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2009年9月

2009年9月29日 (火)

建久六年(1195)2月12日「行家・義経の残党確認のため、能員・常秀上洛す」

「吾妻鏡」建久六年(1195)2月12日戊辰。
「行家・義経の残党確認のため、能員・常秀上洛す」
 今日の明け方、比企藤四郎右衛門尉能員と千葉平次兵衛尉常秀が使節として急に上洛した。これは、前の備前守行家、 大夫判官義顯(義経)の殘黨等が今も東海道あたりに於て在存す。今度の御上洛のついでを伺い、復讐の志を果たそうとしているとのうわさがあるので、道中の妨げになることから、先ず驛々に於て事情を尋ね聞き、若し事實ならば、計略を廻らし逮捕するべしの旨、將軍の命を受けていたという。兩人共に供奉の人數となっていたが、勇敢で知られ、急にこのようになったという。

(源行家史は終了です)

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2009年9月28日 (月)

建久3年(1192年)1月5日「平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱」

[玉葉] 建久3年(1192年)1月5日 甲戌
「平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱」
 国家の理乱は、病に例えて知るなり。(中略)暴悪国に満つといえども、追罰はげしければ、たちまち一時に退散し、旧に復する本の如し。当世の貴賤、目に見、耳に聞く所なり。平家九郎の反逆、義仲行家の禍乱、皆もってかくの如し。

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2009年9月27日 (日)

文治5年(1189)4月4日「頼朝、朝方が行家に同意すという」

[玉葉] 文治5年(1189)4月4日 甲子 
「頼朝、朝方が行家に同意すという」
 昨夜、公卿の勅使が入京した。(中略)
 夜に入り天王寺より帰り来たる。頼朝卿が申した、大納言の朝方卿は行家に味方するの間の事、お言葉を下さる所であるという。

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2009年9月26日 (土)

文治四年(1188)6月17「昌明の上洛に便宜を計る」

「吾妻鏡」文治四年(1188)6月17日辛巳。
「昌明の上洛に便宜を計る」
 常陸房昌明は、最近京都から参った者です。元は延暦寺に住んでいて、武勇で名の通った人です。特に前備前守源行家を討ち取ってからというもの、人は彼に一目置くようになったという。それなのに、強田あたりに領地を持っていたのですが、思わぬことに地頭職を取上げられてしまったので、憂い訴えるために京都へ上ろうと考えました。便宜を図ってもらうように、お手紙を京都駐屯の御家人に対し、一筆書いて下さいと望んで言上しました。そこで、昌明が京都に居る間は、旅行用の食料を希望したら望みどおりに与えるように、一条能保に言いつける手紙を、昌明に与えられました。昌明は内緒でその手紙を開いて読んでしまい、怒りながら手紙を持って文句を言いました。このお手紙は、わざわざ申し出たのにです。でも、この趣旨を良く考えてみたら、一見恩を与えられたように思えるけど、まるで罰のようだ。どうして恥ではないと云えるだろうか。全然旅行の為の食料を望んだわけではない。訴えに京都へ行くので、単に用心のためなのだ。勇敢な武士だとの褒め言葉には、有り難い事だと云ったので、頼朝様はお気にいられ、直ぐに筑後權守俊兼に命じて、書き換えさせました。僧ではあるけれども、勇士である。京都に駐屯している間は、そばにおいて警備させると良いでしょう。右兵衛督殿。と書いてあげましたという。それ以来、昌明は特に機嫌が良いとのことです。

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2009年9月25日 (金)

8月27日「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」

「吾妻鏡」文治三年(1187)8月27日乙未。
「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」
 下河邊庄司行平は、鎌倉幕府の公式の京都朝廷への交渉の使者として京都へ向かい出発しました。これに、色々な事を京都朝廷への申し入れるためです。
一つ 強盗の群れのこと
  京都に詳しいものの仕業か、もしくは京都周辺の武士であろうか。どちらにしても良くお調べいただくことです。
一つ 江大夫判官検非違使大江公朝の下男が悪い業績について
  河内国で、関東の御家人だと偽って、居座ってあくどい業績をしていると噂に聞いています。全く頼朝とは関係のないやつなので、良く調べてください。
一つ 院の直属の武士の検非違使任命について
   このような官職に就くことは、最近では誰もが望んでいますが、以前はたやすく認められませんでした。よくよくそのふさわしい人柄を選んで、より分けて任命するべきです。
一つ 壱岐鼓判官平知康について
   義経、行家に味方している者です。ですけど特に意見はありませんので、京都朝廷にお返しするので判断してください。
一つ 朝廷へ尽くした人達の子孫について
   先祖が朝廷への手柄の有る人達の子孫が浮かばれないのは、朝廷の怠慢である。特に政務担当に任命されるように。
一つ 西八条の屋敷地について
   平家から没収した領地として戴きましたが、朝廷でもお使いになられたいと、内々にお聞きしましたので、早くどうするか決めてください。
一つ あちこちの地頭たちについて
   前もって、すでにそれぞれに良くいい気かせてあります。若し頼朝の指示に従わない奴がいましたら、教えていただければ、罰を与えます。
 以上の事柄を、朝廷の公平を考えて、申し上げます。
    文治三年八月二十七日

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2009年9月24日 (木)

5月4日 「義経美作山寺で斬らるという」

[玉葉] 5月4日 乙巳 雨降る 
「義経美作山寺で斬らるという」
 伝聞、義顕(義経)が美作の国(岡山県北部)の山寺に於いて斬られました。その次第、南都(奈良)を逃げ去り美州の山寺に移住した。而るに近辺の寺僧の報告が関東に達した。頼朝卿専一の郎従加藤太光員・弟加藤次景廉が件の山の寺僧と知人である。仍って報告を遣わすという)。件の加藤次丸はなお疑貽を成し自身上洛せず、郎従五人(その中一人義顕を見知るの者有るなり)を派遣した。件の案内者を以て示し承るため件の山寺に入る。即ち義顕の頭をとりました。この事去る月の晦日という。即ち四ヶ日上洛、昨日(三日)入京、今日関東に馳せ下向したという。事もし実ならば、天下の悦びなり。
 諸宗にお祈りを命じ、(中略)行家は征伐しました。今またこの修中義顕(義経)が征伐されました。仏法の霊功は仰ぐべく信ずべし。

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2009年9月23日 (水)

治三年(1187)1月23日「知康処分重ねて京に奏聞す」

「吾妻鏡」文治三年(1187)1月23日乙丑。
「知康処分重ねて京に奏聞す」
 前検非違使で鼓判官平知康が、行家や義顯(義経)の反逆行為に加担していた事がばれてしまったので、一時の災いを逃れるため鎌倉へ言い訳にやってきました。罪科を、頼朝様は京都朝廷の役人なので鎌倉幕府では決定できないと考えたので、何度も後白河法皇に処理を尋ねましたが、未だにどうするのか、申し上げた事に対し、はっきりとした院の裁定が来ないので、不満てあると中納言吉田経房のところへ言い伝えました。

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2009年9月22日 (火)

12月11日「平知康陳弁のため関東に参向す」

「吾妻鏡」12月11日 甲申
「平知康陳弁のため関東に参向す」
 去年、行家・義顕(義経)等に味方した逆臣の事、二品(頼朝)の御怒りに依って、或いは現職を解任され、或いは配流の官符を下されました。その中、前の廷尉知康は特に奇怪を現すの間、憤り申されるの処、陳じ申すべしと称し、関東に参向する所である。いかように指図するべきでしょう。天皇のお定めに従うべきの旨、京都の朝廷に申されるべきの由という。

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2009年9月21日 (月)

11月18日「義経捜索の事につき院殿上にて僉議あり」

[玉葉]11月18日 辛酉 天晴 
「義経捜索の事につき院殿上にて僉議あり」
 義行(義経)を逮捕すべきの間の事、細々と相計り、人々に問うべしといえり。(中略)
奉行職事の親経を呼び、命じて云く、人々の議定の趣、完全に申し上げるべし。この上に私の案旨、同じく申し伝えるべし。
    義行召し取らるべきの間の事
 諸社諸寺・京中畿外、宣旨(天皇の命令)を与えるべき事、同じく載せらるべきの趣等、人々の定め申す如く、特に以てお言葉を下さるべし。兼ねてまた猶呼び出す所の縁者等に尋問され、もし称し申す旨有らば、その状に随い、在所と云い境界と云い、尋ね指図されるべきか。兼ねてまたこの事、もし怠慢を致し遂に功績をあげなければ、たちまち武士を派遣すべきの由、各々きつく命令すべし。人々の驚き恐れ、この深きに過ぐべからざるか。
「義経捜求のため五壇法行わるべし」
    御祈りの事
 先ず尤も五壇法を行わるべきなり。これに就いて二議有るべし。一は諸宗知法の輩を召し、天皇の御所もしくは法皇御所の塗連壇に於いて行われるべきか。まさに又天台嶺の如きの結界の地に於いて、一向その所に命じ、丁寧に始修せらるべきか。(後略)

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2009年9月20日 (日)

7月30日「義経が比叡山にあるとの風聞」

[玉葉]7月30日 乙巳 晴 
「義経が比叡山にあるとの風聞」
 午後10時頃、慈円法印が慶俊律師を使いとして示されて云く、今朝、能保朝臣が慈円法印の許に参り、義行(義経)が比叡山の僧兵の許に在るの由風聞有り。その間の事について、能く指図を致さるべしという。よって私の案の評定に及ぶところ、しかるに能保その事を用いず、力及ばずという。
「中原広元関東に下向す」
 大江廣元が昨日下向したという。法皇の数十枚の御書、遅延のため怠慢するという。

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2009年9月19日 (土)

7月19日「小除目、北条時定左兵衛尉に任ぜらる」

[玉葉]7月19日 甲午
「小除目、北条時定左兵衛尉に任ぜらる」
 この夜、小々の人事異動がありました。太宰府の次官の敦綱(肥後の国司)を宇佐神宮の遷宮に参会させるためである。左兵衛尉時定を呼び出しにより行家、有綱等の討伐の賞を与えるものである。

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2009年9月18日 (金)

7月11日「頼朝、行家の没後を弔ふ」

「吾妻鏡」文治二年(1186)7月11日丙戌。
「頼朝、行家の没後を弔ふ」
 故前備前守行家 〔さる五月十三日に殺しました〕の死後を弔う供養のために、明日法要の式典をするので、今日の夕方に筑後權守俊兼が担当して、お布施の品物を行慈法橋の所へ届けさせたという。

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2009年9月17日 (木)

6月21日「近畿の守護・地頭を停め、諸国武士の乱暴を禁ず」

「吾妻鏡」文治二年(1186)6月21日丁卯。
「近畿の守護・地頭を停め、諸国武士の乱暴を禁ず」
 行家・義経の隠れている場所を探し出すために、京都とその近くの関西には、守護や地頭を置きましたけど、その武士達は兵糧米を徴収すると理由をつけて、年貢の横取りをするので、人々はこれを苦しみ悲しみだと訴えが多くて、何処の国においてもおとろえ疲れているとの事だという。仕方が無いので、義経の決着を着いていないと待つべきだろうけど、人々が嘆いているので、諸国の守護の武士や地頭を停止する。但し、関西の平家から取上げた領地では、そうはいかないと、頼朝様は京都朝廷へお申し出になり、師中納言吉田経房を通じて、後白河法皇に手紙を渡すように、検非違使大江公朝が京都へ帰るので、そのついでに預けました。又、因幡前司大江広元を訪問の使節団として京都へ行かせます。
「武士の乱暴を停むべき国々」
 世間を鎮めるために後白河法皇が院宣をよこしたからです。とんでもない事をしているのを調べて、武士の横取りを止めさせるべき国々

  山城國(京都府)  大和〃(奈良県)  和泉〃(大阪府)  河内〃(大阪府)  攝津〃(大阪府)   伊賀〃(三重県)

  伊勢〃(三重県)  尾張〃(愛知県)  近江〃(滋賀県)  美濃〃(岐阜県)  飛騨〃(岐阜県)   丹波〃(京都府)

  丹後〃(京都府)  但馬〃(兵庫県)  因幡〃(鳥取県)  伯耆〃(鳥取県)  出雲〃(島根県)   石見〃(島根県)

  播磨〃(兵庫県)  美作〃(岡山県)  備前〃(岡山県)  備後〃(広島県)  備中〃(岡山県)   安藝〃(広島県)

  周防〃(山口県)  長門〃(山口県)  紀伊〃(和歌山県) 若狹〃(福井県)  越前〃(福井県)   加賀〃(石川県)

  能登〃(石川県)  越中〃(富山県)  淡路〃(兵庫県)  伊豫〃(愛媛県)  讃岐〃(香川県)   阿波〃(徳島県)

  土佐〃(高知県)
右の三十七の国では、後白河法皇の命令書院宣を出されて、武士達の横取りについて、あちこちのいけない事を調べて直させ、おかしな行いを正統な手続きに直して下さい。
「鎮西九国鎮定は経房の沙汰とす」
 但し、九州の九カ国については師中納言の発言に任せます。したがって、その命令に従って横取りを止めさせ、間違いを直しなさい。
「伊勢の地頭を改補す」
 又、伊勢国では、伊勢平氏の残党が反対勢力として蜂起しており、それに味方する連中が未だに源氏への反逆を止めないので、その連中を抑えるために、地頭の平氏に替えて、鎌倉から地頭を駐在させました。そもそも、各国に治安維持として配置された武士達が、神社やお寺や公卿達の領地で、頼朝の命令書も持たず、根拠もなしに我侭勝手に横取りをするとは、全くとんでもないことだとお怒りになられております。
 今は、後白河法皇の命令書をそれらの国へ出されて、武士達の横取りについて、あちこちのいけない事を止めさせて、天下を清く正しくしましょう。伊勢国ばかりでなく、反逆者達が隠れていた国は、反逆者のものだった所領に、地頭を任命しておいています。但し、荘園は本家や領家への労働奉仕を、国衙は国司からの労働奉仕を昔からの例の通りに勤めるように命令を出します。それぞれこの命令を守って、公への年貢をまずきちんと納めなくては、その職の本来の役目を果たすことが、何よりも大事でしょう。もしその中に荘園領主を無視したり、国衙への義務を果たさないような、とんでもないやつ達は命令書の通りに、その罰を与えます。特に武士の事は、頼朝も賜っていないので知らない所を、人から寄付してもらったと云ったり、又は先祖代々の証拠が無いと云って横取りをした所が、沢山あると承っています。そういうところにこそ院宣を渡して、間違いを正させ、又、たとえ反逆者たちの領地だったので地頭を置いたとしても、その理由がはっきりとある所でも、後白河法皇が地頭を止めさせるようにおっしゃられる所は、云われる旨に従い、地頭を止めさせます。どうして院宣に背くことが出来ましょうか。この内容でお伝えするように、師中納言吉田經房に云って置きます。

  文治二年六月二十一日                      花押

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2009年9月16日 (水)

6月6日「義経捕縛宣旨」

[玉葉]6月6日 壬子 天晴 
「義経捕縛宣旨」
 午後2時頃、定経が来た。義行(義経)を討つべきの宣旨の事、後白河法皇に申し上げた処、早く宣下すべきとのお言葉が有りという。その宣旨の状これを見せました。
    文治二年六月六日       宣旨
 謀反の首領たる前の備前の守源行家、前の伊豫の守同義行(義経)等、敗走の後、帰降の思いを成さず。殆どギョウ語の聞こえ有り。広く都やその他の地に命じ捜索したところ、行家はすでに誅殺された。義行(義経)が独り逃げ脱出した。戮竇を歓ぶと雖も、なお檎充せんと欲す。重ねて京都近くや全国の国の長官等に命令する。たしかに義行(義経)の身を逮捕し差し出すように。もし特別の功績が有れば、破格の賞を与える。
                    蔵人の頭左中弁藤原光長(奉る)
「義経の母常磐を捕らえて在所を問い石蔵を捜索するも義経逐電す」
 人伝えて云く、義行を逮捕する為、武士が東西に馳走すという。能保に尋ね遣わすの処、申して云く、大内惟義が在所を聞き得るの由申した。然れども未だ実説を知らず。
 伝聞、先ず母並びに妹等を逮捕し、在所を問うの処、石蔵に在るの由を称した。武士を遣わすの処、義行(義経)は行方をくらまし逃げた。房主僧を逮捕したという。その後の事未だ聞かず。入道関白が申されて云く、昨日命令を受けた鞍馬寺住僧の事すでに逮捕した。何処に送るべきかという。能保の許に送るべきの由命令した。

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2009年9月15日 (火)

5月28日「行家誅殺叡感ある由の院宣到る」

「吾妻鏡」文治二年(1186)5月28日乙巳。
「行家誅殺叡感ある由の院宣到る」
 後白河法皇からの手紙が届きました。これは、先日の十六日付けの手紙です。行家を葬ったことを喜んでいるとの事だという。行家は殺され、その首は京都の町へ届けられたのは、天下のために良いことをしたと書かれています。左馬頭一条能保が取り扱ったからです。これについて、始めは後白河法皇は不機嫌だったと、一条能保様の手紙に書いてあったので、かなり頼朝様はひどく心配していたのですが、この手紙を見て、ご心配が無くなったという。

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2009年9月14日 (月)

5月25日「行家の首到来す」

「吾妻鏡」文治二年(1186)5月25日壬寅。
「行家の首到来す」
 一条能保様と北条平六兼仗時定それと常陸坊昌明などの飛脚が到着しました。前備前守行家の首を持ってきました。まず、その使者を御所へ呼び出されて、詳しいいきさつをご質問なされました。それぞれ答えて云いました。
「行家誅殺の状況」
 行家は最近和泉国や河内国を横行していると噂があったので、探しましたところ、先月の十二日に和泉国のある在庁官人の日向権守清実の所にいると密告を受け、行ってみて清実の近木郷の家を取り囲みました。その前に行家は後ろの山へ逃げて、ある民家の二階に逃げ込んだので、時定は後ろから攻め込み、昌明は前から攻撃しました。行家のお供をしていた武士が一人か二人が防ぎ戦いましたが昌明が捕まえ、北條平六時定が加わって、その場で行家の首を討ち取りました。他にも行家の息子の大夫尉光家も首を取りましたという。
 又、一条能保の手紙も着いた。行家を殺害したことを左少弁定長を通して後白河法皇に報告したところ、「そんな事は知らないから、摂政の兼実に報告せよ。」と云われました。そこで、摂政に告げたら、同様に「あずかり知らぬことだ。」と返答してきたので、鎌倉へ送りますという。
 この事件への感激は、常にない喜び方で、何よりも最高の恩賞を受けた様なものです。

(没年記事 官職歴)

 前備前守從五位下源朝臣行家

 大夫尉為家の十男

 治承四年(1180)四月九日八条院の蔵人に任命されました〔元の名は義盛で、この時に行家と改名しました〕

 寿永二年(1183)八月七日備後守に任官しました〔平家を追い出した手柄です〕

 同十三日備前守に転任しました。

検非違使従五位下左衛門権少尉同じ源朝臣光家

 前備前守行家の息子

 寿永二年十一月九日蔵人に任命され、左衛門権少尉に任官し、検非違使の朝廷の命令を受けました〔これも平家を追い出した手柄です〕。元暦二年(1185)六月十六日官職はそのままで位が上がりました。

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2009年9月13日 (日)

5月20日「信円行家の兄弟大進君を召し送る」

[玉葉]5月20日 丁酉 天晴 
「信円行家の兄弟大進君を召し送る」
 奈良の僧正信円が南都奈良の寺僧(大進君、行家の兄弟という)を呼び出し送られた。もし大した違反が無ければ、恥辱を受けるのは、尤も不便の由を示された。
「北条時定の召す所なり」
 件の者は公家より呼び出しの儀に非ず。平六兼仗時貞が私の使者を以てこれを呼び出すという。
「兼実能保に武士の狼藉を責む」
 仍って私は使者を能保朝臣の許に遣わし示唆した。御寺の事は、ひとえに長者の指図によるものである。もし犯人ならば、長者に知らせ氏院より御寺に命じ、呼び出し進上すべきである。武士が直に家来を以て厳しく責め立てるのは、はなはだ乱暴というべし。この如き事は最も権威で押し留めるべきである。

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2009年9月12日 (土)

5月17日「行家の首関東に送らる」

[玉葉]5月17日 甲午
「行家の首関東に送らる」
 親雅が来て雑事を申した。宗頼がまた雑事を申した。行家の首を関東に遣わすという。

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2009年9月11日 (金)

5月16日「行家の首入洛す」

[玉葉]5月16日 癸巳 晴 
「行家の首入洛す」
 この日、行家の首が京都に入った。これより先、能保朝臣が使いを送り申して云く、行家の首は大路を渡し、検非違使の役所に渡すべきかどうか。私は云く、後白河法皇に申し上げ、お言葉にしたがうべしという。また云く、駿河の二郎(行家の家来)も同じく逮捕したという。
 今日、関東より書状を光長朝臣に送りて云く、世上の事殊に計り申さるべきの由、議奏公卿(頼朝の推挙した10人が合議し申し上げる)の許に知らせる所である。その旨御存知有るべし。

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2009年9月10日 (木)

5月15日「源行家和泉にて捕えらる」

[玉葉]5月15日 壬辰
「源行家和泉にて捕えらる」
 午前8時頃、光長朝臣が報告を送りて言う、和泉の国(大阪府南部)に於いて備前の前司行家を逮捕した。北條時政の代官で平六兼仗時貞、相親しき者・国人相共にこれを逮捕したものである。天下の運報未だ尽きず。喜ぶべし喜ぶべし。

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2009年9月 9日 (水)

五月十三日「洛中群盗頻発の院宣到来す」

「吾妻鏡」文治二年(1186)五月十三日庚寅。
「洛中群盗頻発の院宣到来す」
 紀伊刑部丞為頼が飛脚として京都から到着しました。後白河法皇の手紙院宣を持ってきました。夜に日を継いで急いで行く様に、師中納言吉田経房様から云われたという。北條時政殿が関東へ帰ってからは、京都の都の中では、乱暴狼藉が数え切れないほども起きております。先月二十九日にも、上京下京あわせて七箇所で強盗事件がありましたという。
 世の中が物騒がしいことは、恐らく耳に入っていると思いますが、都の噂が信じられなくても、色々の人が色々な事を云っている事も、まるっきり無駄とも云えません。時政が京都に駐屯しているときは、法皇も安心しておられましたが、他の武士を変わりに派遣してきても、時政が京都の治安維持を勤めるのが良いのだと、何度もお伝えもしたし、本人にも言い含めました。しかしそれでも関東へ下ってしまったので、このような事件が起こるのでしょう。義経と行家が京都市中にいるという噂もありました。もしそれが本当ならば、天罰覿面に捕まるだろうに、何で見つけられないのでしょう。一説には、比叡山の僧兵達の中に味方している者がいるとも云われている。そんなことが表ざたになり、もし本当の事ならば、朝廷にとってもまずい事になるでしょう。普段からあちこちに命じて探させていますが、比叡山は云うことを聞きません。この際だから、実力で力ずくに探し出す方法もあるけれど、証拠も無いのに力ずくで乗り込んでいけば僧兵と衝突し、それでなくても落ちぶれてきている天台宗の仏法を滅ぼしてしまうことになりかねないかもしれません。それもこれも法皇は困った事だと頭を悩ませております。もし、そのような事が起これば、法皇の為に、禍々しいとんでもないことなので、法皇も驚かれることでしょう。先月二十日の手紙〔使いは為頼〕を一昨日受け取りました。そのついでに、このことをお伝えいたしましたが、きちんと伝わらないといけないし、又疑いを晴らすためにも、もう一度お伝えするのだとおっしゃっておられる後白河法皇のお言葉はこのとおりです。それでは、宜しくお伝え申し上げます。
   五月六日  経房
 謹んで差し上げます  源の二位殿

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2009年9月 8日 (火)

5月10日「定能院の書札を伝う」

[玉葉]5月10日 丁亥
「定能院の書札を伝う」
 今日、定能が後白河法皇の御使として来た。色々の事を申した。世上物騒の事(義経や行家等が法皇御所や前の摂政(基通)家中に在り。仍って捜し求むべきの由の事、また私(兼実)は夜打ちを恐れ九條亭に帰るの間の事、以上確かに尋ね指図すべしと)、一所の所領の事(私が押領の企みが有るか、尤も不当という)。各々御返事を申しました。

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2009年9月 7日 (月)

4月25日「義経・行家の徒党京中に在りと風聞す」

[玉葉]4月25日 壬申 天晴 
「義経・行家の徒党京中に在りと風聞す」
 今日、基親・親経等が来た。條々の事を申した。義経・行家の徒党が京中に在るの由風聞有り。但し信用を為せざるものか。

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2009年9月 6日 (日)

四月二十日「叡山僧義経に同意すとの風聞」

「吾妻鏡」文治二年(1186)四月二十日丁夘。
「摂政家領の配分につき京都に申さしむ」
 摂政九条兼実の領地について、頼朝様は京都の後白河法皇に申し入れました。その内容は、前摂政近衛基通殿は、父基実の妻白河殿盛子の領地だといって、氏寺の興福寺領と春日大社の領地以外を全部独り占めしてしまったという。これはとても都合の悪いことであります。現在政治を司る摂政が領地が無いのではないですか。平家が盛んな時に、中摂政長男の基実殿の後家だからと白河殿盛子がすっかり手に入れてしまった所なのです。二男の松殿基房はわずかに興福寺領を治めています。その時の分配の判断がとんでもないでたらめな政治ではありませんか。藤原氏代々の領地は、摂政が預かるべきではないのですか。だから摂政を退いた基通殿は、祖父の忠実が娘で鳥羽天皇の皇后だった高陽院(かやいん)に与えた荘園五十余箇所あるという。それを基通が知行すればいいのではないですか。そう云う一番道理にかなう命令を出されるべきではないですか。と云っております。
「叡山僧義経に同意すとの風聞」
 又今日、行家と義經が未だ京都の中に居て、比叡山の僧兵達が味方をしてかくまっていると、話が聞こえているはずだから、特に命令を出してください。そうでなければ、強い武士達を比叡山に登らせて、その僧兵達を探して捕まえるように、朝廷の窓口関東申次ぎの師中納言吉田經房の所へ伝えさせました。この内容を源行部丞為頼〔元は新中納言平知盛の家来で故片桐為長の親類〕が使いとして京都へ旅立ちましたという。

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2009年9月 5日 (土)

三月十四日「行家・義経捜索の宣旨関東に到来す」

「吾妻鏡」文治二年(1186)三月十四日壬辰。
「行家・義経捜索の宣旨関東に到来す」

 行家と義經を探し見つけるように京都朝廷からの宣旨が、関東へ届きました。その言ってる内容は、

 文治二年二月三十日   命令する

 前備前守源行家、前伊予守源義經達は、悪い心を積み重ねて、謀反が発覚し、京の都で死なずに山中に逃げました。隠れ住んでいる場所の大雑把な噂があるので、見つけるように命令が出ました。場所は、熊野権現か金峰山それと大和、河内、伊賀、伊勢、紀伊、阿波などの国司は、確かに在処を探して、その身柄を拘束し差し出すように。
                   蔵人頭左中弁藤原光長が命令に従って書きました。

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2009年9月 4日 (金)

三月七日「時政具申の条々奏聞終る」

「吾妻鏡」文治二年(1186)三月七日乙酉。
「時政具申の条々奏聞終る」
 北條時政殿が申し出た、七カ国の地頭を辞退すること、兵糧米のこと、平家没官領のあちこちの事は、もう後白河法皇に伝えられましたと、左少弁定長が承って書いた文書を師中納言經房に渡しました。經房卿は同様に、その文書を北條時政殿に送られたという。

 北條時政が申し出た事を後白河法皇に伝え終えました。

 一つ 地頭の辞退について。年貢を取られる人たちのために、止めることはとても穏便な態度である。

 一つ 総追補使について。それは名前を変えても、地頭と同じではないのか。それは、源九郎義經や行家が出てこなければ、頼朝様も何もやることは無いので、止めたほうがいいのではないかと考えられないのか。世間が落ち着かない間は、国ごとに総追補使を置いたり、広い荘園だけに決めて任命するのが良いのではないか。狭いところに皆任命して置いたら、縄張り争いで喧嘩が絶えないので、揉め事が尽きないのではないか。そうすれば、庶民達の嘆きも少なく出来るし、義經や行家を見つけ出す方法にもなるのではないのか。

 一つ 兵糧米の未納について。道理に従って、処理をしてほしい。

 一つ 没官領について。二位卿頼朝が特に意見が無いので、判断を下すことが出来ない。

 以上のこと、この内容で検討をして欲しい。このような細かいことはいちいち取り立てて述べるつもりはないので、良く心情を汲み取ってください。今年の春に、農業を円滑に進めるようにしなければ、全てが無いも同然となってしまうから、労わりの心をもって処理をすれば、さぞかし天やお上の意思に叶うことになる。それが本当の院のお心であることは、このとおりです。

                      三月七日                                     左少弁定長

     差し上げます 師中納言殿

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2009年9月 3日 (木)

3月1日「義経・行家追討宣旨の事」

[玉葉]3月1日 己卯
「義経・行家追討宣旨の事」
 午後4時頃、事務所の長官で左中弁の光長が来た。云く、今日、九郎・行家追討の宣旨を内大臣の屋敷に持ち向かいこれを命令するという。

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2009年9月 2日 (水)

2月24日「関東より奏請能保衛府督に任ぜらるべし」

[玉葉]2月24日 壬申 晴 
「関東より奏請能保衛府督に任ぜらるべし」
 午後4時頃、朝廷の事務所の長官で左中弁の光長が来た。色々の事を申した。その中に左馬の頭の能保を近衛府か衛門府の長官に任命すべきの由、関東より吉田経房を通して法皇に申し上げた。而るに当時は欠員無し。どの様に行わるべきかと法皇のお言葉が有りという。(略)ただ法皇の決定が有るべし。
「対馬守親光還任すべし」
「親光平家の乱を恐れ高麗国に渡る」
 また対馬の守親光が復任すべきの由、同じく関東より申し込みありという。件の事は、治承三年、資材を朝廷に献じて当国の国守に任命された。直ちに任国に赴くの間、平家の乱に逢う。仍って彼の乱行を恐れ、高麗国に越え渡り、平氏滅亡の由を聞き、帰朝し在国の間、史大夫の清業が巡年に依って当国に任命されていた。而るに親光は関東に出向しこの詳細を知らせた。よって頼朝卿は平氏に従わざるの意趣に感心し、この旨を申し上げたという。私(兼実)は言う、これまた法皇の決定に在るべし。
「近日の事発言能わず」
 また云く、行家・義経等を猶捜索すべきの由同じく申し上げた。仍って命令すべきの由法皇のお言葉が有りました。天皇の命令書を与えるべきか。天皇より下の者の書を以て命令すべきかと。私は言う、大事である。天皇の命令書を与えるべきと言いました。

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