« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

2009年7月31日 (金)

十一月八日「義経等の船大風に入海す」

[玉葉]文治元年(1185)十一月八日
「義経等の船大風に入海す」
 伝聞、義経・行家等、去る五日夜乗船、大物辺に宿泊したという。追行の武士等、近辺の在家に寄宿した(手島の冠者、並びに範季朝臣の息子の範資等、大将軍たりという。件の範資は儒学者の家の生まれと雖も、その性質は勇士に受く。しかのみならず、蒲の冠者範頼と親しき間、在京の範頼の郎従等を集め共にし行き向かうという)。未だ合戦せざるの間、夜半より大風が吹き来たる。九郎等が乗る所の船、併しながら損亡した。一艘として全く無し。船の過半は海に入る。
「義経等和泉浦に逃れ家光梟首さる」
 その中、義経・行家等、小船一艘に乗り、和泉浦を指し逃げ去ったという。家光に於いては梟首した。豊後の武士等の中、或いは降参と為り、範資の許に来た。また生きながら捕り取られたという。

|

2009年7月30日 (木)

十一月八日「頼朝上洛を中止し使を派す」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月八日丁亥。
「頼朝上洛を中止し使を派す」
 大和守山田重弘と一品坊昌寛などが、使者として黄瀬川から京都へ出発しました。頼朝様は行家と義經の件をとても怒っていると伝えるためです。又、行家達が既に都落ちしていなくなったので、頼朝様は京都へ上るのは止めにして、今日鎌倉へ向けて帰られましたという。

|

2009年7月29日 (水)

11月7日「義経等誅伐せられば天下の大慶なり」

[玉葉]11月7日 丙戌 天晴れ
「義経等誅伐せられば天下の大慶なり」
 夜に入り、人曰く、九郎義経・十郎行家等、豊後の国の武士の為誅伐せられたりという。或いは云く、逆風の為海に入るという。両説詳かならずと雖も、船出は安穏ならざるか。事もし実ならば、仁義の感報すでに空し。遺恨に似たると雖も、天下のため大慶なり。かれらもし九州に籠もらば、追討の武士等のため、順路の国いよいよ滅亡すべし。関東諸国またこの乱によりその路を通ずべからず。よって京都の身分高い人も低い人も、生活の計の術が無かるべし。しかるに前途を受けず滅亡す。あに国家の至要にあらずや。
「義経の武勇と仁議後代の佳名に貽る」
 義経は大功を成し、その詮無しといえども、武勇と仁義とにおいては、後代の美名をのこす者か。嘆美すべし嘆美すべし。
「頼朝への謀反の心は大逆罪」
 ただし頼朝において謀反の心起こさば、すでにこれ大逆罪なり。これにより天この災を与えるか。およそ五濁の悪世、戦うこと堅固の世、かくの如き乱逆踵を継ぎて絶えざるか。悲しむべし悲しむべし。伝え聞く豊後の武士等が義経等を伐つ事は誤りの説という。

|

2009年7月28日 (火)

十一月七日「義経院宣賜ると聞き、頼朝不快とす」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月六日乙酉。
「義経、暴風のため渡海中止、党類離散す」
 行家と義經が、大物浜で船に乗ろうとしていた時に、急に突風が吹いて、大波が船をひっくり返してしまいましたので、思いもよらず九州への航海をあきらめた。仲間達はばらばらに逃げ散ってしまいました。義經と一緒についてきたのは、たったの四人でした。それは、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、武蔵坊弁慶と妾の靜御前でした。その夜は、天王寺のあたりに一泊して、そこから何処かへ逃げ去ったという。今日、その行家と義經の二人を見つけて差し出すように、後白河法皇から院の命令を諸国へお出しになられたという。

「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月七日丙戌。
「義経院宣賜ると聞き、頼朝不快とす」
 頼朝様は、軍勢を招集し、京都の情勢を把握するために、木瀬川宿に泊まっておられましたが、先日の三日に行家と義經の両人が都を出て九州へ落ち延びていったと、連絡が入りました。但し、その二人は後白河院の庁の命令書を戴き、四国や九州に侍は二人の命令に従うように書かれており、行家は四国の総地頭に、義經は九州の総地頭に任命されたという。今度の事は、頼朝追討の宣旨も、行家、義經を総地頭に任命した院の庁の命令書も、行家、義經の要求のままに出してしまいました。どうして私の何度も立てた手柄を考えずに捨てて、追討の宣旨を出したんだと、頼朝様は大変ご立腹なされました。
「兼実関東を支持す」
 それでも、その頼朝追討の宣旨を出すかどうか会議で検討している時に、右大臣兼実は関東の味方をしたと噂で聞いているので、頼朝様はそこは喜んでおられましたという。
「義経現任を解かる」
 一方京都朝廷では、源九郎義經の官職〔伊予守と検非違使の職〕を剥奪しました。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月26日 (日)

文治元年(1185)十一月三日文治元年(1185)十一月三日

[玉葉]文治元年(1185)十一月三日
「洛中貴賤多く逃げ隠れる」
 去る夜より、洛中の貴賤の多くが逃げ隠れた。今朝、九郎等が下向するとき、狼藉を疑わない為である。
「行家・義経西海に赴く」
 午前8時ごろ、前の備前の守源行家・伊豫の守兼左衛門の尉(大夫の尉なり。従五位下)同義経(殿上侍臣たり)等、各々身の暇を申し西海に赴きたり。これ則ち指せる過怠無し。頼朝の為誅伐されようとした。彼の害を免れる為下向する所である。
「義経等京都にて関東勢支え難く下向す」
 始め推して頼朝を討つべきの宣旨を申し下すと雖も、事叡慮より起こらざるの由、普く以て風聞するの間、近国の武士は将帥の下知に従わず。還って義経等を以て謀反の者に処す。しかのみならず、法皇以下然るべきの臣下等を引率し、鎮西に向かうべきの由、ひろく知られるの間、いよいよ人望に背き、その軍勢は日を遂って減少した。敢えて味方する者無し。仍って京都に於いて関東の武士を支え難く、これによって下向するという。院中以下諸家・京中ことごとく安堵した。
「義経等の所行義士と謂うべし」
 義経等の所行、実に以て義士と謂うべきか。

|

2009年7月25日 (土)

十一月三日「行家・義経西国に出発す」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月三日壬午。
「行家・義経西国に出発す」
 前備前守行家〔櫻威しの鎧〕と源九郎義經〔赤地錦に直垂に萌黄威しの鎧〕等は、九州へ向かいました。先ず使いを後白河法皇の所へ行かせ、申し上げました。鎌倉からの厳しい責めを逃れるために、九州へ都落ちします。最後に拝謁すべきでしたが、戦仕度の武装姿でいでたちが異様なので遠慮して出発しますという。前中將時實、侍從良成〔義經が同母弟で、一條大藏卿長成の息子〕、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、佐藤四郎兵衛尉忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘經、弁慶法師等が従っています。かれこれ、その軍勢は二百騎位かという。

|

2009年7月24日 (金)

11月2日「義経申請条々につき院宣あり」

[玉葉]11月2日 辛巳
「義経申請条々につき院宣あり」
 右少弁定長が法皇の使いとして来た。義経は明朝九州に向かうべし。その間いささか申請の旨あり。その状にいわく、法皇を動かし奉るべき由、法皇のお耳に達した。その恐れがあるので、起請文を書き進上し終えた。その上は疑いあるべからざる由と存ずる処、法皇御所中にお仕えの者ども、なお出発の用意を致すという。この事は全てあるべきではない事である。家来等は先途を遂げ難し。猶お出かけよろしかるべき申さしむといえども、義経は内心においては、さらにお考えにそむくべからず。あえて以て御不審あるべからず。そもそも山陽道や西海道等の庄園や公領、共に義経の管理指図となし、租庸調税、年貢雑物等、たしかに管理指図により進上すべき由、お言葉を下さる事を欲した。兼ねてまた、豊後の武士等、法皇御所に招集され、義経行家等、特に援助すべき由のお言葉を下される事を欲すといえり。(以下略)

|

2009年7月23日 (木)

10月30日「太田頼基義経等を防ぐ」

[玉葉]10月30日 己卯 天晴 
「太田頼基義経等を防ぐ」
 義経等、明暁下向すべしと決定という。或いは云く、摂州の武士太田の太郎以下、城郭を構え、九郎・十郎等もし西海に赴かば、射るべきの由結構すという。また九郎の所従紀伊権の守兼資、定船を点検する為、先ず以て件の男を下し遣わす。太田等が為討たれたという。
「義経等北陸に引退くとの風聞あり」
 此の如き事に依って、俄に北陸に引退すべきの由、また以て風聞す。およそ近日様々の説、縦横に定まり難しか。

|

2009年7月22日 (水)

十月二十九日「頼朝、義経・行家討伐のため上洛す」

「吾妻鏡」治元年(1185)十月二十九日戊寅。
「頼朝、義経・行家討伐のため上洛す」
 予州源九郎義經、備州行家の反逆を征伐するために、二品頼朝様は、今日京都へ向けて出発です。関東の御家人は、直接お供をさせていくが、東山道、北陸道の御家人は、東山道を通って、近江や美濃の東海道沿いで待ってて会うようにすることと、命令書を回させました。又、相模の侍の原宗三郎宗房は、優れた勇敢な武士です。しかし、早川合戦(石橋山合戦)の時に、大庭三郎景親軍に参加して、頼朝様に敵対して弓を射たので、その罪を恐れて何処かへ逃げてしまいました。今は信濃国に居るとのことなので、早く彼を連れて、墨俣川あたりに来て会いなさい。と信濃の国の御家人達にお言葉がありましたという。午前十時頃に出発なされました。土肥次郎實平が先頭を勤め、千葉介常胤がしんがりにおります。今夜は相模国の中村の庄に宿を取られましたという。相模の国の御家人は全員が集りました。

|

2009年7月21日 (火)

十月二十五日「小山・結城ら先発す」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月二十五日甲戌。
「小山・結城ら先発す」
(頼朝様は)今日の夜明け、上洛を了承した勇士達を京都へ向けてを発させた。尾張と美濃に着いたならば、両国の侍たちに言いつけて、「足近、洲俣(長良川)の渡しを堅めさせよ。そして、京都へ入ったら何よりも先に行家と義経を殺せ。決して遠慮する必要はない。もしも又、二人が京都にいなければ、暫く私の上洛を待て。」と命じたので、皆馬に鞭打って出発しました。

|

2009年7月20日 (月)

文治元年(1185)十月二十二日「能保の家人、行家・義経らの近況を報ず」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月二十二日辛未。
「能保の家人、行家・義経らの近況を報ず」
 左馬頭一条能保の家来が京都から走ってきて参上し、申し上げて言うには「去る十六日に、前備前守源行家の家来達の家を捜索して、下男どもを捕まえました。その結果、行家は北小路東桐院の屋敷へ引っ越したという。別な噂では、去る十七日に土佐房昌俊は襲撃に失敗したので、行家と義經は頼朝様追討の宣旨を出させたらしいという。頼朝様は、特に動揺せず、南御堂の供養の指図の他無しという。

|

2009年7月19日 (日)

10月19日「頼朝追討宣旨」

[玉葉]10月19日 

  早朝、隆職が追討の宣旨を記録し送ってきた。その状に云く、
「頼朝追討宣旨」
   文治元年十月十八日   宣旨
   従二位源頼朝卿、偏に武威を耀かし、すでに朝憲を忽緒す。宜しく前の備前の守源
   朝臣行家・左衛門の少尉同朝臣義経等、彼の卿を追討すべし。
                    蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅奉る
   上卿左大臣てえり。
「追討宣旨奉行の経緯」
「在京武士只義経一人なり」

[玉葉]10月21日 
「法皇鎮西臨幸許容なし」
  伝聞、法皇が九州にお出かけするの儀、全てて許容無しという。仍って義経・行家等、忽ち件の議を変ずという。

|

2009年7月17日 (金)

文治元年(1185)十月十八日「頼朝追討の院宣、行家・義経に下さる」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月十八日丁夘。
「頼朝追討の院宣、行家・義経に下さる」
 源九郎義經が、言上した頼朝追討の宣旨を朝廷から許すかどうか、昨日後白河法皇の院の庁で会議を開きました。しかし、今現在、京都で軍勢を持っているのは源九郎義經以外にありません。許可を出さないで、もし武力に訴えてきたら、誰に命じて朝廷を守ることが出来ましょうか。今この場を取り繕うために、とりあえず宣旨を出して、後で詳しい話を関東の頼朝に伝えれば、二品頼朝もきっと分かってくれて怒らないことでしょうと会議を取りまとめました。そこで、宣旨を出されました。懸案決定者は、左大臣〔經宗〕だという。

 文治元年十月十八日 宣旨 
従二位源頼朝卿は、専ら武力を背景に権力を振り回し、朝廷の権威を無視している。そこで、前備前守源行家、左衛門少尉源義經達は、その頼朝卿を追討しなさい。   
 蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅が、命じられて書きました。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月16日 (木)

10月17日 「義経行家の謀反に同意す」

[玉葉] 10月17日 
「義経行家の謀反に同意す」
 去る十一日、義経が申し上げて言うには、行家はすでに頼朝に反きました。制止を加えましたが叶いませんでし。この為にはいかにしましょう。お言葉にに云く、相構えて制止を加うべしといえり。同十三日、また申して云く、行家が謀叛に制止を加うといえども、敢えて承引せず。仍って義経は同意しました。その故は、身命を君に捧げ、大きな手柄を成すこと再三に及ぶ。皆これ頼朝の代官としてである。特に賞賛すべきの由ありうるの処、適々恩に浴す所の伊豫の国、皆地頭を任命し、国務が出来ない。また没収の所々二十余ヶ所、先日頼朝し分け与えた。而るに今度の勲功の後、皆悉く取り返し、家来等に宛て与えた。今においては、生涯全く以て執思すべからず。ましてや家来を派遣し、義経を殺すべきの由、確かにその告げを得る。のがれようと欲すと雖も出来ない。よって墨俣の辺に向かい、一屋を射て、死生を決するの由所存なりという。お言葉に云く、特に驚き思いなされました。なお行家を制止すべしという。その後、音沙汰無し。去る夜重ねて申して云く、なお行家に同意しました。詳細は先度言上した。
「義経頼朝追討の宣旨を欲す」
 今に於いては、頼朝を追討すべきの由、宣旨を頂く事をと欲した。もし天皇の命令書が無ければ、身の暇をいただき九州に向かうべしという。その気色を見るに、天皇・法皇以下、臣下の上官、皆悉く相率い下向すべきの趣である。すでにこれ殊勝の大事である。この上の事はどの様に指図有るべきか。能く思量し計らい申し上げすべしという。(中略)
 午後10時頃、人走り来たり告げて云く、北方に時を作るの音有り。私はこれを聞いた。事すでに実なり。(略)頼朝の家来の中、小玉党(武蔵国住人)の三十余騎、中人の告げを以て義経の家に押し寄せ攻撃した(法皇御所の近辺なり)。殆ど勝ちに乗らんと欲するの間、行家この事を聞き馳せ向かい、件の小玉党を追い散らしました。
「頼朝に過怠なし」
「追討猶予は頼朝引級に似る」
「子細を頼朝に問わねべし」
「勅命に背き濫吹を企つれば追討宣旨を下さるべし」
「義経頼朝を誅滅せんと欲するは大逆罪なり」

|

2009年7月15日 (水)

「昌俊、義経を六条室町亭を襲ふ」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月十七日丙寅。
「昌俊、義経を六条室町亭を襲ふ」
 土佐房昌俊は、先日関東の頼朝様から重大な命令を受けて、水尾谷十郎廣徳を始めとする六十数騎の軍勢を率いて、源九郎義經の六条室町の屋敷を襲撃しました。丁度義經の侍達は、西川の遊郭へ遊びに行っていて、残っている部下達は少なかったのですが、佐藤四郎兵衛尉忠信達を率いて自分の方から門を開いて攻撃をしてきました。行家はこの話を伝令から聞いて、後ろ側から来て戦に加わり、戦いました。暫くすると挟み撃ちにあってしまった土佐房昌俊側は、敗色が濃くなり逃げました。源九郎義經の家来達は、走りながら散じて追いかけました。義經は直ぐに後白河法皇のもとへ走って行き、事の次第と無事であることを告げましたという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月14日 (火)

[玉葉] 10月13日 「義経行家鎌倉に謀反」

[玉葉] 10月13日 
「義経行家鎌倉に謀反」
 早朝、季長朝臣が来て申した。義経は行家の味方をし鎌倉に謀反した。日頃内密の会議があり、昨今はすでに明らかという。ちまたの説とはいえどデマにあらず。義経の周囲の家来の説という。相次ぎ諸説はなはだ多し。頼朝は義経の勲功を奪い、また断絶の気配あり。義経の心中は恨みをもち、また、鎌倉のあたりでも、家来や親族でも頼朝のため生涯をうしない、敵意を抱く者ども、数多く彼らは内々義経や行家の許に連絡あり。さらに、頼朝は法皇のお考えに背く事はなはだ多しという。よって事の形成を見て、義経は密かに事の趣を申し上げ、大変許容がありという。よつてたちまちにこの大事に及ぶという。あるいは、秀衡が味方するという。詳細については実説は定まらないが蜂起については既に明らかになった。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月13日 (月)

文治元年(1185)十月十三日「義経参院、頼朝追討の官符を請ふ」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月十三日壬戌。
「義経参院、頼朝追討の官符を請ふ」
 一昨日の十一日と今日と、源九郎義經は内緒で後白河法皇のもとへ行き、申し上げて云うには、「前備前守源行家は、関東勢力に対して背を向け謀反を考えています。その理由は、行家を殺すように鎌倉の二位卿頼朝様の命令が、行家の耳に入り、何の過ちを咎めて罪もない叔父を殺そうとするのだと怒り心頭してのことです。源九郎義經は、頼朝様を盛んに止め様としていますが、少しも聞いてはくれません。しかも、義經は平家を滅ぼし、世の中を静かに落ち着かせました。これを大きな手柄だと思いませんか。それなのに頼朝様はその報酬をくれないばかりか、宛がわれていた二十四箇所の領地も全て取上げてしまいました。その上、私を殺すように用意していると耳に入りました。降りかかる火の粉を払うためにと、既に行家と同意しています。こうなったら、頼朝追討の太政官布告を出して下さい。京都朝廷のお許しがなければ、二人そろって自殺しますと云ったという。そして、行家の怒りをなだめるように、後白河法皇のお答えがあったという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月12日 (日)

文治元年(1185)十月六日「景季帰り義経の動静を語る」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月六日乙夘。
「景季帰り義経の動静を語る」
 梶原源太左衛門尉景季が、京都から帰ってきました。頼朝様の御前に参り申し上げました。「伊予守義經の屋敷へ行き、頼朝様の使いできた旨を伝えましたが、病気だといって会ってはくれませんでした。それなので、秘密の命令を伝えられませんでした。仕方なく宿〔六条油小路〕へ戻り、二・三日開けてからもう一度行きましたら、脇息に寄りかかりながら会ってくれました。その様子は、本当にくたびれ果てていて、何箇所かにお灸の跡がありました。それでも念のために、行家を滅ぼすようにご命令が出ていると伝えますと、答えられるには、病気は嘘ではない。源九郎義經が思うには、例え強盗のような犯人であろうとも、直接取り調べたい思っている。ましてや行家なら尚更だ。彼は全くの他人ではない。同じ源氏の經基王の子孫として弓馬の道の武士であり、普通の人と同様には扱えない。部下達だけで行かせても、簡単に降伏させることは出来にくい。それなので、早く病気を治して、元気になったら計略を考えましょう。と云いました。」と報告をしました。それを聞いて、二品頼朝様がおっしゃるには、「行家に同意しているので、仮病を使っているのが分かってしまったな。」という。これを聞いた梶原平三景時が云うには、「初日に行った時に会わないで、二日たった後で会っている。この様子を良く考えてみると、一日食事を絶って、一晩眠らなければ、その体は必ず疲れ切ってしまうだろう。お灸なんてのは、何カ所でも一瞬で加える事が出来る。ましてや日数があれば尚更だ。だとすれば二日の間に巧妙な仕掛けをしたのだろう。行家と共犯していることは疑いない。」という。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月11日 (土)

文治元年(1185)九月二日「梶原景季上洛、義経・行家の動静を窺ふ」

「吾妻鏡」文治元年(1185)九月二日壬午。
「梶原景季上洛、義経・行家の動静を窺ふ」
 梶原源太左衛門尉景季と義勝房成尋などが、頼朝様の使者として京都へ上りました。南御堂の仏式完成祝賀会の指導僧へのお布施や、お堂の飾り金具等〔殆ど京都で買い集めております〕を調達するためです。又、平家の共犯者の連中が、流罪を宣告されながら、配流先へ行かずに、京都にいるうちに恩赦でも出されたら仕方が無いけれど、そうではなく、ただ行かせていないだけならば、早く実施するべきだと、伝えるように申されました。それと、頼朝様の使いとして伊予守義經の屋敷へ行って、前備前守行家の居場所を探し見つけて殺してしまうように言いつけて、源九郎義經の挙動を伺うように、梶原左衛門尉景季に云って聞かせましたという。前の五月二十日に前の大納言平時忠を初めとした平家関係者に流罪の太政官布告を出されました。それなのに未だに京都に住んでいるので、頼朝様は怒っていますが、源九郎義經は時忠の娘を妾に貰い、娘婿になっているので、その好から京都に引き止めております。そればかりか、行家を味方に引き込んで、関東に対して反逆をしようとたくらんでいるとの噂があるので、かくのごとしという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月10日 (金)

元暦二年(1185)八月四日「行家謀反、佐々木定綱に討たしむ」

「吾妻鏡」元暦二年(1185)八月四日甲寅。
「行家謀反、佐々木定綱に討たしむ」
 前備前守行家は、二品頼朝様の叔父です。それなのに何度も平家との戦闘に派遣されたが、何時も最後にはその功をあげる事もなかったので、頼朝様は特に賞賛されなかった。行家も又、自分の方から積極的に出仕してくることも無く、今は西告に隠れ忍んで、関東のご威光を傘に着てあちらこちらで、人々を厳しく責め立てた。そればかりか、謀反の心を持っていることが発覚したという。そこで、京都周辺の御家人達を集めて引き連れ、早く行家を攻め滅ぼしてしまうように、今日命令書を佐々木太郎定綱に下されたという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 9日 (木)

2月3日「行家が入洛」

[玉葉] 2月3日 壬戌 天晴 
「行家が入洛」
 慈円法印が来られた、今日行家が入洛するという。その軍勢は僅かに七八十騎という。法皇のお呼び出しによるという。頼朝また勘気を免ずという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 8日 (水)

1月20日「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」

[玉葉] 1月20日 天気晴れ、物忌みなり、

 6時頃、人告げて云く、東軍は、すでに勢多に到着した。未だ西地に渡らずという。相次いで人云く、田原(宇治田原町)の手勢はすでに宇治に到着したという。その言葉が未だ終わらざるに、六條川原に武士等が馳走するという。仍って人を行かせて見せしむるの処、すでに事実である。
「義広敗績す」
 義仲方の軍兵は、昨日より宇治に在り。大将軍は美乃の守義廣という。而るに件の手勢は敵軍の為打ち敗られた。東西南北に散じた。
「東軍入京」
 即ち東軍等追い来たりて、大和大路より入京した(九條川原の辺に於いては、一切狼藉無し。最もな神仏のお助けである)。引き返さず六條の末に到着した。義仲の軍勢は元々幾ばくもあらず。。而るに勢多・田原の二手に分けた。その上行家を討伐の為また軍勢を分けた。独身で在京するの間このわざわいに遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
 先ず法皇御所中に参りお出かけ有るべきの由、すでに御輿を寄せようとと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来た。仍って義仲は法皇を棄て奉り、あわてふためき対戦するの間、相従う所の軍兵は僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちた。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
 長坂方に懸けようと欲した。更に帰り勢多の手勢に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたという。
「東軍一番手梶原景時」
 東軍の一番手、九郎の軍兵は梶原平三という。その後、多く以て法皇の御所の辺に群れ参じたという。法皇及びお仕えの者どもは虎口を免がれた。実に三宝の神仏のお助けである。凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしという。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。
「義仲の天下六十日」
 義仲が天下を執る後、六十日を経た。信頼の前例(平治の乱)に比べ、猶そのおそきを思う。今日、公卿等が参院すと雖も、門中に入れられずという。
「師家参院すれど追い帰される」
 入道関白(藤原基房)は藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)した。共に答え無し、又甘摂政(藤原師家)は顕家の車に乗り参入した。
追い帰されたという。弾指すべし、弾指すべし。私は風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 7日 (火)

1月19日 「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」

[玉葉] 1月19日 己酉 
「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」
 昨今天下頗るまた騒動した。武士等多く西方に向かう。行家を討伐の為という。或いはまた宇治に在り。田原地の手を防ぐ為という。(志田)義廣(三郎先生)が大将軍という。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 6日 (月)

1月16日「義仲行家を追伐す」

[玉葉] 1月16日 丙午 雨下る 
「義経勢数万に及ぶ」
 去る夜より京中は騒動した。義仲が近江の国に派遣した所の郎従等、併しながら以て帰京した。敵勢は数万に及び、敢えて敵対は不可能の故という。今日法皇をお連れなさり、義仲は勢多に向かうべき由が風聞した。その儀は忽ち変改した。ただ郎従等を派遣し、元の如く法皇御所中を警固し待機すべし。
「義仲行家を追伐す」
 また軍兵を行家の許に分け派遣し追伐すべしという。凡そ去る夜より今日14時頃に至るまで、議定は変々数十度に及ぶ。てのうらを反すが如し。京中のあわてふためきようは喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居した。関東の武士が少々勢多に到着したという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 5日 (日)

1184年 1月13日「平氏入洛せざる三つの由緒」

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

[玉葉] 1月13日 癸卯 天晴 

 今日、明け方より午後2時ごろまで、義仲が東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これは近江に派遣した所の家来の飛脚を以て申して云く、九郎の軍勢は僅かに千余騎という。敢えて義仲の軍勢に敵対すべからず。よって忽ち御下向有るべからずという。これに因って下向を延引すという。
「平氏入洛せざる三つの由緒」
 平氏が今日入洛すべきと決定の処、そうならない三つの由緒有りという。
 一ハ義仲が法皇をお連れなさり、北陸に向かうべきの由風聞するの故、
 二ハ平氏は武士を丹波の国(京都府)に派遣し、家来等を招集させた。よって義仲もまた軍兵を派遣し相防がせた。然る間、平氏は和平を決定した。よって事決定の後、飛脚を派遣し引退すべきの由、お言葉を遣わすの処、猶合戦を企て、平氏方の家来十三人をすでにさらし首にしたという。茲に因って心を置き遅延した。
 三ハ行家が渡野陪(わたのべ)に出逢いテ、一矢射るべきの由を称せしむという。この事に因って遅延した。
色々の風聞が飛び交うが、デマではないのでこれを記録した。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 4日 (土)

12月2日「去る29日室山に於いて平氏と行家軍合戦す」

[玉葉] 12月2日 天気晴れ、
 伝聞、義仲は使いを平氏の許に差し送り(播磨(兵庫県南西部)国の室津の泊りにあるという)、和親を乞うという。
「去る29日室山に於いて平氏と行家軍合戦す」
 又聞く、去る29日平氏と行家は合戦した。行家の軍は忽ち以て敗績し、家臣の多く以て伐ち取られた。忽ち上京を企だてたという。
又聞く、多田蔵人大夫源行弘(綱)は城内に引き籠もり、義仲の命に従うべからずという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 3日 (金)

11月13日 「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」

[玉葉] 11月13日 雨下る、
「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」
 藤原季経朝臣が来た。語り云う、院の庁官康貞、一昨日上京したようだ。ちまたの説に云う、秀衡は頼朝を追討すべき由、院宣有る旨、義仲は秀衡の許に示し遣わし、秀衡は件の証文を以て康貞に付き進覧したようだ。但し此の条定めて浮説かと。追って尋ね聞くべし。
今朝行家は鳥羽(京都市南部)を出発したようだ。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 2日 (木)

11月8日「平氏追討の為行家進発」

[玉葉] 11月8日 戊戌 天晴 
11月8日 天気晴れ、
「平氏追討の為行家進発」
 今日、備前の守源行家が平氏追討の為出発した。見物者は語り云う、其の勢270余騎という。おおいに少なしと為すは如何如何。今日義仲すでに打ち立ち、只今乱に逢うの事の如し。法皇御所以下京都の諸人、毎家騒動した。
「兼実密かに神鏡等無事を第一とする旨を行家に示す」
 そもそも三種の神器、無事に迎え取り奉る条、朝家第一の大事である。しかるに法皇と臣下共に此の指図無し。よって私は密かに此の趣旨を以て行家に言い含めた(全く親睦の縁なし、然れども偏に天下を思うにより、或僧を招き、詳細に以て聞達した。中心の誓い、上下鑑みるべきのみ)。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

2009年7月 1日 (水)

11月7日 「義仲を院中警護の人数に入る」

[玉葉] 11月7日 天気陰、晩に及び雨下る、
「義仲を院中警護の人数に入る」
 伝聞、義仲は征伐されるべき由により、特に用心し心配の余り、此の如く承り及ぶ由、法皇に申し上げさせたという。よって法皇御所中の警護の武士中に入れられ申したという。行家以下、皆悉く其の宿直を勤仕した。しかるに義仲一人其の人数から漏れる由、殊に奇を成すの上、又両者の間に立って告げ口する者が有るという。行家は明夕に下向が必定という。頼朝の代官が今日江州に到着したという。其の勢僅か56百騎という。忽ち合戦の儀を存せず。只物を法皇に差し上げるための使いだという。次官中原親能(広季の子)並びに頼朝の弟(九郎)等が上京したという。
「梅宮祭の弊河原より立つ」
「院の返札あり」

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

|

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »