2007年4月25日 (水)

11月4日 「吾妻鏡」「長門河棚庄の地頭を停む」

11月4日 「吾妻鏡」乙酉
「長門河棚庄の地頭を停む」
 嘉祥寺領の長門の国の河棚庄の事、守護人が荘園領主の所務を妨害するの由命令下されるの間、この所の事、去る文治年中、法王の命令に依って地頭職を停止しました。今更違乱の條、処罰を招くか。たしかに停止すべきの趣旨、今日命令下された所であるようです。

(建久6年・・・9年 記載無し)

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2007年4月23日 (月)

1195年 (建久6年) 8月6日 「吾妻鏡」「志楽庄並びに伊称保地頭の濫妨を訴ふ」

1195年 (建久6年 乙卯)

8月6日 「吾妻鏡」戊午
「志楽庄並びに伊称保地頭の濫妨を訴ふ」
 丹後の国(京都府北部)の志楽庄並びに伊称保の荘園領主の雑事を扱う役人の上申書が到来した。地頭の後藤左衛門の尉基清が濫妨・狼藉を致すの由のようです。詳細を尋ね聞き、事実ならば、地頭職三分の一を分け取り、これを記録し申すべし。他人を任命されるべきの旨、前の掃部の頭親能に命令されたようです。
(注釈)
掃部の頭(かもんのかみ)・・・掃部寮の長官
掃部寮(かもんりょう)・・・宮中の行事の設営、清掃担当。

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2007年4月22日 (日)

12月10日 「吾妻鏡」「比企朝宗、越前志比庄を押領す」

12月10日 「吾妻鏡」丙寅
「比企朝宗、越前志比庄を押領す」
 越前の国(福井県東部)の志比庄、比企の籐内朝宗が為に押領されるの由、荘園領主の訴えが有りました。この事、去る文治元年、叛逆の衆を逮捕する為に、武士を諸国に派遣されるの時、兵粮米の催促の使を入れられると雖も、散在の御家人等、事を左右に寄せ狼藉を現すの由、一般の人民が嘆き悲しみを含むの趣、度々法皇の命令を下されるの間、三十七箇国の内の諸庄園、今に於いては武士の妨げ有るべからざるの旨天皇に申し上げた後、年数を経ました。今更この訴え出で来たりました。太だ驚き思いなさるに依って、朝宗に尋ねられるの処、押領せざるの由弁明しました。その答申書を召し荘園領主に遣わされたようです。

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2007年4月21日 (土)

5月20日 「吾妻鏡」「下野の国司、宇都宮朝綱の公田押掠を訴ふ」

5月20日 「吾妻鏡」庚辰
「下野の国司、宇都宮朝綱の公田押掠を訴ふ」
 宇都宮左衛門の尉朝綱法師、公田百余町を横領するの由、下野の国司の行房が天皇に申し上げを経るの上、代官を差し向け進上しこれを訴え申した。将軍家は殊に驚き聞きなされた所である。代官の申す所その事実が有らば、重罪に行うべきの趣旨これを呼び出し命令されたようです。

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2007年4月20日 (金)

1194年 (建久5年) 3月17日 「吾妻鏡」「諸国守護人の国領押妨を禁ず」

1194年 (建久5年 甲寅)

3月17日 「吾妻鏡」戊寅
「諸国守護人の国領押妨を禁ず」
 諸国の守護人、国領を煩わすの由お聞きなさるに依って、宜しく停止せしむべきの趣旨の命令を下されたようです。

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2007年4月19日 (木)

9月7日 「吾妻鏡」「宣陽門院、群盗以下の狼藉」

9月7日 「吾妻鏡」庚午
「宣陽門院、群盗以下の狼藉」
 故後白河法皇の御旧跡の宣陽門院(後白河法皇の皇女)、當時無人である。群盗以下の狼藉、尤も恐怖有るべきの由、前の黄門(能保)内々歎き申されるに依って、日来その指図が有りました。畿内近国の御家人等を共に催促し、宿直に差し進上すべきの旨、(佐々木)経高・(佐々木)盛綱・(後藤)基清等に命令し納得させられたようです。

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2007年4月18日 (水)

1193年 (建久4年) 5月7日 「吾妻鏡」「大江行義女押領を訴へ、朝景譲歩す」

1193年 (建久4年 癸丑)

5月7日 「吾妻鏡」壬申
「大江行義女押領を訴へ、朝景譲歩す」
 所衆大江の行義の女子が美作の国(岡山県北部)の領地を、梶原刑部の丞朝景の為に押領される由訴え申すの間、朝景を呼び出し決裁された。朝景が弁明し申す所、あながちに、すじみちに背かずと雖も、吉田中納言(経房)殊に執り申されるの間、朝景はこの所を領有せずと雖も、放置するに及ぶべからず。訴人は貧窮の者である。また黄門(経房)のひいきする者である。理を忘れ早く去り與うべきの旨朝景に命令された。則ち承知を申し敢えて自説の固持の儀は無かった。尤も清廉潔白たるの由、直に御感心の仰せをいただいたようです。これに依って女子は忽ち安堵しました。

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2007年4月16日 (月)

6月20日 「吾妻鏡」「美濃御家人に命じ大内惟義指揮下に群盗を鎮めしむ」

6月20日 「吾妻鏡」庚申
「美濃御家人に命じ大内惟義指揮下に群盗を鎮めしむ」
 美濃の国の御家人等、守護の相模の守(大内)惟義の命に従うべきの由の命令を下されたようです。これは京中の群盗等を鎮圧させる為である。
   前の右大将家の政所が下す 美濃の国の家人等
     早く相模の守惟義が催促に従うべき事
 右当国内の庄の地頭中、家人の恩儀を存ずる者どもに於いては、惟義の催促に従い勤節を致すべきである。なかんずく近日京中の凶暴な賊の犯罪その聞こえ有り。彼の党類を禁圧せんが為、各々上京を企て大番役に勤仕すべし。而るにその中に家人たるべからずの由存ずる者は、早く詳細を申すべし。但し公領に於いては催促に加わるべからず。兼ねて又(山田)重隆・佐渡の前司の郎従等を催促し招集し、その役を勤めさせるべし。隠居の者どもに於いては、連名文書を報告すべきの状、仰せの所件の如し。
     建久三年六月二十日      案主籐井(俊長)
    令民部少丞藤原(行政)         知家事中原(光家)
    別当前の因幡の守中原(広元)
     前の下総の守源朝臣(邦業)
     散位中原朝臣(能保)
(注釈)
右大将家・・・頼朝は上京したとき、右大将に任命されたが、12月に辞退した。
政所(まんどころ)・・・政治を取り扱う所
大番(おおばん)役・・・諸国の武士が交替で京都に詰め、禁中警護に当たる勤務
公領(こうりょう)・・・朝廷・国衙(こくが)の統制下にある土地
国衙(こくが)・・・国司の統治下にある土地。国領。

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2007年4月12日 (木)

8月7日 「吾妻鏡」「頼朝、任憲のため解状(訴状)を奏進す」

8月7日 「吾妻鏡」癸未
「頼朝、任憲のため解状(訴状)を奏進す」
 頼朝の御外甥の僧任憲、熱田社領内の御料田を相伝するの処、勝實と号する僧の為これを押妨されました。勝實すでに天子に申し上げを経るの間、任憲は訴状を整え、また天子に申し上げ達せんと欲した。仍って頼朝の御推薦状を望み申した。頼朝は頗る御猶予の気配が有りました。故祐範(任憲の父)の功績に報いる為、縦え他の計略を廻らすとも、この天子に申し上げの取り次ぎについては難題のようです。而るにこれ先人亡骨の在所である。相構えてこれを達せんと欲するに、他事曽て拠所無きの由重ねて言上するの間、今日ていねいな御文書を彼の訴状に相副え、高三位(泰経)に送付されたようです。
 僧任憲の訴状(具書等を添える)謹んでこれを進上します。此の如き事、取り次ぎ申すべからざるの由存じまして、大略は慎みを成して申し上げずにいます。而るに少事にはありますが、被告人勝實が押領申しますの間、当時一方の申状に依って命令下されたようです。勝實は道理を帯しますならば、何ぞ上西門院(統子内親王)の御時に裁許を受けなかったのでしょうか。更にこの條の詳細を申しひらき難きの由、任憲歎き申しますに依って、恐れながら言上する所であります。この旨を以て洩れ御申し上げなさり下さい。恐れかしこみつつしんで申しあげます。
     八月七日           頼朝

(注釈)
上西門院(統子内親王、鳥羽天皇の皇女、後白河天皇の姉)

(以下略)

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2007年4月11日 (水)

1191年 (建久2年)5月3日 「吾妻鏡」「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」

1191年 (建久2年 辛亥)

5月3日 「吾妻鏡」庚戌
「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」
 天使に差し上げる文書を高三位(高階泰経卿)に送付された。(三好)善信これを起草した。俊兼が清書した。午後4時頃、雑色の成里が、これを所持し上京した。その状に云く、
   言上
     事由
 右定綱の濫行に依って、比叡山より遣わす所の使者、所司二人義範・弁勝、去る月三十日に到着しました。その状に云く、罪科に依って、定綱並びに子息三人を僧兵中に預けなさるようにと欲すようです。この外の詳細、使者の言葉に尽くした。仍って去る一日返報を与えた。また自分の意見の及ぶ所に相遇して、答えて云く、定綱の無法で人道にはずれた悪行は左右に能わず。いかでか重罪をのがれないだろう。
(中略)
 そもそも頼朝、天台宗(比叡山延暦寺)の為法相宗(奈良の興福寺)の為、忠節有りと雖も、更に疎略無し。その由何なれば、義仲が謀反の日、座主明雲を誅した。幾程を経ず義仲を追討しました。重衡狼唳の時、南都を焼き払い僧徒を誅した。而るに重衡を生虜り、同所に首を刎ねました。
(以下略)

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