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2009年4月

2009年4月13日 (月)

1186年 (文治2年) 3月9日「武田信義死す」

「吾妻鏡」1186年 (文治2年 丙午) 3月9日 丁亥
「武田信義死す」
 武田太郎信義が亡くなった〔享年五十九〕。元暦元年(1184)六月十六日に、息子の一條次郎忠頼の反逆により、頼朝様のお怒を受け、未だにその許しを受ける事が出来ずにいましたが、亡くなったという。

以上で「一条忠頼史」は終わりです。

5月からは「武田信義史」となります。

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2009年4月12日 (日)

7月20日「鶴岡若宮の傍らに熱田社を勧請す」

「吾妻鏡」7月20日 丙午
「鶴岡若宮の傍らに熱田社を勧請す」
 近頃、鶴岡若宮の近くに神社を祀る壇を新しく作りました。そこへ今日熱田大明神を勧請し奉納したところです。それなので頼朝様が参拝されました。武藏守平賀義信・駿河守廣綱以下の源氏の一族の人たちは、特別の装いでお供しました。結城七郎朝光は太刀持ちで、河勾三郎實政は弓矢調度を持ちました。この河勾三郎實政は、去年の冬木曾冠者義仲討伐に上洛した際に、一番乗りを目指して川を渡る時に、一條次郎忠頼と先争いの合戦をして、頼朝様からご勘気を受けていましたが、その武勇の名誉が先祖に恥じないものなので、数ヶ月を経たずに許されました。しかも、この役を仰せつかって頼朝様のお傍近く仕えしたので、見ている御家人達は不思議な思いを抱いたという。
「相模一村を貢税料所として鶴岡に寄進す」
 神様が引っ越してきた遷宮の儀式を終えると、熱田社の費用をまかなう料所として相模国内の一村を寄進されました。筑後權守俊兼が社殿前へ呼ばれ、寄進状を書いたという。

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2009年4月11日 (土)

7月10日「井上光盛、蒲原駅に誅せらる」

「吾妻鏡」7月10日 丙申
「井上光盛、蒲原駅に誅せらる」
 今日、井上太郎光盛が駿河國蒲原驛で殺されました。この人は、一條次郎忠頼に同意しているとの情報があるからです。光盛は日頃京都へ行っていたので、駿河の吉香と船越の武士達が前もって堅く命令を受け、鎌倉へ帰ってくる時を待ち伏せをして、討ち取ったという。

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2009年4月10日 (金)

6月18日「甲斐秋家歌舞巧みにより官仕す」

「吾妻鏡」6月18日 乙亥
「甲斐秋家歌舞巧みにより官仕す」
 故一條忠頼の家来の甲斐小四郎秋家を呼び出しました。この人は舞曲に秀でている人です。それなので頼朝様は、情けをかけて幕府へ仕えるように命じたという。

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2009年4月 9日 (木)

6月16日「頼朝、一條忠頼を営中に誅す」

「吾妻鏡」6月16日 癸酉
「頼朝、一條忠頼を営中に誅す」
 一條次郎忠頼は、威勢を振るうあまりに、世を乱す謀反の気配があるとの噂がありました。頼朝様もまた察していました。そこで今日、御所の中において暗殺することにしました。夜になって頼朝様は西の侍所へお出ましになりました。忠頼はお召しを受けて、正面に向かって座りました。主な御家人達数人が、列席しました。献杯の式をしました。工藤一臈祐經が、銚子を持って頼朝様の御前に進みました。彼は前もって暗殺の討ち手に決めてありました。しかし、特別に強いと有名な武将に対して、すぐに戦うことは大変重大な出来事なので、多少躊躇しているのか、顔色が変わってしまいました。小山田別当有重は、その様子を見て立ち上がり、このようなお酌は年寄りの役目だろうと工藤一臈祐經の持っている銚子を取りました。すると息子の稲毛三郎重成とその弟榛谷四郎重朝が杯と肴を持って、一條次郎忠頼の前へ進みよりました。有重は二人の息子に教えて云いました。宴会の昔の礼儀では、袴の裾のくくり紐は、膝の下で結ぶ上括りなのだと云いながら、持っている銚子を置いて括り紐を結びなおしていると、それに見ていた一條次郎忠頼に対し、天野藤内遠景が別な命令を受けていて、太刀を取って左側へ進み、早々と殺し終えてしまいました。このとき、頼朝様は自席の後ろの障子を開けて、次の間へ入られたという。
 その後、一條次郎忠頼の家来の新平太・甥の武藤与一・山村小太郎達は、庭から主人が切り伏せられたのを見て、それぞれ太刀を取って、侍所の上へ駆け上がった。急に事件が起こったので、御所へ来て居た人たちは右往左往して、沢山の人が三人のために怪我をしという。三人は寝殿に近づいて来た。小山田三郎重成・榛谷四郎重朝・結城七郎朝光達が彼等と戦い、新平太と与一を討ち取りました。山村は天野藤内遠景と戦おうとしたが、一間(1.8m)離れていたが、天野藤内遠景がまな板を取って叩いた。山村は縁の下へ倒れたので、天野藤内遠景の家来が首を刎ねてしまったという。

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2009年4月 8日 (水)

1月27日「義仲誅伐の報鎌倉に到る」

「吾妻鏡」1月27日 丁巳
「義仲誅伐の報鎌倉に到る」
 午後二時頃に、安田遠江守義定・蒲冠者範頼・源九郎義經・一條次郎忠頼などの伝令が鎌倉へ着きました。先日の二十日の合戦をして、木曾冠者義仲とその家来達を撃ち殺した事を報告しました。三人の使者は全員(頼朝様の)お呼びによって、北側屋敷の内庭へ来ました。細かいことを尋ねているところへ、梶原平三景時の伝令が着きました。この人は討ち取った敵の死者や捕虜の名簿を持って来ておりました。
「頼朝景時の思慮に感ず」
 他の人々の使者が来ましたけれど、記録書面を持ってきていません。梶原平三景時の判断はとても適切であると、何度も感心をされましたという。

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2009年4月 7日 (火)

」1184年 (壽永3年)1月20日「範頼・義経、義仲討伐のため入洛す」

「吾妻鏡」1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)  1月20日 庚戌
「範頼・義経、義仲討伐のため入洛す」
 蒲の冠者範頼・源九郎義経等が頼朝の使者として数万騎の軍勢を引き連れて京都へ向かいました。これは義仲を追討するためです。今日、源參河守範頼は勢田の大橋から京都へ入り、源九郎義經は宇治道から京都へ入る。木曽義仲、志田三郎先生義廣・今井の四郎兼平以下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦したが、皆敗北した。蒲冠者範頼・源九郎義經は河越太郎重頼・その長男小太郎重房・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・澁谷庄司重國・梶原源太景季達を連れて六条殿へ走って行き、法皇の仙洞を護衛しました。その間に、一條次郎忠頼を初めとする勇士達は、あちらこちらへ競って走りました。
「義仲戦死す」
 そして遂に近江の国粟津の辺りで、相摸國の住人の石田次郎為久に、木曾冠者義仲を殺させました。その他に錦織義廣は何処かへ逃げたという。

没年記事 征夷大将軍従四位下行伊予の源朝臣義仲「年三十一」東宮帯刀長義賢の男子

      寿永二年(1183)八月十日左馬頭に任務。越後の守を兼任して従五位下に任務。同様に十六日伊予の守へ転任しました。

      十二月十日に左馬頭を辞職しました。同様に十三日には従五位上に叙される。すぐ同様に正五位下に叙されました。

      元暦元年(1184)正月六日従四位下に叙されました。十日には征夷大将軍に任命されました。

     檢非違使右衛門權少尉源朝臣義廣 伊賀の守義經の男

      寿永二年(1183)十二月二十一日右衛門權少尉に任命されました。「元は無位無官」檢非違使の宣旨を戴きました。

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2009年4月 6日 (月)

10月13日「甲斐源氏および北條父子駿河石に向ふ」

「吾妻鏡」10月13日 壬辰
「木曽義仲、上野国に入る」
木曾冠者義仲は亡き父義賢の跡を訪れるために、信州を出て上州に入ってきました。そこで住人は木曾義仲に従ったので、藤性足利俊綱に煩わされても私に従っていれば怖れることは無いと命令をしたという。(足利太郎俊綱の云うことを聞かずに木曾冠者義仲の命令に従えと云う意味です。)
「甲斐源氏および北條父子駿河石に向ふ」
 又、甲州の源氏と北條四郎時政、北條四郎義時親子は駿河へ向かい、今日も暮れたので大石宿に宿泊したという。
午後八時頃に、駿河目代は長田入道の計略で富士野へ回って攻めて来るとの、連絡が入ったので、途中で迎えうち、戦いをしようと群議で決定した。武田太郎信義、一條次郎忠頼、板垣三郎兼頼、武田兵衛尉有義、安田三郎義定、逸見冠者光長、河内五郎義長、石和五郎信光達らが、富士山の北麓の若彦路を越えた。加藤太光員と加藤次景廉は石橋合戦の後、甲州に逃げていましたが、ここで一緒に駿河に到ったという。

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2009年4月 5日 (日)

9月24日「甲斐源氏、駿河集結を議す」

「吾妻鏡」9月24日 癸酉
「甲斐源氏、駿河集結を議す」
 北條時政殿と甲斐の源氏達は逸見山から石和の御厨(みくりや)へ来て宿泊していたら、今日の真夜中の十二時頃に土屋宗遠が到着して頼朝様の命令を伝えました。そこで武田太郎信義、一條次郎忠頼をはじめとする者たちが集まり、駿河で合流しようと皆で話し合ったという。

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2009年4月 2日 (木)

9月15日「武田信義・一條忠頼ら信濃を平定して帰る」

「吾妻鏡」9月15日 甲子
「武田信義・一條忠頼ら信濃を平定して帰る」
 武田信義、一條忠頼以下は信濃中の敵を討ち終って、昨夜甲斐へ戻って逸見山に泊りました。そして今日、北條時政がその場所へ到着され、頼朝のお言葉の趣旨を信義・忠頼等に伝えたという。

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2009年4月 1日 (水)

一条忠頼1180年(治承四年) 9月10日「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」 

一条忠頼

一条 忠頼(いちじょう ただより、生年不詳 - 元暦元年6月16日(1184年7月25日))は、平安時代末期の甲斐国の武将。

甲斐源氏の武田信義の嫡男。弟に逸見有義、石和信光、板垣兼信。甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し、一条氏と名乗った。

「吾妻鏡」1180年(治承四年、庚子) 9月10日 己未
「甲斐源氏ら信濃に攻め入る」
 甲斐の国の源氏、武田太郎信義と一條次郎忠頼以下は、石橋合戰の事を聞いて、頼朝様に加わろうと考え、駿河の国へ向かおうとした。しかし、平氏の味方が信濃の國にいるとの事なので、まず信濃の国へ向かいました。
「諏訪明神の託宣」
 昨晩諏訪上宮神社の上宮の庵沢の辺りに宿泊したところ、深夜に婦人が一人一條次郎忠頼の陣に来て、話すことが有ると云いました。一條次郎忠頼は不信に思いながらも、焚き火の近くに招いて逢いました。女がいうには「私はこの諏訪上宮の大祝篤光(おおほうりあつみつ)の妻です。夫の使者として来ました。大祝篤光が云うには、源氏のために祈祷をしようと心を込めて、お篭りして三日間も社屋から家へは出てきていません。そしたら夢想の中に梶の葉の紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士が一騎、源氏の味方であると云って西へ向けて走っていった。これは諏訪大明神のご威光が現れたのだから、頼みとするに足りるものです。夢から覚めて、伝えに来ようと思ったけれど、神様の前で拝んでいるべきだと思い、替わりに私を使いによこしました。一條次郎忠頼は特に諏訪様を信仰しているので、野太刀一腰と腹巻一領をその妻に与えました。
「平家方人管冠者自殺す」
 そこで、このお告げに従って直ぐに出陣して平氏の味方の菅冠者の伊那郡大田切郷の城へ攻めるため到着しました。菅はこの事を聞いて、戦いも始めない内に館に火を付けて自殺してしまったので、皆根上河原に陣を敷き、相談して云うには、昨夜の祝の夢のお告げがあって、今日菅冠者が滅んだのは明神が罰を与えたからだろう。それならば、庄園を上下社に寄附して、頼朝様に報告しようと、皆反対をしませんでした。執筆する者を呼んで、寄進状を書かせた。上宮の分は信州の平出と宮所の二郷、下宮の分は龍市の一郷です。しかし、書く人が間違えて岡仁谷郷を書き足していました。何度も書き直させましたが、毎回二郷の名前を書いてしまうので、そのままにしました。老人に聞いてみると岡仁谷と呼ばれる所があると云いました。武田太郎信義と一條次郎忠頼は手を打って、上下の神社に差別があってはならない神の思し召しが明らかだ。そこでますます信仰を深め、両宮を敬い礼拝した。その後、平家方につくと噂される武士達をかなり多く追求し鎮めたという。

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