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2009年7月28日 (火)

十一月七日「義経院宣賜ると聞き、頼朝不快とす」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月六日乙酉。
「義経、暴風のため渡海中止、党類離散す」
 行家と義經が、大物浜で船に乗ろうとしていた時に、急に突風が吹いて、大波が船をひっくり返してしまいましたので、思いもよらず九州への航海をあきらめた。仲間達はばらばらに逃げ散ってしまいました。義經と一緒についてきたのは、たったの四人でした。それは、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、武蔵坊弁慶と妾の靜御前でした。その夜は、天王寺のあたりに一泊して、そこから何処かへ逃げ去ったという。今日、その行家と義經の二人を見つけて差し出すように、後白河法皇から院の命令を諸国へお出しになられたという。

「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月七日丙戌。
「義経院宣賜ると聞き、頼朝不快とす」
 頼朝様は、軍勢を招集し、京都の情勢を把握するために、木瀬川宿に泊まっておられましたが、先日の三日に行家と義經の両人が都を出て九州へ落ち延びていったと、連絡が入りました。但し、その二人は後白河院の庁の命令書を戴き、四国や九州に侍は二人の命令に従うように書かれており、行家は四国の総地頭に、義經は九州の総地頭に任命されたという。今度の事は、頼朝追討の宣旨も、行家、義經を総地頭に任命した院の庁の命令書も、行家、義經の要求のままに出してしまいました。どうして私の何度も立てた手柄を考えずに捨てて、追討の宣旨を出したんだと、頼朝様は大変ご立腹なされました。
「兼実関東を支持す」
 それでも、その頼朝追討の宣旨を出すかどうか会議で検討している時に、右大臣兼実は関東の味方をしたと噂で聞いているので、頼朝様はそこは喜んでおられましたという。
「義経現任を解かる」
 一方京都朝廷では、源九郎義經の官職〔伊予守と検非違使の職〕を剥奪しました。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

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