったからのようだ。社会環境の変化は、食文化も変えるのだ。

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2007年5月 3日 (木)

6.「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡後の乱暴狼藉

6.「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡後の乱暴狼藉

 鎌倉幕府の公式記録とされる「吾妻鏡」には、義経追討の名目で全国に配置した「守護」「地頭」の横暴が数多く記録されている。特に「地頭」の横暴の記述が多い。ただし、北条時政の子孫の編集であるから、時政に不都合な記述は少ない。他の武将の横暴の記述は多い。法皇や頼朝に報告され、記録が残っているものだけでも数十件ある。記録が紛失したり、まさに「泣く子と地頭には勝てぬ」と泣き寝入りしたものは数え切れないほどあるだろう。(参照2)
以下に平家物語で義仲軍の乱暴狼藉を非難している文章と類似している吾妻鏡に記述されている文章の一部を挙げてみる。

6.1 「平氏の時はかってこの儀なし」

 文治元年四月二十八日 「吾妻鏡」「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」
 「今日、近江国(滋賀県)の住人で前出羽の守(平)重遠が参上した。これ累代の御家人である。年齢は八十才のようだ。頼朝はその志を哀れみ、御前に呼んだ。舎弟の十郎並びに僧の蓮仁等、助け支えを加えた。重遠が申して曰く、平治合戦の後、譜代のよしみを存ずるの間、ついに平家(清盛)の権威に従わずして、二十余年を送りました。たまたま御政権を執るの時に会い、安堵すべきのところ、かえって在京の関東の武士等がために、兵粮と称し、番役と号し、年貢を厳しく催促されるの条、はなはだもって耐え難し。およそ我が一身の訴えにあらず、諸人の愁いに及ぶ。「平氏の時はかってこの儀なし」。世上いまだ安定せざるかと。申し状の趣、もつとも正理に叶うの由御感想あり。よってしかる如きの乱暴を停止して、安堵の思いをなさしむべきの旨、直に御決裁ありと。叉国中の訴訟の事、ご指図あるべきの由と。」
 「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達による乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横領、乱暴狼藉を非難したものだろう。後に定められた「御成敗式目(武士の守るべききまり)」にも守護や地頭は勝手な事や横暴をするな、違反すると辞めさせるぞと記述している。

6.2 「官庫を打ち開き年貢米を押し取る」

 文治三年四月二十三日「吾妻鏡」「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」「周防国在廰官人、地頭の非法を訴ふ」
 「 周防の国在廰官人等、言上の二箇條
一、得善(とこぜ)末武の地頭として、筑前の太郎(家重)、都乃一郡に横行せしめ、政府の「倉庫を打ち開き」年貢米を押し取る。狩猟を趣意として、公民を駈け寄せ集め、城郭の堀を構築し、自由に任せ、農業の勧めを妨害する事。」
 権力者となった鎌倉軍を直接非難できないので、義仲に罪を着せたのだろう。以下参照2に「吾妻鏡」「玉葉」に記述される乱暴狼藉事件を列記する。いかに「玉葉」の記事が「吾妻鏡」の記述と異なるか。つまり兼実には正確な情報が届いていないかがわかる。法皇や頼朝に報告される「守護」「地頭」の乱暴狼藉の情報が兼実には届いていないようだ。兼実の日記は朝廷の儀式の記録が重要なのである。

参考2.「平家滅亡前後の乱暴狼藉」事件

元歴元年 4月24日 「吾妻鏡」「賀茂社領への武家の狼藉を停む」
元歴元年10月27日 「吾妻鏡」「景時郎従の廣田庄領押妨を停む」

文治元年 2月 5日 「吾妻鏡」「散在の武士狼藉を致す」
文治元年 3月 4日 「吾妻鏡」「在洛の武士狼藉」
文治元年 4月26日 「吾妻鏡」「頼朝、實平・景時に武士の乱行禁止を命ず」
文治元年 4月28日 「吾妻鏡」「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」

文治元年 5月19日 「吾妻鏡」「京の群盗、遠江の不逞武士の鎮定等を評議す」
文治元年 7月12日 「吾妻鏡」「鎮西の巡検を中原・近藤に命ず」「九州没官領に地頭定補の上範頼を帰洛せしむ」
文治元年 8月13日 「吾妻鏡」「院の庁、太宰府・在庁に下文を遣わし、武士の濫妨を停む」
文治元年 8月21日 「吾妻鏡」「頼朝、下河邊の四郎政義の鹿島社領侵椋禁止を採決す」
文治元年 9月 5日 「吾妻鏡」「小山有高の押妨を停む」
文治元年10月14日 「吾妻鏡」「頼朝、院宣を奏じて安田義定を召す」
文治元年10月15日 「吾妻鏡」「齋宮用途の進納、神宮領押妨停止の院宣到る」

文治2年 1月 5日 [玉葉] 「宇佐和気使、路頭にて狼藉出来す」
文治2年 1月 9日 「吾妻鏡」「高野山領の兵粮米・地頭を停む」
文治2年 1月11日 「吾妻鏡」「高瀬庄の武家の狼藉を停む」
文治2年 2月13日 「吾妻鏡」「時政より静の事、群盗処刑の事を報ず」
文治2年 3月 2日 「吾妻鏡」「今南・石負庄の兵粮米停止せしむ」「崇徳院領丹波栗村庄に武士の乱暴するを停む」
文治2年 3月10日 「吾妻鏡」「太神宮領地頭等狼藉を停止せしめ」
文治2年 3月16日 「吾妻鏡」「伊勢神領顛倒の奉行の事、諸国兵粮米停止の事、時政に伝ふ」
文治2年 3月18日 「吾妻鏡」「源俊隆、尾張の国中島郡所領安堵せらる」
文治2年 3月21日 「吾妻鏡」「諸国の兵粮米催しを停む」
文治2年 5月13日 「吾妻鏡」「洛中群盗頻発の院宣到来す」
文治2年 5月20日 [玉葉] 「信円行家の兄弟大進君を召し送る」「兼実能保に武士の狼藉を責む」
文治2年 5月29日 「吾妻鏡」「美濃石田郷の濫妨(略奪)を停む」
文治2年 6月  9日 「吾妻鏡」「播磨武士押領の事」
文治2年 6月21日 「吾妻鏡」「近畿の守護・地頭を停め、諸国武士の濫妨を禁ず」「武士の濫妨を停むべき国々」
                    「鎮西九国鎮定は経房の沙汰とす」「伊勢の地頭を改補す」
文治2年 7月 8日 「吾妻鏡」「能盛・定康の所知に武士濫妨(略奪)を停む」
文治2年 7月28日 「吾妻鏡」「新日吉領河肥・向津奥両庄の武士狼藉を停む」
文治2年 8月 5日 「吾妻鏡」「新日吉領の狼藉停止の請文」
文治2年 8月26日 「吾妻鏡」「由良庄、宗紀太の濫妨を停め、領家藤原範季に知行せしむ」
文治2年 9月 5日 「吾妻鏡」「諸国地頭に領家の所務缺怠を禁ず」
文治2年 9月15日 「吾妻鏡」「梶原朝景帰参、洛中状況を報ず」「群盗の張本平庄司脱獄す」
文治2年 9月25日 「吾妻鏡」「時定より則国の報告書届く」「廣由良御庄濫妨に関する報告書」
文治2年11月24日 「吾妻鏡」「現在謀反人の後のほか地頭の干渉を禁ず」

文治3年 1月19日 「吾妻鏡」「能保、土佐の希義墓田の横暴を停む」
文治3年 2月 9日 「吾妻鏡」「草野定康に近江領所を安堵せしむ」
文治3年 3月19日 「吾妻鏡」「法隆寺領鵤庄の地頭の押妨を停む」
文治3年 4月23日 「吾妻鏡」「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」「周防国在廰官人、地頭の非法を訴ふ」
文治3年 5月20日 「吾妻鏡」「名主、鹿島社領御寄進地を押領す」
文治3年 5月26日 「吾妻鏡」「宇治義定の代官、齋宮寮田を押領、義定恩地を収公せらる」
文治3年 6月20日 「吾妻鏡」「伊勢神宮領地頭の濫行を停む」
文治3年 6月29日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨の地頭代官の押妨を停む」
文治3年 8月12日 「吾妻鏡」「京より群盗鎮圧の要請あり」
文治3年 8月19日 「吾妻鏡」「洛中狼藉鎮定のため、常胤・行平、上洛せしむ」「頼朝の経房宛て消息」
文治3年 8月27日 「吾妻鏡」「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」「群盗の事」「狼藉の事」
文治3年 8月30日 「吾妻鏡」「常胤おくれて上洛す。」
文治3年 9月19日 [玉葉] 「群盗の事」
文治3年10月 3日 「吾妻鏡」「群盗の事」
文治3年10月 6日 「玉葉] 「群盗の事」
文治3年10月 8日 「吾妻鏡」「行平・常胤在京中の群盗征伐の事を報告す」
文治3年10月13日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨重忠所領を吉見頼綱に充て行ふ、狼藉を停止」
文治3年11月25日 「吾妻鏡」「但馬住人山口家任所々に横行」
文治3年11月29日 [玉葉] 「別当隆房卿群盗の間の事を申す。」
文治3年12月 9日 [玉葉] 「宗範をもって条々の事を(群盗多き事なり)院に奏す。」

文治4年 2月 2日 「吾妻鏡」「地頭の所領につき諸人愁訴す」
文治4年 2月 5日 「玉葉」 「この夜群盗少将信清の家に入ると。」
文治4年 3月14日 「吾妻鏡」「平康頼、地頭の押妨を訴ふ」
文治4年 4月12日 「吾妻鏡」「地頭等庄家を押領」
文治4年 5月17日 「吾妻鏡」「昌寛眼代押妨の訴」
文治4年 6月 4日 「吾妻鏡」「播磨の国景時の郎従等の狼藉」
文治4年 7月 1日 「玉葉」 「別当隆房来たり、群盗の間の事を示す。」
文治4年 7月13日 「吾妻鏡」「美濃の国の郷々地頭押領の事」
文治4年 7月17日 「吾妻鏡」「藤原宗長、石清水神人と闘靜す」
文治4年 8月17日 「吾妻鏡」「群盗蜂起の事」
文治4年 8月20日 「吾妻鏡」「阿波麻殖保地頭の押妨を停む」
文治4年 9月 3日 「吾妻鏡」「頼朝、地頭重頼の不法を停む」
文治4年11月27日 「吾妻鏡」「群盗大庭景宗の墓を盗掘す」
文治4年12月 6日 「吾妻鏡」「東大寺僧と武家の使闘乱す」

文治5年 2月30日 「吾妻鏡」「阿武郡を東大寺に進じ、遠平の代官に退去を命ず」
文治5年 7月10日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨地頭の押妨を停む」

文治6年 4月 4日 「吾妻鏡」「山田重隆・堀江禅尼の公領押妨を停む」
文治6年 4月18日 「吾妻鏡」「美濃犬丸等の地頭の対捍を停む」
文治6年 4月19日 「吾妻鏡」「太神宮役夫工米、地頭の未済を成敗す」
文治6年 5月29日 「吾妻鏡」「八條院領紀伊三上庄の地頭対捍す」
文治6年 6月29日 「吾妻鏡」「役夫工米の対捍につき請文を進ず」
文治6年 8月 3日 「吾妻鏡」「河内国地頭押領、糟屋有季狼藉の事」
文治6年10月 9日 「吾妻鏡」「近江田根庄地頭佐々木定綱の押妨を停む」

建久2年 5月 3日 「吾妻鏡」「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」
建久2年 8月 7日 「吾妻鏡」「頼朝、任憲のため解状(訴状)を奏進す」

建久3年 6月20日 「吾妻鏡」「美濃御家人に命じ大内惟義指揮下に群盗を鎮めしむ」

建久4年 5月 7日 「吾妻鏡」「大江行義女押領を訴へ、朝景譲歩す」
建久4年 9月 7日 「吾妻鏡」「宣陽門院、群盗以下の狼藉」

建久5年 3月17日 「吾妻鏡」「諸国守護人の国領押妨を禁ず」
建久5年 5月20日 「吾妻鏡」「下野の国司、宇都宮朝綱の公田押掠を訴ふ」
建久5年12月10日 「吾妻鏡」「比企朝宗、越前志比庄を押領す」

建久6年 8月 6日 「吾妻鏡」「志楽庄並びに伊称保地頭の濫妨を訴ふ」
建久6年11月 4日 「吾妻鏡」「長門河棚庄の地頭を停む」

建久10年3月23日 「吾妻鏡」「頼家、神宮領六箇所の地頭職を停止す」

(これだけ乱暴狼藉事件が続けば、清盛平家の時代のほうが良かったと非難したくもなる。)

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2007年5月 2日 (水)

「猫おろし事件の真相」5.文章技法

「猫おろし事件の真相」

5.文章技法

 義仲を礼儀知らずの田舎者と、けなしている文章の前に頼朝は優美で言語明瞭と誉めそやしている文章がある。(参照1)このように平家物語では2つを対比させる方法で強調する文章技法が多用されているので、頼朝を優美であると強調し、義仲を田舎者と強調している。しかし両者とも20数年を田舎で過ごした田舎者にさしたる違いは無い。いずれにしても、当時勢力を拡大し、公家貴族、神社、仏寺の既得権益を浸食する頼朝など関東武士の横暴への反感を義仲に代表させたものである。

参考1.「平家物語」「猫間」(現代文)

 頼朝殿がお出になられました。布衣(ほうい、狩衣)に立烏帽子(たてえぼし)でした。顔は大きく、背は低いほうでした。容貌(ようばう)は優美で、言語は、はっきりと区別がつきました。・・・
(中略)
 頼朝はこのように立派でございますのに、左馬頭(さまのかみ、馬を扱う役所の長官)木曾義仲は、都の守護職をしていましたが、日常の動作や人目につくような行動の無作法なこと、物を言うときの言葉使いの聞き苦しい事は普通の程度を越えています。道理である。二歳から信濃国の木曾という山里に、三十才まで住み慣れていたので、どうして知る事が出来よう。
・・・
 そのほかおかしき事ども多かりけれども、恐れて是を申しません。

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2007年5月 1日 (火)

「猫おろし事件の真相」4.食事の時間と作法

「猫おろし事件の真相」

4.食事の時間と作法

 礼儀作法も自分の地域のやり方が標準で、最善と思い込むようだ。食事の習慣や作法が武士と公家、田舎と京都で異なることが原因である。当時貴族は一日朝夕の2食だった。武士は腹が減っては戦が出来ぬということで3食であり、戦の時は5食のようである。当時は飢饉で食糧が不足していた。
 戦後の食糧難の時代に子供は親から言われた。「食事時に他の家に行くな。食事を出さねばならないので迷惑をかける。お茶はいいが、お茶菓子には直ぐ手を出すな。何回か勧められたら少しは食べても良い。全部食べるな。」ということで出すほうは何回か勧めるのが礼儀である。かなり食料事情が良くなっても、年輩のおばあさんはお菓子をしつこく勧めるくせがあった。その息子は「うちのばあちゃんは古いから」と苦笑していた。
 猫間中納言も貴族と武士の食事時間の習慣の違いくらいは承知していただろう。食事の中間を見計らって訪ねたはずである。しかし、意外に話しが長引いた。運上物の取り扱いに困難がある。知行国の越後、あるいは道中の話題で長引いた。あるいは義仲の父の義賢と猫間中納言が知り合いであつたかもしれない。とにかく話しが長引いて食事時になった。
 当時貴族は仏教の影響で菜食中心で主食は白米だった。武士は主食は玄米で副食は何でも食べた。義仲は食器は田舎から持参のもので、その中でも一番良い物を客に出した。飢饉の時代である。客は遠慮している。あるいは粗末な内容に手を出しにくかった。主人は勧めるのが礼儀である。「速飯、速便、速駆け」はかっての旧日本軍では常識であった。義仲は早食いだった。貴族はゆっくり上品に食べるのが常識だから、早食いに驚いたかもしれない。しかし、猫間中納言は飢饉のときでも贅沢だった。こんな粗末な食器で粗末な食事はのどに通らない。公家化した平家の武士とのあまりの違いにとまどう貴族の様子が見える。ほとんど残してしまった。食べ残しを持ち帰るのは地方では当たり前で、現代でも「持ち帰り」出来る店もある。しかし、貴族及びその周辺は贅沢だつた。こんなものが食えるかと食器ごと投げ捨てて帰った。都の人は上も下も贅沢だと嘆く話しである。(平家物語延慶本、源平盛衰記など)当時京都は大飢饉で死者が何万人も出たそうである。それでも公家連中は贅沢していたかもしれない。やや落ち目とはいえ公家貴族の悪口は言えない。
 貴族が粗末な食べ物を残し、従者すら残り物を捨てて帰った。この状況から京都付近は飢饉では無かったという説もある。しかし、貴族というのは特権階級である。当時の日本の全人口が数百万人ないし一千万人以下に対して京都の公家貴族はわずか数百人である。殆どの人民は農奴のような生活で生産物の殆どは税として徴集された。殆どの貴族は広い屋敷と蔵を持ち、飢饉に備えた。飢饉のときは蔵の備蓄が若干減るのみである。飢えた京都市民などがどさくさに紛れて蔵を開けて略奪したのかもしれない。
 京都では「おぶ(お茶)でもどうぞ」は完全な挨拶言葉だから、お茶は出てこないし、早く帰れの合図でもある。地方では「お茶でも飲んでけ」と本当にお茶を出してくれる。まさに「田舎の常識」は「都の非常識」、「都の常識」は「田舎の非常識」、「日本の常識」は「世界の非常識」、「世界の常識」は「日本の非常識」である。郷に入らば郷に従えともいう。

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2007年4月30日 (月)

「猫おろし事件の真相」

「猫おろし事件の真相」

3.方言となまり

 現代の長野県の方言は地方により色々あるが、東北地方に比べればなまりは少ないようである。「雨だ」の発音も標準語では平板であるが、「め」または「だ」が強く発音される地域がある。方言の研究者によれば、北信、中信、南信、東信で微妙な差があるようである。「根子岳」の発音は、ねこだけの「こ」が強調される。「ねこま」も「こ」が強調されると「ま」が聞き取りにくく、「ねこ・」「ねこ」と聞こえるかもしれない。ここで登場する猫間中納言は当時の越後(新潟県)の知行国主である。永年の反乱状態で多分米などの運上物が届かず難儀していたに違いない。その相談に出かけたのだろうか。新潟県人には若干なまりがある。「い」と「え」の区別がつきにくい。どうやら「い」と「え」を同時に「いぇ」と発音しているようである。例えば「越後」は「いちご」、「印鑑」は「えんかん」と聞こえる。東北地方のある県の人は「中山」を「なかま」と発音する。「やぬき」である。「や」の発音が不明瞭である。猫間中納言叉はその従者は越後の住人と会話した事があり、「猫間殿」を「まぬき」で「ねこ・どの」発音する越後の人を知っていたかもしれない。京都の人から見れば、信濃も越後もたいした違いは無く「北国」である。関東地方の人は東北人を「なまりがある」とからかうが、東北人からみれば、「ひょうずんごすか、わがね、ばがだ」となる。(標準語しかわからない馬鹿だ)
 義仲関連の史跡が越後(新潟県)には少ない。他の単に通過しただけに過ぎないような県でも意外に史跡がある。これは案外猫間を猫と間違えたのは越後の人かもしれない。越後の人はそれを知っていて関係ない素振りをしているのかもしれない。義仲は乱暴者で逆賊扱いされている。さらに、「横田河原合戦」では越後の城氏の数万の兵が信濃の義仲軍の数千の兵に敗れているのであまり好感は抱いていないかもしれない。城氏はその後頼朝の奥州合戦に参加し復活したようである。佐賀県(しゃがけん)か福岡県では電車の席が空いているか尋ねると「とっとっと」と言われる事があるようだ。とにかく方言やなまりに関しては話題が尽きない。松本清張の「砂の器」にも東北地方のなまりを勘違いする例がある。長野県木曽地方には「~ずら」(~でしょう)という方言がある。静岡県の民謡「ちゃっきり節」にも出てくる。「雨ずらよ」と同様に使うようだ。「雨面(あめづら)」と勘違いしていた。一般には自分の地域を中心として他地域の言語方言をからかう傾向があるようだ。

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2007年4月29日 (日)

2.「語り本系」と「読み本系」の違い

2.「語り本系」と「読み本系」の違い

 広く流布している「覚一本」などの「語り本系」では、義仲が猫間中納言を「猫殿」と「まぬき」で呼んだ、食べ残しを「猫おろしした」とからかったので義仲は無礼な奴だという話しである。しかし、「延慶本」などの「読み本系」や「源平盛衰記」では「猫殿」と間違えたのは根井小弥太であり、「猫おろし」の話しは無く、食べ残しを「お持ち帰り」として、従者に持たせたのに、「こんな汚い食器で粗末な物が食えるか」と放り投げたので、都の人は上も下も贅沢だと嘆く話しである。飢饉の後だというのに貴族連中は相変わらず贅沢なようである。この残り物を食器毎放り投げた話しから、当時飢饉だったという話しに疑問を持つ人がいる。しかし、当時の貴族というのは超特権階級である。庶民が飢饉で飢えて死んでも諸国から送り込まれる米や貢ぎ物を蔵に蓄え、飢饉に備えていた。当時の日本の全人口は数百万人、貴族は数百人とこれらの使用人が生産物のほぼ半分を所有した。後の戦国時代に北条早雲が「五公五民」すなわち生産した収量の半分を税として取り上げるとしたら、「名君」と称えられたというから、とにかく取れるだけ取ろうとする状態だった。約60年前の太平洋戦争末期、国民が食糧不足に困っていた頃、士官学校生徒だった人の話を聞いた。規定通りの食事以外に加給食(おやつ)も出た。一般国民には申し訳ないと思ったそうである。北朝鮮の例でも、一般国民には餓死する者もいるのに一部特権階級は太っている。当時、飢饉だったというのは、公家の日記「吉記」「玉葉」や「方丈記」の記述から間違い無いようである。

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