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2008年10月 2日 (木)

8月26日「泰衡状を頼朝に送り赦免を請ふ」

「吾妻鏡」8月26日 癸丑
「泰衡状を頼朝に送り赦免を請ふ」
 日の出の頃、人夫が一人御宿所の付近にやって来て、一通の書状を投げ入れ逃亡した。その行方は不明である。皆これを怪しんだ。それを取り御覧になった処、表書きに云く、鎌倉殿(侍所)へ進上する泰衡よりと。それには、伊豫国司(義経)の事は、父入道(秀衡)が支持していました。泰衡は全く物事の起原を知りません。父亡き後、鎌倉殿の命を受け殺しました。これは勲功と言うべきでしょう。而るに今罪無くして突然に征伐となりました。何故でしょう。このため先祖代々の在所を去り山林に逃げ込み、まことに不便であります。両国はすでに御支配下にある上は、泰衡はお許しをいただき、御家人の列に加わりたいと思います。さもなくば、死罪を減じて遠流に処して下さい。もし慈恵を垂れ、御返報が有れば、比内郡の辺りに落とし置いて下さい。その是非によって、投降して急いで参上しますとの趣旨が記載されていた。親能が御前にて読み上げた。これにより何度もの審議が有りました。試みに御返報を比内の辺に捨て置き、密かに勇士一二人をその所に付け、御書を取ろうとうかがい来た者が有る時は逮捕し、泰衡の在所を尋問すべきと、實平が提案しましたが、そうはせずに、書を比内郡に置くようにと、泰衡が言上している上は、軍士等をそれぞれ彼の郡内を捜索するように命令を下されたという。

「吾妻鏡」9月3日
泰衡が殺された。

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