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2009年1月24日 (土)

上総広常治承四年(1180)

上総広常治承四年(1180)

「吾妻鏡」八月二十四日甲辰。
「頼朝杉山に隠れる」
 頼朝様は杉山中の堀口という辺りに陣を構えました。大庭三郎景親は三千余騎を率いて再び追いかけて来た。頼朝は後方の峰に逃げられた。そこで加藤次景廉と大見平次實政は頼朝様の後に留まり景親を防ぎました。景廉の父の加藤五景員や實政の兄の大見平太政光は それぞれ子を思い弟を思って前へ行かずに馬を止めて矢を射ました。
 この他に加藤太光員、佐々木四郎高綱、天野藤内遠景、天野平内光家、堀藤次親家、堀平四郎助政も同様に馬を並べて戦ったので、景員らの乗馬に矢が当って沢山倒れ死にました。頼朝様も馬を振り返らせて、百発百中の弓の腕を見せ、何度も戦いました。射る矢は外れる事無く多くの人を殺しました。でも、矢が尽きたので加藤次景廉が馬の轡を取って山奥に引いて行きましたが、景親の軍勢が40・50m直ぐそばまで迫ってきました。そこで、高綱、天野藤内遠景、加藤次景廉も數回戻って相手に逢い矢を放ちました。
 北条親子の時政、宗時、義時の父子三人は同様に景親と戦っていたが、疲れてしまい、峰まで登れないので、頼朝様に従っていけません。そばに加藤五景員、加藤太光員、加藤次景廉、宇佐美三郎祐茂、堀藤次親家、宇佐美平次實政が時政に御供すると言いましたが、時政はそれはいけない、早く頼朝様を捜しなさいと命じたので、彼は数百mの崖をよじ登った所、頼朝様が倒れた木の上に立ち、土肥次郎實平が一緒にいました。
 頼朝様は皆の到着を喜びましたが、土肥次郎實平は皆が無事に集まったのは喜ぶべきとであるが、この人数を連れてでは山の中に隠れているのが難しすぎる。頼朝様一人においては、たとえ長期間に及んでも、實平が工夫をして隠し通すからとの事でした。でも皆は御供をしたいと言い、頼朝様もそうしようとしたが実平が再度云うには、今ここで分かれることは先の大事なのだから皆命を大事にして他の策略を考えれば、恥は取り戻すことが出来るという。これを聞いて皆分散しましたが、悲しみで涙の目で道も良く見えなかったという。

 その後、飯田五郎家義が頼朝様の跡を捜してやってきました。頼朝様の数珠を持って来ました。これは今朝の合戦のときに落としてしまった。これは普段持ち歩いていて、狩の時などに相模の武士達は皆見て知っている数珠である。困っていた所へ飯田五郎家義が見つけて来たのでとても喜びました。そこで飯田五郎家義は御供をしたいと云いましたが、土肥次郎實平は先程と同じように注意した所、泣きながら立ち去りました。
 また、時政殿と北條四郎義時様は箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かおうとしました。北條三郎宗時は土肥から桑原に下り平井郷へ向かうとき早川で伊東次郎祐親軍に囲まれて、小平井久重に討ち取られました。工藤介茂光は怪我のため歩けなくなったので自殺したという。頼朝様の陣と彼等の戦場とは谷を隔てているので助け様が無く悲しみは深かったという。
 景親が頼朝様を追いかけて峰や谷を探しまわった。その中に梶原平三景時がいて、頼朝様の所在を感じて知っているけれども考えがあって、この山には人の跡は無いと云って、景親の手勢を引いて脇の峰に上って行きました。この間に頼朝様は髷に入れてた観音像をとある岩屋に置いたので、土肥次郎實平はいったいどうしたのか尋ねると、頼朝様が云うには首を景親などの平氏に取られる時にこの本尊を見かけると源氏の将軍らしくないと非難されるであろうと云いました。その観音像は頼朝様が三歳のとき、乳母が清水寺にお参りをして、乳母子の将来を熱心願掛け参りをしたら、十四日を過ぎて夢のお告げがあり、突然二寸の銀の観音像を手に入れたものなので、心から敬い信じておられるという。

「箱根別当行実、弟永実をして頼朝に弁当を進ぜしむ」
 夜になって時政は杉山の頼朝様の居場所に到着した。箱根権現筆頭の行実は弟の永実に弁当を持たせてよこしたので、頼朝様の所在を尋ねていました。永実は時政に逢って、頼朝様の消息を聞きました。時政は「頼朝様は景親の包囲から逃れられなかった。」永実は云った「貴方(時政)は私の浅はかな心を試していますね。頼朝将軍が亡くなれば貴方は生きていない人だ。」と云えば、時政はおおいに笑って、彼を連れて頼朝将軍の前へ参りました。永実はその弁当を献上しました。将軍も兵も皆飢え切っていたので、千金に値したという。そして、土肥次郎實平が、世の中が落ち着いたら永実を箱根権現の筆頭に任命されるべきでしょうと云えば、頼朝様も同様に承諾なされました。
 その後、永実を案内人として密に箱根に行きました。行実の住居は参詣の民衆が行き来して集まり、隠れるには難しいので、永実の家に入りました。この行実は父の良尋の時代に、頼朝様の祖父の廷尉爲義様や父の義朝様と親しい仲で、この縁で行実が京都で、父から譲渡を受けて箱根権現の筆頭に就いて、箱根に下る際に廷尉爲義から命令書を授けました。その内容は「東国の源氏の家人達は、行実から召集があったら従いなさい。」義朝様の命令書には「駿河と伊豆の部下達よ、行実から召集があったら従いなさい。」とありました。そういうことで、頼朝様が伊豆の北条郷に流罪になっている間、無事を祈って、忠実を尽くしていましたという。石橋山の合戦に敗北したことを知り、一人で心配をしていたのだという。弟は沢山いますが武芸の器量のある僧兵の永実をよこしたのだという。

「三浦一族、畠山一族と由比に合戦す」
 三浦軍は城(衣笠)を出て、丸子川(酒匂川)辺りまで来ました。昨夜、夜明けを待って来ようとしたら、合戦は既に負けてしまったので、止むを得ず帰りました。その途中の由比ガ浜で、畠山次郎重忠軍と数時間合戦をしました。多々良三郎重春と部下の石井五郎などがやられました。また、畠山次郎重忠の部下も五十人ほどが殺されましたので、畠山次郎重忠は引き上げました。総領の三浦次郎義澄以下も三浦へ帰りました。この間に上総広常の弟の金田小大夫頼次は七十余騎を引き連れて義澄軍に加わったという。


「吾妻鏡」九月一日庚戌。
「頼朝、広常を訪ねんとし、まず安西景盆を招く」
 頼朝様が上総介廣常のもとに行こうと言いました。北條時政殿始め面々はそうすべきだと云いました。安房国の安西景益は頼朝様の子供の頃に特に側近く仕えていた人なので、最初に手紙を出しました。その内容は、「令旨は厳重なものなので、国役所に勤める役人を同行して参上しなさい。又安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来なさい。」との内容でした。


「吾妻鏡」九月三日壬子。
「頼朝、小山・下河辺・豊島・葛西の諸氏を招く」
 大庭三郎景親は源氏代々の家来なのに、今回あちこちで頼朝様を討とうとする事は、一応は平家の命令に従っているように見えるが、その行動は別な考えを持っているようだ。但し、それに荷担しているのは武蔵と相模の武士計りで、その内の三浦一族と中村一族はここにお供している。そうすると、大庭三郎景親の謀略は大したことは無いと評議がありました。そこで手紙を小山四郎朝政、下河邊庄司行平、豊嶋權守淸元、葛西三郎淸重に送りました。これは、それぞれ頼朝様に味方する志の武士は集まるようにとの内容でした。中でも、淸重は源氏への忠義心を持っている者です。しかし、その居場所は江戸太郎重長と川越太郎重頼の中間なので、ここへ来るのに道を決め難いだろうから、早く舟で海を渡ってくるように丁寧なお言葉があったという。又綿入れを作ってよこすように豊嶋右馬允朝經の妻に言いつけたという。豊嶋右馬允朝經は京都に行っていて留守だからです。
「頼朝、広常館を訪ふ途中襲撃され、これを撃退す」
 今日、平北郡から上総權介廣常の屋敷へ向かいました。暗くなるまで歩いて民家に泊ることになりましたが、安房の國の長狭常伴は、その意思は平家の味方をする気なので、今夜この宿泊所を襲おうとしていた。しかし、三浦次郎義澄はこの辺りの案内人としてこの準備のことを聞き知って、逆に先回りをしてこれを襲って暫く戦い、常伴は負けたという。

「吾妻鏡」九月四日癸丑。
「頼朝、広常・常胤を招く」
 安西三郎景益は手紙を戴いたので、一族と国の役所の役人をニ、三人を引き連れて宿泊所に来ました。安西三郎景益が云うには、安易に上総權介廣常の所へ行くべきではない。長狭のような謀略をめぐらす連中が沢山います。まず途中から使いを出して、迎えに来るように命じられるのが宜しいと存知ますと。そこで、馬首をまわして安西三郎景益の屋敷に行かれて、和田太郎義盛を上総權介廣常の所へ行かせ、藤九郎盛長を千葉常胤の所へ行かせました。それぞれに頼朝様のもとへ来るようにとの内容です。

「吾妻鏡」九月六日乙卯。
「和田太郎義盛が帰る」
 夜になって和田太郎義盛が帰ってきました。報告をするのには、千葉常胤に相談した上で参りますと廣常は言ってましたという。

「玉葉」九月十一日 夜より雨降り
「頼朝追討の宣旨」
大夫史隆職が、記述し送付してきた宣旨(せんじ、天皇の命令)此の如し。
     治承四年九月五日   宣旨  左大将、左中弁
 伊豆の国の流人で源の頼朝、忽ち悪事を働く仲間と相談し、当国や隣国を略奪しようとするという。反逆の至り、すでに普通に絶える。よろしく右近衛権の少将平の維盛朝臣・薩摩の守同忠度朝臣・参河の守同知度等をして、彼の頼朝と味方する者どもを追討させるべし。兼ねてまた東海・東山両道の武勇に堪える者、追討に備えさせるべし。その中で特に功有る者達を選び出し、破格の賞に加えるべし。

 伝聞、近曽(源)仲綱の息子(もと関東に住すという)を追討する為、武士等(大庭の三郎景親という。これ平清盛がひそかに派遣する所である)を派遣した。而るに件の仲綱の息子は奥州方面に逃げ脱した。
「頼朝箱根山に籠もる」
 然るの間、忽ち頼朝の逆乱が出で来た。仍って合戦するの間、頼朝等を筥根山に遂い籠めた。ここによって追い落とされたの由風聞するようだ。
「平廣常等頼朝に余力し事大事に及ぶ」
 而るにその後上総の国の住人、介の八郎(平)廣常、並びに足利の太郎(故俊綱の子という)等が味方した。その外隣国有勢の者等、多く以て味方した。還って景親等を殺そうと欲するの由、去る夜飛脚が到来した。事は大事に及ぶという。但し実否を知り難し。此の如しの浮説(デマ)甚だ多し。
平清盛は来十二日芸州(安芸、広島県西部)に参るべし、又新院(高倉上皇)来十二日の間、同じく参詣されるべしという、また熊野の湛増、猶反逆を事とすという。別当範智が味方したという。


「吾妻鏡」九月十三日壬戌。
「頼朝、上総に向ふ」
 頼朝様は安房の国から上總の国へ向けて出発しました。從う兵達は三百騎に達しました。しかし、上総權介廣常は兵員を集めるために未だ遅くなるとの事でした。
「東胤頼・千葉成胤・上総目代を討ち取る」
 今日、常胤は子供達や親類を率いて、頼朝様の所へ来ようとしましたが、息子の東六郎大夫胤頼が父に進言しました。「この国の目代(代官)は平家に従う者達です。私達一族皆が国を出て頼朝様のもとへ行けば、必ずや攻め込んでくるに違いないので、まずこちらを攻め殺しておくべきです。」という。常胤は「では、直ぐに攻め込んで撃ち滅ぼせ。」と命令しました。よって東六郎大夫胤頼とその甥に当る千葉小太郎成胤は部下を連れてその所へ攻めかかりました。ここの平家の代官は元から大豪族なので数十人の兵で防戦しました。丁度北風が強く吹くので、千葉小太郎成胤は部下達を館の後ろに回らせて、建物に火を付けたので、家屋は焼失し代官は火事に逃げ惑い、防戦もままならず、その間に東六郎大夫胤頼はその首を獲りました。


「吾妻鏡」九月十七日丙寅。
「頼朝下総に向ひ、千葉一族国府参会す」
 上総權介廣常の到着を待たずに下総へ向かいました。千葉介常胤が息子の太郎胤正、相馬次郎師常、武石三郎胤成、大須賀四郎胤信、國分五郎胤道、東六郎大夫胤頼、嫡孫の千葉小太郎成胤などを引き連れて、下総国府にやってきました。従う軍勢は三百余騎にもなりました。千葉介常胤は捕虜の千田判官代親政を見せました。次に昼食を献上しました。頼朝様は千葉介常胤を座右に呼び寄せて、「これからは千葉介常胤を父のように接したい。」とおっしゃられました。
「常胤、毛利頼隆を頼朝の家人に進む」
 千葉介常胤は一人の若い侍を連れて前へ出てきました。「この者を今日の贈り物としますので、どうぞお使いください。」との事でした。これは、陸奥六郎義隆の息子で毛利冠者頼隆と申します。紺の村濃(むらご)の鎧直垂を着て、小具足を着け、千葉介常胤の脇に控えていた。その様子を見て、確かに源氏の血筋と云えると感じて、すぐに常胤の上の座に呼び寄せました。彼の父の義隆は去る平治元年十二月京の戦に破れ、東国を目指し落ち行くときに、比叡山延暦寺北側片田町竜華へでる峠で、比叡山の僧兵に落人狩りで攻められ、左典厩義朝の身代わりとなって命を捧げました。そのとき義隆は生まれて未だ50日くらいでした。その影響で罰せられ、永暦元年(1160)二月に常胤に流人として預けられたという。


「吾妻鏡」九月十九日戊辰。
「広常参上、頼朝その遅参を怒る」
 上総權介廣常は上総の周東周西、伊南伊北、庁南庁北の者達を呼び集めて、二万騎で隅田川の辺りで参上した。頼朝様はとてもその遅れた参上を怒って、あえて許そうとしませんでした。上総權介廣常は内緒で、現在は侍の殆どが平清盛に仕えていないものは無い。頼朝様は流人でありながら、安易に反逆の蜂起をしたので、その風貌などに高貴な相が無ければ、直ぐにこれを討って平家に差し出そうと、心に二心を抱きながらも、表面は従う振りをして参上した。それならば、数万の味方を得て喜ぶだろうと思って来たのに、遅れたのを怒り攻める心がある。これはもう、人の主人になるべき器を持っていると、たちまち敵愾心を捨てて心から従いました。陸奥の将軍をしていた平良將の息子の平將門が関東を制圧して京都の朝廷に反逆した昔の話ですが、俵の藤太藤原秀郷が味方に駆けつけたと嘘を言って、陣営に入ると平將門は喜びの余り、解いていた髪をきちんと髷に結わえもしないで、束ねて烏帽子の中に入れて会見しました。その軽々しい様子を見て、これは退治すべきだと思いながら引き上げました。その気持ちのとおり平將門の首を得たという。

「吾妻鏡」十月二日辛巳。
「頼朝武蔵に向ふ」
 頼朝様は、千葉介常胤、上総介廣常等の船に乗って太井川、墨田川を渡りました。軍勢は三万騎にも膨れ上がり武蔵の国へ進みました。豊嶋權守淸元と葛西三郎淸重が一番にやって来ました。足立右馬允遠元は前々からの命令を守って迎えに来たという。今日、頼朝様の乳母で故八田武者宗綱の娘〔小山下野大掾政光の妻の寒河尼と云います〕が最愛の末っ子を連れて墨田の宿泊所へ来ました。直ぐに御前に呼んで昔の思い出話をし合いました。その息子を頼朝様の近侍にして欲しいと望みました。そこで、その子を呼び出し、直接烏帽子親になって加冠し元服をさせました。名を小山七郎宗朝と名付けました〔後に朝光と変えます〕。今年数えの十四歳です。

「吾妻鏡」十月二十一日庚子。
「頼朝、千葉・三浦の諫止に従い軍勢を分かつ」
 頼朝様は、平左近少將惟盛を追って攻める為に、京都へ行くように武士達に命令しました。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常達が忠告をして云いました。常陸国の佐竹太郎義政と同冠者秀義は数百の軍勢を擁していながら、未だに部下として参加してきていません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東の武士に攻め勝ったうえで、関西に行くべきですという。この進言によって黄瀬川宿に移動し宿泊することにしました。安田三郎義定を守護として遠江国へ行かせ、武田太郎信義を駿河の守護として置かれました。
「義経奥州より来たり頼朝に謁す」
「頼朝、三島社に神領を寄進す」

「吾妻鏡」十月二十三日壬寅。
「頼朝、相模国府において勲功の賞を行ふ」
 頼朝様は相摸国府に着きまして、初めて論功行賞を行いました。北條時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総廣常、和田義盛、土肥實平、藤九郎盛長、土屋宗遠、岡崎義實、工藤親光、佐々木定綱、佐々木經高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、宇佐美祐茂、市川行房、加藤景員入道、宇佐美實政、大見家秀、飯田家義以下の人達に今までの領地を認めたり、又は新しい領地を与えたりしました。義澄を三浦介に任命し、行平を前のとおり下河邊庄司に任命すると言われましたという。
「大庭景親降伏す」
大庭三郎景親はとうとう降参してこの場所へ投降して来ました。すぐに上総權介廣常に預かり囚人として預けられました。長尾新五爲宗は岡崎四郎義實に預けられ、長尾新六定景は三浦義澄の預かりとなりました。河村三郎義秀は河村郷を取上げられ、大庭景義に預けられました。又、山内首藤瀧口三郎經俊の山内庄を取り上げ、土肥實平に身柄を預けました。この他に石橋合戦の対立者は相当数ありますが、死刑にしたのはほんの十人中一人位の事だという。


「吾妻鏡」十一月四日壬子。
「頼朝常陸国府に着く」
 頼朝様は常陸国府に到着されました。佐竹は権力を領地の外にまで及ばして、部下達は国中に溢れています。ですからあわてて責めるようなことはしないで、よく計略を練ってから攻めるように、千葉常胤、上総廣常、三浦義澄、土肥實平などの長老達が軍儀を練りました。まず、彼らの思惑を試す為に、縁戚の上総權介廣常を交渉に行かせたところ、佐竹太郎義政は直ぐに参上すると言いました。佐竹冠者義秀は、その部下の軍勢は佐竹太郎義政を超えており、又、父は現在平家方に味方しているので、考えると簡単に頼朝様へ参上出来ないと云って、常陸の金砂城へこもりました。
「広常、佐竹義政を誘殺す」
 そして、義政は廣常の誘いを受けて大矢橋に来たところ、頼朝様は義政の家来を遠ざけて、一人だけで橋の中央に呼んで、上総權介廣常に殺させました。余りにもすばやい事でした。家来達はうなだれて降伏したり、慌てて逃げ走っていきました。
その後、秀義を攻撃する為軍勢を差し向けました。それらは、下河邊庄司行平、同四郎政義、土肥次郎實平、和田太郎義盛、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱、熊谷次郎直實、平山武者所季重以下の者達が数千の軍勢を引き連れて競い合うように向かいました。
「佐竹秀義金砂城に立て籠もり抗戦す」
 佐竹秀義は金砂城で、城壁を作って守りを固め、以前から防戦する事に決めており、躊躇無く戦いを始め、矢石を放った。この城は高山の頂上に作られていた。頼朝の軍勢は麓の渓谷を進みます。だから、双方の構える場所は天地ほども離れています。それゆえ、城から飛んでくる矢石が沢山頼朝の軍勢に当たりました。味方から打ち放つ矢は、全く山上へは届きませんでした。その上、岩石が道をふさぎ、人馬が進むに困難を極めました。この為に無駄に心を悩ませ、戦い方も迷いました。それでも、引き下がらず、せん無いことをわざわざ無理して矢を構えて様子を見ている間に、太陽は西に入って、月は東に出始めたという。

「吾妻鏡」十一月五日癸丑。
「広常、佐竹義季の協力を得て秀義を攻む」
 午前四時頃、土肥實平、土屋宗遠等は、頼朝様に使者をよこして云いました。佐竹冠者秀義が構えている要塞はとても人の力で破れそうもありません。しかも中に篭っている兵隊は一騎当千のものですから、良く考えたほうが良いと云いました。これを聞いて古くからの宿老等の意見を聞くことにしました。上総廣常がいうには、秀義の叔父に佐竹藏人義季がいます。義季は知恵も策略も人より優れ、権力欲も人一倍です。勳功の賞を約束すればきっと佐竹秀義を滅ぼす策略に加わるでしょう。と云ったので、その提案を採用しました。すぐに上総廣常を藏人義季の所へ行かせました。藏人義季は上総廣常の来訪を喜んで、敬意を表してお会いになりました。上総廣常が云うには、最近は関東の元々源氏と親しい人も親しくなかった人も、頼朝様に服従しない者は無い。それなのに、佐竹秀義は一人で敵方になった。親戚とは云っても、なんでその反対者に味方するのか。早く頼朝様の所へ行って、佐竹秀義を討ち取ってその領地を掌握するのが良いと云いました。藏人義季はすぐになびきました。元々臣従するつもりなので上総廣常を案内して金砂城の後に回って攻撃の雄叫びをしました。その音は城郭の中まで響きました。是は考えていなかった事なので、佐竹冠者秀義とその部下達は、防御するのも忘れあたふたと慌てました。上総廣常はおかげで優勢になって攻撃をすると敵は逃亡しましたという。佐竹秀義も行方をくらましましたという。

「吾妻鏡」十一月六日甲寅。
「秀義金砂城を去り奥州花園城に入る」
 午前二時頃に、上総廣常は佐竹秀義の逃亡した跡へ入城し、城壁を焼き払いました。その後、軍勢を方々の道路に派遣して、佐竹冠者秀義を捜し求めさせたところ、深山に入り奥州の花園城へ行ったと噂が流れたという。

「吾妻鏡」十一月七日乙卯。
「広常以下、合戦の次第を報告す」
 上総廣常以下の武士達が頼朝様の宿舎に帰って来て、合戦の次第と佐竹秀義の逃げ去ったこと、城郭へ放火した事などを報告した。軍勢の中で熊谷次郎直實と平山武者所季重は特に手柄がありました。どこででも先頭を進み、命を顧みず、多くの敵の首を獲りました。それで、賞も同僚より秀でてるようにとの旨を、頼朝様がその場で直接お言葉がありましたという。又、佐竹藏人義季が参上して部下になりたいと望んで云いました。直ぐに許可されました。それは手柄があったからです。
 今日、叔父の志田三郎先生義広と十郎蔵人行家達が国府にやってきて面会したという。

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