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2009年1月27日 (火)

十二月十二日「頼朝、新造の大倉亭にて移徒の儀を行ひ諸士参列す」

「吾妻鏡」十二月十二日庚寅。
「頼朝、新造の大倉亭にて移徒の儀を行ひ諸士参列す」
 天晴れ風靜か。午後十時頃に頼朝様が新しく建てたお屋敷に引越しの儀式がありました。大庭平太景義が担当となって去る十月に工事始があって大倉郷に建設しました。その時刻になって、上総權介廣常の屋敷を出発されて新しい御殿に入られました。水干を着て、騎馬です。「馬は石和の栗毛です」

 和田太郎義盛が先頭を行き、加々美次郎長淸が頼朝様の馬の左側に従い、毛呂冠者季光が同様に右についた。北條四郎時政、同四郎義時、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎胤頼、藤九郎盛長、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱等がお供をしました。畠山次郎重忠が一番最後に従いました。寝殿に入られた後、お供の人達は侍所「十八間」に来て二列に向かい合って座りました。和田太郎義盛はその中央に座り、そろった着達を記録したという。出仕した者は三百十一人という。

 又、御家人達も同様に居館を構えました。これから以後、関東の武士達は皆その力が道に合っている(理屈に合っている)いることを見て、一致して鎌倉の主人と認めました。鎌倉は、元々辺鄙な所で、漁師と百姓などの他住んでる人が少なく、この時に街中の道を真っ直ぐにして、村里に名前を付けた。それに加えて家屋が屋根を並べて、家々が増えて門扉や軒がひしめき合うという。
「園城寺炎上す」
 今日、園城寺が平家の為に焼かれました。金堂以下建物も堂塔も大乗や小乗のお経も密教の道具類もおよそ殆ど灰になってしまったという。

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