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2009年4月 7日 (火)

」1184年 (壽永3年)1月20日「範頼・義経、義仲討伐のため入洛す」

「吾妻鏡」1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)  1月20日 庚戌
「範頼・義経、義仲討伐のため入洛す」
 蒲の冠者範頼・源九郎義経等が頼朝の使者として数万騎の軍勢を引き連れて京都へ向かいました。これは義仲を追討するためです。今日、源參河守範頼は勢田の大橋から京都へ入り、源九郎義經は宇治道から京都へ入る。木曽義仲、志田三郎先生義廣・今井の四郎兼平以下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦したが、皆敗北した。蒲冠者範頼・源九郎義經は河越太郎重頼・その長男小太郎重房・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・澁谷庄司重國・梶原源太景季達を連れて六条殿へ走って行き、法皇の仙洞を護衛しました。その間に、一條次郎忠頼を初めとする勇士達は、あちらこちらへ競って走りました。
「義仲戦死す」
 そして遂に近江の国粟津の辺りで、相摸國の住人の石田次郎為久に、木曾冠者義仲を殺させました。その他に錦織義廣は何処かへ逃げたという。

没年記事 征夷大将軍従四位下行伊予の源朝臣義仲「年三十一」東宮帯刀長義賢の男子

      寿永二年(1183)八月十日左馬頭に任務。越後の守を兼任して従五位下に任務。同様に十六日伊予の守へ転任しました。

      十二月十日に左馬頭を辞職しました。同様に十三日には従五位上に叙される。すぐ同様に正五位下に叙されました。

      元暦元年(1184)正月六日従四位下に叙されました。十日には征夷大将軍に任命されました。

     檢非違使右衛門權少尉源朝臣義廣 伊賀の守義經の男

      寿永二年(1183)十二月二十一日右衛門權少尉に任命されました。「元は無位無官」檢非違使の宣旨を戴きました。

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