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2009年5月25日 (月)

十月二十一日「頼朝、千葉・三浦の諫止に従い軍勢を班つ」

治承四年(1180)十月二十一日庚子。
「頼朝、千葉・三浦の諫止に従い軍勢を班つ」
 頼朝様は、左近少將平惟盛を追って攻める為に、京都へ向かうように武士達に命令しました。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総権介広常達が忠告をして云いました。常陸国の佐竹太郎義政と冠者秀義は数百の軍勢を擁していながら、未だに部下として参加してきていません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東の武士に攻め勝ったうえで、関西に行くべきという。この進言によって黄瀬川宿に移動し宿営することにしました。安田三郎義定を守護として遠江国へ行かせ、武田太郎信義を駿河に置かれました。

治承四年(1180)十月二十三日壬寅。
「頼朝、相摸国府において勲功の賞を行ふ」
 頼朝様は相摸国府に着きまして、初めて論功行賞を行いました。北条時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総広常、和田義盛、土肥実平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、狩野親光、佐々木定綱、佐々木經高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、工藤祐茂、市川行房、加藤景員入道、宇佐美実政、大見家秀、飯田家義以下の人達に今までの領地を認めたり、又は新しい領地を与えたりしました。義澄を三浦介に任命し、行平を前のとおり下河辺庄司に任命したという。
「大庭景親降伏す」
 大庭三郎景親はとうとう降参して相摸国府へ投降して来ました。すぐに上総權介広常に預かり囚人として預けられました。長尾新五爲宗は岡崎四郎義実に預けられ、長尾新六定景は三浦義澄の預かりとなりました。河村三郎義秀は河村郷を取上げられ、大庭景義に預けられました。又、山内首藤滝口三郎経俊の山内庄を取り上げ、土肥実平に身柄を預けました。この他に石橋合戦の残党は数人ありますが、処刑したのはわずかに十人中一人位だという。

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