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2008年8月20日 (水)

3月8日 「聖弘、義経幇助の疑により召問さる」

「吾妻鏡」3月8日 庚戌
「聖弘、義経幇助の疑により召問さる」
 南都(興福寺)の周防得業聖弘が呼び出しに応じて鎌倉に参りました。豫州(義経)とは寺と檀家の関係であっためである。これまで小山の七郎朝光に預け置かれていた。今日、二品(頼朝)との御対面が有り、直接に尋問された。仰せて曰く、豫州(義経)は国を乱そうとする凶臣である。而るに逃亡した後、諸国の山沢を捜索し、誅殺するように天皇の命令を何度も下された。そこで世の人々が皆義経に背いているのに、貴僧独りが祈祷を致し、さらに味方して計り事をしていると聞く。その企てとはどのようなものか。
「聖弘、義経を弁護し、頼朝を諷諫す」諷諫(ふうかん)遠回しにいさめること
 聖弘が答えて申した。「豫州(義経)が君(頼朝)の御使として平家を征伐した時、合戦が無事に終わるように祈祷をして欲しい頼まれ、親しく約束したので、それ以来、心を込めて祈祷をしました。これがどうして報国の志でないと言えましようか。ここに豫州が関東の厳しい責めを受けたと称し、逃亡した時、寺と檀家の関係の縁から、南都に来たので、よく気を配って先ず一時の難を逃れ、その後で二品(頼朝)に陳謝されるよう諫め、下役の僧等を付けて伊賀の国に送りました。その後全く音信が通じません。祈祷といっても謀叛を祈ったのではありません。諫めて逆心を宥めたのです。どれをとってもどうして味方した罪に処せられるのでしょうか。よく考えますと関東の安全は、ただ豫州の武功によるものでしょう。而るに告げ口を聞かれると、忽ち奉公の思いを忘れ、恩賞の地を没収されれば、逆心を発する事は、人間の我慢から当然の事でしょう。速やかにこれまでの御考えを変更し、和平の儀に就いて、豫州を呼び還され、兄弟が親密に交わることが、国を治める謀り事というものです。私の言い分は更に(義経を)弁護するものではありません。求む所は天下が静まる術である」と言いました。
「聖弘に勝長寿院の供僧職を賜ふ」
 二品(頼朝)は得業の真っ直ぐな心に感心されたので、すぐに勝長寿院の供僧として、関東の御繁栄を心を込めて御祈祷をするように、よくよく言いつけられたという。

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