三月七日「時政具申の条々奏聞終る」
「吾妻鏡」文治二年(1186)三月七日乙酉。
「時政具申の条々奏聞終る」
北條時政殿が申し出た、七カ国の地頭を辞退すること、兵糧米のこと、平家没官領のあちこちの事は、もう後白河法皇に伝えられましたと、左少弁定長が承って書いた文書を師中納言經房に渡しました。經房卿は同様に、その文書を北條時政殿に送られたという。
北條時政が申し出た事を後白河法皇に伝え終えました。
一つ 地頭の辞退について。年貢を取られる人たちのために、止めることはとても穏便な態度である。
一つ 総追補使について。それは名前を変えても、地頭と同じではないのか。それは、源九郎義經や行家が出てこなければ、頼朝様も何もやることは無いので、止めたほうがいいのではないかと考えられないのか。世間が落ち着かない間は、国ごとに総追補使を置いたり、広い荘園だけに決めて任命するのが良いのではないか。狭いところに皆任命して置いたら、縄張り争いで喧嘩が絶えないので、揉め事が尽きないのではないか。そうすれば、庶民達の嘆きも少なく出来るし、義經や行家を見つけ出す方法にもなるのではないのか。
一つ 兵糧米の未納について。道理に従って、処理をしてほしい。
一つ 没官領について。二位卿頼朝が特に意見が無いので、判断を下すことが出来ない。
以上のこと、この内容で検討をして欲しい。このような細かいことはいちいち取り立てて述べるつもりはないので、良く心情を汲み取ってください。今年の春に、農業を円滑に進めるようにしなければ、全てが無いも同然となってしまうから、労わりの心をもって処理をすれば、さぞかし天やお上の意思に叶うことになる。それが本当の院のお心であることは、このとおりです。
三月七日 左少弁定長
差し上げます 師中納言殿
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