« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

2009年6月30日 (火)

11月5日 「春日社奉弊、弥勒講」

[玉葉] 11月5日 乙未 天晴 
「春日社奉弊、弥勒講」
 伝聞、来る八日、行家は鎮西に下向すること一定という。義仲は下向すべからずという。頼朝の軍兵と雌雄を決すべしという。

|

2009年6月29日 (月)

11月4日「頼朝代官不破関に着く」

[玉葉] 11月4日 甲午 天晴 
「頼朝代官不破関に着く」
 伝聞、頼朝の上洛は取り止めが決定した。代官の入京である。今朝という。今日布和関(岐阜県関ヶ原町)に着くという。先ず事の由を申し上げ、御定に従い入京すべし。義仲・行家等が相防ぐに於いては、法に任せて合戦すべし。そうであるならば過平の事、有るべからざるの由仰せ合わすという。また聞く、平氏一定讃岐の国に在りという。

|

2009年6月28日 (日)

11月1日「行家・義仲征伐延引」

[玉葉] 11月1日 辛卯 天陰 

「行家・義仲征伐延引」
 この日、義仲・行家等平氏を討たんが為出発すべきと雖も、忽ち以て延引した。法皇の御慎み日たるに依ってであるという。来八日進発すべしという。

|

2009年6月27日 (土)

閏10月29日「法皇と行家が双六の間信円空しく退出す」

[玉葉] 閏10月29日
「賀表加署の事」
 賀表(祝意を表して奉る文)へ加署(公文書に署名)の事、先日左大臣(経宗)が次第を造って進上した。当日仗座(朝廷の公事の座席)に於いて加えるべしの由、造り載せらる。猶不審に依り大外記頼業の許へ問いの使いを派遣した。申し云う、この事に於いて煩い有るべし。よって兼日公家判賜るべしの由、昨日いつもより特に申し上げたりという。
「信円法皇に召さる」
 この日、奈良僧正(信円)が来られた。去る25日夕上京される所である。法皇のお呼び出しに依るという。よって27.8日両日参上した。
「大和国兵士を平家追討に遣わすためか」
 然るに全く特別なお言葉は無しという。大略大和の国(奈良県)の兵士等を招集し、平氏の強者に用意されるように、指し派遣すべき故という。始めて衆徒(僧兵)を招集すべき由のお言葉が有り。しかれどももし大衆(僧兵)を発すならば、悪僧等が力を得るは決定、乱行非法を致すか。当時は、随分奔走し、殊に大衆(僧兵)狼藉の聞こえ無し。今此の院宣の趣旨を漏れ承れば、衆徒の乱暴、全くおきてに叶うべからず。此の条重ねてお言葉に依り、指図致すべし。後日の恐れの為詳細申す所であるという。重ねてお言葉に云う、申す所尤も然るべし。大衆の条重ねて御定めに随るべし。
「寺家より末寺荘園の兵士を催すべし、其の用意致すべし」
 先ず只寺家の力を以て、末寺荘園の兵士を招集し、其の用意致すべしという。
「法皇と行家が双六の間信円空しく退出す」
 先ず27日参上の処、行家と御双六の間他事無し。見参に入ると雖も、空しく退出し、昨日参上しお言葉を頂いたようだ。御堂御八講の次、又上京すべき由示される所である。たちまち下向された。今度は入道関白(基房)の許へ参上しなかった。其の時間が無きに依りてであるという。

|

2009年6月26日 (金)

閏10月28日「行家・義仲征伐延引」

[玉葉] 閏10月28日 己丑 
「行家・義仲征伐延引」
 伝聞、行家・義仲等が征伐の為の下向は、来月一日の予定が、法皇の御慎み日により延引したという。或る説では二日、或いは八日という。

|

2009年6月25日 (木)

閏10月27日「義仲と行家不和という」

[玉葉] 閏10月27日 戊子 天晴 
「源義兼来る」
 夜に入り或る者(源氏の武者である。源義兼、石川判官代と名乗った。故兵衛の尉義時の孫、判官代義基の子である)が来た。云く、平氏を討伐の為、行家は来月一日に出発すべし。彼に伴う為明日河内の所領に向かうべしという。
「義仲と行家不和という」
 その次いでに語りて云く、義仲と行家は、すでに不和である。果たして不快な事が起こるか。返す返す不便という。その不和の理由は、義仲が関東に向かうの間、相伴うべきの由を行家に告げた。行家が辞遁するの間、日来頗る不快の上、この二・三日は特に口やかましい状態です。
「義仲その功奪わるるを恐れ行家に具し下向せんと欲す」
 然る間、行家は来月の一日に必定下向す。義仲またその功を行家に奪われない為、相具し下向すべきの由風聞すという。また云く、行家に於いては、頼朝に立ち向かうべきでないと、内々議論したという。

|

2009年6月24日 (水)

閏10月23日「義仲三ケ条の事を院に奏す」

[玉葉] 閏10月23日 天気晴れ、
 早朝人告げる、今夕から明朝の間、法皇は南都(奈良)にお出かけなさるという。疑うらくは、吉野に引き籠もりなさるべきか。但し未だ一定ならずという。
「頼朝の縁者たるにより公衡恐れを成す」
 10時頃、観性法橋が来て語り云う、少将藤原公衡は大宮権亮藤原能保(頼朝の妹の夫)の縁に依り(公衡は能保の妹の夫也)頗る恐れを成すという。
「義仲三ケ条の事を院に奏す」
 12時頃、静賢法印が来て語り云う、去る夜、義仲が法皇御所に参り、静賢・(大蔵卿、高階)泰経等を以て伝え申し上げたという。其の申し状に云う、先ず法皇をお連れなさり、北陸に引き籠もるべき由が風聞した。以ての外の無実、極まり無き恐れである。この事は相伴う所の源氏等(行家以下を指す)がとりついで申し上げる所か。返すがえす恐れ申す。早く証人を承るべきであるという。
「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」
 次いで、当時は平氏の追討使無し。尤も不便。三郎先生義広を以て討たせようと欲した。又平氏の入京を恐れるに依り、法皇御所中の僧と俗人、京都市内の上下、資材を運び妻子を隠す、おおいに穏便に非ず。早く御制止有るべし。此の三ケ条であるという。お言葉に云う、先ず法皇を取り奉るべき条、全く源氏等の取り次ぎ申すに非ず。只世間があまねく申す為に依りお聞きなされる所である。然れども全く御信用無きを以て、指図に及ばずという。次いで義広を追討使の事、お言葉を切られると雖も、頼朝が特に意向がある者かといえり。静賢又云う、実に法皇をお連れなさるべき事は、必ずしもそう有るべきではないことか。事の道理無く、又其の必要無き事である。
「義仲に意趣を存する輩あり」
 只毎事いきどおり恨むこと許さない間、もし北陸に逃げ籠るか、その時意向を存ずる者ども、武士と云い、法皇の近臣と云い、自ら怨みを報ずるか。然らば定めて物騒かと(武士の中には、葦敷重隆、殊に意向を結ぶようだ。又法皇の近臣(大蔵卿、高階)泰経の如く、同じく内々相を怨むという)。
然りと雖も、其の恐れ、他人に及ばざるかと。又云う、かの宣旨の趣旨の事、定長が宣を伝え、頭弁(藤原)兼光が宣下という。頭弁(藤原)兼光に問わるる処、たちまち改め直した。しかるに修正以前の宣旨を以て聞き及ぶか。全く用いるべきではない事である。其の由を以て義仲に命令されるべき由、頭弁(藤原)兼光は申したという。良久しくありて帰り出でた。
 伝聞、摂政(基通)の愛物・母堂等昨日の明け方鞍馬の方へ行かせたという。又入道(藤原基房)関白の家中は太く以て騒動したという。又聞く、義仲の郎従等は多く伊勢国・美濃国等に派遣した。京中に勢力は無しという。尹(いん)明語り云う、平氏再び繁盛すべき由、衆人の夢想等有るという。(藤原)範季(院の臣)が申し云う、昨日義仲に会見した。申し状の如くでは、謀反の儀は無しという。夜に入り、定能卿が来た。世上・法皇御所中の事等語る。南都へお出かけの事、未だ聞き及ばずという。

|

2009年6月23日 (火)

閏10月22日「頼朝の使者伊勢の国に来る」

[玉葉] 閏10月22日 天気晴れ、
伝聞、今日義仲院に参る。
「頼朝の使者伊勢の国に来る」
又聞く、頼朝の使いが伊勢(三重県)の国に来たると雖も、謀反の儀に非ず、
「先日の宣旨を施行せんが為なり」
先日の宣旨に云わく、東海・東山道等の荘園公領に、服従しない者どもあらば、頼朝に連絡し、指図致すべしという。よって其の宣旨の施行のため、且つ国中に仰せ知らしめる為、使者を遣わす所であるという。しかし在地の民等は義仲の家来等の暴虐を憎み、事を頼朝の使いに期待し、鈴鹿山を切り塞ぎ、義仲・行家等の郎従を射たという。
「義仲郎従等を伊勢に派遣す」
之に因り、義仲は郎従等を伊勢の国に派遣した。
「家の重書を慈円の房に送る」
今日、家の重要文書等を山上に送った。慈円法印の無動寺の舎屋である。

|

2009年6月22日 (月)

閏10月20日「源氏一族義仲宅において会合すという」

[玉葉] 閏10月20日 辛巳 天晴 
「静賢法印院の使として義仲亭に向かう」
 今日、静賢法印が法皇の御使として義仲の家に向かった。お言葉に云く、その心よろこばざるの由お聞きなされた。詳細は如何。身の暇を申さず、俄に関東に下向すべしという。この事等驚き思いなさる所なりという。
「義仲十月宣旨のことにつき遺恨を申す」
 申して云く、法皇を怨み奉る事二ヶ條、その一は、頼朝を呼び上げられる事、然るべからずの由を申すと雖も、御承引無し。猶以て呼び遣わされた。
その二は、東海・東山・北陸等の国々へ下される所の宣旨に云く、もしこの宣旨に従わない者ども有らば、頼朝の命に従い追討すべしという。この状は義仲生涯の遺恨なりという。
「頼朝軍を防がんとして義仲東国に赴くという」  
 また東国へ下向の條に於いては、頼朝が上洛せば、相迎え一矢を射るべきの由素より申す所である。而るにすでに数万の精兵を差し、上洛(その身は上らず)を企てしむという。仍って相防がんが為下向せんと欲す。更に驚き思いなさるべからず。そもそも法皇を供にし奉り戦場に臨むべきの由、議論し申すの旨お聞きなされた。返す返す恐れ申すこと極まり無し。無実なりという(以上は義仲の申し状)。静賢が帰参した。この由を申さんと欲するの処、御行法の間によって申し入れ出来ない。然る間、義仲は重ねて使者を以て静賢の許に示し送りて云く、猶々関東へ御出かけの條、特にに恐れ申す。早く取り次ぎの人に承るべしという。
「源氏一族義仲宅において会合すという」
 件の事は昨日、行家以下一族の源氏等義仲の宅に会合した。議定の間、法皇を供にし奉るべきの由、その議論が出た。而るに行家・光長等は一切然るべからず。もしこの儀を為さば、反対すべきの由議論するの間、その事を遂げず。
「源行家密かに委細を天聴に達せしむ」
 件の詳細を以て、行家は法皇に密告したという。義仲は無実を申した。定めていつわりか。兼ねて又、義仲は特に申請の事有りという。頼朝を討つべきの由、一行の証文を頂いて、東国の郎従等に見せたいという。この事すでに大事なり。左右に能わずという。
「平氏優勢」
 また伝聞、平氏の残党、九国を出て四国に向かうの間、甚だ弱少。而るに今度官軍が敗績するの間、平氏その衆を得て、勢太だ強盛。今に於いては輙く追
伐を得るべからずという。而るに義仲等は甚だ安穏の由を申した。これ又偽言という。天下の滅亡、ただ今来月に在るか。

|

2009年6月21日 (日)

9月23日「行家を追討使に」

[玉葉] 9月23日 乙酉 陰晴不定 
 人伝えに云く、行家を追討使として派遣すべきの由、法皇より再三義仲にお言葉がありました。義仲は決着を申さず、俄に以て逃げ下る。行家を籠めんが為という。

|

2009年6月20日 (土)

9月6日「基房の謀略」

[玉葉] 9月6日 天気晴れ、
「院供花」
 今日より院の供花である。昨日より始めようとした。しかるに勅使が参着の日たるに依り、忽ち延引したようだ。女医博士(丹波)経基を呼び寄せ、歯下針を加えた。
「基房の謀略」
 伝聞、入道関白(基房)が少将顕家を以て使いとなし、行家の許へ示し送られ云う(法皇が御逐電の刻の事である)、先ず摂政(天皇の補佐)の職に於いては、正妻の子でなければ二男に及ぶと雖も、いまだ三男に及ぶの例は無い。しかるに私がその任務に当る由、世間が吹聴するのは太だ不当であるという。又法皇に申し上げる旨も同前のようだ。この事は、ひごろ聞き及ぶと雖も、信用せざるの処、今日定説を聞き、驚奇は少なくない。凡そ天子の位、摂政の運、全く人力の及ぶ所ではない。たくらみの様子は軽々しい様に似たものだ。これに加え三男に及ばないの由はいかに。貞信公(藤原忠平)・大入道殿(藤原兼家)・御堂(藤原道長)、此の三代の例を棄て置くのか。法皇は白黒を区別せず、源氏は是非を知らず。只一言の狂惑を以て、万機の巨務を全て治めようとした。はかりごとの至り、神仏の罰は定めて速きか。弾指(警告のためつまはじき)すべし、弾指すべし。但し私としては、乱世の摂政は好む所ではない。

|

2009年6月19日 (金)

8月20日「後鳥羽天皇践祚せらる」

[玉葉]  壬子 天晴 
 この日、立皇の事有り(高倉院の第四宮で御年四歳、母は故正三位修理大夫信隆卿の息女)。
(中略)
 占いを以て義仲に遣わすの処、大いに怒りうらみ申して云く、先ず次第の立様、甚だ以て不当である。御歳の次第によれば、加賀宮を第一に立つべきである。然らずんば、また初めの如く兄宮を先と為さるべし。事の體は、偽り飾りを以て故三條宮の至孝を思し食ざるの條、太だ以て遺恨という。然れども一昨日重ねて御使(僧正俊尭、木曽の定使なり)を遣わし数回往復した。無理矢理に御定め在るべきの由を申した。仍ってその後一決したという。
(中略)
「六位蔵人」
蔵人、六位、源家光(行家の息子)

|

2009年6月18日 (木)

8月11日「昨日の勧賞の聞書を見る」

[玉葉] 8月11日 癸卯 雨下る 
「昨日の勧賞の聞書を見る」
 去る夜の人事異動の文書を見た。義仲(従五位下、左馬の頭、越後の守)。行家(従五位下、備後の守と)。

|

2009年6月17日 (水)

7月30日「頼朝・義仲・行家への勧賞如何行わるべきか」

[玉葉] 7月30日 壬辰 天晴 
「院にて大事を議定す」
 左大臣のお言葉に云く、條々の事思案し申すべしという。
「頼朝・義仲・行家への勧賞如何行わるべきか」
一、お言葉に云く、今度の義兵は、計画したのは頼朝に在りと雖も、当時の成功の事は、義仲・行家である。まず賞を与えたいが、頼朝の不満は測り難し。彼の上洛を待とうと思う。また両人は賞の遅れに不満物だろう。両ヶの間、叡慮決し難し。兼ねて又、三人の勧賞等に差有るべきか。その間の詳細を思案し申すべしという。
「頼朝の参洛を待たず三人同時に行わるべし」
 人々は申して云く、頼朝の上京を待つべくもない。彼の賞に加え、三人同時に行わるべし。頼朝の賞、もし本意に不満ならば、申請により改正し、何の支障もない。その等級に於いては、且つは勲功の優劣に依って、且つは本官の高下に随い、思案し行わるべきか。すべてこれを議論した。第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家である。
   頼朝(京官、任国、加級、左大臣は云く、京官に於いては、上京の時任ずべし。私(兼実)は云く、そうではない。同時に任ずべし。長方もこれに賛成した)
   義仲(任国、叙爵)
   行家(任国、叙爵、但し国の勝劣を以てこれを任じ、尊卑差別すべしと。實房卿が云く、義仲が従上、行家は従下が宜しいだろう)
(注:任国:国司に任命すること。叙爵:従五位下の官位を与えること)
「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
一、お言葉に云く、京中の狼藉は、士卒の巨万の致す所である。各々その軍勢を減すべきの由、お言葉下さるべきの処、不慮の災難、恐れる所無きに非ず。この為如何。兼ねて又縦え人数を減せらると雖も、兵粮無くば、狼藉は無くならない。その用途また如何にすべきか。同じく思案しもうしあげるべしという。人々は申して云く、今に於いては、平家の残党の恐れ、定めて群を成すに及ばないだろう。士卒の人数を減少させるのが。良い方法と謂うべし。兵粮の事については、頗る異議が有り。忠親・長方等は云く、各々一ヶ国を賜いその用途に宛てるべし。私は反論して曰く、勧賞や任国の外、更に国を賜うのはいかがなものか。両人は云く、その用が終えれば、他人に任ぜらるのに何の困難有りや。私は曰く、道理然るべし。但し彼等は定めて没収の恨みを含むだろう。ただ平家の没収地の中、然るべきの所を撰び、指定しあたえるべきか。然らずんばまた一ヶ国を以て、両人に分け与えるきか。但しこの條は頗る喧嘩の基となるか。猶平家の没収地の所を与えること宜しかるべし。左大臣は云く、両方の議各々然るべし。法皇の決定に在るべし。
「関東・北陸の寺社領等に使を遣わし沙汰致すべきか」
一、お言葉に曰く、神社・佛寺、及び甲乙の所領、多く関東・北陸に在り。今に於いては、各々その使を遣わし指図を致すべきの由、本所に命令されるべきか。一同申して云く、異議有るべからず。早く命令されるべしという。(中略)兼光が帰参しました。各々議論し申し上げのの趣旨は、皆以て然るべし。早くこの定行わるべしという。今に於いては、各々御退出有るべきという。私は即ち退出しました。

|

2009年6月16日 (火)

7月28日「義仲・行家入京す」

[玉葉] 7月28日 庚寅 天晴 
「義仲・行家入京す」
 今日、義仲・行家等、南北(義仲は北、行家は南)より入京すという。晩頭、左少弁光長が来たり語って云く、義仲・行家等を蓮花王院の御所に呼び出し、追討の事のお言葉がありました。大理殿上の縁に於いてこれを命令した。彼の両人は地にひざまづきこれを承る。御所たるに依ってなり。
「彼の両人権を争う意趣あり」
 参入の間、彼の両人相並び、敢えて前後せず。爭か権の意趣これを以て知るべし。両人が退出するの間、頭の弁兼光が京中の狼藉を停止すべきの由言いつけたという。

 同じ日に「義仲と行家が参上した」の記述が「吉記」七月二十八日にある。「武将が二人、木曽の冠者義仲(年令は三十才余、故源義賢の次男、錦の直垂(ひたたれ)を着し、黒革威(おどし)の鎧(よろい)、石打(いしうち)の羽の矢を負い、折烏帽子(おりえぼし)。小舎人童(こどねりわらわ)取染(とりぞめ)の直垂(ひたたれ)、劔(つるぎ)を帯し、また替矢を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年令四十才余、故源為義の末子、紺の直垂を着し、宇須部(うすべ)箭を負い、黒糸威の鎧を着し、立烏帽子(たてえぼし)。小舎人童上髪、替矢を負う。両人の家来は相並び七八人分別せず)参上した。行家が先ず門外より参入して言う、法皇様の御前に進むとき両人は相並び同時に参るべきか。然るべきの由指示されたという。次いで南門に入り相並び(行家は左に立つ、義仲は右に立つ)参上した。大夫の尉知康(ともやす)がこれを補佐した。各々は御所の東庭に進み、階隠間に当たり膝まずき敬礼した。長官が公卿の座の北簀子(すのこ)の下に居て、切石のある階下の前に進むように指示した。しかし両将は進まずに、西面にひざまずいていた」
 さらに「両人に平氏追討を命ず」と続く。「検非違使(警察兼裁判官)長官が後白河法皇のお言葉を伝えた。前内大臣の平宗盛以下の平家党類を追討せよと。義仲と行家の両人は「はい」と承り、退出した」
 そして「両人の容貌に驚目す」と続く。「早速この両人のかおだちと姿を見て思うに、夢か現実か、万人の注目は、筆の運びの及ぶ所ではない。頭弁(とうのべん)が指図して相談し、命令を徹底するよう指示があった」
 義仲と行家が法皇に謁見した様子が記述されている。吉記のほうが間近にいて服装外見について詳細な観察をしている。兼実のほうは伝聞である。
(注釈)
直垂(ひたたれ)・・・正面のえりの左と右がわとを垂らし引き違えて合わせる。
威(おどし)・・・よろいのさね(小板)を糸などでつづること。
石打(いしうち)・・・鷲の尾の両端の羽を矢羽として使用する。
折烏帽子(おりえぼし)・・・頂を折り伏せた烏帽子(黒い袋形のかぶりもの)。
小舎人童(こどねりわらわ)・・・貴人に仕える少年。
取染(とりぞめ)・・・所々に細い横筋が出るように染めたもの。
油単(ゆたん)・・・ひとえの布・髪などに油をひいたもの。
立烏帽子(たてえぼし)・・・中央部の立った烏帽子。
宇須部箭(うすべせん)・・・尾白鷲の尾羽の矢羽根の矢(箭)

|

2009年6月15日 (月)

7月27日「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮らる」

[玉葉] 7月27日 己丑 天晴 
「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮らる」
 (前略)私はまた云く、今においては、義仲(木曽)・行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止し、早く入京すべきか。その後早速還御有るべし。そうでなければ、京都の乱暴はあえて止むべからず。これ等の趣旨を早く奏聞すべし。定長が帰りました。
「法皇京都に還御」
午後2時頃、定能卿告げて云く、連々日次無きに依って、今日俄に還御(明日復日、明後日御衰日、晦日に至るの際、甚だ懈怠すべきの故なり)、即ち以て出御した。
「兼実下山、法性寺に宿す」
私も御幸の後、同じく以て山を出る。午後8時頃、法性寺に到る。

|

2009年6月14日 (日)

7月22日「源行家大和国に入り、宇多郡に住すという」

[玉葉] 7月22日 甲申 朝間天陰 辰刻以後晴 
「比叡山の僧綱下京す」
 午前6時頃、人告げた、江州の武士等、すでに六波羅の辺に入京し、物騒極まり無しという。また聞く、入京は実説に非ず。而るに地の武士等が台獄に登り、講堂の前に集会すという。日来登山の僧綱等併せながら京に下る。但し座主(明雲)一人、京に下らずという。
「源行家大和国に入り、宇多郡に住すという」
 また聞く、十郎蔵人行家は大和の国に入り、宇多郡に居住した。吉野の大衆等が味方したという。よって資盛・貞能等、江州に赴かず。行家の入洛を相待つという。貞能は去夜は宇治に宿営し、今朝多原の地に向かおうとするの間、この事有り。よって彼の前途を止め、この入洛を相待つという。
「源行綱平家に謀反し摂津・河内に横行す」
 また聞く、多田蔵人大夫行綱、日来平家に従属した。近日は源氏に同意するの風聞が有り。而るに今朝より忽ち謀反し、摂津・河内両国に横行し、種々の悪行を張行し、河尻の船等併しながら点じ取るという。両国の衆民皆悉く味方したという。
「丹波追討使大江山に引退く」
 また聞く、丹波の追討使忠度、その軍勢は敵対に非ざるの間、大江山に帰ったという。凡そ一々の事、直事に非ざるか。今日、上皇の宮に卿相が参集し、議定の事有りという。 私は同じくその招集ありといえども、病により参らず。

|

2009年6月13日 (土)

1183年(壽永二年)7月2日「義仲・行家四方より寄せんとす」

[玉葉] 1183年(壽永二年 癸卯)5月16日己卯 
「官軍越中にて源義仲等と戦い大敗す」
 去る十一日官軍の戦闘が勝ちに乗り越中の国に入る。木曽の冠者義仲・十郎蔵人行家、及び他の源氏等と合戦した。官軍は敗績した。過半数は死んだという。

[玉葉] 1183年(壽永二年)7月2日 甲子 天晴 
「義仲・行家四方より寄せんとす」
 伝聞、頼朝は忽ち出るべからずという。ただ木曽の冠者・十郎等は手勢を四方に分ち、寄すべきの由 議定したという。

|

2009年6月11日 (木)

養和元年(1181)十一月五日「義兼・義經ら、遠江発向を延ばす」

「吾妻鏡」養和元年(1181)十一月五日丁丑。
「義兼・義經ら、遠江発向を延ばす」
 足利冠者義兼、源九郎義經、土肥次郎實平、土屋三郎宗遠、和田小太郎義盛などが、平惟盛の攻撃を迎え撃つために、遠江(静岡県西部)へ出発しようとしたところ、佐々木源三秀義が云うには、かの平惟盛は現在近江(滋賀県)に陣を張っており、下向はいつになるか分かりません。とりあえず叔父の十郎蔵人行家が尾張(愛知県)に陣を張っており、まずは食い止めるでしよう。そうすれば、あわてて出発しなかったとしても、さほど問題はないという。そこで延期したという。

|

2009年6月10日 (水)

養和元年(1181)10月27日「頼朝上洛すという」

[玉葉] 養和元年(1181)10月27日 庚午 陰晴不定 
「頼朝上洛すという」
 或る人云く、頼朝必定すでに上洛を企て、去る二十一日尾張保野宿に付くべきの由という。然れども、両三日延引か。どのようにしても入洛は決定、竹園に於いては、相模の国に留め奉る。上総の国住人廣常(介の八郎と称す)を以て守護し奉るという。行家すでに尾張国内に入るという。また聞く、北陸道去る二十四日襲い攻めんとした。然れども、無勢に依ってまた延引した。年内は合戦に及ぶべからずという。

|

2009年6月 9日 (火)

治承五年(1181)五月二十九日「行家の告文に対する大神宮禰宜の返状」

「吾妻鏡」治承五年(1181)五月二十九日戊戌。
「行家の告文に対する大神宮禰宜の返状」
 行家が先の十九日に神への手紙を伊勢神宮に差し出しました。その神主の返答文が今日、三河の行家の元へ届きました。

 今月十九日の神への願文と手紙が二十二日に届きました。細かい内容を読みました。そもそも、去年の冬の頃より関東が落ち着いていない。特にお祈りするように天皇からお言葉を戴いたので、それぞれ丹精込めてお祈りしているところ、思いの外に、神主達が天皇家の命に背いて源氏に心を寄せ、そちらをお祈りしていると告げ口があった。何度も法皇から真偽を確かめる問い合わせが来たので、間違いなく関東を懲らしめますと了承の誓いを出しました。それなのに今又、源氏から神へのお祈りの手紙が送られてきて、承知する訳にも行かないという事です。この内容を朝廷へ報告しておかないと後で朝廷から攻められる恐れがあるからです。いくら神宮を大切に信じて頼まれても、朝廷のお許しが無ければ祈ることは出来ません。 又、関東に伊勢神宮の領地は沢山ありますが、今までは、神の田も、荘園も、指し出す年貢は約束どおりきちんと差し出されておりました。それなのに、それらの現地役職者や神に遣える人達(神人)が、騒ぎにかこつけて、又兵糧米として調達されると云っては、規則どおりの納税をしないので、先例にあわせて使いをもって催促をさせました処、納税は少なく、拒否する者が多いのです。このため、神様に仕える物々が不足し、神の下僕として仕える者達は、愁いの声をあげています。神慮は恐れ多く、人の心は移りやすいので、今は妨げはしないと願文に記されております。その件は承知しておきます。
    治承五年五月二十九日 伊勢神宮事務係・権神主。
「行家牒状を延暦寺に送る」
 行家は返事を読んだ後で、神様に見放された事を知り、余計に狼狽して、比叡山の大衆達に味方になってくれと手紙を送りました。これは、平家のためのお祈りを止めて、源氏の味方をしてくれるようにとの事でした。

|

2009年6月 8日 (月)

治承五年(1181)五月十九日「行家、告文・幣物を大神宮に奉納す」

「吾妻鏡」治承五年(1181)五月十九日戊子。
「行家、告文・幣物を大神宮に奉納す」
 十郎藏人源行家は、三河(愛知県)におります。平家を追討するために京都へ上ろうと内緒で決めました。まず祈願するために、三河代官の大中臣蔵人以通に相談して、内密に願文を用意し、献上品を添えて伊勢神宮へ送りました。
 献上品をお納めいたします。

 美しい和紙を十冊 八丈の絹を四反 右の品物を寄付することこのとおりです

   治承五年五月十九日          三河代官大中臣以通

 行家様の命令を受けて申し上げます。伊勢神宮の事は、元々から心の底で拝んでいましたが、夢のお告げがありました。そこで考えの内容を書いた願書を献上品と共に捧げます。この趣旨をご理解いただき御祈念下さい。この通り慎み敬って申し上げます。

   五月十九日              大中臣以通が代わりに捧げます。

 伊勢神宮内宮外宮を司る政務所の長官さまへ 

|

2009年6月 7日 (日)

治承五年(1181)三月十九日「大屋安資、行家敗退の戦況を鎌倉に報ず」

「吾妻鏡」治承五年(1181)三月十九日乙未。
「大屋安資、行家敗退の戦況を鎌倉に報ず」
 尾張の侍の大屋中三安資が鎌倉へ走り到着して申し上げました。「先日の十日に十郎藏人行家(侍中は蔵人の唐名)が墨俣河(今の長良川)で平氏と戦をしました。行家に従っていた軍勢は全て負け滅びました。平家が勝った勢いに調子付いている合間に、そこから引き上げて熱田神宮に隠れました。先陣に当たる行家軍が敗れたので、重衡達の平家軍がこちらへも近づいて来る心配があります。」という。尾張の国衙に勤めている在庁官人の多くが平氏についたのに、安資だけは頼朝様に忠義を尽くしているので、とても神妙である。」と云って聞かせたという。

|

2009年6月 6日 (土)

3月13日「去十日墨俣にて合戦あり源行家敗れる」

[玉葉] 3月13日 己丑
「去十日墨俣にて合戦あり源行家敗れる」
 伝聞、去る十日、官兵等が墨俣を渡ろうとした時、尾張を妨害す賊徒等が越えて来た。 五千余騎である。而るに重衡の従者(金石丸。高名の者なりと)がこれを報告した。ここによって防戦し、午前10時頃より午後4時頃まで合戦した。賊党等千余人がさらし首にされた。その後三百余人が河水に溺れ亡滅した。大将軍等、多く伐ち取りました。猶官兵等は墨俣河を渡り、残党等を襲うという。これ去る夜、飛脚到来し、称し申すという。十郎蔵人行家(本名義俊)は傷つき河に入りたり。定めて若死にしたのか。然れども、さらし首の中に入らずという。

[吉記] 3月13日 
「墨俣川合戦注文」
 美濃合戦の事の報告書が風聞した。実説を知らずと雖もこれを記録した。
三月十日、墨俣河の合戦において、討ち取りし謀反の者どもの首目六。
   頭の亮(平維盛)方二百十三人(内生取八人)、越前の守(平通盛)方六十七人、権の亮方七十四人、
   薩摩の守(平忠度)方二十一人、参河の守(平知盛)方八人(内自分有り)、讃岐の守(平維時)方七人(同)、
    以上三百九十人、内大将軍四人、
   和泉の太郎重満(頭の亮方盛久自分)、同弟高田の太郎(同方盛久郎等分)、
   十郎蔵人息字二郎(薩摩の守分)、同蔵人弟悪禅師(頭の亮方盛綱手)
    この外負手河に逃げ入る者三百余人。

|

2009年6月 5日 (金)

治承五年(1181)三月十日「源行家父子、墨俣河にて平氏に敗る」

「吾妻鏡」治承五年(1181)三月十日丙戌。
「源行家父子、墨俣河にて平氏に敗る」
 頼朝様の叔父の行家は、息子の長男蔵人光家、同次郎、僧義圓〔卿公と云う〕、泉太郎重光や尾張、三河の武士を引き連れて墨俣川に陣を構えました。平家の大将は頭亮重衡、左少將惟盛、越前守通盛、薩摩守忠度、三河守知度、讃岐守左衛門尉盛綱〔高橋と云う〕、左兵衛尉盛久等が同じ川の西岸におりました。夜になって行家は策略をもって密かに平家を攻撃しようと企んでいましたが、重衡の従者の金石丸は馬を洗おうとして川へやってきたら、東軍の軍勢の動きを見て攻めてきそうなのを知って急いで帰ってその旨を報告しました。その為に行家が未だ出陣する前に重衡の軍勢が源氏へ攻め込んできました。そんな予期せぬ事態が急に起こったものですから行家の軍勢はとても慌ててしまい、戦いましたが全く歯がたちませんでした。義圓は高橋盛綱に討たれ、蔵人次郎は忠度に捕虜になり、泉太郎重光・弟の次郎は盛久が討ち取りました。この他の軍勢も川にはまって溺れ死んだり、傷を受けて死んだりしたのが約六百九十余人にもなります。

Dsc02433

穂高神社(長野県安曇野市穂高)

|

2009年6月 4日 (木)

治承四年(1180)十一月七日「志田義広、行家ら来謁す」

「吾妻鏡」治承四年(1180)十一月七日乙卯。
「廣常以下、合戦の次第を報告す」
上総廣常以下の武士達が頼朝様の旅館に帰って来て、合戦の次第と佐竹秀義の逃げ去ったこと、城郭へ放火した事などを報告しました。軍勢の中で熊谷次郎直實と平山武者所季重は特に手柄があります。どこででも先頭を進み、命を顧みず、沢山の敵の首を獲りました。それで、賞も同僚より秀でてるようにとの旨を、頼朝様がその場で直接仰せられましたという。又、佐竹藏人が参上して部下になりたいと望んで云いました。直ぐに許可されました。それは手柄があったからです。
「志田義広、行家ら来謁す」
 今日、叔父の志田三郎先生義広と十郎蔵人行家達が国府にやってきて会見をしたという。

Dsc02400

伊和神社(松本市惣社)この付近が国府跡という。

|

2009年6月 3日 (水)

9月3日「源行家頼朝に与力す」

[玉葉] 9月3日 壬子
「熊野権別当湛増謀叛」
 伝聞、熊野権の別当湛増が謀叛を起こした。その弟湛覺の城、及び所領の人家数千宇を焼き払う。 鹿瀬以南を併せて侵略した。行明が同意したという。この事は去る月中旬頃の事という。
「源頼朝伊豆・駿河を押領す」
 また伝聞、謀叛の賊が義朝の子(頼朝か)、年来配所伊豆の国に在り。而るに近日凶悪を事とし、去る日、新司の先使を侵略した(時忠卿が知行の国なり)。凡そ伊豆・駿河両国を侵略した。
「源行家頼朝に与力す」
 また為義の子息(行家か)、一二年来、熊野の辺に住んでいた。しかるに去る五月の乱逆のおり、坂東方に到着した。彼の義朝の子に味方し、大略は謀叛を企てるという。あたかも平将門の如しという。

Dsc02407

満願寺(安曇野市穂高牧)義仲が修理し、寄付したという。

|

2009年6月 2日 (火)

四月二十七日「行家、以仁王の令旨を頼朝に傳ふ」

治承四年(1180)四月二十七日壬申。
「行家、以仁王の令旨を頼朝に傳ふ」
 高倉宮(以仁王)の令旨が今日、頼朝様のおられる伊豆の北条館に届きました。八条院蔵人k行家が持ってきた。頼朝様は水干を着て、まず京都の石清水八幡宮の方を拝んだ上で、謹んでこれを開いて見ました。行家は甲斐や信濃の源氏に知らせるため、すぐに出発しました。頼朝様は藤原信頼の同罪として、永暦元年三月十一日に伊豆へ配流され、嘆きながら20年の季節を送り、愁いて32才余を迎えました。(実は数えの34歳)この頃は、平清盛が好きなように天下を把握していました。云うことを聞かない役人を罰則し、おまけに後白河法皇を鳥羽離宮に閉じ込めました。上皇はお怒りで悩まれておられた(武力が無いのに彼は相当の策士である)。こんな時に(親王の命令である)令旨が来ました。そこで正義の兵を上げようとしました。これは天から与えられた機会といえるかもしれません。ここに平直方の五代の孫の北条四郎時政殿は伊豆の豪傑です。頼朝様を婿として、絶対の忠誠を表しています。ですから頼朝様はまず一番に時政殿を呼んで令旨を開いて見せました。
「以仁王の令旨」
 命令する。東海道、東山道、北陸道諸国の源氏や群兵らに
早く平清盛とその一族の反逆の連中を追討すること
右のことは、源仲綱が以仁王の命令令旨を承って命じる。「最勝王(以仁王)の勅命を受けて言います。平清盛と次男の宗盛は力に任せて武力行使をして、国家をだめにして、万民を悩ませた。日本国中を我が物顔にして、法皇を幽閉して(11791120後白河を鳥羽殿に)、近臣を流罪にした。時に人を殺し、流罪にし、立ち上がれなくし、牢屋に入れ、財産を横領し、国司の権限を取り、官職を剥奪し、手柄のない身内に賞を許し、反対派の者には無実の罪を着せた。反対する高徳の僧侶を監禁し、学者としての僧をも閉じ込めた。延暦寺へ納める絹や米を身内に配り、謀反人である味方の軍勢の食料にする。天皇家をつぶそうとしている。摂関家を抑え、天皇家に逆らって、仏法を破滅するとは、前代未聞のことである。これでは天下の全てが悲しんで、臣下も民も悲しんでいる。だから私は後白河院の第二皇子として、壬申の乱(672)で正しい皇統を継いだ天武天皇の前歴を学び、天下を略奪した連中を追討する。聖徳太子の先例を学び、佛法を破滅しようとするやつらを討ち滅ぼそう。ただ単に人間としての力を頼りにしているだけではなく、天道の助けを願うものである。天皇家や仏教、神道のご利益があれば、どうして全国の合力を得られない訳がない。そこで源氏、藤原氏又東海東山北陸の三道諸国の勇士としての名高い者は、同様に力を会わせ追討せよ。もし賛同しないものは、清盛とその仲間と同じように、死罪や流罪や追討・拘禁の罪にしてしまう。もし、手柄をたてた者には、まず国衙の役人に届けて、即位の後は必ず望みに合せて賞を与えよう。諸国の人たちはよく承知し、この命令どおりに実行せよ。
     治承四年四月九日   前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)

Dsc02372
沙田(いさごだ)神社

木曾三社神社ゆかりという。

|

2009年6月 1日 (月)

[行家]治承四年(1180)四月九日「源頼政、以仁王の令旨を受く」

[行家]

治承四年(1180)四月九日辛卯。
「源頼政、以仁王の令旨を受く」
 出家して入道の源三位(げんざんみ)頼政卿は、平相國(しょうこく)禪門〔平清盛〕を打ち滅ぼすため、かねてから準備していました。しかし、大義名分なしで私的に動いては成功しそうもないので、今日夜になってから息子の伊豆守仲綱達を連れて、一院(後白河)の第二皇子である以仁(もちひと)王がお住まいの三条高倉の御所に密かに参上した。前右兵衛佐(さきのうひょうえのすけ)頼朝等の源氏を味方に付け、平家一族を打って政権をとりましょうと申し上げました。そこで、以仁王は、散位(さんに)の宗信に云って親王等が発布する令旨(りょうじ)を下された。そして、陸奥十郎義盛〔検非違使の尉の廷尉(ていい)源為義の末っ子〕が丁度京都に来ていたので、この令旨を持って関東に行って、まず前右兵衛佐(頼朝様)に知らせた上で、他の源氏へも伝えるよう、よくよく命令された。義盛は後白河法皇の妹八条院の職員の蔵人(くろうど)に任命されました。〔義盛は名前を行家と変えました。〕

|

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »