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2009年1月29日 (木)

治承五年(1181)六月十九日「岡崎義實、広常と口論す」

「吾妻鏡」治承五年(1181)六月十九日甲子。
「頼朝三浦に逍遙す」
 頼朝様が納涼の散策のため、三浦まで行きました。三浦介義澄の一族はかねて準備を進めており、特別な接待をしたという。毛利冠者頼隆以下がお供をした。上総權介廣常は前からの命により、佐賀岡浜で出迎えた。彼の部下達五十余人は全て馬から下りて砂上に平伏した。廣常は馬を止めて会釈した。その時、三浦十郎義連が頼朝様の馬の前に控えており、馬から下りるように云いましたが、広常はどんな場面においても祖父の代からそのような礼の仕方はしていないと云いました。
「岡崎義實、広常と口論す」
 その後、今は亡き三浦介義明の屋敷へ行きました。三浦次郎義澄は特別に酒やご馳走を用意しました。酒宴が進んでいくに従って皆酔いが回ってきて、その勢いで岡崎四郎義實が頼朝様の水干を所望した。すぐにこれを下賜され、着てみるように云われたので、頼朝様の前へ進んで拝領し袖を通しました。これを見た広常は、やきもちを焼いて「そのような綺麗な高貴な人の衣服は、私が拝領すべきで、岡崎四郎義實のような年寄りには向いていない。」との事でした。
 これには岡崎四郎義實も怒って言い返しました「広常は部下を沢山従えてきたので、手柄はあるように思っているようだが、義實の頼朝様旗揚げの最初から参加している手柄とは比べものにもならない。まして比較なんぞ出来る訳が無い。」。それから双方共に言い合いがあって、今にも斬り合いの喧嘩になりそうでした。頼朝様は、特に言葉を発することもありませんでした。これは、簡単にどちらもなだめられそうにも無いからでしょうか。
 そこへ、三浦十郎義連が走ってきて、岡崎四郎義實に向かって叱りました。「頼朝様をお迎えして、兄の三浦次郎義澄が折角ご招待をしているのに、なんでそんな時に喧嘩を好むのか。若しかして老化してボケたのですか。広常殿の行動も礼儀に合いません。文句があるのならば後日にして下さい。今、頼朝様の宴会を邪魔することは理由のつけようが無い」と、何度もとどめました。それで二人とも文句の云い会いを止めたので無事でした。三浦十郎義連は頼朝様に気に入られましたのは、その事が理由なのだという。

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