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2009年6月 2日 (火)

四月二十七日「行家、以仁王の令旨を頼朝に傳ふ」

治承四年(1180)四月二十七日壬申。
「行家、以仁王の令旨を頼朝に傳ふ」
 高倉宮(以仁王)の令旨が今日、頼朝様のおられる伊豆の北条館に届きました。八条院蔵人k行家が持ってきた。頼朝様は水干を着て、まず京都の石清水八幡宮の方を拝んだ上で、謹んでこれを開いて見ました。行家は甲斐や信濃の源氏に知らせるため、すぐに出発しました。頼朝様は藤原信頼の同罪として、永暦元年三月十一日に伊豆へ配流され、嘆きながら20年の季節を送り、愁いて32才余を迎えました。(実は数えの34歳)この頃は、平清盛が好きなように天下を把握していました。云うことを聞かない役人を罰則し、おまけに後白河法皇を鳥羽離宮に閉じ込めました。上皇はお怒りで悩まれておられた(武力が無いのに彼は相当の策士である)。こんな時に(親王の命令である)令旨が来ました。そこで正義の兵を上げようとしました。これは天から与えられた機会といえるかもしれません。ここに平直方の五代の孫の北条四郎時政殿は伊豆の豪傑です。頼朝様を婿として、絶対の忠誠を表しています。ですから頼朝様はまず一番に時政殿を呼んで令旨を開いて見せました。
「以仁王の令旨」
 命令する。東海道、東山道、北陸道諸国の源氏や群兵らに
早く平清盛とその一族の反逆の連中を追討すること
右のことは、源仲綱が以仁王の命令令旨を承って命じる。「最勝王(以仁王)の勅命を受けて言います。平清盛と次男の宗盛は力に任せて武力行使をして、国家をだめにして、万民を悩ませた。日本国中を我が物顔にして、法皇を幽閉して(11791120後白河を鳥羽殿に)、近臣を流罪にした。時に人を殺し、流罪にし、立ち上がれなくし、牢屋に入れ、財産を横領し、国司の権限を取り、官職を剥奪し、手柄のない身内に賞を許し、反対派の者には無実の罪を着せた。反対する高徳の僧侶を監禁し、学者としての僧をも閉じ込めた。延暦寺へ納める絹や米を身内に配り、謀反人である味方の軍勢の食料にする。天皇家をつぶそうとしている。摂関家を抑え、天皇家に逆らって、仏法を破滅するとは、前代未聞のことである。これでは天下の全てが悲しんで、臣下も民も悲しんでいる。だから私は後白河院の第二皇子として、壬申の乱(672)で正しい皇統を継いだ天武天皇の前歴を学び、天下を略奪した連中を追討する。聖徳太子の先例を学び、佛法を破滅しようとするやつらを討ち滅ぼそう。ただ単に人間としての力を頼りにしているだけではなく、天道の助けを願うものである。天皇家や仏教、神道のご利益があれば、どうして全国の合力を得られない訳がない。そこで源氏、藤原氏又東海東山北陸の三道諸国の勇士としての名高い者は、同様に力を会わせ追討せよ。もし賛同しないものは、清盛とその仲間と同じように、死罪や流罪や追討・拘禁の罪にしてしまう。もし、手柄をたてた者には、まず国衙の役人に届けて、即位の後は必ず望みに合せて賞を与えよう。諸国の人たちはよく承知し、この命令どおりに実行せよ。
     治承四年四月九日   前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)

Dsc02372
沙田(いさごだ)神社

木曾三社神社ゆかりという。

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