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「吾妻鏡」文治二年(1186)二月七日乙夘。
「平時実改めて上総告に配流せらる」
北條時政殿の使いが関東へ到着しました。先月の二十三日付けで、前中将平時実さんの流罪の太政官布告を発しました。周防の國の予定を上総国へ流罪に変更したという。
源頼朝二位殿の書状をお代えしします。時実は上総国へ流罪としました。よろしくご承知下さい。
正月二十五日 右中弁壬生兼忠
「広元、肥後国山本庄を賜はる」
今日、大江広元は肥後国山本庄を与えられました。それは、源九郎義經、源行家の反逆に際して、守護地頭の配置の進言が何より良かったので、特に感心され、まず第一に恩賞を与えられたものという。
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[玉葉]1月22日 辛丑
「時実罪状の事」
前源中納言雅頼が書札を送りて曰く、流人時実罪状の事、昨日政始め過ぎた。よつて罪名を考えるべき由下知すでに終えた。件の宣旨仰せ詞かくの如し。
(中略)
「宣旨の仰せ詞」
宣旨の仰せ詞、
文治2年正月22日 宣旨
流人の時実は配所に赴かず。逆党の義経や行家党に従い、逃げ去る間、なお網にかかり、再び京都に来た。原則的な掟の指す所の法律は一にあらず。よろしく法律の博士等をして所当の罪名を考え申さしむべし。
蔵人頭右中弁源兼忠
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[玉葉]1月17日 丙申
「頼朝配流の時実を召し進す」
今日、12時頃、蔵人頭右中弁兼忠朝臣が法皇の御使として来た。お言葉に云く、前の少将平時實、平家が滅亡した時、捕虜として入京した。病気に依って罪科を配流に処せられた。而るに配所に行かなかった。賊徒(行家・義経)に伴い九州に向かう時、彼等は逆風の為退散した。時實また捕虜として意外に関東に下向した。而るに源二品卿頼朝は件の時實を呼び出し進上する所である。即ち彼の卿の書札は此の如し。(その書状に云く、罪科を定められた。而るに配所に行かず、坂東に下る。頼朝が私に進止し難し。決定は天皇の定めに在るべし。仍って呼び出し進上する所であるという)
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「吾妻鏡」文治二年(1186)正月十七日丙申。
「頼朝、経宗の釈明を認む」
去年の暮れに、左大臣經宗様の使者が鎌倉へ来ていて、今日京都へ帰りました。頼朝様の返答が遅くなったからです。でも、来た甲斐が無いわけでは無いという。これは頼朝様追討の太政官布告を義經たちに発行したのは、左大臣の提案によると噂を聞いていたので、とても怒っておられました。「しかし、宣下がなければ、行家と義經は京都で謀反を企てたに違いない。太政官布告を受け取って九州へ行こうとしたから、法皇も公卿たちも安全でした。これがなんで不義だと扱われるのでしょうか」と云っていました。頼朝様は話を聞いて「仕方が無いと納得したので、承諾した。」とおっしゃられたという。
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[玉葉]12月30日 己卯
「泰経等遠流に処すべし」
今日、関東より飛脚が到来した。その書状に云く、大蔵卿泰経・刑部卿頼経等は、行家・義経に同意する者なり。早く遠流に処せらるべし。一人は伊豆、一人は安房という。経房に付くべきの由、光長にお言葉がありました(件の書状、光長の許に送るなり)。光長は書状を以て経房師卿に送る。返札に云く、申請に任せ、早く指図有るべしという。件の書状を以て関東にお言葉を遣わすべきの由、光長にお言葉がありました。
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[玉葉]12月27日
「行家・義経に同意の侍臣を罪科に処す」
右中弁光長が頼朝の書状等を持って来た。夢のごとく幻のごとし。珍事たるにより後々の参考のためこれを記録した。
(内容は12月6日と同文)
「頼朝書状」
「近国十一国の狼藉大略鎮む」
「沙汰人職」
「隆直等義経等をたのみ非分の謀を巧む」
「義経・行家跡をくらます」
「諸国庄園平均に地頭職を尋ね沙汰すべし」
「謀反人に同意の輩解官追却せらるべし」
「関東申す条々」
「議奏公卿の事」
「神祇より諸道まで計い行う」
「摂録の事」
「兼実に内覧宣旨下さるべし」
「蔵人頭の事」
「追討宣旨下すにより光雅停廃すべし」
(以下略)
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「吾妻鏡」文治元年(1185)十二月二十三日壬申。
「勅使として吉田経房下向の風聞」
師中納言吉田經房が朝廷の使いとして、下ってくると、今日関東に噂が届きました。すでに後白河法皇も許可をしているという。それは行家と源九郎義經の事で、色々と箇条書きにして申し出た事への回答をするためだろうか。頼朝様は恐れ入り申し訳ないと思ひ、「申し上げることは使いの者と手紙を使って云っています。法王からは奉書をいただければ私のほうでも分かりますので、そんな偉い公卿程のお方が使いとして長旅をしてくるなんて、絶対遠慮しておきます。」という。
「前對馬守親光還任を執進す」
また、前對馬守親光は、朝廷のため、武門のため大きな功績をあげたが、意に反して国司の任務先を変えられました。元の立場に返りたいと、盛んにこぼしているので、頼朝様はこの話を申し入れになられたという。
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「吾妻鏡」文治元年(1185)十二月六日乙卯。
「行家・義経に同意の侍臣を罪科に処す」
今度のことで、行家や義經に味方をした朝廷の人達と北面の武士達の事が事細かに関東に知らされました。そこで、頼朝様は罰を与える為に名前を正式の文書に書いて師中納言吉田經房へ出させました。その上で、特に源九郎義經と悪巧みを構えた人六人を弾劾するように申し入れるよう、北條四郎時政殿に伝えられました。その六人は侍從良成、少内記信康〔伊豫守義經の書記官〕、右馬權頭平業忠、兵庫頭藤原章綱、大夫鼓判官平知康、信盛、右衛門尉信實、時成達です。又、右大臣兼実は、関東を贔屓していると聞いたので、仲良くするために一通の手紙を差し上げました。大江広元、三善善信、筑後權守俊兼、大和判官代邦道などがこれらの手紙を考えて用意しました。院へ奏上する手紙に書いてあることは。
「議奏公卿の設置、兼実以下の替補等を院奏す」
一、議奏の公卿
右大臣(兼実)(内覧の宣旨を下さるべし) 内大臣(藤原実定)
権大納言實房卿 宗家卿 忠親卿
権中納言實家卿 通親卿 経房卿
参議雅長卿 兼光卿
以上の卿相、朝務の間、先ず神祇より始めて、次いで仏道に至る。彼の議奏に依って、これを計り行わるべし。
一、摂録の事
内覧の宣旨を右大臣(兼実)に下さるべきなり。但し氏の長者に於いては、本の人(藤原基通)のままとする。
(中略)
解官の事
参議親宗 大蔵卿泰経 右大弁光雅
刑部卿頼経 右馬の頭経仲 左馬権の頭業忠
左大史隆職 左衛門の尉知康 信盛 信實 時成
兵庫の頭章綱
行家・義経等に同意し、天下を乱さんと欲すの凶臣なり。早く現職を解官し、これを追放すべきである。兼ねてまたこの外、行家・義経が家人・追従・勧誘の人々も、その罪の深さを取り調べて、官位ある人々については、それぞれ解官停廃すべし。僧・陰陽師の類が含まれているとの噂がある。同じくこれを追放するべし。
十二月六日 頼朝(在判)
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[玉葉]11月26日
「頼朝追討宣旨奉行の人々損わるべしという」
大夫吏隆職が来て言う、昨日、或る武士語り示して云く、頼朝追討の宣旨奉行の人々、損亡すべしという。この事また信受せられず。議奏の人猶以て重科に非ず。況や奉行の弁史をや。但し近代の事、いささかの事に依って追捕に及ぶ。この條極めて以てその恐れ有りという。去る夜鎌倉より泰経卿の許に書札有り。法皇の御所に於いて相尋ねるの処、当時祇候せざるの由、人々これを答う。時に大怒し文箱を中門廊に投げ逐電したり。(中略)頼朝の書札を披見するの処、先づ立文の表書に云く、大蔵卿殿御返事、(文面11月15日条に同じ)
「頼朝書状」
「法皇は日本国第一の大天狗」
「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
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「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月二十六日乙巳。
「高階泰經、謀反同意の科により籠居す」
大藏卿高階泰經様が、蟄居謹慎しました。それは、源九郎義經が望んだ頼朝追討の宣旨を出したのは、泰經様が取り次いだことを、頼朝様が特に怒っていると、後白河法皇の耳に入ったので、法王が蟄居を命令したという。実は、泰經が行家や義經の謀反に味方したと書かれた紙を竹の棒にはさんで、昨日師中納言經房の屋敷に届けた者が居て、經房は驚きながらこれを見て、右少弁定長を通して後白河法皇に見せたからという。
「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
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「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月二十五日甲辰。
「北条時政入洛す」
今日、北條時政殿が京都に入ったという。行家と義經の反逆の事について、頼朝様が不満に思っていることを、師中納言吉田經房を通して事細かに、後白河法皇に申し上げました。
「行家・義経追捕の宣旨下る」
そこで今日、色々と会議を開かれ、今度は行家、義經を絶対に見つけ出すように、宣旨が下されました。その内容は
文治元年十一月二十五日 宣旨
前備前守行家と前伊予守義經は、好きなように勝手に野心を持って、とうとう九州へ行きました。しかし、摂津国で出航しようとしたら、ばちが当たって逆風によって、押し戻されてしまいました。本当に天罰が当たったのです。難破して漂流して没したとの噂もあるけれども、死んだという確信はありません。早々に従二位源頼朝様に命じて、直ちに見つけ出し、その身柄を捕らえるように。
藏人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅が法皇の命で書きました。
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[玉葉]11月20日 己亥。
「義経退散の賞」
隆職の許より僧の事の文書を進らす。去る夜行われたという。義経行家等、法皇を取り奉るべき由風聞の間、事を追討に寄せ、行われし御祈り等、効献ありし故賞を行われた(法皇を動かし奉らず、無為にして退散した。よって御祈りの効能となすなり)
[玉葉]11月23日 壬寅 天晴
伝聞、頼朝は義経・行家等退散の由を聞き、早く以て帰国すという。(中略)
[玉葉]11月24日
この日隆職が来た。頼朝追討の宣下の間の事、すこぶる激怒の気配が有るの由、上洛の武士が申す所なりという。伝聞、頼朝の妻の父、北條四郎時政が今日入洛した。その軍勢は千騎という。近国等は件の武士の支配たるべきの由、世間の噂は謳歌した。
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「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月二十日己亥。
「八島時清、義経生存の報を京に伝ふ」
伊予守義經と前備前守行家は、京都を出立して、先の六日に大物浜で船に乗り込み、出航しようとした時に、逆風に吹き戻されて船は難破してしまいましたと、話が伝わってきたところへ、八島冠者時清がその二日後の八日に京都へ帰ってきて、二人とも死んではいないようだと報告したという。
「義経に同行せし平時実捕はる」
次に、平時忠の子の讃岐中将平時実は、流罪の判決を受けていながら、未だに京都に住んでいました。それが、今度は源九郎義經と一緒に九州へ行くことにしました。しかし、船の難破で失敗して、源九郎義經についていた侍達がばらばらに逃げ散ってしまったので、京都へ戻る途中で村上右馬助經業の弟の禅師経伊が生け捕りにしたという。
この二つの報告は、後白河法皇のお耳に達したと伝わってきたという。
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[玉葉]11月18日
「頼朝上洛の伝聞」
伝聞、頼朝卿決定国を出て、当時駿河の国に就く。彼の国より先立つ上洛の武士の説という。その後、参河・遠江の辺に於いて、一両日逗留すべしという。入洛の行程を計るに、今月二十五六日に及ぶべしという。或る説に、また九郎・十郎退散の由を聞き、路より帰国すべしという。然れども多分上洛の由、謳歌する所なり。なおこれを信受せず。
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「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月十五日甲午。
「高階泰經様の使者、陳弁のため鎌倉に到る」
大藏卿(大蔵大臣)高階泰經様の使いが鎌倉へ到着しました。処罰を恐れてか、直ぐに幕府へは行かず、左典厩一条能保様の屋敷へ行って、お手紙を鎌倉殿頼朝様に献上するのですと伝え、他の一通を一条能保様へ献上しました。義經たちの事は、私の意思でやったのではなく、ただ武力を恐れて云うがままに後白河法皇に取り次いだだけです。どう云う具合にお耳に入っていますか。世間の噂を本気にして、簡単に処罰されないように、なだめるように云って聞かせてくださいという。一条能保様はその使いを一緒に連れて行き、詳しい話を頼朝様に申し上げました。高階泰經様の手紙を開き見て、筑後權守俊兼が声を上げて読みました。
「頼朝の反論」
その内容は、「行家と義經の謀反の事はひとえに天魔のなす処です。もし、(頼朝追討の)宣旨を下さらなければ、宮中に入って自殺すると言ってきたので、当面の災いを逃れるため、一度は朝廷の許可を出したことになりますけれど、本心は別なので、本当の許可はしていないのと同じなのだそうです。」これで後白河法皇の本心が伝わりましたでしょうか。二品頼朝様は、返事を使者に投げられておっしゃいました。
「行家と義經の謀反の行動を許可したのは、天魔の所為だとおっしゃられてきた事は、はなはだ根も葉も無いことじゃないか。天魔とは仏法に対して妨げ成し、人に対して煩いをするものである。頼朝は朝廷に敵対した平家を降伏させ、年貢の徴収などの務めを朝廷に忠実に奉仕しているのです。それを何で反逆者扱いをして、よく考えもせずに簡単に院宣を下されたのか。行家も義經も行方を捜して召し取るまでは、諸国も荒れ果ててしまい、人民も滅亡してしまうではないか。その原因を作った日本第一の大天狗は、どう考えても他の者ではない」という。
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[玉葉]11月12日 辛卯 天晴。
隆職が来た。世上の事を談ず。夜に入り光長が参上した。申す事等あり。
「義経等召し進すべしとの院宣下さる」
義経・行家等召し奉るべきの由、院宣を下さるという。(院宣11月11日条に同じ)
件の札、諸国に下さる御教書皆かくの如しという。件の両将は昨日は頼朝を討つべきの宣旨を蒙り、今日はまたこの宣旨に預かる。世間の転変・朝務の軽忽、これを以て察すべし。弾指すべし弾指すべし。
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「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月十一日庚寅。
「義経・行家捜索の院宣下る」
源九郎義經が反逆した宣旨は、義經に脅し半分に要求されたから出してしまわれました。しかし、追って頼朝に事情を説明しようと、後白河法皇は考えていましたが、頼朝様のお怒りがますます激しくなるので、予定していた訳には行きませんでした。そこに、源九郎義經と行家は反逆して九州へ行こうとしましたが、大物浜で難破したと噂があるけれども、死んだとは限らないので、早く勢力のある連中に命令して、山林を探してでも彼等を捕まえ出すように、院宣を関西諸国の国司達に出されたという。そこに書かれている内容は、
後白河法皇の命令が出ました。源義經と行家は反逆して九州へ行こうとしましたが、六日に大物浜で逆風に遭ったという。難破したと噂があるけれども、死んだとは限らないので、早く武勇のある連中に命令して、山林や河や沢を探して、日をおかずに彼等を捕まえ出すように。その国のうちで国領は宣旨状のとおり正しく実行し、荘園では本所を通して手続きをするようにする事、これは大事な事であるでの、手抜きをしないように実行せよ。謹んでこの状を書きました。
十一月十一日 太宰権師(吉田經房)
某国守殿
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