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2008年7月

2008年7月31日 (木)

9月20日「比企朝宗義経の郎従堀景光・佐藤忠信を搦め取る。忠信自害す」

[玉葉]9月20日 癸亥
「比企朝宗義経の郎従堀景光・佐藤忠信を搦め取る。忠信自害す」
 伝聞、九郎義行(義経)の家来が二人(堀の彌太郎景光・四郎兵衛の尉忠信)逮捕された。忠信は自殺した。景光は逮捕されたようだ。比企の籐内朝宗がこれを逮捕したようだ。

[玉葉]9月21日 甲子 晴 
 伝聞、昨日比企の籐内朝宗(頼朝卿郎従)が九郎義行(義経)の家来等(堀の彌太郎・佐藤兵衛の尉)を逮捕した。

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2008年7月30日 (水)

9月16日「静母子帰洛す」

「吾妻鏡」9月16日 己未
「静母子帰洛す」
 靜御前とその母が京都に帰るので、政子と姫君(数え年9歳)は憐れみ慈しんで沢山のお土産を贈りました。彼女は、義経の在り処を調べるため、鎌倉に連れてこられました。しかし、吉野で別れてからのことは知らないとの事なので、帰してやることにしましたが、産前産後のため逗留していた処です。

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2008年7月29日 (火)

9月15日「梶原朝景帰参、洛中状況を報ず」

「吾妻鏡」9月15日 戊午
「梶原朝景帰参、洛中状況を報ず」
 梶原刑部の丞朝景が、去る夜京都より帰参した。これは去年勇士を選んで二十六箇国に派遣された時、朝景は土佐の国に向かい、件の国を厳命の如くこれを指図し鎮めて参上した。今日御前に召し、京都市中の事等を尋ねられた。先ず義経が行方をくらまし逃げた後、処置の次第並びに同意の者たちの事を詳しく言上した。
「群盗の張本平庄司脱獄す」
 また申して云く、去る三月のころ、集団強盗の首謀者で平庄司(丹波の国の住人)を捕らえ牢獄に拘禁した。仲間が競い来たりて、彼の獄舎を切り破り、庄司以下の犯人ことごとく脱走しました。仍って検非違使庁の長官の家通は検非違使尉等に命じて、諸方を捜し尋ねると雖も見つかりません。而るに八月十一日、朝景が平庄司を逮捕しました。同二十一日将に検非違使庁の長官(藤原家通)以下に参り、検非違使尉に請け取らせました。

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2008年7月28日 (月)

8月3日「義経に同心の叡山僧らを捕ふ」

「吾妻鏡」8月3日 丁丑
「義経に同心の叡山僧らを捕ふ」
 先月の二十日ごろに義経に味方した僧兵の仲教と承意の母を捕まえたと比叡山が朝廷に云ってきたと左典厩一条能保様に伝えてきました。そのことについて頼朝様は、なお義経の居所を捜し出すようにと言い送られました。

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2008年7月27日 (日)

閏7月29日「静男子を生む」

「吾妻鏡」閏7月29日 甲戌
「静男子を生む」
 静御前が男子を産みました。この子は義経の子供です。頼朝様はこの出産を持っておられたので、今まで京都へ帰るのを止めておられたのです。その父の義経は関東に背いて、反逆をたくらんだのです。その子がもしも女の子だったら、母の静御前に与えるように、男の子だったら、今は産着の中に居る赤ん坊だけれども、将来を考えると親の敵と狙われそうなので、心配をせざるを得ない。未だ小さなうちに殺してしまうのが、良いと決められました。
「生児を奪い由比の浦に棄てしむ」
 そこで今日、預かっていた安達新三郎清経に命じて、由比ガ浜に捨てさせました。そのために新三郎は、その赤ん坊を受け取ろうとしましたが、静御前はこれを差し出さずに、自分の着ている物の中に抱きしめ伏せて、泣き続けること数時間にもなるので、安達はさんざん責め続けました。静御前の母の磯禅尼はその権威に恐れて、静御前を諭しながら、赤ん坊を横取りして、使いの安達に渡しました。御台所政子様は哀れすぎると思われて、この赤ん坊を許してあげて欲しいと頼朝様にお願いしましたが、かないませんでした。

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2008年7月26日 (土)

閏7月28日 「駿河方上御厨を太神宮領に寄付す」

「吾妻鏡」閏7月28日 癸酉
「駿河方上御厨を太神宮領に寄付す」
 伊勢神宮の禰宜(神主の下役)の長重を呼び出されました。長重は、正装の衣冠を着けて御所へ参りました。駿河国の方上御厨(かたのかみのみくりや)を伊勢神宮の本宮に寄付すると、頼朝様が直々におっしゃられました。命令書は、先日の二十二日に作成してありました。ところが、長重が遅れていたので、今まで差し控えていましたが、今日その長重に与えられました。それは、義経が伊勢神宮へ参詣して祈願をしたと噂があったので、逆にその反逆の祈りに勝つために、このような仕儀となりました。

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2008年7月25日 (金)

閏7月26日「叡山に義経を捜索す」

「吾妻鏡」閏7月26日 辛未
「叡山に義経を捜索す」
 左典厩(馬の役所の長官)一条能保の手紙が届きました。義経の雑用係の小者の五郎丸の白状に基づき、義経に味方した比叡山の僧兵を差し出すように、比叡山座主の全玄大僧正に連絡したところ、その連中は既に逃げてしまったと報告しました。それでも、先日の十一日には、まだ延暦寺に居るらしいと噂があったので、すぐに詳しい事を後白河法皇に報告されました。それなので、先日の十六日に後白河法皇の御所で、公卿達の会議がありました。比叡山の大塔、西塔、横川の末寺や荘園の全てに通知して、日をおかずに探し出して、逮捕して差し出すようにと、座主と役付き僧侶に命じられました。そうしたら、あの逃げた僧兵の仲間だと言って、三人の僧兵を差し出してきたので、治安警備の役所「検非違使の庁」に身柄を渡しました。
「兵を叡山に入るるを停む」
 このことについて、今武士を比叡山に派遣するように申し出たのですが、安易に武士達を派遣すれば、延暦寺の仏教が滅びてしまうことになりかねない。だから、詳しい事を座主に命じるように、公卿達が一致して決めた内容を、詳しく書きました。その一条能保の手紙と一緒にその時の法皇の命令書の写しも到着しました。
「近江・北陸に義経逮捕の院宣を下す」
 義行(義経)が比叡山に逃げて隠れたが、見方をした僧兵が居ると義経の雑用係の小者が、云ったとの事です。そこで、比叡山に命令したところ、それらの名前の連中は逃げてしまったと報告がありました。安易に武士達を派遣し攻撃すれば、延暦寺の仏教が滅びてしまう。特に座主以下の僧侶や役付きの僧侶が密教の秘術を使い、お祈りをして自分達で見つけ出しますと申請してきました。その内容で公卿等に聞いたところ、それが最も良いことだと意見が一致しました。逃げた僧兵の仲間の二・三人を捕まえて差し出したので、身柄を検非違使の庁に預けました。その上、近江国や北陸道がかなり関係が有りそうだ。特に探索をして、その三人の僧兵を捕まえれば、褒美を取らすように、後白河法皇がおっしゃっておられます。義経一人の問題で、世間中が安心して暮らせないなんて、なんとも情けないことだと嘆いておられます。今回に始まったことではなく、探し出すように何度も申されております。この上どうすれば気が済むのか、頼朝に伺ってみなさいというのが、法皇の本音であります。云われて書いた事はこの通りです。閏七月十七日  左少弁定長
 申し上げます 師中納言吉田経房殿

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2008年7月24日 (木)

閏7月16日「院殿上において比叡山に隠れる義経の事につき議定」

[玉葉]閏7月16日 辛酉 晴 
「院殿上において比叡山に隠れる義経の事につき議定」
 この日、法皇御所の殿上に於いて、義行(義経)が比叡山延暦寺に逃げ隠れるの事を議定した。即ち左少弁定長を以て先ず座主以下に問う(その趣、義行(義経)が比叡山延暦寺に逃げ隠れるの由風聞した。これは僧兵が二・三人同意するの故と。仍って義行(義経)及び件の僧兵等、逮捕し進上すべきの由、法皇の命令が下されました。而るに彼の僧兵等、山上に現住の僧兵が同心し逃げ去らしめました。日頃、朝敵を隠し置き、露見の時、早く以て逃げ脱した。寺の役職者は怠慢の次第、怠慢とは何様の事や)。
 各々申して云く、この次第は遁れ申す所無し。凡そ僧兵の習い、天台座主や園城寺の首長の命令に従わず。但しこの條に於いては、僧兵と雖も、爭か朝家の大事を顧みざるや。逃亡の條、偏に寺の役職者等の不覚の致す所である。各々居留の罪人等を逮捕しようと欲するの間、味方が少々出で来て、打ち破り逃げました。凡そどうしようもない事だと。(略)左馬頭一条能保申して云く、比叡山延暦寺の僧兵は朝廷の法規を無視し容穏するの條、甚だ不当である。土肥の二郎實平の如きの武士等、偏に坂本を堅め山上を捜すべきの由、申せしむと雖も、様々の計略を廻らし制止を加える所である。座主以下を検非違使の廰に付け責められれば、なんぞ出で来せんやといいました。(略)
「義経に同意の悪僧召し進らすべき旨を座主に命ず」
 私兼実は座主以下に命令して云く、一山の大事これに過ぐべからず。武士等の不安とする所至極当然の理である。たしかに期日(二十ヶ日)を限り、彼の悪徒を捕らえ進上すべし。比叡山満山が同心すれば、何ぞその功を成すだろう。座主は早く門徒僧綱等を引率し、まもなくに登山を企て、詳細に僧兵に命令し、特にがんばるべし。もし怠慢を致さば、定めて後悔するだろう。

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2008年7月23日 (水)

閏7月10日 「義経叡山に隠る」

「吾妻鏡」閏7月10日 乙卯
「義経叡山に隠る」
 左馬頭一条能保の伝令が到着しました。手紙に書いてあることは、前伊予守義経の雑用係の小者の五郎丸を捕まえて、詳しいことを尋問した所、先の六月二十日まで、比叡山に隠れていたと云うことをご報告したところです。その白状した中には、比叡山の僧兵の俊章、承意、仲教等が、味方をしていると云うので、その事を天台座主と副長官の慈円に伝え、同様に後白河法皇にも申し上げました。
「義経を義行と改む」
又、義経は摂関の兼実様のお子の三位中将良経と同じ名なので、義行と改名されたようです。

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2008年7月22日 (火)

閏7月2日「義経比叡山の辺に在りという」

[玉葉]閏7月2日 丙午
「義経比叡山の辺に在りという」
 早朝、慈円法印が来た。義行(義経)が比叡山の辺に在るの由の事を語り示した。大略は一条能保が指図した。

[玉葉]閏7月9日 甲寅 風吹き天陰 
「義経についての報告」
 早朝、一条能保朝臣が使者を送り義行(義経)の間の事を申した。次第は無作法極まり無し。慈円法印を招き詳細を示した。また一条能保の許に示し遣わしました。

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2008年7月21日 (月)

甲斐源氏紀行

甲斐源氏紀行

Dsc00552西願寺
山梨県山梨市小原東390
この付近が安田義定の館跡らしい。


Dsc00579光明寺
山梨県韮崎市藤井町駒井654
木曽氏の墓
戦国時代、武田勝頼は木曽義昌の人質
の息子、娘、祖母を殺した。

Dsc00581木曽氏の墓
光明寺




Dsc00582木曽氏の墓
光明寺

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2008年7月20日 (日)

7月25日「義経郎従伊勢義盛梟首せらる」

[玉葉]7月25日 庚子
「義経郎従伊勢義盛梟首せらる」
 左馬頭一条能保が知らせを送りて云く、九郎義行(義経)の家来で伊勢の三郎丸をさらし首にしました。

[玉葉]7月30日 乙巳 晴 
「義経比叡山に在るの風聞」
 午後10時頃、慈円法印は慶俊律師を以て、使いとして知らせて云く、今朝、左馬頭一条能保朝臣が彼の法印の許に参り、義行(義経)が比叡山の僧兵の許に在るの由の風聞が有ります。その間の事能く指図を致さるべしと。
 大江廣元が昨日下向しました。法皇は数十枚の御書、遅れるの間怠慢したようだ。

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2008年7月19日 (土)

甲斐源氏紀行雲光寺

甲斐源氏紀行

Adsc00560雲光寺(参道入り口)
山梨県山梨市下井尻673
安田義定が開基





Bdsc00561雲光寺
山梨県山梨市下井尻673
安田義定が開基




Cdsc00333雲光寺
山梨県山梨市下井尻673
安田義定が開基





Ddsc00562安田義定一族の墓(雲光寺参道右)





Edsc00564安田義定一族の五輪塔(墓の後)

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2008年7月18日 (金)

6月22日「義経仁和寺・石倉・叡山に隠るとの風聞」

「吾妻鏡」6月22日 戊辰
「義経仁和寺・石倉・叡山に隠るとの風聞」
 左馬頭一条能保の飛脚が京都から到着しました。義経が仁和寺(京都右京区)や岩倉(京都左京区)のあたりに隠れているとの通報がたるので、刑部烝梶原朝景や兵衛尉後藤基淸を始めとした武士を派遣しましたが、その事実はありませんでした。現在では比叡山に居て、僧兵が匿って面倒を見ていると噂があります。

「吾妻鏡」6月28日 甲戌
「北条時定の追討を受け、源有綱自殺す」
 左馬頭一条能保の飛脚が到着しました。先の十六日に北条時定が奈良県宇多郡で伊豆右衛門尉源有綱〔義経の婿〕と戦いました。有綱は負けて深山に入り自殺しました。その部下は三人怪我をして死にました。残った五人を生け捕りにして、有綱の首を持って、二十日に京の役人に渡したそうです。この人は伊豆の守源仲綱の息子です。

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2008年7月17日 (木)

6月21日「近畿の守護・地頭を停め、諸国武士の濫妨を禁ず」

「吾妻鏡」6月21日 丁卯
「近畿の守護・地頭を停め、諸国武士の濫妨を禁ず」
 行家・義経の隠れている場所を探し出すために、京都の近国には、守護・地頭を置きましたが、その武士達は兵糧米を徴収すると理由をつけて、年貢の横取りをするので、人々はこれを苦しみ悲しみだと訴えが多くて、何処の国においてもおとろえ疲れているとの事です。仕方が無いので、義経の件がおさまるのを待つべきだろうが、人々が嘆いているので、諸国の守護の武士や地頭を停止する。但し、京都近国の平家から取上げた領地では、そうはいかないと、頼朝様は京都朝廷へお申し出になり、師中納言吉田経房を通じて、後白河法皇に手紙を差し上げるように、検非違使大江公朝が京都へ帰るついでに預けました。又、因幡前司大江広元を訪問の使節として京都へ行かせました。
「武士の濫妨を停むべき国々」
世間を鎮めるために後白河法皇が院宣を下して非道な事をしているのをよく調べて、武士の乱暴な横取りを止めさせるべき国々
  山城國(京都府)、大和〃(奈良県)、和泉〃(大阪府)、河内〃(大阪府)、攝津〃(大阪府)、伊賀〃(三重県)、
  伊勢〃(三重県)、尾張〃(愛知県)、近江〃(滋賀県)、美濃〃(岐阜県)、飛騨〃(岐阜県)、丹波〃(京都府)、
  丹後〃(京都府)、但馬〃(兵庫県)、因幡〃(鳥取県)、伯耆〃(鳥取県)、出雲〃(島根県)、石見〃(島根県)、
  播磨〃(兵庫県)、美作〃(岡山県)、備前〃(岡山県)、備後〃(広島県)、備中〃(岡山県)、安藝〃(広島県)、
  周防〃(山口県)、長門〃(山口県)、紀伊〃(和歌山県)、若狹〃(福井県)、越前〃(福井県)、加賀〃(石川県)、
  能登〃(石川県)、越中〃(富山県)、淡路〃(兵庫県)、伊豫〃(愛媛県)、讃岐〃(香川県)、阿波〃(徳島県)、
  土佐〃(高知県)
 右の三十七の国では、後白河法皇の命令書院宣を出されて、武士達の乱暴な横取りについて、あちこちの不正を調べて直させ、非道を正統な手続きに直すべきです。
「鎮西九国鎮定は経房の沙汰とす」
 但し、九州の九カ国については師中納言の指図に任せます。従って、その指図により乱暴な横取りを止めさせ、不正を直すべきです。
「伊勢の地頭を改補す」
 又、伊勢国では、伊勢平氏の残党が反対勢力として蜂起しており、それに味方する連中が未だに反逆を止めないので、その連中を抑えるために、地頭の平氏に替えて、鎌倉から地頭を任命しました。だいたい、各国に治安維持として配置された武士達が、神社やお寺や公卿達の領地で、頼朝の命令書も持たず、根拠もなしに我侭勝手に横取りをするとは、全くとんでもないことだと思っているところです。
 今は、後白河法皇の命令書をそれらの国へ出されて、武士達の横取りについて、あちこちの不正を止めさせて、天下を清く正しくしましょう。伊勢国ばかりでなく、反逆者達が隠れていた国や、反逆者のものだった所領に、地頭を任命しました。但し、荘園は本家や領家への労働奉仕を、国の領地は国務長官からの労働奉仕を昔からの例の通りに勤めるように命令を出しました。それぞれこの命令を守って、公への年貢をまずきちんと納め、その職の本来の役目を果たすことが、何よりも大事でしょう。もしその中に荘園領主を無視したり、国の領地への義務を果たさないような、不当な者達は命令書の通りに、その罰を与えます。特に武士ども中には、頼朝も知らない所を、人から寄付してもらったと云ったり、又は先祖代々の証拠が無いと云って横取りをした所が、沢山あると承知しました。そういうところにこそ院宣を下して、間違いを正させ、又、たとえ反逆者たちの領地だったので地頭を置いたとしても、後白河法皇が地頭を止めさせるように命じられたら、命に従い、地頭を止めさせます。どうして院宣に背くことが出来ましょうか。この内容でお伝えするように、師中納言吉田經房にお伝え下さい。

  文治二年六月二十一日                 (頼朝の)花押

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2008年7月16日 (水)

甲斐源氏紀行

Dsc00516義清神社
山梨県中巨摩郡昭和町西条4250
源義清館跡
源義清は甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の三男


Dsc00525福蔵院
甲州市塩山下小田原1005
安田義定館跡


Dsc00534放光寺
甲州市塩山藤木2438
安田義定が開基
安田義定の墓

Dsc00536放光寺
甲州市塩山藤木2438
安田義定が開基
安田義定の墓

Dsc00559安田義定の墓
放光寺
甲州市塩山藤木2438
安田義定が開基

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2008年7月15日 (火)

6月18日「義経を隠し置くにより多武峰龍蹄房を召し出す」

[玉葉]6月18日 甲子
「義経を隠し置くにより多武峰龍蹄房を召し出す」
 多武峯の僧兵の龍蹄房を呼び出すの間、一条能保の許に仰せ遣わす処、あれこれを申さないようだ。仍って相尋ねるべきの由命令しました。件の法師は義行(義経)を隠し置くの由を指摘し申す者がいます。仍って日来尋ねられるの処、この二・三日の間に呼び出した所である。

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2008年7月14日 (月)

6月13日 「義経の母・妹を捕ふ」

「吾妻鏡」6月13日 己未
「義経の母・妹を捕ふ」
 当番の事務方の宗廉が京都から到着しました。先日の六日に京都堀川一条の観音堂付近で、義經の母常磐御前と妹を見つけ出し捕えました。関東へ連行しましょうかと。

[玉葉]6月13日 己未
「義経大和宇田郡辺に在り」
 今日、北條時政の代官時貞丸が蔵人頭左中弁藤原光長の許に来た。義行(義経)の事重ねて申す事(在所は宇多郡と確定)有り。

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2008年7月13日 (日)

甲斐源氏紀行

Dsc00481奈胡十郎の墓
山梨県南アルプス市東南湖55
1203年頼朝に攻められ討ち死に。


Dsc00486奈胡十郎の墓




Dsc00488秋山熊野神社
山梨県南アルプス市秋山603
秋山光朝館跡
加賀美遠光の子
文治元年(1185年)鎌倉に攻められ自害した。

Dsc00491秋山光朝館跡






Dsc00508一条忠頼の墓
山梨県南巨摩郡増穂町舂米(つきよね)
武田太郎信義の子。
1184年頼朝に暗殺された。

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2008年7月12日 (土)

6月7日「義経伊勢、大和にありとの風説」

「吾妻鏡」6月7日 癸丑
「義経伊勢、大和にありとの風説」
 京都朝廷の神祇官の臨時副長官の源公宣が手紙を献上して言ってきました。源九郎義經が先日伊勢国へやってきて、伊勢神宮に参拝しました。今は奈良にいると噂が流れています。ところで伊勢神宮の筆頭神主の大中臣能隆は、内通して義經のために祈祷をしたようです。

[玉葉]6月12日 戊午 雨下る 
「義経大和宇田郡辺に在りという」
 光長朝臣が言いました。義行(義経)の在所を聞き得たの由、あちこちよりその報告が有りました。北條時政の代官時貞(平六兼仗と称すと)同じくこれを聞き、密かに逮捕するため派遣しようとしたようだ。大和の国宇多郡の辺に在るようだ。

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2008年7月11日 (金)

甲斐源氏紀行

甲斐源氏紀行

Dsc00460法善寺
山梨県南アルプス市加賀美3509

加賀美遠光館跡
信濃守に任ぜられた。

Dsc00467

法善寺
加賀美遠光館跡




Dsc00477藤田八幡
山梨県南アルプス市藤田
加賀美遠光館跡


Dsc00479

藤田八幡
加賀美遠光館跡




Dsc00499小笠原小学校
山梨県南アルプス市小笠原441
小笠原長清館跡
加賀美遠光の次男。弓馬術礼法小笠原流の祖。信濃守護家小笠原氏の祖。

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2008年7月10日 (木)

甲斐源氏紀行

甲斐源氏紀行

願成寺
韮崎市神山町鍋山
武田太郎信義の祈願寺、墓、五輪塔がある。
(息子の一条忠頼は1184年頼朝に暗殺された)
Dsc00412





武田太郎信義の墓(願成寺)
Dsc00422





武田太郎信義の五輪塔(願成寺)
Dsc00425





武田八幡神社
韮崎市神山町北宮地1185
Dsc00431





武田太郎信義館跡
韮崎市神山町武田539
Dsc00570

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2008年7月 9日 (水)

6月6日「義経捕縛宣旨」

[玉葉]6月6日 壬子 天晴 
「義経捕縛宣旨」
 午後2時頃、定経が来た。義行(義経)を討つべきの宣旨の事、法皇に申しあげの処、早く宣旨を下すべきの由仰せ有りと。その宣旨の状これを見せしめた。
    文治二年六月六日       宣旨
 謀反の首、前の備前の守源行家、前の伊豫の守同義行(義経)等、敗走の後、帰降の思いを成さず。殆ど?語の聞こえ有り。広く京都中央から地方に命令し尋ね捜すの間、行家すでに罪人として処罰された。義行(義経)は独り逃れ隠れている。殺穴を歓ぶと雖も、猶逮捕せんと欲す。重ねて京都近国から全国七道の国の国務長官等に命令する。確実に義行(義経)が身を逮捕し差し出す事。もし特殊な功績が有れば、報償は破格に以て対応する。
                    蔵人の頭左中弁藤原光長(奉る)
 人伝えて云く、義行(義経)を逮捕する為武士が東西に馳走するようだ。一条能保に尋ね遣わすの処、申して云く、大内惟能は在所を聞き得たの由申すと。然れども未だ実説を知らず。
「義経の母常磐を捕らえて所在を問い石蔵を捜索するも義経逐電す」 
 伝聞、先ず母並びに妹等を搦め取り、在所を問うの処、石蔵に在るの由を称す。武士を遣わすの処、義行(義経)は逃亡し行方をくらました。房主僧を逮捕した。その後の事未だ聞かない。入道関白申されて云く、昨日命令を受けた鞍馬寺の住僧の事すでに逮捕した。何処に連行すべきやと。一条能保の許に連行すべきの由を命令しました。

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2008年7月 8日 (火)

6月4日「義経捜索の間の事」

[玉葉]6月2日 戊申
 午後4時頃、蔵人弁親経が使いを以て伝え申して云く、九郎義行(義経)は鞍馬に在るの由、一条能保朝臣が申す所である。彼の山の寺僧圓豪、西塔院主法印實詮の許(一昨日の事と)に告げ送る。實詮は能保に告げた。能保は法皇に申しあげた。而るに左右無く武士を派遣すれば、一寺の摩滅となる。彼の寺の別当(入道関白の息子の禅師)に命令し逮捕し進上させるべきだろう。

[玉葉]6月4日 庚戌 雨下る 
「義経捜索の間の事」
 一条能保朝臣が申して云く、鞍馬寺の別当は告げに依って、官兵入るべきの由、本寺に於いて義行(義経)は跡を留むべからず。この上の事、今に於いては宣旨を諸国に下さるべし。兼ねてまた土左君と云う僧(彼の寺の住侶)は義行の知人である。本寺に付き彼の僧を捕らえ差し出すべしと。

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2008年7月 7日 (月)

5月27日「静、南御堂にて、大姫のため芸を施す」

「吾妻鏡」5月27日 甲辰
「静、南御堂にて、大姫のため芸を施す」
 夜になって、靜御前が大姫君(数え年9歳)の仰せによって南御堂に来て芸を披露し褒美をいただいた。これはちょうど姫がおこもりをしていて、明日で十四日の期間が満ちて、御所へ帰ることになるので、このようにしました。

[玉葉]6月1日 丁未
「義経は鞍馬山に在りとの聞こえあり」
 或る人が言いました。九郎義経は鞍馬山に在るようだ。先日関東に派遣した所の書状の返書が到来した。詳細は使者を以て追って申すべしと。去る月二十日の書状である。

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2008年7月 6日 (日)

5月14日 「静の宿に諸人酒宴、静梶原景茂の酔狂を咎む」

「吾妻鏡」5月14日 辛卯
「静の宿に諸人酒宴、静梶原景茂の酔狂を咎む」
 工藤左衛門尉祐經と梶原三郎景茂と千葉平次常秀と八田太郎朝重と大和判官代藤原邦道が連れ立って、それぞれ酒を片手に静御前の宿舎へ行って、酒を傾け宴会を催しました。流行り歌に酔いしれ、静御前の母の磯禅師も芸を見せてくれました。梶原景茂は呑みすぎ酔っ払って、静御前に言い寄ってきた。これに対し静御前は涙ながらに抗議しました。「源九郎義經様は、鎌倉殿頼朝様のご兄弟です。私はその妾妻です。頼朝様の家来である御家人の身分の者が、まるで普通の男女ように言い寄るとはなんですか。源九郎義經様が反逆者として浪人になっていなければ、貴方とこうして酒の席に同席することもありえないないでしょう」。
「大江公朝院宣を帯し鎌倉に来る」
検非違使の大江公朝が、京都から到着しました。後白河法皇の手紙の院宣を持ってきたのです。八田右衛門尉知家の屋敷を旅館としました。

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2008年7月 5日 (土)

5月13日「洛中群盗頻発の院宣到来す」

「吾妻鏡」5月13日 庚寅
「洛中群盗頻発の院宣到来す」
 紀伊刑部丞為頼が使いとして京都から到着しました。後白河法皇の手紙院宣を持ってきました。夜に日を継いで急いで行く様に、師中納言吉田経房様から云われたそうです。北條時政殿が関東へ帰ってからは、京都市内では、乱暴狼藉が数え切れないほども起きております。先月二十九日にも、上京下京あわせて七箇所で強盗事件がありました。
 世の中が物騒がしいことは、恐らく耳に入っていると思いますが、都の噂が信じられなくても、色々の人が色々な事を云っている事は、まるっ空言とも云えません。時政が京都に駐屯しているときは、法皇も安心しておられましたが、他の武士を変わりに帰還させても、時政が京都の治安維持を勤めるのが良いのだと、何度もお伝えもしたし、本人にも言い含めました。しかしそれでも関東へ下ってしまったので、このような事件が起こるのでしょう。義経と行家が京都市中にいるという噂もありました。もしそれが本当ならば、天罰覿面に捕まるだろうに、何で見つけられないのでしょう。一説には、比叡山の僧兵達の中に味方している者がいるとも云われている。そんなことが表ざたになり、もし本当の事ならば、朝廷にとって良い事になるでしょう。普段からあちこちに命じて探させていますが、比叡山は云うことを聞きません。この際だから、実力で探し出す方法もあるけれど、証拠も無いのに力ずくで乗り込んでいけば僧兵と衝突し、落ちぶれてきている天台宗の仏法を滅ぼしてしまうかもしれません。それもこれも法皇は困った事だと頭を悩ませております。もし、そのような事が起これば、法皇の為に、禍々しいとんでもないことなので、法皇も驚かれることでしょう。先月二十日の手紙〔使いは為頼〕を一昨日受け取りました。そのついでに、このことをお伝えいたしましたが、きちんと伝えたいし、又疑いを晴らすためにも、重ねてお伝えするのだとの後白河法皇のお言葉はこのとおりです。それでは、宜しくお伝え申し上げます。
   五月六日  (藤原)経房
 謹んで差し上げます  源の二位(頼朝)殿

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2008年7月 4日 (金)

4月25日「義経・行家の徒党京中に在りと風聞す」

[玉葉] 4月25日 壬申 天晴 
「義経・行家の徒党京中に在りと風聞す」
 今日、基親・親経等が来たりて條々の事を申した。義経・行家の徒党が京中に在るの由風聞有り。但し信用を為せざるものか。

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2008年7月 3日 (木)

4月21日「安田義定鎌倉に参上、鹿皮を献ず」

「吾妻鏡」4月21日 戊辰
「安田義定鎌倉に参上、鹿皮を献ず」
 遠江守安田三郎義定が、遠江の国から鎌倉へやってきて、普段、浜名湖周辺の岩室寺などの山寺で、源九郎義經を探させていますが、見つけることが出来ないと報告しました。直ぐに頼朝様は御前に呼んで、遠江守義定に饗応のお酒を用意しました。その宴の間、色々と雑談に花が咲きました。頼朝様が言われるには「遠江の国で、何か面白い出来事はありましたか。」遠江守義定は答えて「勝間田三郎成長が去る六日に玄番助(仏寺の役所の次官)に任じられたことが、一番のめでたい話です。次には、狩をしようと二俣山へ向かって行ったら、鹿が九頭も一列に並んで、私の左側を走っているんです。そこで、遠江守義定と倅の義資、淺羽三郎が馬を走らせ、ぜんぶ弓で射て仕留めたんです。今日、その鹿皮を持ってきています。」といったら、頼朝様は大喜びでした。鹿皮五枚を頼朝様に献上し、三枚を若君(頼家)に進め、一枚を小山七郎朝光の心づけにしました。目の前でお酌をしているからです。
「頼朝無許可の勝田任官の事を咎む」
 「勝間田成長の任官の話は、前もって何の話も無く、自分で勝手に推薦するとは、まことに怪しからぬ。早く、筋を通すようにやり直しなさい。」とおっしゃられました。遠江守義定は多少顔を赤らめて、良く考えずにしゃべって、失敗をしたと悔やんでおりました。

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2008年7月 2日 (水)

4月20日「叡山僧義経に同意すとの風聞」

「吾妻鏡」4月20日 丁卯
「摂政家領の配分につき京都に申さしむ」
 摂政九条兼実の領地について、頼朝様は京都の後白河法皇に申し入れました。その内容は、前摂政の近衛基通殿は、父基実の妻白河院盛子の領地だといって、氏寺の興福寺領と春日大社の領地以外を全部独り占めしてしまったそうだが、これはとても都合の悪いことであります。現在政治を司る摂政が領地が無いのです。平家が盛んな時に、中摂政長男の基実殿の後家だからと白河殿盛子がすっかり手に入れてしまった所なのです。二男の松殿基房はわずかに興福寺領を納めています。その時の分配の判断がとんでもないでたらめな政治であります。藤原氏代々の領地は、新摂政(兼実)が預かるべきでしょう。だから摂政を退いた基通殿は、祖父の忠実が娘で鳥羽天皇の皇后だった高陽院(かやいん)に与えた荘園五十余箇所あるので、それを基通が知行すればいいでしょう。そう云う一番道理にかなう命令を出されるべきでしょう。と云っております。
「叡山僧義経に同意すとの風聞」
 又今日、行家と義經が京都の中に居て、比叡山の僧兵達が味方をしていると、話が聞こえているので、特に命令を出してください。そうでなければ、強い武士達を比叡山に登らせて、その僧兵達を探して捕まえるように、朝廷の窓口関東申次ぎの師中納言吉田經房の所へ伝えさせました。この内容を源刑部丞為頼〔元は新中納言平知盛の家来で故片桐為長の親類〕が使いとして京都へ旅立ちました。

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2008年7月 1日 (火)

4月8日「頼朝・政子、静の舞を見物す」

「吾妻鏡」4月8日 乙卯
「頼朝・政子、静の舞を見物す」
 頼朝様と奥方様は、鶴岡八幡宮にお参りをなされました。その機会を利用して、静御前を回廊にお呼び出しになられました。これは、舞曲を演じさせるためである。この事は、前に命じましたが、病気だと云って参上しなかった。我が身のいたらなさはしかたが無いが、源九郎義經の妾とあきらかに分かるように皆の前に出るのは、とても恥ずかしい事なので、普段からぐずぐずとごまかしてきたけれども、彼女は、天下の名人なのです。それが偶然に関東へ来て、近いうちに京都へ帰るというので、その芸を見ないのは無念ですと、奥方様が盛んに進めるので、仕方無しに呼び出すことになりました。絶対に八幡大菩薩もお気に召すようにせよと命じました。
 最近は、とても悲しいことがありましたので、とても踊りなんて上手に踊る気力もありませんと、回廊に座ってからも未だぐずって辞退していました。しかし、何度も命令されたので、嫌々ながらも、白雪のような真っ白な袖をひるがえして、黄竹の歌を歌いました。工藤左衛門尉祐經が鼓を打ちました。彼は、何代か前からの武勇の優れた家に生まれて、戦闘の技を継いでいるだけでなく、武者所の筆頭として京都へ勤務した時に自分から歌舞音曲の心得があるのでこの役を与えられたのです。畠山次郎重忠は銅の拍子木を打つ役です。
 静御前はまず、歌を歌って述べました。
吉野山 峯ノ白雪 フミ分テ 入ニシ人ノ 跡ゾコヒシキ
 次に別な今様などを歌った後で、和歌を吟じました。
 シヅヤシヅ しずノヲダマキ クリカヘシ 昔ヲ今ニ ナスヨシモガナ
 まことにこれは八幡宮一帯が壮観なものとなり、神殿の梁に積もった塵さえも神様が喜んで震え動いているように思われ、見ている人は上下の別無く感動をしました。
 それなのに頼朝様が、おっしゃるには、八幡宮の前で、芸能を奉納する時に、関東の安泰を祝うところだろうのに、神も私も聞いていることを知りながら、鎌倉に反逆した源九郎義經を恋しくて別れの時の事を歌うとはけしからんと。そしたら奥方様がたしなめられて云いました。
 あなたが、流人として伊豆に蟄居していたときに、私はあなたと結ばれてしまいましたが、父の北條四郎時政様は、平家全盛の時に源氏のせがれとの事を平家への聞こえを心配して、私を合わせないように閉じ込めてしまいました。しかし私はそれでもあなたが恋しくて、真っ暗夜の闇の中を、激しい雨に打たれながらも、あなたの所へ逃げていったものです。それに、石橋山の合戦に出陣している時は、一人で走湯神社に逃げ込んで残り、あなたの生死を知ることも出来ず、ただ毎日生きた心地もしなかったものでした。その時の悲しみを思い出せば、今の静御前の心は、源九郎義經が可愛がってくれたことを忘れずに恋しがっているので、他の男には目もくれない貞操堅固な女の姿だと云えるんじゃない。踊った外見の素晴らしさもさることながら、内に秘めた感情にも感謝したい。本当に魅惑的に感動させられたのだから、そこらへんは我慢をして、褒めてあげてくださいと。
 それで、頼朝様も御憤りも止んだようです。しばらくして着ている着物「卯の花重ね」を御簾の外に押し出し、これをご褒美にしました。

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