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2009年4月 1日 (水)

一条忠頼1180年(治承四年) 9月10日「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」 

一条忠頼

一条 忠頼(いちじょう ただより、生年不詳 - 元暦元年6月16日(1184年7月25日))は、平安時代末期の甲斐国の武将。

甲斐源氏の武田信義の嫡男。弟に逸見有義、石和信光、板垣兼信。甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し、一条氏と名乗った。

「吾妻鏡」1180年(治承四年、庚子) 9月10日 己未
「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」
 甲斐の国の源氏、武田太郎信義と一條次郎忠頼以下は、石橋合戰の事を聞いて、頼朝様に加わろうと考え、駿河の国へ向かおうとした。しかし、平氏の味方が信濃の國にいるとの事なので、まず信濃の国へ向かいました。
「諏訪明神の託宣」
 昨晩諏訪上宮神社の上宮の庵沢の辺りに宿泊したところ、深夜に婦人が一人一條次郎忠頼の陣に来て、話すことが有ると云いました。一條次郎忠頼は不信に思いながらも、焚き火の近くに招いて逢いました。女がいうには「私はこの諏訪上宮の大祝篤光(おおほうりあつみつ)の妻です。夫の使者として来ました。大祝篤光が云うには、源氏のために祈祷をしようと心を込めて、お篭りして三日間も社屋から家へは出てきていません。そしたら夢想の中に梶の葉の紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士が一騎、源氏の味方であると云って西へ向けて走っていった。これは諏訪大明神のご威光が現れたのだから、頼みとするに足りるものです。夢から覚めて、伝えに来ようと思ったけれど、神様の前で拝んでいるべきだと思い、替わりに私を使いによこしました。一條次郎忠頼は特に諏訪様を信仰しているので、野太刀一腰と腹巻一領をその妻に与えました。
「平家方人管冠者自殺す」
 そこで、このお告げに従って直ぐに出陣して平氏の味方の菅冠者の伊那郡大田切郷の城へ攻めるため到着しました。菅はこの事を聞いて、戦いも始めない内に館に火を付けて自殺してしまったので、皆根上河原に陣を敷き、相談して云うには、昨夜の祝の夢のお告げがあって、今日菅冠者が滅んだのは明神が罰を与えたからだろう。それならば、庄園を上下社に寄附して、頼朝様に報告しようと、皆反対をしませんでした。執筆する者を呼んで、寄進状を書かせた。上宮の分は信州の平出と宮所の二郷、下宮の分は龍市の一郷です。しかし、書く人が間違えて岡仁谷郷を書き足していました。何度も書き直させましたが、毎回二郷の名前を書いてしまうので、そのままにしました。老人に聞いてみると岡仁谷と呼ばれる所があると云いました。武田太郎信義と一條次郎忠頼は手を打って、上下の神社に差別があってはならない神の思し召しが明らかだ。そこでますます信仰を深め、両宮を敬い礼拝した。その後、平家方につくと噂される武士達をかなり多く追求し鎮めたという。

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