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2008年10月 4日 (土)

1190年 (文治6年)1月6日「泰衡の臣大河兼任叛乱を起す」

1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)

「吾妻鏡」1月6日 辛酉
「泰衡の臣大河兼任叛乱を起す」
 奥州の故泰衡の郎従の大河の次郎兼任以下が、去年の冬以来謀反を企てた。伊豫の守義経と称し出羽の国の海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲の嫡男で朝日の冠者と称し同国山北郡にて挙兵し、各々反乱軍を結成した。遂に兼任の長男の鶴太郎は次男の畿内の次郎や七千余騎の反乱軍を引き連れ、鎌倉方に向かい出発した。その路程は河北・秋田城等を経由して、大関山を越え、多賀の国府に出ようとした。ところが秋田・大方より、志加の渡を打ち通る時、氷がにわかに消えて五千余人が忽ち溺死した。天罰を受けたのか。ここで兼任は使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親(父母兄弟妻子などの六種の親族)若くは夫婦の怨敵の者にむくいるのは尋常の事である。未だ主人のかたきを討つの例は無い。兼任が独りその例を始めようとする為、鎌倉に赴く所であるという。
「由利惟平討たる」
 仍って維平は小鹿嶋の大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、合戦は四時間に及ぶ。維平は討ち取られた。兼任もまた千福・山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑務職の澤安等を殺したという。これに依って在国の御家人等はそれぞれ飛脚を進上し、事情を言上したという。

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