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2009年2月 9日 (月)

文治五年(1189年) 四月十八日「北条時連元服す」

「吾妻鏡」文治五年(1189年) 四月十八日 庚寅
「北条時連元服す」
 北條時政殿の三男(十五歳、時連のちの時房)が御所で元服した。夕方薄暗くなった時に、西侍でこの儀式が行われた。武州(平賀義信)・駿河守廣綱・遠江守義定・参河守範頼・江間(北条義時)殿・新田蔵人義兼・千葉介常胤・三浦の介義澄・同十郎義連・畠山次郎重忠・小山田三郎重成・八田右衛門尉知家・足立右馬允遠元・工藤庄司景光・梶原平三景時・和田太郎義盛・土肥次郎實平・岡崎四郎義實・宇佐美三郎祐茂が東を上座にして着座した。頼朝様がお出ましになり、先ず三献(酒肴を三回献じる酒宴)が行われた。江間殿(北条義時)が御酌をお取りになり、千葉小太郎成胤が続いて酒をついだ。次いで童(時連)が召しに依って参り進まれ、御前にひざまづいた。
「三浦義連加冠を勤む」
 次いで三浦十郎義連に加冠役(冠をかぶせる役)をするよう命じられ、義連はしきりに恐縮して頭を下げ、おおいに辞退の意志を示したが、重ねて「今この場では上の身分の物が多く控えているので、一旦は辞退するのはもっともなことだ。しかし先年三浦に出かけた時、故廣常と義實が争った際に、義連がこれをなだめたため無事に済んだ事があった。その心づかいにたいそう感心した。この小童(時連)は、御台所(政子)が特に憐れみ情けをかけており、将来にわたり庇護者にしたいと考えているので、計らい命じるのである」とのお言葉がありましたので、この上は辞退する理由も無かった。小山の七郎朝光・八田の太郎朝重が灯明を取り進み寄り、梶原源太左衛門尉景季・同平次兵衛尉景高が種々の道具を持参し、義連が加冠を勤めた。名前は五郎時連と名付けられたていう。今夜の加冠役は、事前に定められていなかったので、期待していた者が多かったが、その場でお定めになったので、どうしようもなかったようだ。

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