« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月

2008年9月30日 (火)

7月9日「院、泰経宥免を頼朝に諮る」

「吾妻鏡」7月9日 丁卯
「院、泰経宥免を頼朝に諮る」
 前の大蔵卿泰経朝臣は、義経朝臣に味方したため、二品(頼朝)が怒りになられたので、処罰されました。而るに義経は、すでに敗北したので、赦免されるべきかと、内々に師中納言(経房)にお言葉がありました。都督(経房)はその御文書を送り献上された。今日到来したという。泰経卿の事は、度々二位卿(頼朝)にお言葉がありました。然れども今だに赦免はありません。またお考えもしかるべき理由がありますので、処置に及びませんでした。而るに此のような罪科の者達は、多く赦免しており、さらに義経の事も決着しました。それならば赦免されても良いのではと、機会を見計らって(頼朝に)お言葉を送るようにと、(法皇の)内々のお考えです。仍ってこのようにお伝えします。
     七月一日           左中弁(藤原定長)
   謹上 太宰権の師(経房)殿

|

2008年9月29日 (月)

6月26日「泰衡、忠衡を誅す」

「吾妻鏡」6月26日 甲寅
「泰衡、忠衡を誅す」
 奥州で兵乱が有り、泰衡が弟の泉の三郎忠衡(年二十三)を殺した。これは豫州(義経)に味方していたので、朝廷からの命令の趣旨に従ったのだという。

|

2008年9月28日 (日)

6月24日「奥州征伐旗の調進を常胤に命ず」

「吾妻鏡」6月24日 壬子
「奥州征伐旗の調進を常胤に命ず」
 奥州の泰衡がこれまで與州(義経)を隠しおいた罪は、すでに叛逆以上のものである。仍ってこれを征伐する為出陣する事になったので、御旗一流を製作せよと、千葉常胤に命じられた。旗に使う絹は小山朝政が、お言葉に依ってこれを献上したという。晩になって右武衛(一条能保)の手紙が到来した。奥州追討の事について御審議の内容を、内々に申しあげた。その趣旨は、何度も審議がありました。この事は、関東の怒りは無視出来ないが、義顕(義経)はすでに殺された。今年は伊勢大神宮の上棟、東大寺の造営など、かれこれ重なります。追討の儀は猶予せよ。その趣旨はすでに殿下(兼実)の御文書を献上しようとしていますという。また御厩司の事、許すとのお言葉がありましたので、了承致しましたと。

御厩司(みうまやのつかさ) 法皇御所の馬屋の長官。一条能保が任命されようとしていた。

|

2008年9月27日 (土)

6月13日 「泰衡の使者、義経の首を持参す」

「吾妻鏡」6月13日 辛丑
「泰衡の使者、義経の首を持参す」
 泰衡の使者新田の冠者高平が、與州(義経)の首を腰越浦に持参し、経緯を言上した。仍って首実検をする為、和田の太郎義盛・梶原平三景時等をそこへ派遣した。各々甲(よろい)直垂(ひたたれ)を着て、甲冑姿の郎従二十騎を従えていた。その首は黒漆の櫃に納めて、美酒に浸されていた。高平の従者二人が担いできた。昔蘇公は、討ち取った敵を自ら担いだ。今高平は、他人に彼の首を担がせた。様子を見る者は皆涙を拭い両袂を濡らしたという。

|

2008年9月26日 (金)

6月8日 「院、義顕誅罰を悦ぶ」

「吾妻鏡」6月8日 丙申
「頼朝、観性と対談す」
 今日、二品(頼朝)は中納言法橋観性の旅宿(八田知家の宅)にお出かけになられた。御対面になり、雑談を楽しまれたという。
「院、義顕誅罰を悦ぶ」
 夜に入り、京都に進上した飛脚が帰参した。師中納言(経房)の返報が到来した。義顕(義経)誅罰の事、特に喜ばしいと、法皇のお言葉がありました。兼ねてまた彼が滅亡したので、国中も必ず平穏となるだろう。今に於いては弓矢を納めよと内々申すべきの旨、その指示がありましたという。

|

2008年9月25日 (木)

6月7日「御塔供養の事協議」

「吾妻鏡」6月7日 乙未
「御塔供養の事協議」
 鶴岡八幡宮の御塔の供養について審議がありました。社前で行われるものなので、與州(義経)の死去に依って延引する予定であると、京都に申し伝えましたが、導師がすでに下向しました。また法皇から御馬などを下されている上は、供養はこれを実行する事とされた。次いで二品(頼朝)が御出席の事は、御軽服三十余日は経過しました。これは御奉幣の儀ではないので、直に内陣にお入りにならなければ、何の問題があろうかと決定された。仍って與州(義経)の首は指示無く持参してはならず、暫く途中で逗留せよとの飛脚を奥州に派遣されたという。

導師 法会のとき中心となる僧侶。
軽服 軽い服装、遠縁の親戚のために服する軽い喪。
内陣 寺社の本堂・本殿のうち、本尊・神体を祀ってある部分。

|

2008年9月24日 (水)

5月29日「義経征伐の報告」

[玉葉]5月29日 戊子
「義経征伐の報告」
 今日、能保朝臣が報告してきた、九郎義経が泰衡により殺されたという。天下の悦びは何事もこれに及ばないだろう。実に仏神の助けである。そもそもまた頼朝卿の幸運である。言葉では言い尽くせない程である。

|

2008年9月23日 (火)

5月22日「奥州の飛脚、義経誅戮を報ず」

「吾妻鏡」5月22日 辛巳
「奥州の飛脚、義経誅戮を報ず」
 午後4時頃、奥州の飛脚が参着した。申して云く、先月の30日に、民部少輔の館に於いて與州(義経)を殺しました。その首を送り進上する所であるという。そこでこの経緯を申し上げるため、飛脚を京都に派遣した。御手紙の内容は、
「頼朝、奥州の事を京に報ず」
 去る閏四月三十日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義経を殺しましたと、泰衡が申し送ってきました。このため、来月九日の鶴岡八幡宮の塔供養は延期しました。この趣旨を法皇にお伝え下さい。頼朝が謹んで申し上げます。
 また板垣の三郎兼信が天皇の命令に違反の事が有ります。よって特に調べて処置するように、法皇の命令を下されましたので、今日、二品(頼朝)が答申書を進上されました。太皇大后宮(藤原多子)の御領の駿河の国の大津御厨の地頭の兼信の不当な行為について、謹んで承りました。此のように命令が下されました上、宮様(藤原多子)からも命令をうけましたので、地頭職は直ちに改定しました。而るに兼信の悪行は軽いものではないと、命令が下されましたが、このようなことは私的に処置できません。所当の罪科を定められ、どのようにも御処分下さい。もし流罪とされましたら、別の御使を派遣されて、その身柄を捕らえ、御処置下さい。大宮様(藤原多子)より御下された書状の通りならば、その罪科は何も申す事はありません。この旨を以て申し上げ下さい。謹んで申し上げます。
     五月二十二日         頼朝

|

2008年9月22日 (月)

閏4月30日「義経、泰衡に襲われ自殺す」

「吾妻鏡」閏4月30日 己未
「義経、泰衡に襲われ自殺す」
 今日、陸奥の国に於いて、泰衡が源與州(義経)を攻撃した。これは一つには朝廷の命令に従い、一つには二品(頼朝)の命令に従ったものである。豫州(義経)は民部少輔基成朝臣の衣河の館にいた。泰衡の従兵数百騎が、その所に攻め寄せ合戦した。與州(義経)の家人等が防戦したが、全て敗績した。與州(義経)は持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)と子(女子四歳)を殺し、次いで自殺したという。
   前の伊豫の守従五位下源朝臣義経(義行また義顕と改名された。年三十一)
 左馬の頭義朝朝臣の六男、母は九條院の雑仕の常盤。寿永三年八月六日、左衛門の少尉に任じられ検非違使の宣旨をいただいた。九月十八日に位のみ昇級した。十月十一日に御礼の儀式を行った(六位の尉の時、御礼の儀式を行わなかった)。その場で法皇御所と天皇御所の昇殿を許された。二十五日の後鳥羽天皇の儀式のお出かけに付き従った。元暦元年八月二十六日に平氏追討使の太政官の公文書を拝領した。二年四月二十五日に神鏡が西海から戻された。神鏡が天皇御所の朝所にお入りになる儀式の間付き従った。二十七日に法皇御所の御厩司に任命された。八月十四日に伊豫の守に任命された(検非違使は元のままであった)。文治元年十一月十八日に伊豫の守と検非違使を解官された。

|

2008年9月21日 (日)

閏4月21日「塔供養後に泰衡追討実施の旨申し送る」

「吾妻鏡」閏4月21日 庚戌
「塔供養後に泰衡追討実施の旨申し送る」
 泰衡が義経をかくまっている事について、朝廷はどうして寛容な処置をなさるのでしょうか。前々からの申請の通り、早く追討の宣旨を下されましたら、鶴岡八幡宮の塔供養の後、奥州追討という年来の思いを遂げるつもりですと、重ねて御書を師中納言(経房)に遣わされたという。

|

2008年9月20日 (土)

4月19日「経房の消息届く」

「吾妻鏡」4月19日 辛卯
「経房の消息届く」
 梶原平三景時の在京中の家来が飛脚として到着した。師中納言(経房卿)の去る八日の手紙を持参した。その内容は、頼経卿父子と朝方卿父子の事、申請に従って処置しました。また彼の政綱が、義顕(義経)に内通して送った書状は、早く進上しご覧に入れます。次いで比叡山上の僧兵の武具については、禁止せよと天台座主にすでに命じています。奥州の事については、摂政(兼実)以下の諸卿に相談されて、追って天皇のお答が有るとの旨法皇の命令を受けました。また昌寛(事務担当の僧侶)が注進して言うには、先月の十九日、按察大納言(朝方)並びに侍従朝経が自宅謹慎した。同十三日、彼の父子及び左兵衛の尉政綱等が現在の職を解任れさたという。

|

2008年9月19日 (金)

3月20日「義経追捕泰衡らの請文を進ず」

「吾妻鏡」3月20日 壬戌
「義経追捕泰衡らの請文を進ず」
 午後10時頃、右武衛の使者が参着し、消息(去る十三日の状)を献上された。去る九日、奥州の基成朝臣並びに泰衡等の答申書が到来した。義顕(義経)を捜索し進上すべきの由これを記載した。而るに法皇この間御仏事の為天王寺に御いでです(去る月二十二日に御幸されました)。件の答申書を叡覧になった後、早く逮捕し進上すべきの由、重ねて命ずべきの旨、天王寺よりわざわざ殿下(兼実)に伝えました。また同十二日、前の刑部卿頼経卿を伊豆の国に配流すると宣下した。子息宗長も同様である。この外の事等、條々皆これを法皇の決定が有るでしょう。師中納言(経房)から必ず詳しく申し上げられるでしょう。彼の卿(経房)の奉書に云く、
 去る月二十二日の御消息、今日到来した。條々申しになられました事について、委しくお聞きになられました。出雲の目代右兵衛の尉政綱については、すぐにその身を呼び出し進上すべきの由、按察大納言に命じられました。彼の卿の申状を、不審を解く為に送り遣わします。そもそも彼の卿に対しお怒りの理由は何でしょうか。全く思いも寄らない事で、返す返すも驚いておられます。もし何かの間違いであれば、その人の為にとってもあわれなことです。このような事は、眞偽を調べて判断されるのがよろしいでしょう。件の消息を、早く進上し御覧に入れてください。披露してお見せします。彼の卿が直ちに誓約書を書き進上した。恐れ驚いている事が推察されます。政綱の所行については、もし事実ならば、罪科の極みは、言うまでもないと思います。
 頼経朝臣の事は、證文等が提出されたという事で、是非に及ばない事です。早く配流されるべきでしょう。息子の左少将宗長も、同じく解官されるべきです。朝庭に対して不忠の者について、どうして処置されない事があるでしょうか。
(中略)
   以前の條々、院宣此の如し。仍って執啓件の如し。
     三月十日           太宰権の師籐(藤原経房)

|

2008年9月18日 (木)

2月26日「官使守康、奥州状況を伝ふ」

「吾妻鏡」2月26日 戊戌
「官使守康、奥州状況を伝ふ」
 去年奥州に下された所の官使の守康がすでに上洛し、今日鎌倉に逗留した。八田右衛門の尉知家に命じて食事などの接待をした。守康の申すには、與州(義経)の在所が露見したので早く逮捕し進上すべきの由、泰衡は答申書に記載し言上したという。頼朝が言うには、この事について泰衡の心中は猶測り難い。固く義顕(義経)に味方しており、先頃は天皇の命令に背きこれを逮捕し進上しなかった。而るに今一時の追求を遁れようとして、その趣旨を記載したと雖も、大略は謀り事のための言い分だろう。殆ど信用出来ないという。

|

2008年9月17日 (水)

2月22日「頼朝、義経追捕厳命を京に要請す」

「吾妻鏡」2月22日 甲午
「頼朝、義経追捕厳命を京に要請す」
  御使(雑務職の時澤)を京都に出発させた。伊豫の守(義経)逃亡の後、御処置の次第がきわめて寛容であるため、 悪人がさらに悪事を続ける事になります。尤も急速の御処置を願いますという内容を申し伝えられたという。
  一、奥州の住人の藤原泰衡が義顕(義経)をかくまった上、謀叛に味方したことは疑う余地が無いでしょう。
    御許可を得て誅罰したいと思います。
  一、頼経卿は義顕(義経)に味方した朝廷の臣です。解官し追放なさいますよう、以前に言上しておりました。
        しかし勅勘とは名ばかりで、今に在京しているので、不満が残っています。
  一、按察大納言(朝方卿)・左少将宗長・出雲侍従朝経・出雲目代兵衛の尉政綱・前の兵衛の尉為孝、
        この者どもは義顕に味方したとがめに依って、現在の官職を解かれるべきである。
  一、比叡山の僧等が兵具を準備し、義顕に味方した事は、企ての極みであり、禁止されるよう、
        先日言上しましたところ、その旨の宣下したとの、勅答が有りましたが、まだ弓矢・太刀・刀が
        比叡山上に多いという風聞が有る事。
  一、上皇の御夢想に依って、平家縁坐の流人を呼び返されるべき事、僧並びに時實・信基等朝臣が如き、
         何の問題があるでしょうか。呼び返されるとの勅定が有るべき事。
  一、崇敬している六條若宮は御所の近辺にあります。祭礼等の際には、きっと騒動がおこるでしよう。特に恐縮しております。

|

2008年9月16日 (火)

2月12日「義経与党の動向」

「吾妻鏡」2月12日 甲申
「義経与党の動向」
 右武衛(一条能保)の使者が参着した。源豫州(義経)に味方する連中が、まだ思惑を抱いている疑いがあると、内々に申し上げるためである。

 また皇居の修理について、すでに御指図があった。治承年間の詳細に記述した文書が関東に下されるという噂があるという。

|

2008年9月14日 (日)

1189年 (文治5年) 1月13日「義経の風聞」

1189年 (文治5年 己酉)

[玉葉]1月13日 甲辰
「義経の風聞」
 兵衛の尉時定が参上した。申して云く、手光の七郎を逮捕した。九郎(義経)が京都に還るとの手紙等有り。即ちこれを持って来た。実に不可思議の事である。

|

2008年9月13日 (土)

12月16日「頼朝、俊章引き渡しを叡山に求む」

「吾妻鏡」12月16日 丁丑
「頼朝、俊章引き渡しを叡山に求む」
 豫州(義経)に味方した比叡山の僧兵の俊章について、その罪状を問いただして非難する為、早く逮捕し進上すするように、僧兵衆徒らに命令を送りました。この御書は三善善信ががその文案を書いた。その文言に云く、
 一人、二人の悪巧みをする者に依って、どうして多くの徳の高い僧が企む事があろうか。今後、凶悪な僧兵を撰び追い払われたならば、きっと良人が悪人の名に連なる事はなくなるでしょう。

|

2008年9月12日 (金)

12月11日「義経追討の院の庁下文」

「吾妻鏡」12月11日 壬申
「義経追討の院の庁下文」
  豫州(義経)追討について、宣旨を下された。さらに法皇の廰の御下文を添付した。官の史生守康がこれを所持し奥州に赴いた。今日到着した。八田右衛門の尉の宅に呼び入れ、食事を振るまった。また彼の御下文これを広げ示された。その詞に云く、
   院の廰下す 陸奥出羽両国司等
    早く両度の宣旨状に任せ、前の民部少輔藤原基成並びに秀衡法師子の息子の泰衡等をして、直ちに源義経の身を逮捕し進上させるべき事
 右件の義経、彼の基成・泰衡等に逮捕し進上させるべきの由、去る春かたじけなくも宣旨並びに院宣を下された処、泰衡等は勅命を受け入れず、朝廷から派遣された使に驚くこと無く、みだりに違越の悪巧みを計画し、ただ開陳をいつわりと致した。なかでも、義経等は猶凶党の集団の残余と結び、たしかに陸奥の辺境に居住すという。露見の趣旨はすでに風聞した。基成・泰衡等、身は王民として、地は帝土に居住する。何ぞ強いて天皇の命令に背き、愚かに逆賊に味方すべきや。たくらみが若し実たらば、ことすでに古来どの書籍にも載せられた事は無い。味方した罪、責めて余り有り。たしかに両度の宣旨に任せ、宜しく彼の義経の身を逮捕し進上せしむべし。もしなお容穏し天皇の命令の趣旨に違反すれば、早く官軍を派遣し征伐すべきの状、仰せの所件の如し。両国司等宜しく承知すべし。違失すること勿れ。故に下す。
     文治四年十一月日          主典代織部正大江朝臣
      別当左大臣藤原          判官代河内の守藤原朝臣
      右大臣藤原            右衛門権の佐兼和泉の守藤原朝臣
      大納言兼右近衛大将藤原朝臣    摂津の守藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣         左近衛権の少将藤原朝臣
      権大納言兼右近衛大将藤原朝臣   少納言兼侍従藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣         勘解由次官平朝臣
      権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣 権右中弁藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣         右少弁兼左衛門権の佐藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣         左少弁平朝臣
      権中納言兼右衛門の督藤原朝臣   右中弁藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣         権中納言源朝臣
      権中納言兼太宰権の師藤原朝臣   権中納言藤原朝臣
      参議藤原朝臣           参議左大弁兼丹波権の守平朝臣
      参議左衛門の督藤原朝臣      右京大夫兼因幡権の守藤原朝臣
      宮内卿藤原朝臣          内蔵の頭藤原朝臣
      右近権の中将兼播磨の守藤原朝臣  修理大夫藤原の朝臣
      大蔵卿兼備前権の守藤原朝臣    造東大寺長官左中弁藤原朝臣
      修理権大夫藤原朝臣        丹波の守藤原朝臣

|

2008年9月11日 (木)

10月25日「義経追討宣旨下案文到着す」

「吾妻鏡」10月25日 丁亥
「義経追討宣旨下案文到着す」
  豫州(義経)を追討すべきの由、宣旨状の原案文が到着した。正文については、官の史生が奥州に持ち向かうべしという。
     文治四年十月十二日      宣旨
 前の伊豫の守源義経はたちまち邪心を抱き、早く都を出てほしいままに偽言を巧み、奥州にわたり赴いた。仍って前の民部少輔藤原基成並びに秀衡子息泰衡等に命令し、彼の義経を逮捕し進上すべきの由、先に宣旨を下された。しかるに天皇の命令を恐れずみだりに詳細を述べた。あまねく天の下、あに以て然るべきや。しかのみならず義経は当国の中を廻り出現するの由、たしかに風聞が有る。ようやく月日を送り、くわしく捜索を加えれば、定めてその隠れ場所は無いだろう。ひとえに野心に味方する事は朝庭の権威を軽んずるものである。なかでも泰衡は先祖を四代に継ぎ、己が権威を一国に施した。領内の領民は誰も随順しない物はいない。重ねて彼の泰衡等に命じ、直ちにその身を逮捕し進上せしめよ。味方する思いが有る事については、定めて後悔の恨みを遺すだろう。専ら天皇の命令の厳しい趣旨を守り、邪悪の誘惑に味方しなければ、その勲功により、恩賞を与えるに以て対処する。もし凶徒に従い、逆節を図るに於いては、官軍を派遣宜しく征伐せしむべし。帝王の事業はもろき事は無し。あえて違越すること勿れ。
                    蔵人右衛門権の佐藤原定経(奉る)

|

2008年9月10日 (水)

10月17日「叡山僧俊章、義経を庇護す」

「吾妻鏡」10月17日 己卯
「叡山僧俊章、義経を庇護す」
 比叡山延暦寺の僧兵の中に俊章と云う者がいました。日頃から豫州(義経)に味方し親密な交際の約束を成した。仍って今度流浪の間、数ケ月これを穏やかに受け入れた。また奥州に向かい行く時は、仲間の者等を同道し長距離を送った。帰京の後、謀叛を企てるの由その伝聞が有りました。仍って内々彼の処置を伺い、その身を逮捕し進上すべきの旨、在京の御家人等に命じられたという。

|

2008年9月 9日 (火)

8月9日「叡山僧の沙汰遅怠す」

「吾妻鏡」8月9日 壬申
「叡山僧の沙汰遅怠す」
 比叡山延暦寺の僧兵等が豫州(義経)に味方したとの事、前の民部少輔基成並びに藤原泰衡が同人を奥州に穏やかに受け入れた事、御指図はすこぶる遅延した。急速に申し達せしめるべきの由、右武衛(一条能保)に命令されたという。

|

2008年9月 8日 (月)

6月11日「泰衡の貢物着く」

「吾妻鏡」6月11日 乙亥
「泰衡の貢物着く」
 藤原泰衡が京へ進上の年貢馬・年貢金・絹糸等が、昨日大磯の駅に着いた。差し押さえすべきかと三浦義澄が申した。武原泰衡は豫州(義経)に味方したので、二品(頼朝)がお怒りなされたので、度々尋問を下された。去る月また官使を派遣されました。これに就いて言上する処か。然れどもその身は反逆者に味方したとはいえども、有限の官有物を抑留し難きの由の命令が出されたという。

|

2008年9月 7日 (日)

4月9日「院庁の下文」

「吾妻鏡」4月9日 乙亥(続き)
「院庁の下文」
   法皇庁から命令する 陸奥・出羽両国司等

 天皇の命令書により、前の民部少輔籐原基成並びに秀衡法師の長男の泰衡等、一つには義経の身を捕らえ進上し、一つには国司及び庄役使等を受用するべき事

 右源義経並びに味方の者達は当国に乱入し、更に破棄した旧い朝廷の文書を以て偽り当時の天皇の命令と称し、謀叛を致すの由、出羽の国司が居住を確かに記録して言上を経た。仍って彼の状に就いて宣旨をすでに下されました。基成・泰衡等、縦え風聞の説の如く、誤りて狼のような心の集団に味方するとも、天皇の命令は重いものである。たしかに前非を改めて、天皇の命令状を守り義経の身を捕らえ進上せよ。件の義経の前の罪と後の過ちを尋問し、天皇の命令書に記すと雖も、積悪の余り天罰ここにいたり、悪巧み成すこと無し。空しく以て敗亡の後、ひそかに破棄された天皇の命令書を捧げ奥州に逃げ行くという。誠に辺境の民は極めて愚かと云うと雖も、どうして心の曲がった残党に従うべきだろうか。しかのみならず秀衡法師の子息等、責めを潜在か現れるかにかかわらず、ただ事を左右に寄せ、陸奥・出羽両国の官吏を自由に抑留し、使者を追却した。計画の趣旨はかえって疑いの思慮にいたる。事もし実ならば、謀叛の同罪に処せられ、官軍を以て征伐させる。もし天子の味方として逆賊を逮捕すれば、その功労に従い、当然に優賞有るべきの状、仰せの所件の如し。両国司等宜しく承知すべし。遺失すること莫れ。故に下す。
     文治四年二月二十六日         主典代織部の正大江朝臣
      別当左大臣藤原(経宗)       判官代河内の守藤原朝臣
      右大臣藤原(実定)         民部少輔兼和泉の守藤原朝臣
      大納言源朝臣            左近衛権の少将藤原朝臣
      大納言兼左近衛大将藤原朝臣     散位藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣          紀伊の守藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣          土佐の守藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣          勘解由次官平朝臣
      権中納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣  右衛門権の佐藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣          右弁藤原朝臣
      権中納言兼左衛門の督藤原朝臣    防鴨河使左衛門権の佐平朝臣
      権中納言藤原朝臣(定能)      木工の頭藤原朝臣
      権中納言源朝臣           左少弁藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣(経房)
      権中納言藤原朝臣          参議備前権の守藤原
      参議左大弁兼丹波権の守平朝臣    参議左兵衛の督藤原朝臣       
      右京大夫兼因幡権の守藤原朝臣    宮内卿藤原朝臣
      内蔵の頭藤原朝臣          右近衛権の少将播磨の守藤原朝臣
      修理大夫藤原朝臣          修理右宮城使右中弁平朝臣
      造東大寺長官権右中弁藤原朝臣    修理権大夫藤原の朝臣
      丹後の守藤原朝臣

|

2008年9月 6日 (土)

4月9日 「奥州下向の官使到着す」

「吾妻鏡」4月9日 乙亥
「奥州下向の官使到着す」
 奥州に向うところの官吏の史生国光・院の廰官の景弘等、去る三月二十二日出京した。これは藤原泰衡に命令し、豫州(義経)を逮捕し進上すべきの次第である。彼の両人は宣旨(天皇の命令)並びに廰の御下文(くだしぶみ)等を所持し、今日すでに鎌倉に到着した。宿泊の雑事等、朝廷の命令書が有りました。仍ってその趣旨を守り、あきてなまけることの無いように指図を致すべきとの事を、稲毛重成・畠山重忠・江戸重長等に命令されたという。宣旨状等、二品(頼朝)は内密にこれをご覧なされた。
「義経追討の宣旨」
      文治四年二月二十一日     宣旨
 出羽の守藤原保房が言上し、東海・東山両道の国の長官並びに武士達に命令する。その身を追討された源義経及び味方の者等、当国に乱入し、破棄したところの古い朝廷の文書を以て偽り当時の宣旨(天皇の命令)と称し、謀叛を致す事
 そもそも件の義経、忽ち逆節を図り、みだりに朝廷の法令にそむいた。それゆえ神様はしるしを現し、賊徒は敗走した。仍って五畿(京都近国)七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)の諸国に命じ、たしかに逮捕すべきの由、宣下を先にしました。
 ここに義経は身を容れる所無く、奥州に逃げ下った。先日の破棄した朝廷の文書を掲げて、当時の天皇の命令と称し、辺境の民を相語り野戦をしようとするという。件の朝廷の文書は、こと天皇の本心より出たものではない。自由の企み、武威によるものである。これに因って破棄すべきの由、直ちに君主の命令を下されました。どうしてその書状を以て、今も従い実行しようとするのか。悪巧みの訴えの趣、責めて余り有り。しかのみならず風聞の如きでは、前の民部少輔基成並びに秀衡法師の子息泰衡等、彼の人道にそむく悪人に味方し、すでに帝王の命令に背き、陸奥・出羽の両州の人や物を奪い、国司の役所・庄園の事務所の使者を追い出した。あまねく天の下、領海の内、何れか帝王の治める国土に非ざらん。誰か帝王の治める民に非ざらん。どうして天皇の命令に違反を知り、荒く虐げる事に同ずべきか。而るに凶徒を隠し居き、謀叛を計画させた。よくよく所行の様子を思うに、殆ど考え企みの段階わ超えた。但し泰衡等味方する心が無いならば、一つには義経の身を捕らえ進上し、一つには庄園公領の使を受用せよ。なお朝庭の掟に関係なくあれば、どうして天罰を免がれようか。直ちに官軍を派遣し、共に征伐を致すべきである。件の者ども等、早く隠しおく事を容認の思いを変更して、宜しく勲功の節を励むべし。たとえ辺境の民と云うとも更に違反し超越することなかれ。
                    蔵人右衛門権の佐平棟範(奉る)

|

2008年9月 5日 (金)

2月29日「義経捕進の勅使を奥州に派す」

「吾妻鏡」2月29日 乙未
「義経捕進の勅使を奥州に派す」
 右武衛(兵衛府)一条能保が申されて云く、與州(義経)の事、奥州の藤原泰衡に命令する為、勅使官の史生国光、院(法皇)廰官の景弘等を派遣された。来る三月に下向すべしという。

勅使・・・勅旨(天皇の意思)を伝達するために派遣される特使。

|

2008年9月 4日 (木)

2月21日「義経追討宣旨下さる」

[玉葉] 2月21日 丁亥
「義経追討宣旨下さる」
 義経追討の宣旨を下されたようだ。去る十八日法皇御所に於いてその趣を定め命令された。同十九日蔵人右衛門権佐の平棟範が九條堂に持参して、これを見せました。余(兼実)は若干修正した事項が有りました。今日重ねて持って来た。直ちに左大臣の藤原経宗に宣下したという。

|

2008年9月 3日 (水)

2月2日「地頭の所領につき諸人愁訴す」

「吾妻鏡」2月2日 戊辰
「地頭の所領につき諸人愁訴す」
 所々の地頭等の所領以下の事、京都より、権力者の縁故に頼り、または手紙を献上し、なげき訴えを申す人々は多い。仍ってその御指図が有りました。しかるに廷尉(検非違使)公朝は去年の冬より鎌倉にいました。近日に帰京すべきのとき、その意を得て公開させる為、彼の訴えの條々、箇条を一紙に載せ、公朝に与えるべしのようです。彼の公朝は下向の次いでに、事情等その指図がありました。御書御文書に云く、
   宝殿
    越後の国の奥山庄の地頭が不当の事。
   修理大夫家
    尾張の国の津島社、板垣の冠者が物納をわきまえざるの由の事。
   右衛門の佐御局
    信濃の国の四宮庄の地頭が、年貢並びに領家の収益をわきまえて進上せざる由の事。
   大宮御局
    伊勢の国の志禮石御厨(みくりや)、宗輪田右馬の允が不当の事。
   賀茂神主
    大夫判官を捜し求めるの由の事。
    高雄の上人が宣旨に背き神領を押領する由の事。
   新中将殿
    伊賀の国の若林御園(みその)の内七町九段を妨げるの由の事。
     佐々木の太郎方 五町四段
     平六兵衛の尉  壹町五段
     阿保別府    壹町
   公朝
    備前の国の吉備津宮領西野田保の地頭職貞光の事、道理に任せ被告人の妨げを停止し、本の如く相違無く知行せしめんと欲する事。

 以上の所々、尤も御裁断が有るべきの処、凡そ此のような訴訟は、自ら君(法皇)が仰せ下された時は、とやかく言うまでもなく裁断されると雖も、私的なコネを知らせて来た事に付いては、全く裁断を致すべきではないとの定めである。善悪の御定めに於いては、決定出来ない事である。コネを以て裁断いたせば、世間の人は定めて不公平に似たるの由と受け取るだろう。仍って今度は御裁断が亡いのである。

|

2008年9月 2日 (火)

1188年 (文治4年) 1月18日「二所詣のため警戒を命ず」

1188年 (文治4年 戊申)

「吾妻鏡」1月18日 甲寅
「二所詣のため警戒を命ず」
 二所詣(二所の権現に参詣)への御出発が近づいてきたので、甲斐・伊豆・駿河等の国の御家人等に、山路を警衛すべきように、以前の日に命じられていたが、今日さらに知らせるよう命じられた。これは與州(義経)の所在が未だ明らかにならないので、特に警戒されたためである。

(1月20日 丙辰  二品(頼朝)鎌倉を立ち、伊豆・箱根・三島社等に参詣せしめ給う。)

|

2008年9月 1日 (月)

11月25日「但馬住人山口家任の本領を安堵せしむ」

「吾妻鏡」11月25日 壬戌
「但馬住人山口家任の本領を安堵せしむ」
 但馬の国の住人に山口の太郎家任と云う者がいる。弓馬の名手で勇敢な武士である。しかし木曽左馬の頭(義仲)に従属して、近仕の随一であった。義仲が殺された後、豫州(義経)の家に従属した。豫州(義経)が逃亡したとき、同じく所々に横行するの間、北條殿これを生け捕りにして、呼び進上された。
 そこでて両人に仕えた理由を尋問したところ、申した、家任は譜代の源氏の御家人である。なかでも父の家脩は、六條廷尉禅室(為朝)に仕え忠節に励み、数箇所の所領を拝領しました。平家が天下を執った時、全て失いました。左典厩(義仲)入洛の当初、寿永二年八月に、たまたま安堵されました。その恩義に酬いる為、一旦は門下に列したものの、関東には異心を抱いてはいません。また豫州(義経)に属したとは、人々が偽りの訴えをしているのでしょう。
 六條殿(為朝)の御下文を今も持っているかどうか尋ねられたので、これを用意していて進上した。二品(頼朝)は両手を洗い、これを拝見された。邦通が読み申した。保元三年二月日の御下文である。内舎人の筆跡であるという。この御下文を重んじられて、他の事は問い質す処置はしなかった。本職に安堵すべきの旨、直によくよく仰せられたという。先祖の時代を重んぜられることは、万事このようであったという。

|

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »