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2009年2月10日 (火)

文治五年(1189年) 八月九日 「義村ら七騎、畠山軍を越え敵陣に向ふ」

7月19日 奥州征伐に出発

「吾妻鏡」文治五年(1189年) 八月九日 丙申
「義村ら七騎、畠山軍を越え敵陣に向ふ」
 夜になり、明朝、阿津賀志(あつかし)山を越え、合戦をおこなうと定められた。ここに三浦平六義村・葛西三郎清重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤澤次郎清近、河村千鶴丸(年十三歳)の以上七騎は、密かに(先陣とされた)畠山次郎重忠の陣を追い越して、阿津賀志山を越え、先に進もうとした。これは夜が明けて大軍と同時に険しい山を越えるのは難しいためである。その時、重忠の郎従である成清が、この事を察知して、主人に忠告した。「今度の合戦に先陣を任されたことは抜群の名誉です。それなのに傍輩が先駆けを争おうとするのを、座して見過ごせないでしょう。早くその道を塞ぐべきです。そうでなければ、この事を頼朝に訴え申し、勝手な行動を止めさせ、この山を越えるべきです」。重忠は言った、「それは適当ではない。たとえ他人の力で敵を退けたとしても、すでに先陣をまかされた上は、重忠が向かわないうちの合戦は、全て重忠一身の勲功となる。しかも先を進もうとする者を妨げることは、武略の本意ではないし、また我が身独りの抽賞を願うようなものである。ただ知らないふりをしているのがよい」。
 三浦以下の七騎は夜を徹して峰々を越え、ついに木戸口に馳せ至り、各々名乗りを上げたところ、泰衡の郎従部伴籐八をはじめとする強兵が攻戦した。この間に工藤小次郎行光が先駆けを果たしたが、狩野五郎は命を落とした。部伴籐八は奥六郡第一の強力の者である。行光と戦い。両人は馬を並べて組み合った、しばらく生死を争ったが、ついに行光に討たれた。行光は彼の頸を取り鳥付に付け、木戸を目差し登っていたところ、勇士二騎が馬を離れて組み合いになっていた。行光はこれを見て、馬を回してその名前を問いかけた。藤澤次郎清近が敵を討ち取るところであると答えた。そこで加勢し、共に敵を討ち取った後、二人馬を止めて休息したが、清近は行光の合力に感謝する余り、彼の息男を自分の婿とする約束をその場で交わしたという。次に清重並びに千鶴丸らは、数任の敵を討ち取った。
「大友能直の戦功」
 また親能の養子である左近将監大友能直は、この頃特に頼朝の近習として、常に御側にあった。親能はかねて宮六兼仗国平を招き、語って言った、今度、能直は初めて戦場に赴く。汝は助成して戦ってほしい。そこで国平は固くその約束を守り、昨晩密かに頼朝の御寝所の辺りに参ると、宿直していた能直を呼び出し、これを伴って阿津賀志山を越え、戦い、佐藤三郎秀員父子(国衡近親の郎等)を討ち取った。
 この宮六兼仗国平は長井齋藤別当實盛の外甥である。實盛が平家に属して滅亡の後囚人として、始めは上総権介廣常に預けられていた。廣常が殺された後は、さらに親能に預けられていた。そこで勇敢な者との誉れが有るので、親能が事情を話して、能直に付けていたという。

(上総広常史は終了です。3月から志田義広史となります。)

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