2007年6月30日 (土)

十三. 承久の乱との比較

十三. 承久の乱との比較

 約四十年後に起きた「承久の乱」というのがある。寿永の頃即位した天皇が上皇(後鳥羽)となり、勢力を拡大した武家政権から公家政権を復活しようと企画した、鎌倉政権打倒計画である。失敗して、その後鳥羽上皇は「島流し」となる。後鳥羽上皇は隠岐の島に配流、上皇の持っていた荘園はすべて没収
、順徳上皇は佐渡が島に配流、土御門上皇は土佐に配流となる。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃された。鎌倉幕府は新天皇として後堀河天皇を擁立した。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」の典型である。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。この承久の乱を記述したのが「承久記」であるが、事実をほぼ淡々と記述している。この承久の乱の後の執権北条氏の非情な処置を非難することは出来ないので、敗者となっていた義仲に置き換えたものだろう。

十三.一 皷判官め打破て捨よ
 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、(現代文)「われらが信濃を出発した時より、麻績・会田の戦より始めて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を攻撃したけれども、いまだ敵にうしろを見せた事は無い。例え十善帝王(天皇)にてありましょうとも、甲をぬぎ、弓をはずして降参する事はあり得ない。例えば都の守護してあろう者が、馬一頭づつ飼わずにいられるか。いくらもある田ども刈らせて、ま草にするのを、あながちに法皇のとがめなさるべきでは無い。兵粮米も無ければ、若者共が片田舎に行きて、時々入り捕りするのが何かまんざら不都合な事でもあるまい。大臣家や宮々の御所へも参上すればこそ不都合な事である。これは皷判官が元凶と思われるぞ。其の皷めを打ち破りて捨てよ。今度は義仲が最後の戦にてあるだろうぞ。頼朝が帰り聞くかもしれぬ処もある。存分にいくさせよ。者ども」と言ったとされている。

十三.二 「秀康・胤義等を討ち取れ」
 「吾妻鏡」によると約四十年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は、(現代文)「皆心を一にして奉公するべし。これは最期のことばである。亡き右大将軍の頼朝様が朝敵を征罰し、関東の鎌倉幕府政権を創設してから以降、官位を受けたり俸禄を頂くなど、その恩は既に山岳より高く、暗い海より深い。御恩に報い徳を謝する志は、これは浅くないものである。而るに今や逆臣の告げ口に依って、非正義の天皇の命令書を下された。名を惜しむところの武士族は、早く藤原秀康・三浦胤義等を討ち取り、三代将軍の残した官職や領地を全うするべきである。但し上皇側に参ろうと欲する者は、只今申し出るべきである。」(藤原秀康・三浦義村の弟胤義は首謀者とされる)参照「吾妻鏡」一二二一年 (承久三年)五月十九日
 (解説)ともに天皇や法皇(上皇)に仕える者の告げ口が原因であるので、それらを逆臣として討とうとしている。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。逆に吾妻鏡の編集者が平家物語の文章を参考にしたか。偶然か。
 義仲に言わせている「例えば都の守護してあろう者が、馬一頭づつ飼わずにいられるか。いくらもある田ども刈らせて、ま草にするのを、とがめなさるべきでは無い。兵粮米も無ければ、若者共が片田舎に行きて、時々入り捕りするのが何かまんざら不都合な事でもあるまい。」は平家滅亡後、京都の守護として滞在した関東武士の兵糧の現地調達を非難したものである。これはまた、派遣された関東武士の本音だろう。「吾妻鏡」にも関東武士の現地調達の横暴が多数記録されている。
 
十四.まとめ

 「平家物語」の記述は、「玉葉」「愚管抄」と比較して、かなりの捏造が見られ、後の鎌倉政権の強引さを義仲軍に置き換えて非難しているようだ。現政権をあからさまに非難することは出来ない。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。
 約四十年後に起きた「承久の乱」の後、後鳥羽上皇は「島流し」となる。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。この承久の乱の北条氏の非情な処置を非難することは出来ないので、敗者となっていた義仲に置き換えたものだろう。同時代に制作された軍記物語として、保元の乱を記述した「保元物語」、平治の乱を記述した「平治物語」、承久の乱を記述した「承久記」などがあるが、いずれも現政権の鎌倉方を非難する事は出来ない。

参考文献
 一.訓読玉葉    高橋貞一著   高科書店
 二.全訳吾妻鏡   永原慶二監修  新人物往来社
 三.吾妻鏡・玉葉データベース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 四.新訂吉記二   高橋秀樹    和泉書院
 五.愚管抄全註解  中島悦次     有精堂
 六.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 七.平家物語上下  山下宏明     明治書院
 八.延慶本平家物語六七八九       汲古書院
 九.圖書寮叢刊九条家本玉葉 宮内庁 明治書院

頼朝の妾妻
「吾妻鏡」寿永1年6月1日良橋太郎の娘、亀前。
「吾妻鏡」寿永1年11月10日亀前の住居を破壊。
「吾妻鏡」寿永1年12月10日亀前住居変更。
「吾妻鏡」文治2年2月26日常陸介藤時長の娘、子は出家して貞暁。
「吾妻鏡」建久2年1月23日常陸介藤時長の娘に伊勢を与える。

義経の正妻
「吾妻鏡」元歴1年9月14日河越太郎の娘。
「吾妻鏡」文治1年11月12日河越太郎領地没収。
「吾妻鏡」元歴1年9月14日河越太郎殺される。

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2007年6月29日 (金)

十一.安田義定や仁科盛家などの動向

 入京後、義仲は京中守護に任命され、保田(安田)三郎義定は一條北より、東洞院東より、会坂に至る。仁科次郎盛家は鳥羽四至内を担当している。参照「吉記」寿永二年七月三十日。これを「吾妻鏡」では義仲、義定は頼朝の代官として入京したものとしている。
 京都入京後、市内の警備を命じられた武将は次の通りである。
源三位入道子息・・・馬場源氏。頼政の孫。右衛門尉有綱
高田四郎重家・泉次郎重忠・・・尾張源氏。尾張の国の住人
葦数太郎重隆・・・尾張源氏。尾張の国の住人。佐渡の守。
出羽判官光長・・・美濃源氏。検非違使。(伯耆の守)
保田三郎義定・・・甲斐源氏。(遠江守)
村上太郎信国・・・信濃源氏村上系。右馬助  
山本兵衛尉義経・・・近江源氏、甲斐源氏。(伊賀の守、若狭の守)
甲斐入道成覺(義兼法師)・・・近江源氏、       
仁科次郎盛家・・・信濃領主、平姓。左衛門尉
 いずれも京都近国の武将が多いが、義仲軍入京の時、同時に入京したようだ。仁科次郎盛家や村上太郎信国は義仲と同一行動していたか、当時京都の警備の当番で在京であったが、平家と西国へ行かず、義仲軍に合流した。その後、市内の乱暴狼藉は軍勢が多すぎるのが原因とする法皇方の意見により、京都近国の武将の兵は一部の警備兵以外は本国へ帰還したようだ。また義仲軍も西国での敗戦により若干の軍勢が減少した。
 安田三郎義定は富士川の合戦の後、遠江の守護に任命された。義仲の入京と同じく頼朝の代官として入京したことになつている。平家物語や吾妻鏡によると、富士川の合戦において平家軍は鳥の羽音を源氏軍の襲来と勘違いして、混乱し退却したことになつている。「山槐記」にもその風聞が記述されている。「玉葉」や「吉記」の著者は事情を詳細に調査したようで、武田方は四万騎、平家方は四千騎でさらに武田方に寝返る者があり、平家方は二千騎以下となり、副将の平忠清の意見により、撤退すべきとなったようである。富士川の合戦の前に武田方と敵対し敗退したようである。
 村上太郎信国は法皇方に付き、法住寺合戦の時討たれたようだ。合戦の後、仁科盛家は解官されているので、合戦後に義仲離反を決めたようだ。義定はこの時期に名前が無く、「吾妻鏡」の一一八四年 (壽永三年)二月五日には義経の平家追討軍に従っているので、法住寺合戦の前に離反し頼朝に追従したようだ。しかし後に他の多くの武将と同じく謀反の疑いをかけられ殺害された。

十二.合戦の人数

 平家物語では、法皇方が法住寺御所に二万人を集めた。義仲軍は七千騎で攻めたとなっているが、例の軍記物語の特徴でおおげさな表現による。実際は多分、十分の一の法皇側が二千人と義仲軍が七百騎程度だろう。「愚管抄」でも木曽軍は千騎の内五百騎が押し寄せたとなつている。入京時、五千騎(平家物語などでは五万騎)ほどだった木曽義仲連合軍も一部は引き上げ、更に「水島の合戦」で一部減少し、更に法皇側に追従したものなどがあり、総兵力は千騎程度に減少していたようである。法皇側は御所の警備兵たる近衛府などの兵士、比叡山延暦寺の僧兵(寺の警備兵)、三井寺の僧兵、民兵(京都市民の応募者など)、義仲軍からの寝返り組などで、二千人をかき集めたようである。

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2007年6月28日 (木)

10. 法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか

10. 法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか

 平家物語によると清盛の場合より解官数が多く、清盛より悪いとなつているが、解官された者の位階、役職の違いが大きい。清盛の場合は太政大臣を含む高位高官の解官が多いのに義仲の場合は高位高官は少なく、位の低い武官の解官が多く、権力中枢への影響は少なく、クーデター(急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと)とは言えない。

十.一 清盛のクーデターの処分

解官(「玉葉」治承三年十一月十七日より)
太政大臣藤原師長、権大納言按察使源資賢、春宮大夫藤原兼雅、右衛門督平盛頼、御中納言藤原実綱、右近衛権中将藤原隆忠、参議光能、太宰大弐親信、越前の守季能、右近衛権中将雅賢、右近衛権中将定能、大蔵卿泰経、右中弁親宗、右近権少将時家、備中の守光憲、右近権少将顕家、右近権少将資時、陸奥の守範季、大膳大夫信業、蔵人右少弁基親、左衛門佐業房、美濃の守定経、右馬頭定輔、加賀の守親国、出羽の守顕経、左馬権頭業忠、阿波の守孝貞、河内の守光遠、淡路の守知光、周防の守能盛、但馬の守信賢、甲斐守為明、大蔵大輔宗家、佐渡の守尚家、検非違使遠業扶行、信盛、上総の守為保、右少将雅賢、常陸の守経仲(合計四十人)
辞退 権中納言雅頼、流人 太宰権師藤原基房、平業房
関外追却 資賢、雅賢、資時、信賢
使を止む 左衛門少志中原清重、右衛門志同重成、右衛門府生安倍久忠
辞退 主殿頭藤家綱、亭任 伊勢守大中臣忠清
実際の処分者は四十三人以上だが、平家物語では解官が四十三人としている。

十.二 法住寺合戦後の解官

 「解官」「玉葉」寿永二年十一月二十九日より
中納言籐朝方、参議右京大夫同基家、太宰大貳同實清、大蔵卿高階泰経、参議右大弁平親宗、右中将播磨守源雅賢、右馬頭源資時、肥前守同康綱、伊豆守同光遠、兵庫頭藤章綱、越中守平親家、出雲守藤朝経、壱岐守平知親、能登守高階隆経、若狭守源政家、備中守源資定、左衛門の尉平知康(大夫の尉)、この外衛府二十六人と。(小計四十三人)(解職 頼兼)、(出仕止め 兼雅)
「解官」「吉記」十二月三日より
佐渡守源重隆、右馬助同信国、左衛門尉藤助頼、源経国、平(仁科)盛家、右衛門尉源有綱、左兵衛尉源義任、右兵衛尉平康盛(小計八人)
「解官」の合計は五十一人だが、平家物語では四十九人としている。

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2007年6月27日 (水)

9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか

9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか

 平家物語によると、合戦前に市内の治安が悪くなったとか、義仲軍が乱暴狼藉したので、「治安を回復せよ」との法皇の命令を鼓判官の知康が使者として来たのに、侮辱されたので征伐すべしとなったように記述しているが、「玉葉」「愚管抄」にそのような乱暴狼藉の記述は無い。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。「源氏にゆかりのあるものは喜ぶがさしたるゆかりの無い者は何の喜びも無い。」とは、源氏にゆかりのある者、例えば頼朝の妹の夫の一条能保は頼朝代官になり次々と出世する。その他清盛平家の時代には冷遇されていた源氏ゆかりの者が復活する状況が「吾妻鏡」の記述に見られる。

九.一 源氏ゆかりの者の取り立て

一.一条能保・・・頼朝の妹の夫。頼朝代官から讃岐の守となる。 
二.平賀義信・・・平治の乱のとき義朝や頼朝に従い戦った。武蔵の守に任命された。
三.但馬の山口太郎家任(吾妻鏡文治三年十一月二十五日参照)本領に安堵。

九.二 「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡前後の乱暴狼藉

 「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。ざっと拾い上げただけでも数十件ある。法皇や頼朝に報告され、記録されたものだけでもこれだけあるのだから、報告漏れや記録漏れを含めまさに「泣く子と地頭には勝てぬ」と泣き寝入りしたものは数え切れないほどあるだろう。
 権力者となった鎌倉を直接非難できないので、義仲に罪を着せたのだろう。以下「吾妻鏡」「玉葉」に記述される乱暴狼藉事件を列記する。いかに「玉葉」の記事が「吾妻鏡」の記述と異なるか。つまり兼実には正確な情報が届いていないかがわかる。法皇や頼朝に伝わる「守護」「地頭」の乱暴狼藉の情報が兼実には届いていない。或いは届いたが地方の事には関心が無いので、記述しなかつたのか。兼実の一大関心事はわが朝廷の安泰と政権中枢への復帰にある。
 「平家を源氏に替え劣りたり」が記述されたり、語られた頃、政治の実権は北条氏(平氏系)に移り、北条氏が源氏に交替する正当性を強調するのに都合の良いものであった。

参照 5月3日参考2.「平家滅亡前後の乱暴狼藉」事件
(これだけ乱暴狼藉事件が続けば、清盛平家の時代のほうが良かったと非難したくもなる。)

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2007年6月26日 (火)

8.法住寺御所への攻撃・法皇の幽閉は義仲追討の理由か

8.法住寺御所への攻撃・法皇の幽閉は義仲追討の理由か

 頼朝が義仲を追討した理由として、法住寺御所への攻撃や法皇の幽閉を挙げる記述を見かけるが、「吾妻鏡」によれば、義仲追討の正式な理由は平家と和議を企てた事が頼朝への謀反とされたようである。参考「吾妻鏡」寿永三年三月一日「頼朝、平氏追討の下文を西国住人に遣わす」「・・・東海道は遠江の守義定朝臣、北陸道は左馬頭義仲朝臣、鎌倉殿の御代官として、両人上洛するところである。兼ねてまた義仲朝臣、平家と和議のために謀反の条、不慮の次第である。よって院宣の上に、私に処罰を加え、かの義仲を追討せしめました。」
 とにかく頼朝は謀反の名目で義経や範頼など平家追討に貢献した多くの武士を追討している。後の北条氏の行状から推測すれば、北条氏の策略の可能性が高い。
 平家や義仲追討の根拠として、以任王の令旨以外に後白河法皇の密命を挙げる解説が見られるが、「吾妻鏡」文治元年十二月六日の九条兼実への書状に「頼朝は伊豆国の流人として、特別なご指示も頂かなかったにもかかわらず」となっている。つまり頼朝が勝手にやったようだ。

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2007年6月25日 (月)

7.法皇は幽閉されたか

7.法皇は幽閉されたか

 「平家物語」やその他の解説書では法皇は摂政の五條亭に幽閉されたことになっている。しかし、「玉葉」によると、かなり出入りは多く、また法皇は落胆した様子は無いようである。
「玉葉」十一月二十五日「法皇殊に御嘆息の気無きかのようだ」
「玉葉」十二月四日 天晴れ、定能卿が法皇御所より退出し、来た。語りて云う、昨日義仲は法皇に申し上げて曰く、頼朝の代官が日来伊勢の国に在り。家来等を派遣し追い落とした。其の中の最上級者を一人、生け捕りにしたようだ。又語り云う、法皇御所中の警護は、近日日来に於いて倍増し、女車に至るまで検知を加えるようだ。義仲軍はそれまで女性に甘かったので、女装して逃げられた。または女装して御所に出入りしていたようだ。 
「吉記」十二月十日「後白河院平業忠邸に還御」法皇は六条西洞院の左馬権守平業忠宅においでになられた。五条殿には奇怪な事が有りの故のようだ。
最期に義仲が法皇に拝謁しようとしたが、門内に入れなかったようである。義仲軍の警備でなく、近衛兵の警備のようである。

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2007年6月24日 (日)

6.法住寺御所は炎上したか

6.法住寺御所は炎上したか

 後世の歴史解説者や小説家の記述で、法住寺焼き討ちとか、法住寺御所が炎上し焼け落ちたという記述を見る。しかし「平家物語」ですら、樋口次郎が火矢を放ったので、御所が炎上という記述があるのみである。「玉葉」には御所方面に煙が上がる、これは河原の民家を焼き払うようだの記述のみである。「吉記」には四面放火の記述がある。周囲の民家に放火したようだ。戦いのときどちらかが火を放つのは当時の合戦の常識である。「吾妻鏡」一一九一年 (建久二年)十月一日に「文治元年の地震により傾いたので、頼朝の指図として修理を加えられた。」との記述がある。合戦の時、建物自体に大きな被害は無かったようである。いかに大袈裟に捏造しているかがわかる。
 その他「吉記」の意外な記述としては「四方に逃走の殿上人以下その数を知らず。女官等多く以て裸形。」。逃走の殿上人以下は女官の衣類を奪い取り女装して逃げたのだろうか。

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2007年6月23日 (土)

5.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか。

5.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか。

 当時は現代のような一夫一婦制とする法律や道徳律は無かった。嫁入り婚より通い婚が多く一夫多妻は不思議ではない。義仲に何人もの妻または妾がいても不思議ではない。頼朝の父義朝も何人もの妻や妾がいた。義経や頼朝にも正妻と妾妻がいた。頼朝の御家人となった武将でもかなり妾妻がいる。公家でも何人かの妻がいて、嫡妻(正妻)、本妻、妾妻の区別はしていたようである。葬儀のときどのような区別をすべきかなどの議論をしている程度である。(参照「玉葉」一一七五年(承安五年)六月十三日。)その子についての差別はない。長男だからといって父親と同じ官位官職につけるとは限らない。頼朝の母は熱田神宮の神官の娘で、他の本妻または妾妻の子より若干有利だったに過ぎない。義経や範頼はもちろん、義仲や甲斐源氏の安田氏でもトップになれる可能性はある。鎌倉幕府の「御成敗式目」でも家の後継ぎについては男女の区別なく、息子や娘または親類や家来からも有能な人物を選べとしている。男女平等である。長男優先でもない。相続について長男優先になったのは江戸時代の三代将軍家光の頃からである。一夫一婦制とする法律を制定したり、「貞女二夫にまみえず」などと言いだしたのは明治政府からで、欧米の制度やキリスト教の真似をしたようだ。
 基房は兼実や慈円の兄である。その兄の娘が反感を抱いている時の権力者の義仲に縁付くのに、兼実の「玉葉」、慈円の「愚管抄」にその風聞すらない。そのような事実は無いようだ。「平家物語」では単なる女房、「延慶本平家物語」では「まつどのの姫君」、「源平盛衰記」では「松殿殿下基房公の御娘、十七」となつているが後日の創作のようだ。
 「玉葉」には、基房の息子の「師家」は五十一回、「基房子」は十七回、「基房女」は九回、「基房妻」は十七回出てくるが、十七才前後の娘は登場しない。兼実の娘「任子」(「宜秋門院」「後鳥羽天皇中宮」)は約三百五十回も記述されている。任子は十八才で中宮(天皇の側室)となった。頼朝も娘の大姫を中宮にしようと画策し、兼実と不和になり、兼実は失脚した。当時は養子縁組も多かったようだから、血縁でない娘を養子として扱う事も考えられる。
 ついでに、巴御前について述べる。巴については、弁慶や山本勘助と同じく、その存在自体が疑問視されるほどのものである。同名または類似の人物がいたかもしれない。しかし、後世の物語のような大活躍をしたのか不明である。
 法律や道徳律で一夫一婦制に縛られている現代人から見ると、巴が正妻であるかないかは重要に思えるのだが、当時は一夫一婦制のような法律や道徳律は無い。一夫一婦制や嫁入り婚が多くなったのは鎌倉時代からのようである。政子の仕打ちを恐れた頼朝を真似た家臣が多かった。あるいは「一所懸命」に領地を守る武士には嫁入り婚の方が都合が良かった。

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2007年6月22日 (金)

4.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

4.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

 「玉葉」1184年(寿永3年、元歴元年)1月25日「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」「君臣共に幼稚、未だ成人の量に及ばず。」
 法住寺合戦の後、義仲は逆賊だから、義仲の推薦により任命された人事などは無効にすべきだと主張している。平治とは平治の乱の例、治承とは清盛のクーデターの例と比較している。黒幕の次兄の基房の責任が藤原一門の我が身に及ぶ可能性がある。君臣共に幼稚、未だ成人の量に及ばず。天皇は4才(後鳥羽天皇)で、摂政は12才の藤原師家(基房の子)で責任はとれない。責任は義仲におしつけよう。しかし意外にも義仲の意見が公家身分に与えた影響は少なかったようである。合戦の後、任命されたり昇任した公家は多いが、義仲の敗死後に解官されたり降任された例は少ない。師家のみが解官されている。基房と師家親子のみが責任をとらされたようである。多分、基房や義仲の一存でなく、合戦の後任命されたり昇任した公家などと合議の上決定されたものだろう。
 「愚管抄」も事実のみを淡々と記録している。法皇の近臣が義仲に対抗して兵を集めたので、義仲がこれを排除したようだ。義仲は以後の政治的処理を基房に託したようだ。著者の慈円は兼実の弟で、基房は兄である。兄を悪役とは書きにくい。兄の基房の不始末の責任が同じ藤原一門の兄の兼実や自分にふりかかるのは避けたい。

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2007年6月21日 (木)

3.「義仲の天下六十日」「天は逆賊を罰す」

3.「義仲の天下六十日」「天は逆賊を罰す」

 [玉葉]十二月一日「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」伝聞、去る二十一日法皇の北面に仕える下級役人二人(大江公友)が伊勢の国に到着し、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等である)に告げ示した。たちまち飛脚を頼朝の許へ差し遣わした。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。
 「玉葉」1184年(寿永3年、元歴元年)1月20日「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」。「義仲の天下六十日」。「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤(ぜんしょう、前例)に比べ、猶その晩(ばん、おそい)きを思う。」「天は逆賊を罰す」「凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。」
 義仲の天下は六十日だった。信頼とは、平治の乱の敗者側の公家で藤原信頼である。次兄の藤原基房がこれに対応するのだろうか。武家の義仲と比較するのなら、何故、平治の乱の武家の義朝や清盛のクーデターの例が出ないのだろう。やはり黒幕は次兄の基房と考えていたようだ。義仲敗北後、公家で変更があったのは基房の子の師家が摂政を解官され、前摂政の基通は、合戦のとき逃亡したが復活した。参照1183年(壽永二年)11月19日 「基通宇治の方に逃げる」1184年(寿永3年、元歴元年)1月21日「基通摂政に還補せらる」。
 また、「義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、」とあるように、義仲は京都から退却するとき、京都を焼き払うといううわさだったが、そのような事はなく、放火や略奪は無かった。平家のように放火し、はやばやと退却したので、京都市内は略奪と放火の大混乱になったが、義仲の場合はそのような混乱はなかった。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」との一部の記述のみで、兼実は義仲の擁護者と誤解している人も義仲の敗死を「天は逆賊を罰す」と断じている記述を見れば誤解と納得するだろう。後日、義仲や義経を回顧する記述があるが、いずれも義仲や義経の乱逆とか反逆と記述している。

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