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2008年8月

2008年8月31日 (日)

10月29日「秀衡、義経を大将軍に推載する事を遺言す」

「吾妻鏡」10月29日 丙申
「鹿島社供米を常陸七郡に課す」
  常陸の国の鹿島社は、御崇敬が他社と異なる。そこで毎月の御膳料を、常陸の国奥郡に充てられた。今日命令を加えられたという。
   政所が下命する。 常陸国奥郡に。
    早く鹿島社に毎月の一日に御膳料の籾(もみ)百二十石を出すべき事
     多賀郡  十二石五斗
     佐都東  十四石
     佐都西  九石八斗
     久慈東  三十六石一斗
     久慈西  十四石三斗
     那珂東  十三石九斗
     那珂西  十九石四斗
   右件の籾、毎年怠らず下し与えるべきの状件の如し。
     文治三年十月二十九日      中原
                     藤原
                     大中臣
                     主計の允
                     前の因幡の守中原
「秀衡卒す」
「秀衡、義経を大将軍に推載する事を遺言す」
 今日、秀衡入道が陸奥の国平泉の館に於いて亡くなった。このところ重病で死期が迫ったために、亡くなる以前に前の伊豫の守義顕(義経)を大将軍として、国務にあたることを、息子の泰衡以下に遺言したという。
   鎮守府将軍兼陸奥の守従五位上藤原朝臣秀衡法師、出羽押領使基衡の息男。
    嘉応二年五月二十五日、鎮守府将軍に任じられ、従五位下に叙される。
    養和元年八月二十五日、陸奥の守に任じられ。同日従五位上に叙される。

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2008年8月30日 (土)

10月5日「河越庄、重頼後家の下知に従うべきを命ず」

「吾妻鏡」10月5日 壬申
「河越庄、重頼後家の下知に従うべきを命ず」
 河越の太郎重頼は伊豫の前司義顕(義経)の縁座(親族などのまきぞえの罪)に依って殺されたが、残された人々を不憫に思われたので、武蔵の国河越庄を、後家の尼(比企尼の娘)に授けた処、名主・百姓等が尼の支配に随わないという風聞があったので、今後は庄務と云い雑務と云い、全て、彼の尼の命令にに従うように仰せ下された。
 (河越の太郎重頼の娘は義経の正妻)

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2008年8月29日 (金)

10月3日「上洛使に付し奏聞の條々の勅答」

「吾妻鏡」10月3日 庚午
「上洛使に付し奏聞の條々の勅答」
 下河邊庄司・千葉の介等の上洛に託して、洛中の盗賊集団をはじめとする数ケ條のことを法皇に申し上げたが、その全てにお答が有りました。その書状が今日鎌倉に到来した。また御熊野詣での用途の事を命じられた。すぐに御答申書を進上することにしたという。院宣は以下の通りである。
   去る八月十九日・同二十七日等の御手紙が、今月十五日到来した。数ケ條の事を申し上げました。
一、盗賊集団並びに人々の事
 申されたように、洛中の事情に詳しい者か、若くはまた京都近国の者どもの所業であろうと、法皇はお考えになります。本より関東の武士の所行とは全く風聞はありません。またその旨を伝達もしていません。ただ近頃、検非違使の活動は日を追って弱まっており、まさに鴻毛の如き軽さです。在京の守護の武士が、力を合わせて事にあたれば、どうして取り締まり出来ない事があろうかとお考えになり、特に調査して指図するように伝達されました。
(略)
一、西八條の事(略)
一、所々地頭等の事(略)
 義顕(義経)の事も神明の冥助によって明らかになるであろうとお思いになっている上、
(略)
一、圓勝寺領駿河の国益頭庄の事
(略)
一、御熊野詣での事
(略)
一、阿武郡の事
(略)

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2008年8月28日 (木)

9月22日「義経与党を貴海島に討たしむ」

「吾妻鏡」9月22日 庚申
「義経与党を貴海島に討たしむ」
 蔵人所衆信房(宇都宮所と号す)が御使として九州に下向した。これは天野の籐内遠景と共に、貴海島(鹿児島硫黄島)を追討するようにと、厳命を受けたためである。この島は、古来船で渡る者はいなかった。しかし平家の治世の時、薩摩の国の住人の阿多平権の守忠景が、勅勘(天子のとがめ)を受け、この島に逃亡したとき、これを追討の為、筑後の守家貞を派遣した。家貞は軍船を用意して数度に及んだが、ついに風波を凌いで渡れず、空しく帰洛したという。今度豫州(義経)に味方した者どもが隠れ潜んでいるという疑いが有るので今回の事となった。また去年、河邊の平太通綱か゜この島に到達したとお聞きになって、特に思い立たれたという。天野の籐内遠景はもともと九州に在住していたという。

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2008年8月27日 (水)

9月4日「秀衡、義経扶持を問責せられ異心なきを謝す」

「吾妻鏡」9月4日 壬寅
「秀衡、義経扶持を問責せられ異心なきを謝す」
 藤原秀衡入道が前の伊豫の守(義経)を扶助し、反逆しているという二品(頼朝)の訴えにより、先日(院)庁の御下文が陸奥の国に下された。その時、関東からも同じく雑務職員を派遣した処、今日帰参した。秀衡は異心が無いと弁明した。しかし雑務職員が申すところによると、すでに反逆の用意があるようだという。仍って彼の雑務職員を今度は京都に派遣した。奥州の情勢を言上させるためである。

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2008年8月26日 (火)

8月27日「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」

「吾妻鏡」8月27日 乙未
「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」
 下河邊庄司行平が使節として上洛した。また重ねて京都に申し上げた條々は以下の通りである。、
  一、盗賊集団の事
   洛中の事情に通じた者の所為か。若くは又畿内・近国の武士か。ともかくよくよく調査してください。
  一、江大夫判官(大江)公朝の下部等の狼藉の事
   河内の国に於いて、関東の御家人と号し寄せ取りの狼藉に及んでいるという風聞があります。
   決して頼朝が申し付けたとい事実はありません。調査して下さい。
  一、北面の人々を廷尉に任ずる事
   この事、廷尉への任官は近年諸人が望んでいます。以前は簡単には任じられませんでした。よくよくその人物を選んで、任命して下さい。
  一、壱岐判官(平)知康の下向の事
   知康は義経・行家等に味方した者です。したがって特に言いつけが無い上は、身柄を京へ進上します。
  一、奉公した人々の子孫の事
   以前に功績の有った人の子孫が没落しているのは君(後白河法皇)の御不覚です。特別に朝廷で登用して下さい。
  一、西八條の地の事
   没官領として宛て賜わりましたが、公に用いると内々に承りました。早く御定め下さい。
  一、所々地頭の者の事
   以前、すでに面々に詳細を言い含めました。もし頼朝の成敗に従わない者どもがいれば、ご命令に従い、処罰を加えます。
  右の條々は、公平を考え、言上する所です。
    文治三年八月二十七日

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2008年8月25日 (月)

8月8日「梶原景時・原宗行能、最勝・尊勝両寺領押領の訴により陳状を召さる」

「吾妻鏡」8月8日 丙子
「梶原景時・原宗行能、最勝・尊勝両寺領押領の訴により陳状を召さる」
 梶原平三景時と原の宗四郎行能が、最勝寺・尊勝寺等の寺領を押領しているとの寺家の訴えがあったと、法皇からお言葉が伝えられたので、両人に尋問されたところ、各々陳状(陳述書、答弁書)を献上した。その陳状を職事に付けられたという。
「景時の陳状」
   平の景時が謹んで陳じ申します
    尊勝寺御領の美作の国の林野・英多保の事
 右のことについて、下し給わりました訴状を、謹んで拝見いたしました。先般尋問されたとき、詳細は言上しました。年貢以下の雑事について、先例の通り弁済に勤めています。代官の改補の件については、寺家が訴えるべきものではありません。その理由は、先例がある大事な年貢雑事の勤めを怠慢していなければ、訴えることが出来ないからです。ただ景時の知行を停止させめために、このような事を申しているのでしょうか。詳細はたびたび言上しました。したがって委細の陳状には記述しません。謹んで陳じ申します。
     文治三年八月五日       平景時
「行能の陳状」
   惟宗行能が謹んで解し申します。
 最勝寺が訴えております、若狭の国今重保を、院宣並びに鎌倉殿の御下文の旨に背いて、押領を企てているという事。
 右の事について、九郎判官(義経)が反逆した時、東国から武士が上洛した日、行能は北條時政の軍勢と共に上洛しました。しかし兵粮米に充てられた所には、代官を置いて知行してはならないと、鎌倉殿から命令されていたので、代官を置かず、本国に帰りました。まして今重保には、知行すべきの由緒がありません。また鎌倉殿から恩給をうけた所でもありません。どうして押領を致しましょう。但し行能の代官と号して、去り状が無ければ、従わないと称し、たびたび院宣と鎌倉殿の御下文に背いたので、院宣に依って御叱責されたのでしょう。これに因ってまた不当の名の立つ恐れが少なくありません。従って行能の代官と号する者どもは、早く逮捕し、罪科に処せらるべきです。全く行能が企てた事ではありません。仍って謹んで申します。
     文治三年八月八日       惟宗行能(判)

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2008年8月24日 (日)

7月19日「高階泰経院宣により出仕を免さる」

「吾妻鏡」7月19日 戊午
「高階泰経院宣により出仕を免さる」
 右武衛(右兵衛の督)一条能保の手紙が到来した。院宣(法皇の命令書)を副えられていた。これは前の大蔵卿(高階)泰経が、去年義顕(義経)に味方した罪により処罰された。帰京をお許しなさるべきと、申し上げたので、これを許された。そこで元々近臣であるので、今となっては近くに仕える事も許されるように、おことばを下されたのである。
 泰経卿の事は、度々二位卿(頼朝)におことばを下されました。しかし御返事の趣が不明だったので、ためらいがありました。しかし近日特に嘆願してきました。然るべき様に計らい下さるようにと、内々御意向がございました。仍ってこの通り申します。
     七月一日           左中弁(藤原光長)
   謹上 右兵衛の督(一条能保)殿

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2008年8月23日 (土)

5月15日「上皇御病平癒の赦を行ふ」

「吾妻鏡」5月15日 丙辰
「上皇御病平癒の赦を行ふ」
 大和の守(藤原)重弘が京都より到着した。「上皇(後白河)の御病気はすでに回復されました。この御慶事に依って、去る月三日に非常の赦(天皇の吉・凶事に際し、罪人の罪を許す)が行われました。但し伊豫の守義顕(義経)並びに縁坐(親族などのまきぞえの罪)した者は、対象から除かれました」、と申した。

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2008年8月22日 (金)

4月4日「義経発見を寺社に祈らしむ」

「吾妻鏡」4月4日 乙亥
「義経発見を寺社に祈らしむ」
 豫州(義経)の居場所が未だ知れない。今やもう人力の及ぶ所ではありません。ぜひとも神様仏様に祈らるべきです。人々が意見を申し上げたので、鶴岡八幡宮以下の神社仏寺に於いて、数日来御祈祷が行われた。すると若宮の別当法眼が夢でお告げを受けられた、上野の国金剛寺に於いて豫州(義経)に逢うだろう。そこで夢の詳細を申したので、この寺の僧侶らに、各々心を込めた御祈祷をするように伝えよと、籐九郎(安達)盛長(上野国の奉行)に命令されたという。

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2008年8月21日 (木)

3月18日「義経同意の山徒を追捕せしむ」

「吾妻鏡」3月18日 庚申
「義経同意の山徒を追捕せしむ」
 右武衛(兵衛府)一条能保の使者が到着した。これは比叡山の僧徒である民部卿禅師が義顕(義経)に味方していたことから、呼びし出して処刑するよう、二品(頼朝)が申しあげたので、座主の僧正全玄に命令されましたが、逃亡したという。そこで再び憤りを申したので、権右中弁定朝朝臣が院宣を捧げて比叡山に命じた事に関するものである。よって座主の答申書を添えて献上されたという。
   民部卿禅師についてさらに捜索して進上すべきの由、謹んで承りました。但しこの禅師については、詳細は去年申し上げました。この命令により重ねて下知します。恐々謹言。
     三月八日           僧正全玄
 追って申し上げます、かの悪徒たちについては、ご命令の通りに、その処置を致すべきの事は、比叡山も承知しています。全く怠慢などはありません。その間の詳細は澄雲法印が申し上げます。謹言。

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2008年8月20日 (水)

3月8日 「聖弘、義経幇助の疑により召問さる」

「吾妻鏡」3月8日 庚戌
「聖弘、義経幇助の疑により召問さる」
 南都(興福寺)の周防得業聖弘が呼び出しに応じて鎌倉に参りました。豫州(義経)とは寺と檀家の関係であっためである。これまで小山の七郎朝光に預け置かれていた。今日、二品(頼朝)との御対面が有り、直接に尋問された。仰せて曰く、豫州(義経)は国を乱そうとする凶臣である。而るに逃亡した後、諸国の山沢を捜索し、誅殺するように天皇の命令を何度も下された。そこで世の人々が皆義経に背いているのに、貴僧独りが祈祷を致し、さらに味方して計り事をしていると聞く。その企てとはどのようなものか。
「聖弘、義経を弁護し、頼朝を諷諫す」諷諫(ふうかん)遠回しにいさめること
 聖弘が答えて申した。「豫州(義経)が君(頼朝)の御使として平家を征伐した時、合戦が無事に終わるように祈祷をして欲しい頼まれ、親しく約束したので、それ以来、心を込めて祈祷をしました。これがどうして報国の志でないと言えましようか。ここに豫州が関東の厳しい責めを受けたと称し、逃亡した時、寺と檀家の関係の縁から、南都に来たので、よく気を配って先ず一時の難を逃れ、その後で二品(頼朝)に陳謝されるよう諫め、下役の僧等を付けて伊賀の国に送りました。その後全く音信が通じません。祈祷といっても謀叛を祈ったのではありません。諫めて逆心を宥めたのです。どれをとってもどうして味方した罪に処せられるのでしょうか。よく考えますと関東の安全は、ただ豫州の武功によるものでしょう。而るに告げ口を聞かれると、忽ち奉公の思いを忘れ、恩賞の地を没収されれば、逆心を発する事は、人間の我慢から当然の事でしょう。速やかにこれまでの御考えを変更し、和平の儀に就いて、豫州を呼び還され、兄弟が親密に交わることが、国を治める謀り事というものです。私の言い分は更に(義経を)弁護するものではありません。求む所は天下が静まる術である」と言いました。
「聖弘に勝長寿院の供僧職を賜ふ」
 二品(頼朝)は得業の真っ直ぐな心に感心されたので、すぐに勝長寿院の供僧として、関東の御繁栄を心を込めて御祈祷をするように、よくよく言いつけられたという。

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2008年8月19日 (火)

3月5日「秀衡の義経隠匿捜索を決議す」

「吾妻鏡」3月5日 丁未
「秀衡の義経隠匿捜索を決議す」
 豫州義顕(義経)が陸奥の国にいる事について、秀衡入道の企てによるという、諸人の申すところが一致したので、厳しく呼び出して調べられるよう、以前に京都に申していた。仍ってそのための御指図があったと、右武衛(兵衛府)一条能保が伝えてきたという。

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2008年8月18日 (月)

2月10日「義経一行山伏姿にて奥州に遁る」

「吾妻鏡」2月10日 壬午
「義経一行山伏姿にて奥州に遁る」
 前の伊豫の守義顕(義経)は、これまで諸所に隠れ住み、何度も追捕使の追求を遁れてきた。遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州に向かった。これは陸奥の守秀衡入道の権勢を頼るためである。妻女や子供を伴い、皆山伏や児童等に姿を変えていたという。

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2008年8月17日 (日)

1月23日「知康処分重ねて京に奏聞す」

「吾妻鏡」1月23日 乙丑
「知康処分重ねて京に奏聞す」
 前の検非違使尉知康は、行家・義顕(義経)の叛逆に味方し、事が露見した後には、一時の難を遁れようと、関東に参向しました。知康を処断することについて、二品(頼朝)は、とても決めがたかったので、何度もお伺いを立てていたが、今までに返事が無いので、言上の事について、明確な法皇の裁定を頂けないので、気分がすぐれない状態ですと、、黄門(中納言)経房のもとにお言葉を送られた。

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2008年8月16日 (土)

1187年 (文治3年) 1月20日「義経反逆祈祷のため頼朝大神宮に奉幣す」

1187年 (文治3年 丁未)

「吾妻鏡」1月20日 壬戌
「義経反逆祈祷のため頼朝大神宮に奉幣す」
 合鹿大夫光望が御使として、伊勢太神宮に奉納する為、伊勢の国に出発した。神馬八頭(内外宮分各々二頭。風宮・荒祭・伊雑・瀧原宮各々一頭)、砂金二十両、御劔二腰を送られた。これは伊豫の守義経の反逆に対する御祈祷であるという。

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2008年8月15日 (金)

12月15日「義経捜索のため、比企朝宗南都を監視す」

「吾妻鏡」12月15日 戊子
「義経捜索のため、比企朝宗南都を監視す」
 現在、比企の籐内朝宗以下の御家人が、家来等を南都奈良興福寺に派遣して駐在させ、聖弘得業の坊を監視した。これは義顕(義経)を捜索するためである。而るに先日、山階寺(興福寺)の別当僧正(信円)が京都に参上した。この事(武士の南都駐留)は興福寺の滅亡の基になる事態である。早くほかを捜索をしてほしいと申請するの由、右武衛(兵衛府)一条能保が伝えてきた。

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2008年8月14日 (木)

12月11日 「平知康陳弁のため関東に参向す」

「吾妻鏡」12月11日 甲申
「平知康陳弁のため関東に参向す」
 去年、行家・義顕(義経)等に味方した凶悪な臣下の事、二品(源頼朝)の御怒りに依って、或いは官職を解任され、或いは配流の太政官の公文書を下されました。その中、前の検非違使尉知康は殊にけしからぬ行為をしていたので、お怒りであったのだが、知康が弁解を申しあげたいと言って、関東に参向した。どの様に処置するべきかは、法皇の御決定に従いますと、京都に申し上げることになったという。

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2008年8月13日 (水)

11月29日 「義行を義顕と改む」

「吾妻鏡」11月29日 壬申
「義行を義顕と改む」
  義行(義顕に改む)を捜索する事について、去る十八日、法皇御所の殿上に於いて公卿の会議が有りました。
「畿内・北陸道に義顕捜索の宣旨を下し、京の捜索は使庁に命ず」
  以前と同様に、さらに天皇の命令書を京都近国や北陸道に下すこと。京中に於いては、検非違使の役所に命じて、市内の通り毎に相分ち、これを捜索すること。また諸神社へのお供えや仁王経(国家鎮護を祈る)の法会の御修法の御祈り等を始めることに、会議の結論が一致したと、一条能保が伝えてきたという。

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2008年8月12日 (火)

11月25日「義経追討」

[玉葉]11月25日 戊辰 
「義経追討」
 僧正圓長(信円)を以て使と為し、義行(義経)の間の事を示された。今日義顕(義経)追討の事を下された。公卿の責任者は左大臣経宗である。

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2008年8月11日 (月)

11月24日「義経の名義行を改め義顕とす」

[玉葉]11月24日 丁卯
「義経の名義行を改め義顕とす」
 今日、義行(義経)改名の間の事、私が案ずる所の名、義顕が尤も宜しきの由、参議左大弁の兼光が申しました。

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2008年8月10日 (日)

11月18日「義経捜索の事につき院殿上にて議定あり」

[玉葉]11月18日 辛酉 天晴 
「義経捜索の事につき院殿上にて議定あり」
 この日法皇御所殿上において会議がありました。(略)左少弁定長が帰り来たり仰せていわく、 
義行(義経)を逮捕すべき事について、細々と相計り、人々に問うべしと言いました。
(略)親経を呼び出し命令して言う、人々議定の趣、詳細に以て申し上げるべし。この上は私の案の旨、同じく申し上げるべし。
    義行(義経)逮捕すべきの間の事
 諸社諸寺・京都市中・京都近国に宣旨を下さるべき事、同じく載せらるべきの趣等、人々定め申す如く、殊に以て命令下さるべし。兼ねてまた猶逮捕した所の縁者等に尋問して、もし称し申す旨有らば、その白状により、在所と云い境界と云い、捜索の指図されるべきか。兼ねてまたこの事、もし怠慢を致し遂に成功する事がないならば、忽ちに武士を派遣すべきの由、各々よくよく命令すべし。人々の驚き恐れは、この深きに過ぐべからざるか。
「義経捜求のため五壇法行わるべし」
    御祈りの事
 先ず尤も五壇法(密教の修法)を行わるべきである。これに就いて二議有るべし。一は諸宗の法を知る方々を呼び、天皇御所または法皇御所の塗連壇に於いて行わるるべきか。まさに又は比叡山延暦寺の如きの修行の地に於いて、一向にその所に命じ、丁寧に始め修せらるべきか。(後略)

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2008年8月 9日 (土)

11月16日「頼朝義経の事を申す」

[玉葉]11月16日 己未 雨降る 
「頼朝義経の事を申す」
 左少弁定長が法皇の御使として来た。定長が申して言うには、頼朝卿が申す旨はこの如し(書状を下されるた)。朝庭の大事である、良き様に思案し指図すべしと言いました。
(略)頼朝の申状によると、義行(義経)の事、京都・奈良のあちらこちら、多く彼の男に味方した。尤も不便である。今に於いては、二三万騎の武士を差し進し、山々寺々を、そのうちに捜索すべきである。但し事は定めて大事に及ぶか。仍って先ず朝廷公家の指図として、逮捕すべきである。重ねての申し出により武士を差し上げるべきである。兼ねてまた仁和寺宮(後高野御室道法、守覚法親王)、始終御味方の心有るの由承る所であるという。この書状に依って左少弁定長が仁和寺宮に参りました。

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2008年8月 8日 (金)

11月5日 「頼朝、義経逮捕遅延の因を疑ふ」

「吾妻鏡」11月5日 戊申
「頼朝、義経逮捕遅延の因を疑ふ」
 豫州(義経)の事について、猶師中納言(藤原経房)に書状を送られた。その内容は、義行(義経)は今に至るも姿を現さない。これは公卿や侍臣が皆悉く鎌倉を嫌い、さらに京中の諸人が味方して計略しているからである。なかでも木工の頭範季朝臣が同意の事、憤りを感じます。
「範季・仁和寺宮らの義経庇護露見す」
 さらにてまた仁和寺宮(守覚法親王)も味方であると聞いています。詳細は何様の事やと。これ大夫の尉友實は豫州(義経)の使いとして、京都を出て摂津の国に行き向かいました。而るに彼の友實の居た屋敷を、北條時政殿が点検捜索されました。これ御室(守覚法親王)の御近所である。則ち詳細を問い合わせた処、反逆者の家ではないと、一旦弁明されたにもかかわらず、この屋敷は御室より友實に借し与えた事が発覚したため、頗る御同心の疑い無きに非ず。仍ってこの儀に及ぶようだ。
「義行を廃し義経に復す」
 また大夫屬入道(三善康信)が申しました。義行(義経)はその訓読みは能く行くである。能く隠れるの意味である。故に今にこれを捕獲出来ないか。此のような事はもっとも字訓を考慮して、同じ音をさけるべきです。この意見に依って元の義経にしてほしいと、摂政家(藤原兼実)に申請したという。

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2008年8月 7日 (木)

10月28日「頼朝の許より藤原範季義経に同意の由を示さる」

[玉葉]10月28日 辛丑 晴 
「頼朝の許より藤原範季義経に同意の由を示さる」
 前源中納言(雅頼)が来た。午後6時頃、法皇御所へ参ろうとした時、先ず左少弁定長が御使として来た。木工の頭範季朝臣の罪科についての事である。頼朝卿の許より、件の朝臣は義行(義経)に味方したの聞こえ有り。奇怪の由、吉田経房卿の許に文書を送った。殊に法皇に申し上げの趣に非ずと雖も、事態は黙止し難い。仍って呼び出し質問する処、義行(義経)に味方するの件については無実である。堀の彌太郎景光には、一・二度会見したことがある。實はその罪科は無し。景光に会見しながら逮捕し進上せざるの條、すでに過怠である。仍っていささかその罪を行わるべきか。将に又関東の申状を待ち、暫くその指図しないか如何。(略)いささかその罪科を行われ、関東に申し付け送る事が尤も宜しいと言いました。

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2008年8月 6日 (水)

10月17日「義経縁者聖弘得業の処置」

[玉葉]10月17日 庚寅 天晴 
「義経縁者聖弘得業の処置」
 蔵人頭左中弁藤原光長朝臣の許より申して云く、山階寺(興福寺)の別当僧正(信円)が先日呼び出しされる所の聖弘得業(義行(義経)の縁者)を呼び出し進上された。而るに僧兵は武士の家に派遣されるべきではない由を申した。これをして如何と。私は即ち使者を以て、先ず聖弘が参上の由を能保朝臣に知らせた。明朝派遣すべきの由、同じくこれを命令した。事すでに重大事である。輙く氏院に於いて決断するに能わず。仍ってとやかくいうまでも無く能保朝臣の許に遣わすべきである。
(略)その後能保朝臣の返事を聞いた。尤も感悦の由である。

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2008年8月 5日 (火)

10月16日「範季の義経同意追求を時定に令す」

「吾妻鏡」10月16日 己丑
「範季の義経同意追求を時定に令す」
 午前2時頃、雑務職の鶴次郎が御使として上京した。これは木工の頭範季朝臣が伊豫の守義行(義経)に味方している事、強く訴え申すべきの旨、北條兵衛の尉時定に命じるためである。三日で京都に到着するよう定められた。

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2008年8月 4日 (月)

10月10日「朝宗南都に義経を捜して得ず」

「吾妻鏡」10月10日 癸未
「朝宗南都に義経を捜して得ず」
 去る月、比企の籐内朝宗等が南都奈良(興福寺)に打ち入り、聖弘得業の周辺を捜索探求しましたが、義行(本名義経、去る比改名)を逮捕出来ないまま、空しく帰京した。これに依って南都奈良(興福寺)は頗る物騒である。僧兵が蜂起を起し、強訴を企て維摩大会を停止すべきの由風聞するようだ。
注:
 維摩会(ゆいまえ):興福寺で10月10日から7日間、 維摩経を講ずる法会。

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2008年8月 3日 (日)

9月29日「糟屋有季、景光を捕へ、忠信を誅する旨鎌倉に注進す」

「吾妻鏡」9月29日 壬申
「糟屋有季、景光を捕へ、忠信を誅する旨鎌倉に注進す」
 北條兵衛の尉時定の飛脚が参着した。申して云く、去る二十二日、糟屋の籐太有季が堀の彌太郎景光を生け捕り、佐藤兵衛の尉忠信を誅したという。景光の白状に云く、豫州(義経)はこの間南都奈良興福寺の聖弘得業の周辺にいた。また景光は豫州(義経)の使者として、度々木工の頭藤原範季の許に向かい、相談した事が有ったという。仍って南都の事、左典厩(馬の役所の長官)一条能保に委託して法皇に申し上げた。五百余騎を比企の籐内朝宗に副え、義経を捜索するため南都奈良興福寺に派遣したという。

[玉葉] [玉葉]9月29日 壬申
 午後2時頃、一条能保朝臣が来た。簾(すだれ)前に呼び義行(義経)の間の事を質問した。申状はふだんの如し。木工の頭範季・前の刑部卿籐頼経等の朝臣、頗る案内を知るの聞こえ有りと。尤も不便々々。

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2008年8月 2日 (土)

9月22日 「比企朝宗義経を求めて興福寺に武士を入る」

[玉葉]9月22日 乙丑
「比企朝宗義経を求めて興福寺に武士を入る」
 光綱(九条家の事務職員)が申して云く、昨日の午前6時頃、武士が二・三百騎、観修房得業の聖弘房(放光房と称す)を取り囲んだ。忽ち以て家宅捜索した。寺家は何事かを知らず。仍って僧正は使者を遣わしこれを尋ねられた。申して云く、九郎判官義行(義経)がこの家に居る。仍って逮捕する為であるようだ。その上は是非に能わず。然る間散々に家宅捜索した。聖弘は行方をくらまし逃げた。武士は成る事無く即ち帰京した。
「南都狼藉の子細を能保に尋ぬ」
(略)一条能保は人を遣わし伝えて云く、義行(義経)の家来の堀の彌太郎景光は比企の籐内朝宗により逮捕された。即ち詰問するの処、白状の次第は明白なので追捕する所である。而るに房主並びに義行(義経)は行方をくらまし逃げた。その間に下僧一人を捕取しこれに問うた。申して云く、義行(義経)が隠れて居た事は実説である。只今京都からの知らせに依り先だって逃げ去りました。
「能保兼実に陳謝す」
 一条能保はおどろいて陳謝して言うには、全く秘蔵の儀を知らず。朝宗は前もって寺中を追捕すべき由を申さず、ただ南京(奈良)に下向する由を申した。
(略)夜に入り午後10時頃に、左少弁定長が文書を送りて云く、義行(義経)は南都(奈良興福寺)に隠れ籠もるの由、一条能保申す所である。逮捕し進上されるべきの由、長官の僧正に命令すべしと言いました。即ち文書を相副え、頭左中弁光長朝臣の許に派遣しました。

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2008年8月 1日 (金)

9月22日「堀景光捕はれ、佐藤忠信自殺す」

「吾妻鏡」9月22日 乙丑
「堀景光捕はれ、佐藤忠信自殺す」
 糟屋の籐太有季は、京都に於いて豫州(義経)の家人である堀の彌太郎景光(これまで京都に隠れ住んでいた)を生け捕った。また中御門東洞院に於いて、同家人の佐藤忠信を誅殺したという。有季が競い到るの処、忠信は本より精兵なので戦いになり、たやすくは討ち取られなかった。しかし多勢を以て襲い攻めたので、忠信と郎従二人は自害した。忠信は日頃豫州(義経)に従っていたが、少し前に宇治の辺で義経と別れて洛中に帰り、かって密通していた女を尋ね、一通の書状を遣わした。彼の女は件の書状を現在の夫に見せた。その夫が有季に語ったので、忠信のところに行き向かいこれを獲たという。忠信は鎮守府将軍の藤原秀衡の近親の者である。豫州(義経)が去る治承四年関東に参向される時にあたり、勇敢な武士を撰んで佐藤継信(忠信の兄)等を派遣したという。

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