3月13日「去十日墨俣にて合戦あり源行家敗れる」
[玉葉] 3月13日 己丑
「去十日墨俣にて合戦あり源行家敗れる」
伝聞、去る十日、官兵等が墨俣を渡ろうとした時、尾張を妨害す賊徒等が越えて来た。 五千余騎である。而るに重衡の従者(金石丸。高名の者なりと)がこれを報告した。ここによって防戦し、午前10時頃より午後4時頃まで合戦した。賊党等千余人がさらし首にされた。その後三百余人が河水に溺れ亡滅した。大将軍等、多く伐ち取りました。猶官兵等は墨俣河を渡り、残党等を襲うという。これ去る夜、飛脚到来し、称し申すという。十郎蔵人行家(本名義俊)は傷つき河に入りたり。定めて若死にしたのか。然れども、さらし首の中に入らずという。
[吉記] 3月13日
「墨俣川合戦注文」
美濃合戦の事の報告書が風聞した。実説を知らずと雖もこれを記録した。
三月十日、墨俣河の合戦において、討ち取りし謀反の者どもの首目六。
頭の亮(平維盛)方二百十三人(内生取八人)、越前の守(平通盛)方六十七人、権の亮方七十四人、
薩摩の守(平忠度)方二十一人、参河の守(平知盛)方八人(内自分有り)、讃岐の守(平維時)方七人(同)、
以上三百九十人、内大将軍四人、
和泉の太郎重満(頭の亮方盛久自分)、同弟高田の太郎(同方盛久郎等分)、
十郎蔵人息字二郎(薩摩の守分)、同蔵人弟悪禅師(頭の亮方盛綱手)
この外負手河に逃げ入る者三百余人。
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