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2009年3月 4日 (水)

閏二月二十三日「志田義広軍鎌倉に進発す」

「吾妻鏡」閏二月二十三日 己巳
「志田義広軍鎌倉に進発す」
 義広は三万騎以上の軍勢を連れて鎌倉方面へ向かいました。
「義広、足利忠綱を誘ふ」
 まず、足利忠綱を誘いました。忠綱は元々源氏を嫌っているので、承知をしました。又、小山と足利は同族の流れではありますが、この国では共に筆頭なので、互いに統領を争う間柄なのです。去年の夏の頃に平清盛一族を滅ぼすように以仁王の令旨を下された時、小山は特別に命を受けました。しかし、足利忠綱には来ませんでしたので、とても怒って平氏方に味方して、宇治川の合戦で源三位頼政の軍勢を滅ぼし、以仁王を射殺した事になります。しかしこの源氏への反発を持ったままで、このついでに小山をも滅ぼうそうと、この誘いに乗ったという。
「義広、小山朝政に与力を求む」
 次に義広は、味方をするように小山四郎朝政に云ってきました。小山四郎朝政の父の小山政光は、京都大番役で京都御所警護のために今は京都におり、部下達は殆ど父についています。ですから軍勢が少ないとはいいながらも忠義の心は頼朝に従っているので、義広を討ち取るように戦の相談をしました。長老の武士たちが「早く味方すると嘘をついて誘いを了解しておき策略を練りましょう。」と云いました。直ぐに承知の返事をすると義広は喜んで小山四郎朝政の館の近くへきました。
「小山・志田両軍野木宮に戦ふ」
 それよりも先に、小山四郎朝政は屋敷を出て、野木宮に隠れていました。義広が宮の前に来た時に、小山四郎朝政は策略を考えて家来達を等々力沢の地獄谷の林の木の梢に登らせて、一斉に大声を出させました。その声が谷にこだまして大勢の軍勢に聞こえました。義広は驚いて困り果て迷い惑いました。小山四郎朝政の部下の太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎と七郎朝光の部下の保志秦三郎達が攻撃しました。小山四郎朝政は緋縅の鎧を着て、鹿毛の馬に乗り、年は二十五歳で一番力が勝っている時なので、しっかり周りを守って多くの敵を滅ぼした。義広の射た矢が小山四郎朝政にあたりました。落馬はしましたが、死ぬような事はありません。
 その馬は、主人から離れて、等々力沢でいなないていました。そこへ小山五郎宗政(二十歳)が鎌倉から小山へ向かう途中でこの馬を見て、戦は既に負けて小山四郎朝政は死んでしまったのかと考えて、馬に乗り義広の陣へ向かいました。義広の乳母子の多和利山七太が馬に鞭を当てその真中に立ちふさがる。小山五郎宗政に取って弓手(左側)に出会ったので七太を弓でしとめました。小山五郎宗政の家来が七太の首を取りました。その後、義広は陣を引いて野木宮の西南に構える。小山四郎朝政と小山五郎宗政は東から攻めかかりました。ちょうど激しい風が東南から吹いて、焼けた野原の灰を吹き上げましたので、人も馬も前が見えなくなって、バラバラになってしまい、多くが地獄谷等々力沢に死体をさらしました。また、下河邊庄司行平、弟の四郎政義は古河と高野などの渡しで陣を張り、義広の兵隊の逃げて来る兵士を討ち取ったという。
「小手差原・小堤の合戦、義広敗走す」
 足利有綱、嫡子の佐野基綱、四男の浅沼廣綱、五男の木村信綱と太田行朝達は、小手差原・小堤等に陣を張って合戦しました。この他に、八田知家、下妻淸氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄達が小山四郎朝政の味方に参加しました。範頼も同様に走って来ました。この小山四郎朝政は、先祖の藤原秀郷が天慶の時代に反逆者の平將門を退治し、二つの国司を兼ね、従四位下を賜る。その手柄の領地を代々伝えて、長い間この国を守ってきた一族の棟梁である。今、義広の謀叛の話を聞いて、忠義を励む為、命を顧みずに戦ったので勝利を得ることが出来ました。

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