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2008年6月

2008年6月30日 (月)

義仲紀行(千葉県旭市)

義仲紀行(千葉県旭市)

木曽義昌公園(千葉県旭市)
戦国時代、義仲の子孫木曽義昌は秀吉により、この地に移動。
善政のようだ。
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木曽義昌像(千葉県旭市義昌公園)

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木曽義昌の墓(千葉県旭市義昌公園)
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東漸寺(千葉県旭市)
木曽義昌が開基のようだ。
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木曽義昌の墓(千葉県旭市東漸寺)
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2008年6月29日 (日)

3月22日「静、義経の子を懐妊す」

「吾妻鏡」3月22日 庚子
「静、義経の子を懐妊す」
 静御前の扱いですが、詳しく尋問してみても、源九郎義經の居場所は分からないと言い張っていました。今現在、義經の子供を妊娠しているので、産後に京都へ返すように、命じられました。

「吾妻鏡」3月26日 甲辰
「丹波篠村庄を延朗上人に与ふ」
 紀伊權守豊島有經を使いとして、丹波国篠村庄を松尾延朗上人に領地として宛がいました。元ここは、三位中将平重衡卿の領地でした。その後、源九郎義經が源平合戦の手柄の恩賞として貰った土地でした。それを源九郎義經は上人に寄付したのでした。上人は遠慮したのですが、放っても置けないので、領収した後で農民を楽させてやるために、年貢を止めて、百姓に阿弥陀如来の名号を唱えて祈る事を進めました。その祈り唱えた数によって受け取りを出して、年貢の免除の量を決めたようです。源九郎義經が犯罪人となって追われ、行方知れずになってからは、お返ししたいと言って来られましたが、元々源九郎義經が受け取った本人なので、領主として仏様に寄付して使って欲しいと心に誓った所なのだから、そのままお使いくださいと、言い伝えさせました。この上人は、頼朝様たち清和源氏の祖、多田新発満仲から八代目の子孫で、対馬太郎義信〔対馬守義親の息子〕の息子です。弓馬の芸を扱う武士の家から出て仏門に入り、顕教(密教以外)と密教をも勉強して理解して兼ね備え、仏教の書物やそれ以外も詳しく知っている素晴らしく人望の厚いお坊さんのようです。

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2008年6月28日 (土)

義仲紀行(埼玉県)

義仲紀行(埼玉県)

清水八幡(埼玉県狭山市)
Adsc00131義仲の息子の義高がこの辺りで討たれた。





清水八幡(埼玉県狭山市)
Bdsc00135義仲の息子の義高がこの辺りで討たれた。





影隠地蔵(埼玉県狭山市奥州道)
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義仲の息子の義高がこの辺りで討たれた。




影隠地蔵(埼玉県狭山市奥州道)
Ddsc00152義仲の息子の義高がこの辺りで討たれた。




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2008年6月27日 (金)

3月15日「義経太神宮に詣で金作の劔を奉納す」

「吾妻鏡」3月15日 癸巳
「義経太神宮に詣で金作の劔を奉納す」
 元伊予守の義經が、あっちこっちをうろついている。今日伊勢神宮へ参り願いが叶うようにと、金細工の刀を奉納した。この太刀は何度もの戦いに何時もつけていた物だそうです。

「吾妻鏡」3月18日 丙申
「原俊隆、尾張中島郡所領安堵せらる」
 加賀守俊隆と言う村上源氏の人がおります。頼朝様の儀式の時、行列の露払いをするそれなりの知識と身分を持っているものが少ないので、去年の秋から鎌倉へ来て勤めております。それなのに、源九郎義經の反逆事件の後に、征伐のために御家人を派遣したところ、俊隆の領地の一つで尾張の国中島郡で、思わぬ横取りがあったようです。俊隆が嘆いて訴えたので、在国の武士と同じ扱いをしてはならないと指示があり、俊隆が安心するように、地元の御家人へ厳しく命令をおだしになられました。

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2008年6月26日 (木)

3月14日「行家・義経捜索の宣旨関東に到来す」

「吾妻鏡」3月14日 壬辰
「行家・義経捜索の宣旨関東に到来す」
 行家と義經を探し見つけるように京都朝廷からの宣旨が、関東へ届きました。その言ってる内容は、

 文治二年二月三十日   命令する

 前備前守源行家、前伊予守源義經達は、悪い心を積み重ねて、謀反が発覚し、京の都の外へ追われ山中に逃げました。隠れ住んでいるおおよその場所は聞こえ手きた。場所は、熊野権現か金峰山(吉野山)それと大和(奈良)、河内(大阪)、伊賀(三重西部)、伊勢(三重)、紀伊(和歌山)、阿波(徳島)などの国務長官は、きちんと在処を探して、その身柄を逮捕し差し出すように。
                   蔵人頭左中弁藤原光長が命令に従って書きました。

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2008年6月25日 (水)

3月7日「時政具申の條々奏聞終る」

「吾妻鏡」3月7日 乙酉
「時政具申の條々奏聞終る」
 北條時政殿が申し出た、七カ国の地頭を辞退すること、兵糧米のこと、平家没官領のあちこちの事は、もう後白河法皇に申し上げたと、左少弁定長が承って書いた文書を師中納言經房に送りました。經房様は同様に、その文書を北條時政殿に送られました。
 北條時政が申し出た事を後白河法皇に申し上げました。
 一、 地頭の辞退について。年貢を取られる人たちのために、止めることはとても穏便な態度である。
 一、 総追補使について。それは名前を変えても、地頭と同じではないのか。ただし、源九郎義經や行家を逮捕するまで、頼朝様から特に申請がないのに、全て停止との命令は下し難い。世間が落ち着かない間は、国ごとに総追補使を置いたり、広い荘園だけに決めて任命するのが良いのではないか。狭いところに皆任命して置いたら、縄張り争いで喧嘩が絶えないので、揉め事が尽きないではないか。そうすれば、庶民達の嘆きも少なく出来るし、義經や行家を見つけ出す方法にもなるのではないのか。
 一、 兵糧米の未納について。人の道のことわりに従って、処理をしてほしい。
 一、 平家領の没収地について。二位卿頼朝が特に申請が無い。どうこう云うつもりは無い。
 以上のこと、この内容で検討をして欲しい。このような細かいことはいちいち取り立てて述べるつもりはないので、良く心情を汲み取ってください。今年の春に兵糧米を取り立てて種籾が足りなくなれば、農業を進める事が出来なくなるので、一事が万事有名無実となってしまうから、労わりの心をもって処理をすれば、さぞかし天やお上の意思に叶うことになる。それが本当の院のお心であることは、このとおりです。

  三月七日  左少弁定長
     差し上げます 師中納言經房殿

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2008年6月24日 (火)

義仲紀行(埼玉県)

義仲紀行(埼玉県)

Img_2276妻沼(めぬま)聖天宮

埼玉県熊谷市妻沼町
斉藤実盛が建立したらしい。


Img_2277斉藤実盛

妻沼(めぬま)聖天宮



Img_2288斉藤実盛

妻沼(めぬま)聖天宮

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2008年6月23日 (月)

3月1日 「義経・行家追討宣旨の事」

[玉葉]3月1日 
「義経・行家追討宣旨の事」
 蔵人頭左中弁藤原光長が来た。云く、今日、九郎・行家追討の宣旨を内大臣の徳大寺實定亭に持ち向かい、これを命令したようです。

「吾妻鏡」3月6日 甲申
「静を尋問す。陳述前と異なる」
 静御前を呼び出して、筑後權守俊兼、平民部烝盛時らに命じて、源九郎義經の事を質問しました。先日、吉野山に泊まっていたといいました。「山の中だなんてとても信じられない。」と言うと、静御前が言うのには「山の中とは云ってません。吉野山の僧侶の居所です。しかし、僧兵達が源九郎義經を狙って攻撃してきそうなので、そこから山伏の格好に化けて、大峯へ入るといって山の中へ入っていきました。そこの坊主の僧兵が送っていきました。私も同様に付いて行こうとしたのに、女人禁制だから女は入るなとその坊主にしかられました。仕方ないので京都へ向かいかけたら、お供の雑用供が裏切って金品を盗って逃げ隠れてしまったので、迷いながら蔵王堂に着きました。」だと。続いて僧侶の主の名前を尋ねたら「忘れてしまった。」と云いました。「どうも、京都で言ったことと、今の話が大分違うようなので、良く調べて聞き出すように。」と、仰せになられました。その他に大峯へ入ったとか、多武峰についた後で逃げ隠れたとか噂があるので、どれかこれか嘘かもしれないようです。

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2008年6月22日 (日)

3月1日「諸国に惣追捕使・地頭職を補す」

「吾妻鏡」3月1日 己卯
「諸国に惣追捕使・地頭職を補す」
 全国の国や荘園に軍司警察権のある追補使と反別五升の兵糧米を取れる地頭職を頼朝様が任命されましたが、
「時政、七カ国の地頭職を拝領後上表す」
 その内の七カ国の国地頭追補使を北條時政殿が朝廷から与えられました。しかしながら、御家人達との比較を考えて、地頭職を辞退しました。それだけでなく、なおその旨を手紙に書いて師中納言吉田經房様に頼みました。經房は、それを定長に頼んで後白河法皇に報告をしてもらいました。
 後白河院へ進呈する品物を届ける役の者が、下がってきて伝えるには、「先月の二十八日に、三度も地頭返上を申し上げたのに、たった一通のみを見てくれたとお手紙を貰いました。」と云う事でした。それなのに、その届け役の者が返上の話を受け取らずに帰ってきてしまったので、大変恐縮しております。ようやく、ある日参拝出来た時に、申し上げましたが、未だにはっきりとしたご返事を戴いておりません。仕方が無いので、時政が任命された七カ国の地頭職は、農民の農業を進めるために兵糧米を取る地頭の職は、辞退した方が良いと考えているところであります。
 総追補使の役は、行家や義經等の反乱者が現れたときの事を考えて、退治しなくてはならないので、役職についていようと考えました。思うにあちこちの百姓は、兵糧米取立人が、この機会にどうのこうのと理屈をつけて、所々の年貢等を横取りするとの訴えが絶えないことでしょう。もし、そのような時はいきさつをきちんと取り調べて、兵糧米を余分に取っていたら、直ぐに返すようにさせます。逆に百姓が未納していれば、田んぼの数を数えなおして、さっさと納品するように命じてください。ついでに平家から取上げた没官領のあちこちについては、院の命令書と二位家頼朝様の言いつけをいただき、現地調査をするべきだと考えております。以上の事を申し上げていただきますように。時政が謹んで申し上げます。
   三月一日 平時政〔申し上げたいこと〕

   進上 大夫属殿

「静母と共に鎌倉に着く」
 今日、源九郎義經の妾の静御前が、呼び出しにより京都から鎌倉へ到着しました。北條時政殿が送らしたものです。母の磯の禅師も一緒でした。直ぐに主計允藤原行政が担当して、安達新三郎(雑色の長)の家を宿舎と指定し、彼女等を入らせたようです。

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2008年6月21日 (土)

2月27日「頼朝、兼実を摂政に推す」

「吾妻鏡」2月27日 乙亥
「頼朝、兼実を摂政に推す」
 雑色(身分の低い雑用担当)の長の安達新三郎清経は、頼朝様の伝令として京都へ上りました。頼朝様が申請したのは、摂政への後白河法皇の命令を右大臣九条兼実に下してくれる事も、その言葉に入っているようです。この右大臣は、法性寺殿藤原忠通様の三男です。日本や中国の知識も才能もとても人々を越えたものを持っておられるようです。現在の摂政は、元々平家と親しい人なので、関東の頼朝様を良く思っていないので、去年源九郎義經が反抗心を起こした時に、頼朝様追討の宣旨を出させたのは、全て彼の発案によるものだと噂に聞いています。そこで、推挙を上申すると内々に右大臣に表現してみました。しかし、まだ時期が早いので旨くいかないだろうと遠慮をなされたけれども、あえてこれを申し上げるようです。
「頼朝、時政の帰参を命ず」
 又、北條時政殿は早く鎌倉へ戻るように伝えさせました。関東の運営について相談したいことが多々あるからです。京都の警備は、すでに左典厩(馬の役所の長官)一条能保に任せてあるからです。

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2008年6月20日 (金)

2月24日「行家義経尋ね捜すべし」

[玉葉]2月24日 壬申 晴 
「関東より奏請能保衛府督に任ぜらるべし」
 午後4時頃、頭の左中弁光長が来て色々の事を申した。その中で左馬の頭(馬の役所の長官)一条能保が皇宮警察の長官に任ぜらるべきの由、関東より師卿吉田経房に付き後白河法皇に申し上げた。而るに当時欠員は無し。何様に行わるべでしょうかの由法皇のご指示が有りました。
(略)ただ法皇の御定に有るべし。
「対馬守親光還任すべし」
 また対馬の守親光を復官すべきの由、同じく関東より申請したようだ。件の事は、治承三年私財の寄付に依って当国守に任じた。
「親光平家の乱を恐れ高麗国に渡る」
 即ち任命された国に赴任の間、平家の乱に逢う。仍って彼の平家の乱行を恐れ、高麗国に越え渡り、平氏滅亡の由を聞き、帰朝在国の間、史大夫清業が巡年に依って当国に任命されていた。而るに親光は関東に挙向しこの詳細を触れました。仍って頼朝卿は平氏に従わざるの意趣に感心し、この旨を申請したようだ。私は発言した、これまた法皇の決定に在るべし。
「行家義経尋ね捜すべし」
 およそ近日の事毎時発言する事は出来ない。また云く、行家・義経等猶尋ね捜すべきの由同じく申請した。仍って下知すべきの由の法皇の命令が有りました。天皇の命令書(宣旨)を授けるべきか。公家の命令書(御教書)を以て下知すべきかと。私は云く、大事である。天皇の命令書を授けるべきかと言いました。

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2008年6月19日 (木)

2月13日「時政より静の事、群盗処刑の事を報ず」

「吾妻鏡」2月13日 辛酉
「時政より静の事、群盗処刑の事を報ず」
 当番の下級役人が京都から到着して、北條時政殿の手紙を提出しました。静御前の準備を整えて護送します。又、正月二十三日と二十八日に京都の洛中で盗人の群れが現れたので、直ぐにこの者達を捕えて、先日に一日に十八人を首切りにしました。捕まえてから日を置けば、手ぬるい扱い(優しい態度)となるので、検非違使庁(警察兼裁判所)へ渡すことも無く、直ぐに処刑したようです。

「吾妻鏡」2月18日 丙寅
「義経多武峰に潜伏との風聞」
 源九郎義經が多武峰に隠れていると噂が入りました。そこで、彼の師匠である鞍馬の東光坊阿闍梨と奈良の周防得業は、協力している疑いがあるので、彼等を捕まえて鎌倉へ送るようにということです。

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2008年6月18日 (水)

2月7日「平時實改めて上総国に配流せらる」

「吾妻鏡」2月7日 乙卯
「平時實改めて上総国に配流せらる」
 北條時政殿の使いが関東へ到着しました。先月の二十三日付けで、前中将平時実の流罪の太政官布告を発しました。周防の國の予定を上総国へ流罪に変更したようです。

 源頼朝二位殿の書状をお換えしします。時実は上総国へ流罪としました。宜しくご承知ください。

     正月二十五日                    右中弁壬生兼忠

「廣元、肥後国山本庄を賜はる」
 今日、大江広元は肥後国山本庄を与えられました。それは、源九郎義經、源行家の反逆に際して、守護地頭の配置の進言など計り事の全てが適切で、特に感心され、まず第一に恩賞を与えられたようです。

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2008年6月17日 (火)

2月6日 「能保帰洛、神仏・禁裏・仙洞の事等議奏に申さしむ」

「吾妻鏡」2月6日 甲寅
「能保帰洛、神仏・禁裏・仙洞の事等議奏に申さしむ」
 左典厩(馬の役所の長官)一条能保様が京都へ帰りました。奥様と姫様二人達も一緒です。夕べ、頼朝様は馬十匹を餞別に送られました。御臺所政子様は絹布三百疋を奥様と娘様にお送りになられました。又、一条能保様の昇進の事と、奥様を後鳥羽天皇の乳母として任務することを、頼朝様が推薦しているところです。次に一条能保様の護衛に、今鎌倉へ来ている御家人や国許に居る御家人のなかから指名して命じられました。その人達は、岩原平三、中村次郎、比企藤次、土肥弥太郎、小楊土藤三、横地太郎、勝田三郎達です。その外に宿場から宿場ごとの護衛や人夫は、前もって決めて下されたようです。一条能保様が、鎌倉におられれば、色々と政治の相談も出来るので助かるのだが、現在京都では、大きな事から細かいことまで仲介する人がいないので、京都への帰還を急がせました。又、神仏を大事にすることや、天皇や上皇の事や、京都朝廷の季節の行事や官位の人事、義経の行方などを公卿たちに申し入れることなど、箇条書きに書いてきちんと申し付けられました。

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2008年6月16日 (月)

1月29日「頼朝、静を鎌倉に召す」

「吾妻鏡」1月29日 戊申
「頼朝、静を鎌倉に召す」
 義経の所在が未だにつかめません。そこで、聞きただしたいことがあるので、静御前を鎌倉へ送るように北條時政殿へ命令を出されました。
「義経探索促進を京に申し送る」
それと、この義経探索は一番しなければならないことだと、吉田經房卿を通して法皇に申しあげました。

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2008年6月14日 (土)

1月26日「摂録の宣下を京に督促す」

「吾妻鏡」1月26日 乙巳
「摂録の宣下を京に督促す」
 摂政(君主代行)の交替人事を早く宣言実行するように、頼朝様は京都へ申し送らせました。今の摂政の近衛基通は、義経の謀反(頼朝追討の院宣交付)に賛成したと云う罪があり、交代させるよう申し入れてあるのに、後白河法皇はそのまま続けさせておくのだと云う様な、変な噂があるからのようです。

[玉葉]1月28日 丁未
「鎌倉より飛脚到来す」
 今日、花山大納言兼雅が来た。伝聞、去る日に鎌倉より飛脚が到来した。今朝御返事を仰せ遣わさるようです。申せしむ事等、吉田経房は下向すべきではない(先日御使として向かうべきの由示し送ると。その返事か)。甘苔(あまのり、伊豆の特産品)を六百帖進上する所の事。去る冬申し上げた事柄(解官・任官)は、ただ頼朝の私案の趣を申し上げたもので、所詮は法皇の定めに在るべき事。義経謀反の間、追討の宣旨の事、法皇のお考えより起こらざるの由を聞き開く由の事。

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2008年6月13日 (金)

1月22日 「時実罪状の事」

[玉葉]1月22日 
「時実罪状の事」
 前中納言雅頼卿が書状を送って来た。流人時実の罪状の事、
(中略)私の意見を伺いたいとのことである。

 遠流(おんる、最も重い流罪)の国々(近代の例か。この外上総、下総等の先例あり)
    伊豆、安房(千葉南部)、常陸(茨城)(以上東国)
    越後、佐渡(以上北国)
    隠岐(以上山陰)
    周防(山口東部)、長門(山口西部)(以上山陽)
    土佐(高知)(南海)

 管国等
    日向(宮崎)、大隅(鹿児島東部)、薩摩(鹿児島西部)、壱岐、対馬

宣旨(天皇の命令文書)の仰せ詞
 文治2年正月22日 宣旨
  流人時実配所に赴かず。逆党義経行家等に随い、逃げ去る間、猶 網に懸かり、再び雍(よう)州(京都南部)に来る。憲章(重要なおきて)の指す所科条(おきて)一にあらず。宜しく明法博士(律令等の教官)等をして所当の罪名を勘へ(考え)申さしむべし。
        蔵人頭右中弁源兼忠

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2008年6月12日 (木)

1月17日 「頼朝配流の時実を召し進す」

[玉葉]1月17日 
「頼朝配流の時実を召し進す」
 今日12時頃、蔵人頭右中弁兼忠朝臣が法皇の御使として来た。仰せて云く、前の少将平時實は平家が滅亡した時、捕虜として入京した。病気に依って罪科を配流に処せられた。而るに配所に赴かなかった。賊徒(行家・義経)に伴い西海に行くの間、彼等は逆風の為退散した。時實また捕虜として不慮の外関東に下向した。而るに源頼朝は件の時實を捕らえ進上する所である。即ち彼の卿の書状は此の如し。(その状に云く、罪科を定められた。而るに配所に赴かず、坂東に下る。頼朝が私に処分を決め難い。決定は法皇の定めに在るべし。仍って捕らえ進上する所であると)

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2008年6月11日 (水)

1月17日「頼朝、經宗の釈明を認む」

「吾妻鏡」1月17日 丙申
「頼朝、經宗の釈明を認む」
 去年の暮れに、左大臣經宗様の使者が鎌倉へ来ていて、今日京都へ帰りました。頼朝様の返答が遅くなったからです。でも、来た甲斐が無いわけではないようです。これは頼朝様追討の太政官布告を義經たちに発行したのは、左大臣の提案によると噂を聞いていたので、とても怒っておられました。「しかし、宣下がなければ、行家と義經は京都で謀反の戦を始めたに違いない。太政官布告を受け取って九州へ行こうとしたから、法皇皇も公卿たちも安全だったのです。これがなんで不義だと扱われるのですか.」と云っていました。頼朝様は話を聞いて「仕方が無いと納得したので、承諾した。」とおっしゃられたようです。

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2008年6月10日 (火)

1月5日「平時実配所に赴かず」

「吾妻鏡」1月5日 甲申
「平時実配所に赴かず」
 前中将時実は、流罪に決されたのに、流罪先へ行っておりません。しかも義経と行動を供にしていたので、十分に犯罪者としての罪があります。それなので生け捕りにして、関東へ送られました。今は美濃藤次安平の西御門の家に預けられております。事情を質問されても、きちんとした弁解をしないのは、どうにも仕方が無いと納得して従うつもりなのでしょうか。しかし、公卿の罪を身分違いの関東の武士が勝手に決めるわけにも行かないので、今日京都へ送り返すようにお決めになられました。
「頼朝、院使下向を許す」
 又、師中納言吉田經房が後白河法皇の使いとして、関東へ来ると耳に入りましたが、特に込入った事が無ければ来るには及びません。後は、去年の冬に正式文書で申請した数々の内容を、後白河法皇に決断していただくだけですと、念を押す知らせを行かせました。

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2008年6月 9日 (月)

1186年 (文治2年)1月3日「頼朝直衣始の儀、鶴岡社に詣づ」

1186年 (文治2年 丙午)

「吾妻鏡」1月3日 壬午 夕べの雪が未だ溶け切らず地に残る。

「頼朝直衣始の儀、鶴岡社に詣づ」

 頼朝様は、去年従二位の官位をさずけられましたが、その後参内用の直衣(なほし、日常服兼礼服)を初めて着る儀式をしていません。源九郎義經の反逆により、未だ世間が静かに落ち着いていないけれども、天下は治まったのだと庶民が安心するように、今日その儀式を執り行いました。直ぐに鶴岡八幡宮へ参拝しました。左典厩(馬の役所の長官)一条能保や前の少将平時家様等も一緒に参りました。又、大内武藏守義信・宮内大輔源重頼・駿河守廣綱。散位(さんに、官位はあるが官職が無い)源頼兼・因幡守大江廣元・加賀守俊隆・筑後權守俊兼・安房判官代高重・藤判官代邦通・所雜色基繁・千葉介常胤・足立右馬允遠元・八田右衛門尉知家・散位東胤頼等がお供をしました。その一番後ろに武装した護衛兵が十人つきました。武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信、工藤庄司景光・岡部權守泰綱、澁谷庄司重國・江戸太郎重長、市河別當行房・小諸太郎光兼、下河邊庄司行平・小山五郎宗政です。
「東胤頼、父と対座す」
 お参りの式が終わって、御所へ帰った後、ご馳走の宴がありました。今日のお参りの儀式に、拝殿前の庭にお供の侍達が左右に分かれて並び座りました。そこで千葉六郎大夫胤頼は、父の千葉介常胤に相対して座りました〔少し父より下座に寄っていました〕。見ている人は、ちょっと感心しませんでしたが、これは頼朝様の命令に寄るそうです。千葉介常胤は父親だけれでも六位である。胤頼は子ではあるけれでも五位である。官位は天皇が授けるものなので、なんでこれを尊ばない訳にはいかないだろうとおっしゃられました。この胤頼は、平家全盛時代に京都へ大番役で行っていたけども、平家の権勢にすがらないで、遠藤左近将監持遠の推薦で、上西門院〔統子〕へ仕えたので、その官職として従五位下を与えられました。又持遠の縁を受けて、神護寺の文覚上人(元遠藤盛遠)の仏教の生徒になりました。文覚上人が伊豆へ流罪になっている時に意見を一緒にして、頼朝様を説得することがありました。とうとう頼朝様が挙兵したときには、父の千葉介常胤に進めて、いの一番に駆けつけました。兄弟六人のうちで、一番手柄を立てた人なのです。

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2008年6月 8日 (日)

義仲紀行(群馬)

義仲紀行(群馬)

今井四郎の墓
群馬県下仁田町下栗山
今井の残党の子孫か。
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今井四郎の墓
群馬県下仁田町下栗山

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多胡館跡
群馬県下吉井町
近くに義賢(義仲の父)の館が。
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多胡館跡
群馬県下吉井町
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薬師塚古墳
群馬県下吉井町(多胡館の近く)
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2008年6月 7日 (土)

義仲紀行(群馬)

義仲紀行(群馬)

木曽三社神社
群馬県渋川市北橘町下箱田
義仲の家来の子孫が建てたようだ。

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木曽三社神社
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木曽三社神社
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木曽三柱神社

群馬県渋川市北橘町箱田

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木曽三柱神社
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2008年6月 6日 (金)

12月27日「頼朝書状届く」

[玉葉]12月27日 
「頼朝書状届く」
 12時頃、右中弁光長朝臣が頼朝卿の書状等を持って来た。夢の如く幻の如し。珍事たるにより後日の鑑のためこれを続き加える。
(内容は「吾妻鏡」12月6日 と同文。)

[玉葉]12月30日 
「泰経等遠流に処すべし」
 今日、関東より飛脚が到来した。その書状に云く、大蔵卿高階泰経・刑部卿頼経等は行家・義経に同意した者である。早く遠流に処せらるべし。一人は伊豆、一人は安房のようだ。吉田経房に送付すべきの由、右中弁光長に申しつけました(件の書状は光長の許に送付した)。光長は書状を以て師卿吉田経房に送った。返札に云く、申請に任せ、早く指図処置有るべしとのようだ。件の書状を以て関東に申しつけ送るべきの由、光長に申しつけた。

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2008年6月 5日 (木)

12月23日「勅使として吉田經房が下向の風聞」

「吾妻鏡」12月23日 壬申
「勅使として吉田經房が下向の風聞」
 師中納言吉田經房が朝廷の使いとして、下ってくると、今日関東に噂が届きました。すでに後白河法皇も許可をしているらしい。それは行家と源九郎義經の事で、色々と箇条書きにして申し出た事への回答をするためだろうか。頼朝様は恐れ入り申し訳ないと思ひ、「申し上げることは使いの者と手紙を使って云っています。法王からは奉書をいただければ私のほうでも分かりますので、そんな偉い公卿程のお方が使いとして長旅をしてくるなんて、絶対遠慮しておきます。」との事です。
「前對馬守親光遷任を執進す」
 それと、前對馬守親光(頼朝の縁者)は、朝廷や武門のため尽くしております。それなのに意に反して国司の任務先を変えられました。元の立場に返り咲きたいと、盛んにこぼしているので、頼朝様はこの話を申し入れになられたようです。

「吾妻鏡」12月26日 乙亥
「平時實、義経一味として捕へらる」
 前中將平時實は、源義經に賛同して、九州へ行こうとしたのを、途中で捕虜にしました。今日、武者所牧三郎宗親が連行してきたところです。また左大臣經宗の手紙が到着しました。その内容は、故平重盛の末っ子の前土佐守宗實は、子供の頃からの養子なので、平家の一族は斬首にされると噂を聞いたので、なんとかそこをまげてでも、許して戴きたいと云って来ました。よく内容は分かったので承知したと、返事を出させたようです。

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2008年6月 4日 (水)

12月15日「時政静を尋問す」

「吾妻鏡」12月15日 甲子
「時政静を尋問す」
 北條時政殿の伝令が京都から到着しました。京都内の動向を文書に書いて報告してきました。謀反人たちの屋敷をまず差し押さえました。それは源九郎義經に協力した連中で、現在分かっている者達を逃がさないように策略を考え、そのことも師中納言吉田經房殿へも申し入れました。
 次に源義經の妾の静が来ました。詳しく訪ねたところ、「義經は都を出て九州へ行こうとした朝に、一緒に連れて大物浜へ行きました。しかし、船が難破して海を渡ることは出来なくて、家来達は皆ちりぢりになってしまいました。その夜は天王寺に泊まって、義經はそこから行方をくらましました。その時に約束をしたのが、もう二日ほどここで過ごして待っていてくれ、迎えの者をよこすからと云いました。しかしながら、約束の日時が過ぎたら、何処かへ行きなさいとの事でした。待っていましたら、馬が到着したのでそれに乗って、何処を通っているのかも知りませんでしたが、道中三日かかって吉野山に到着しました。その吉野山に五日間逗留した後、分かれました。その後の行方は分かりません。私は深山の雪をかき分け歩き、運良く蔵王堂へたどり着いたら、事務の方が私を捕えていました。」と云いました。云っていることはこのとおりですが、どのように計らいましょうかとのことです。
 一方鎌倉では、若君(頼家)の病気が治りました。

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2008年6月 3日 (火)

12月8日「吉野執行、静を北條亭に送る」

「吾妻鏡」12月8日 丁巳
「吉野執行、静を北條亭に送る」
 吉野山蔵王堂の事務長は、靜御前を京都の北條時政の駐屯している屋敷へ送りました。これを聞いて源九郎義經を探し出すために軍勢を吉野山へ出発させようとの事でした。

[玉葉]12月8日 
「泰経・親宗損亡決定」
 或る人云く、大蔵卿の高階泰経(たかしなやすつね)・参議の平親宗等の所領について、頼朝の許より記録し送るべきの由、北條時政の許に命令が下されたようだ。両人の損亡は決定かのようだ。
 諸国に割り当てる所の兵粮米などは、皆国有領内から募集するべきの由、命令されるの間、私有領や国有領の運上が通じません。人命は殆ど元正を待つべからずのようだ。

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2008年6月 2日 (月)

12月7日 「院奏折紙、兼実宛書状を帯し浜四郎上洛す」

「吾妻鏡」12月7日 丙辰
「院奏折紙、兼実宛書状を帯し浜四郎上洛す」
 下級役人の浜四郎は頼朝様の飛脚として、後白河法皇へ申し上げる正式文書と右大臣九条兼実に差し上げる手紙を持って京都へ出発しました。左典厩(馬の役所の長官)一条能保の家来の黒法師丸が、京都の案内として一緒に行かせました。源九郎義經の味方をした公卿について、詳しく書き連ねたうちで、民部卿(民政・財政担当の省の長官)成範様は、右大臣九条兼実の縁戚なので、文書から除いたようです。こういった京都の詳しいことは、一条能保や侍從藤原公佐などに相談の上で決められたようです。その藤原公佐様は、頼朝様の舅の北條時政殿の外孫〔娘の阿波局の亭主阿野全成との間に出来た娘の婿です〕に当たります。そう云う訳で、その縁者であるばかりか、性格がとても穏便で、頼朝様に忠実だから、今回右馬権頭(馬の役所の次官)に推薦なされたようです。

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2008年6月 1日 (日)

12月6日(続き) 「頼朝、兼実に書を送り意見を述ぶ」

「吾妻鏡」12月6日(続き) 乙卯
「頼朝、兼実に書を送り意見を述ぶ」
右大臣(兼実)に献上する文書に書いてあるのは、
「頼朝書状」
 事情を言上します。
 是までの次第を言上すると、細かな事を言うと長々となるでしょう。しかし、平家が法王に逆らって、何かと恨みをもって、(鳥羽殿に閉じ込めたり)乱暴をしたのは、世間に隠しようのない事実です。今更いうまでもありません。そして頼朝は伊豆に流罪となっていながら、特別な命令を戴いた訳でもないけれど、すぐに計略を練って、朝廷の敵を追討しようと企てました。法王も運が良かったので、私の勲功もあり、全てを打ち滅ぼし、敵に罰を与えて、法王に政務を返しました。かねてからの本意がかない、公私ともにお喜びです。
「近国11国の狼藉大略鎮む」
 そして、平家を追討の結果を待たずに、近国十一箇国での武士達の乱暴をさせないために私の名代を二人(典膳大夫久經と近藤七國平)を京都へ差し向けました。それだけでは頼朝の私的な命令になってはいけないので、一つ一つ法皇の命令を戴いて処理をするように良く言い聞かせて有ります。だから、その国の乱暴は殆ど命令して治めたうえで、後白河法皇の特別な命令を受けて、なお又その使者の男(典膳大夫久經と近藤七國平)を九州や四国へ下向させるように、既に法皇の命令を戴いて出発させました。
「隆直等義経等をたのみ非分の謀を巧む」
 そういう訳で、原田大夫種直、菊地九郎隆直、板井種遠、山鹿秀遠の領地は、平家没官領として没収される所なので、先例どおりに、現地管理者としての私の家来を置こうと思ったのだけれども、先にそうしようと云っておきながら、未だ実施していないのです。そう云う訳でここも言うに及ばずです。近畿地方の始末と同様に、法皇の命令のとおりに乱暴を治めるように、前もって思ってきていましたが、なんか怪しい訳の分からない事が起こりました。それは、義經を九州の総地頭に任命し、行家を四国の総地頭に任命したことです。本来は私が没収すべきです。平家没官領地は全て頼朝に与えると云いながら、行家や義經に与えるとは、云ってることとやっている事と違っています。
「義経行家跡をくらます」
 あの連中は、総地頭に任命されたのを頼みにして、分不相応な陰謀をたくらんで、九州へ落ち延びようとしたときに、相手になるような大きな敵は居なかったけれど、天罰を逃れる事が出来ずに、船に乗り出航しようと海上に出たとたんに、難破して海に落ち水に入ることになった。家来も親しい間柄の人もあっという間に滅び去ってしまったのは、人間の力ではどうなる物ではない。これはもう神様の思し召しに決まっている。それでも、彼等の身柄は発見できず、行方を隠して何処かへ逃げてしまった。
「諸国荘園平均に地頭職を尋沙汰すべし」
 朝廷が、手配りをして彼等を探している間にも、国有領においても、荘園でも、豪族でも、民の家でも、山門内でも、寺でも、どこででも騒動を起こすだろうけど、これを捕まえてしまえば、国中が静かになるだろう。但し、現在これを捕らえるためには、全国の国有領も荘園も区別無く全部に地頭職を任命して警戒に当たらせる必要がある。なぜならば、これは関東の利益を考えて言っているのではない。一般庶民も欲得の心を持っているので、謀反人を指揮官にして立ち上がるだろう。又、その辺の在地武士と一緒になって、この機会を利用して、ひょっと思いついて悪いことをやりだしかねないものだ。それらに対して用意をしておかなくては、きちんとできないだろう。
 それなので、義經が守の伊予国でさえも、荘園、公領であろうとも区別無く捜査できる地頭を置く必要があります。但し、地頭を置いた後でも、先例や朝廷への本税や国有領の労働要求や、荘園領主の苦役をもしも反抗して、滞納した場合は、特に罰を加えて、年貢を納めるよう、法律どおりに処分しましょう。
 かねてから、この事についてはお心得になられていることと思いますが、さらにまた、現在仰せ下されたことにつき、私の考えの及ぶところ、おそれながら正式の文書にして、謹んでお届けします。一通は法皇に差し上げるために師中納言(経房)に託しております。今は天下草創の時であり、最もことの淵源を深く究めるべきです。特にお取り計らい下さい。これらのことは、天がお与えになったものですが、全く(兼実の)お考えには及びません。この内容を右大臣殿(兼実)にお伝え下さい。謹んで言上件の如し。

     [文治元年]十二月六日    頼朝(在判)
   謹上 右中弁(光長)殿

「謀反人に同意の輩解官追却せらるべし」
[玉葉]より
  礼紙状に云く、
   逐って言上いたします、
 謀叛人の行家・義経に同意するの者ども、先ず解官し追却せらるべし。連名は正式文書に記録し、謹んで以てこれを進上しますので御覧下さい。一通の法皇への文書は、師中納言吉田経房卿に送付いたしました。民部卿の成範卿は、彼の者どもに同意いたしたの由、聞き及びましたが、御縁のある人なので、少しもあれこれ申すことはありません。必ず良きように御計らい下さい。恐れながら申し上げます。

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