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2009年5月18日 (月)

武田信義 治承四年(1180)九月十日「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」

治承四年(1180)九月十日己未。
「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」
 甲斐の国の源氏である、武田太郎信義と一條次郎忠頼以下は、石橋合戰の事を聞いて、頼朝様に参加しようと、駿河の国へ向かおうとした。しかし、平氏の味方が信濃の國にいるという。まず信濃の国へ向かいました。
「諏訪明神の託宣」
 昨晩諏訪神社の上宮の庵沢の辺りに宿泊した。深夜に婦人が一人、一條次郎忠頼の陣に来て、話すことが有ると云いました。一條次郎忠頼は不審に思いながらも、焚き火のほとりに招いて逢いました。女がいうには「私はこの宮の大祝篤光(おおはふりあつみつ)の妻です。夫の使者として来ました。大祝篤光が云うには、源氏のために祈祷をしようと心を込めて、お篭りして三日間も社屋から家に戻りません。そしたら夢想の中に梶の葉の紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士が一騎、源氏のお味方である。と云って西へ向けて走っていった。これは諏訪明神のご威光が現れたのだから、なんて頼みにならないことがありましょうか。夢のお告げから覚めて、伝えに来ようと思ったけれど、神様の前で拝んでいるべきだと思い、替わりに私を使いによこしました。一條次郎忠頼は特に諏訪様を信仰し、自分からわざわざ捜し求めた太刀一腰と腹巻一領をその妻に与えました。
「平家方菅冠者自殺す」
 そこで、このお告げに従って直ぐに出陣して平氏の味方の菅冠者の伊那郡大田切郷の城へ攻めるため到着しました。菅はこの事を聞いて、戦いも始めない内に館に火を付けて自殺してしまったので、皆根上河原に陣をひいて、相談して云うには、昨夜の祝の夢のお告げがあって、今日菅冠者が滅んだのは明神が罰を与えたからじゃないだろうか。それならば、庄園を上下社に寄附して、後日頼朝様に報告しようかと云えば、皆反対をしませんでした。右筆を呼んで、寄進状を書かせました。上宮の分は信州の平出と宮所の二郷、下宮の分は龍市の一郷です。それなにの書く人が間違えて岡仁谷郷を書き足していました。何度も書き直させましたが、毎回二郷の名前を書いてしまうので、そのままにして置きました。老人に聞いてみると岡仁谷と呼ばれる所があると云いました。武田太郎信義と一條次郎忠頼は手を打って、上下の神社に差別があってはならない神の思し召しが明らかだ。ますます信仰を強くし、改めて礼拝した。その後、平家方につくと噂される武士達をかなり多く追及し鎮めたという。

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