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2009年3月 8日 (日)

九月七日「頼朝、和田義茂に足利俊綱追討を命ず」

「吾妻鏡」九月七日庚辰
「頼朝、和田義茂に足利俊綱追討を命ず」
 從五位下藤原俊綱〔名字は足利太郎俊綱〕は、武蔵の守俵の藤太郎藤原秀郷様の子孫で、鎭守府將軍兼阿波守兼光の六代目の子孫の家綱の息子です。数千町分を支配して、足利郡の一番の棟梁です。ところが、以前の仁安年中(1166-1169淸盛太政大臣になる)に京都である女性を殺害した罪により、足利の荘園領主を解任されました。そこで、本家の平重盛は空いた領主職を新田義重に与えたので、足利太郎俊綱は上洛して嘆き訴えたところ返されました。それ以降その恩に答えるために最近平家に属していた上、嫡男の又太郎忠綱は頼朝に敵対する志田三郎先生義廣に味方しました。これらのことから、頼朝様の味方には来ませんので、頼朝様も憎く思うので、和田次郎義茂に命令して、足利太郎俊綱を攻め滅ぼす命令書を書き与えました。三浦十郎義連と葛西三郎淸重と宇佐美平次實政を加勢につけました。まず始めに今日和田次郎義茂が出陣した。

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