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2009年9月14日 (月)

5月25日「行家の首到来す」

「吾妻鏡」文治二年(1186)5月25日壬寅。
「行家の首到来す」
 一条能保様と北条平六兼仗時定それと常陸坊昌明などの飛脚が到着しました。前備前守行家の首を持ってきました。まず、その使者を御所へ呼び出されて、詳しいいきさつをご質問なされました。それぞれ答えて云いました。
「行家誅殺の状況」
 行家は最近和泉国や河内国を横行していると噂があったので、探しましたところ、先月の十二日に和泉国のある在庁官人の日向権守清実の所にいると密告を受け、行ってみて清実の近木郷の家を取り囲みました。その前に行家は後ろの山へ逃げて、ある民家の二階に逃げ込んだので、時定は後ろから攻め込み、昌明は前から攻撃しました。行家のお供をしていた武士が一人か二人が防ぎ戦いましたが昌明が捕まえ、北條平六時定が加わって、その場で行家の首を討ち取りました。他にも行家の息子の大夫尉光家も首を取りましたという。
 又、一条能保の手紙も着いた。行家を殺害したことを左少弁定長を通して後白河法皇に報告したところ、「そんな事は知らないから、摂政の兼実に報告せよ。」と云われました。そこで、摂政に告げたら、同様に「あずかり知らぬことだ。」と返答してきたので、鎌倉へ送りますという。
 この事件への感激は、常にない喜び方で、何よりも最高の恩賞を受けた様なものです。

(没年記事 官職歴)

 前備前守從五位下源朝臣行家

 大夫尉為家の十男

 治承四年(1180)四月九日八条院の蔵人に任命されました〔元の名は義盛で、この時に行家と改名しました〕

 寿永二年(1183)八月七日備後守に任官しました〔平家を追い出した手柄です〕

 同十三日備前守に転任しました。

検非違使従五位下左衛門権少尉同じ源朝臣光家

 前備前守行家の息子

 寿永二年十一月九日蔵人に任命され、左衛門権少尉に任官し、検非違使の朝廷の命令を受けました〔これも平家を追い出した手柄です〕。元暦二年(1185)六月十六日官職はそのままで位が上がりました。

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