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2009年5月

2009年5月29日 (金)

文治二年(1186)三月九日「武田信義死す」

「吾妻鏡」文治二年(1186)三月九日丁亥。
「武田信義死す」
 武田太郎信義が亡くなりました〔年は数えの五十九です〕。元暦元年(1184)六月十六日に武田党期待の星、倅の一條次郎忠頼の謀反で、頼朝様のお怒りに触れたまま、未だにその許しを受ける事が出来ずにいましたが、結局そのまま亡くなりました。

文治2年(1186年)3月9日、失意のうちに病没した。享年59。家督は五男の石和五郎信光が継いだ。なお、『吾妻鏡』には文治2年3月9日に没したとの記載があるが、その後、1190年(建久元年)の頼朝上洛の隋兵に武田信義の名があったり、1194年(建久5年)の東大寺造営や小笠懸の射手に信義の名が見られることから、1186年(文治2年)以降も信義が生存している可能性が濃厚であるとの指摘もある。(五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)第1巻 五味氏序文)

 

(武田信義史は終了です。)

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2009年5月28日 (木)

1183年 (壽永二年) 4月25日「平宗盛に頼朝・信義追討を仰す」

[玉葉] 1183年 (壽永二年 癸卯) 4月25日 己未 
「平宗盛に頼朝・信義追討を仰す」
 左大臣(藤原経宗)が左中弁兼光朝臣に命じて云く、源頼朝・同信義等、東国・北陸を不法に占領した。前の内大臣(平宗盛)に命じて、追討せしむべしといえり。

(木曽義仲と武田信義を混同している)

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2009年5月27日 (水)

養和二年(1182)一月二十八日「頼朝、諸士をして伊勢大神宮に神馬・砂金等を献ぜしむ」

養和二年(1182)一月二十八日己亥。
「頼朝、諸士をして伊勢大神宮に神馬・砂金等を献ぜしむ」
 伊勢神宮に奉納する神馬や砂金の事を、常々検討されていましたが、今日清めを終えた者から献上されました。そこで、頼朝様は御所の中でこれを拝見しました。すぐに了解されこれらに決められました。まず、砂金百両を千葉介常胤と小山四郎朝政が献上しました。次に馬10頭が御所の庭に引き出されました。俊兼が濡れ縁において、毛の種類の名簿を記録しました。

 一疋(ひき)鴾毛(つきげ)〔江戸太郎(重長)進ず〕     
 一疋河原毛〔下河辺四郎(政義)進ず〕

 一疋栗毛〔武田太郎(信義)進ず〕     
 一疋栗毛の鮫(まだら)〔吾妻八郎進ず〕

 一疋靑黑〔高塲次郎進ず〕         
 一疋鴾毛鮫〔豊田太郎(幹重)進ず〕

 一疋鹿毛(かげ)〔小栗十郎(重成)進ず〕     
 一疋葦毛(あしげ)〔葛西三郎(淸重)進ず〕

 一疋白栗毛〔河越太郎(重頼)進ず、額は白〕
 一疋黑瓦毛(かわらげ)〔中村庄司(宗平)進ず〕

以上の馬を選んで決めた後で、伊勢神宮の神主の光倫の屋敷へ預けました。皆、馬の飼料を一緒に出したという。

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2009年5月26日 (火)

治承五年(1181)三月七日「武田信義を鎌倉に召し、忠誠の誓書を書かしむ」

治承五年(1181)三月七日癸未。
「三善康信、頼朝追討の院議あるを報ず」
 大夫属入道三善康信から手紙で言ってきました。去る月七日の後白河院での会議で武田太郎信義に命令して頼朝様を追討するよう院の庁の命令書を出すよう決められました。又、国々の源氏をどれも攻め滅ぼすようにとの話は実際はありません。実は滅ぼす相手は頼朝様だけです。噂の内容はこのようですという。
「武田信義を鎌倉に召し、忠誠の誓書を書かしむ」
 これに依って、頼朝様が思うには、武田の裏切りは無いとは言い切れない。詳しいことを武田太郎信義に尋ねたところ、駿河国から今日、本人が鎌倉に来ました。自分には追討する役をしろとの命令は来ていません。例え命令されたとしても、了承をするつもりはありません。本から背く心は無いことは、去年の再三に及ぶ戦の手柄の事を思えば、知ってもらえるでしょうか。と何度も弁解をした上、私の子孫の代になっても、頼朝様の子孫に敵対することはありませんと神や仏への誓いの文書を書いて、見ていただくため献上しましたので、お会いすることにしました。それでも未だ用心して、三浦義澄、下河辺行平、佐々木定綱、佐々木盛綱、梶原景時を呼んで座席の左右に居させたという。武田信義は、自分から刀を鞘ごと腰から抜き取りはずして、下河辺行平に渡し、武衛様が奥へ入った後、自分が帰る時に返してもらいましたという。

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2009年5月25日 (月)

十月二十一日「頼朝、千葉・三浦の諫止に従い軍勢を班つ」

治承四年(1180)十月二十一日庚子。
「頼朝、千葉・三浦の諫止に従い軍勢を班つ」
 頼朝様は、左近少將平惟盛を追って攻める為に、京都へ向かうように武士達に命令しました。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総権介広常達が忠告をして云いました。常陸国の佐竹太郎義政と冠者秀義は数百の軍勢を擁していながら、未だに部下として参加してきていません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東の武士に攻め勝ったうえで、関西に行くべきという。この進言によって黄瀬川宿に移動し宿営することにしました。安田三郎義定を守護として遠江国へ行かせ、武田太郎信義を駿河に置かれました。

治承四年(1180)十月二十三日壬寅。
「頼朝、相摸国府において勲功の賞を行ふ」
 頼朝様は相摸国府に着きまして、初めて論功行賞を行いました。北条時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総広常、和田義盛、土肥実平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、狩野親光、佐々木定綱、佐々木經高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、工藤祐茂、市川行房、加藤景員入道、宇佐美実政、大見家秀、飯田家義以下の人達に今までの領地を認めたり、又は新しい領地を与えたりしました。義澄を三浦介に任命し、行平を前のとおり下河辺庄司に任命したという。
「大庭景親降伏す」
 大庭三郎景親はとうとう降参して相摸国府へ投降して来ました。すぐに上総權介広常に預かり囚人として預けられました。長尾新五爲宗は岡崎四郎義実に預けられ、長尾新六定景は三浦義澄の預かりとなりました。河村三郎義秀は河村郷を取上げられ、大庭景義に預けられました。又、山内首藤滝口三郎経俊の山内庄を取り上げ、土肥実平に身柄を預けました。この他に石橋合戦の残党は数人ありますが、処刑したのはわずかに十人中一人位だという。

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2009年5月23日 (土)

十月二十日「富士川の合戦」

治承四年(1180)十月二十日己亥。
「頼朝駿河国賀島に到る」「富士川の合戦」
 頼朝様は駿河国賀島に到着しました。又、左少將平惟盛、薩摩守忠度、三河守知度等は富士川の西岸に陣を張りました。しかし、夜半の頃になって武田太郎信義が作戦を考えて、ひそかに平家の陣の後ろを襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音はまるで軍勢の攻撃にそっくりでした。これを平家が驚いて騒いだところ、次將の上総介忠淸などが相談して云うには、東国の軍勢は全て頼朝様に付いてるので、我々平家が、わざわざ京都を出て、鎌倉を攻める途中で囲まれては逃げられなくなるので、早く京都へ戻り、他の方法を考えたほうが良いという。
「平惟盛ら退陣帰洛す」
 平惟盛以下はその言葉のとおり夜明けを待たずに、すぐに京都へ帰ってしまいました。その時、飯田五郎家義と子の太郎は川を渡って平家の軍勢を追いかけている時、伊勢の侍伊藤武者次郎は引き返してきて戦い、飯田太郎は直ぐに討ち取られましたが、家義が伊藤を討ち取ったという。印東次郎常義は鮫島で殺されたという。

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2009年5月22日 (金)

十月十三日「甲斐源氏および北条父子駿河国に向ふ」

治承四年(1180)十月十三日壬辰。
「木曽義仲上野に入る」
 木曾冠者義仲は亡き父義賢のあとに倣い、信濃国を出て上野国に入った。そこで住人は木曾義仲に従ったので、藤性足利俊綱からの妨げがあっても怖れることは無いと命じたという。(足利太郎俊綱の云うことを聞かずに木曾冠者義仲の命令に従えと云う意味)
「甲斐源氏および北条父子駿河国に向ふ」
 又、甲州の源氏と北條四郎時政、北條四郎義時親子は駿河へ向かい、今日も暮れたので大石宿に宿泊したという。午後八時頃に、駿河目代は長田入道の計略を採用して富士野へ回って攻めて来るとの、連絡が入った。途中で出迎えて戦いをしようと群議で決定した。武田太郎信義、一條次郎忠頼、板垣三郎兼頼、武田兵衛尉有義、安田三郎義定、逸見冠者光長、河内五郎義長、石和五郎信光達は、富士山の北麓の若彦路を越えた。加藤太光員と加藤次景廉は石橋合戦の後、甲州に逃げていたが、ここで一緒に駿河に到ったという。

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2009年5月21日 (木)

九月二十四日「甲斐源氏、駿河集結を議す」

治承四年(1180)九月二十四日癸酉。
「甲斐源氏、駿河集結を議す」
 北條時政殿と甲斐の源氏達は逸見(へみ)山から石和(いさわ)御厨(みくりや)へ来て宿営していたら、今日の真夜中の十二時頃に土屋宗遠が到着して頼朝様の命令を伝えた。そこで武田太郎信義、一條次郎忠頼以下皆集まり、駿河で合流しようと評議したという。

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2009年5月20日 (水)

九月二十日「土屋宗遠使者として甲斐に向ふ」

治承四年(1180)九月二十日己巳。
「土屋宗遠使者として甲斐に向ふ」
 土屋三郎宗遠は頼朝様の使者として甲斐へ向かいました。安房、上総、下総の軍勢は全て参加して来ました。そこで、上野、下野、武蔵の軍勢を連れて、駿河の国へ行き、平家の来るのを待つように、早く北條四郎時政殿を案内として黄瀬川の辺りに来て迎え撃つように、武田太郎信義以下の源氏に伝えるようにという。

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2009年5月19日 (火)

九月十五日「武田信義、一條忠頼ら信濃を平定して帰る」

治承四年(1180)九月十五日甲子。
「武田信義、一條忠頼ら信濃を平定して帰る」
 武田信義、一條忠頼以下は信濃中の敵を討ち終って、昨夜甲斐へ戻って逸見山に泊りました。そしたら今日北條時政がその場所へ到着され、伝言の内容を彼等に話したという。

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2009年5月18日 (月)

武田信義 治承四年(1180)九月十日「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」

治承四年(1180)九月十日己未。
「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」
 甲斐の国の源氏である、武田太郎信義と一條次郎忠頼以下は、石橋合戰の事を聞いて、頼朝様に参加しようと、駿河の国へ向かおうとした。しかし、平氏の味方が信濃の國にいるという。まず信濃の国へ向かいました。
「諏訪明神の託宣」
 昨晩諏訪神社の上宮の庵沢の辺りに宿泊した。深夜に婦人が一人、一條次郎忠頼の陣に来て、話すことが有ると云いました。一條次郎忠頼は不審に思いながらも、焚き火のほとりに招いて逢いました。女がいうには「私はこの宮の大祝篤光(おおはふりあつみつ)の妻です。夫の使者として来ました。大祝篤光が云うには、源氏のために祈祷をしようと心を込めて、お篭りして三日間も社屋から家に戻りません。そしたら夢想の中に梶の葉の紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士が一騎、源氏のお味方である。と云って西へ向けて走っていった。これは諏訪明神のご威光が現れたのだから、なんて頼みにならないことがありましょうか。夢のお告げから覚めて、伝えに来ようと思ったけれど、神様の前で拝んでいるべきだと思い、替わりに私を使いによこしました。一條次郎忠頼は特に諏訪様を信仰し、自分からわざわざ捜し求めた太刀一腰と腹巻一領をその妻に与えました。
「平家方菅冠者自殺す」
 そこで、このお告げに従って直ぐに出陣して平氏の味方の菅冠者の伊那郡大田切郷の城へ攻めるため到着しました。菅はこの事を聞いて、戦いも始めない内に館に火を付けて自殺してしまったので、皆根上河原に陣をひいて、相談して云うには、昨夜の祝の夢のお告げがあって、今日菅冠者が滅んだのは明神が罰を与えたからじゃないだろうか。それならば、庄園を上下社に寄附して、後日頼朝様に報告しようかと云えば、皆反対をしませんでした。右筆を呼んで、寄進状を書かせました。上宮の分は信州の平出と宮所の二郷、下宮の分は龍市の一郷です。それなにの書く人が間違えて岡仁谷郷を書き足していました。何度も書き直させましたが、毎回二郷の名前を書いてしまうので、そのままにして置きました。老人に聞いてみると岡仁谷と呼ばれる所があると云いました。武田太郎信義と一條次郎忠頼は手を打って、上下の神社に差別があってはならない神の思し召しが明らかだ。ますます信仰を強くし、改めて礼拝した。その後、平家方につくと噂される武士達をかなり多く追及し鎮めたという。

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2009年5月15日 (金)

巴の松

富山県南砥市福光町天神の巴塚の松

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富山県南砥市福光町天神の巴塚の松

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長野県木曽町日義徳音寺の巴の松

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長野県木曽町日義徳音寺の巴の松

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