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2008年5月

2008年5月31日 (土)

12月6日 「行家や義經に同意の侍臣を罪科に処す」

「吾妻鏡」12月6日 乙卯
「行家や義經に同意の侍臣を罪科に処す」
 今度のことで、行家や義經に味方をした朝廷の人達と北面の武士達の事が事細かに関東に知らされました。そこで、頼朝様は罰を与える為に名前を正式の文書に書いて師中納言吉田經房へ出させました。その上で、特に源九郎義經と悪巧みを構えた人六人の身柄を申し受けるように申し入れるよう、北條四郎時政殿に伝えられました。その六人は侍從良成、少内記信康〔伊豫守義經の書記〕、右馬權頭平業忠、兵庫頭藤原章綱、大夫鼓判官平知康、信盛、右衛門尉信實、時成達らです。
「議奏公卿の設置、兼実以下の替補等を院奏す」
 又、右大臣兼実は、関東を支持していると聞いたので、仲良くするために一通の手紙を差し上げました。大江広元・三善善信・筑後權守俊兼・大和判官代邦道などがこれらの手紙を考えて用意しました。法皇へ申し上げる手紙に書いてあることは。

指図されるべき事

一つ 政治を論議して天皇へ伺いをたてる人たちについて

  右大臣は九条兼實〔天皇へ出す文書を予め眼を通し取捨選択をする役の内覽にすると宣旨を出してください。〕  内大臣は徳大寺實定

  權大納言三条實房卿   中御門宗家卿    堀川中山忠親卿(山槐記を書いた人)

  權中納言藤原實家卿   土御門通親卿    吉田經房卿

  參議藤原雅長卿     日野兼光卿

以上の公卿達は、朝廷の政務を執られるにあたり、まず神様への伺いから始めて、次に仏道の事を論じるなど、この人たちによって行ってください。

一つ 摂政のことは、

  内覧の天皇の命令書を右大臣(兼実)にくだされるように。しかし、藤原氏の総領家の役は本来の人(基通)のままとする。

一つ 職事のことは、九条光長朝臣と壬生兼忠朝臣

 二人一緒に任命しますように。光雅朝臣は、(頼朝)追討の宣旨を書いた。天下草創の時に不吉な人だから、早く止めさせるべきである。

  一、院の御厩別当
    朝方卿が[本]奉行の職である。復職させるべきか。
  一、大蔵卿
    宗頼朝臣、これに任ぜらるべし。
  一、弁官の事
    親経採用せらるべきか。
  一、右馬の頭
    侍従公佐これに任ぜらるべし。

一つ 左大史(太政官の記録係) 日向守広房が任務の日向の国におりますので、この人を任命すること。

 (小槻)隆職は、(頼朝)追討する宣旨を書いたので、私の天下草創の時に忌み嫌うべき縁起の悪い人だから、止めさせるように。

一つ 国の支配について 
    伊予国は右大臣九条兼実に国司任命権を、
    越前は内大臣に国司任命権を与えてください。
    石見国は中御門宗家卿に、
    越中国は壬生光隆に、
    美作国は河原実家卿に、
    因幡国は久我通親卿に、
    近江国は藤原雅長卿に、
    和泉国は光長朝臣に、
    陸奥国は兼忠朝臣に。 
     豊後国は、頼朝がいただきたい。なぜならば、国司も、国人も、行家、義經の謀反に味方していたので、その一味を探して捕まえた上で、国の政務を行いたいと考えているからです。 

  一、闕官の事
    器量を撰定し、これを採用せらるべし。
     十二月六日          頼朝(在判)

  解官の事について
一つ 解任する人について 参議(天皇の相談相手)親宗、大蔵大臣泰經(判官贔屓)、右大弁光雅(頼朝追討の院宣を提案した人)、刑部卿頼經、右馬の頭経仲、左馬權頭業忠、左大史(太政官の記録係)隆職、左衛門の尉知康、信盛、信実、時成、兵庫頭章綱。
 この人達は、行家、義經の味方をして、天下に騒乱を招く悪い役人達です。早く解任して、朝廷から追放するように。それ以外にも行家、義經の家来や味方をした人々の、その親しさの度合いを調べて、官職を持っている役人は解任するように。僧侶や陰陽寮の占い師達も入っているとの、噂もあるので、同様に追放すべきである。 十二月六日 頼朝(花押有)

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2008年5月30日 (金)

12月3日「泰経陳謝の為関東に向かうという」

[玉葉]12月3日 壬子 天晴 
「泰経陳謝の為関東に向かうという」
 伝聞、高階泰経(たかしなやすつね)は来る七日に関東に向かうべし。これは逮捕され連行されるの儀に非ず。進んで陳謝の為行き向かうようだ。但しこれ内儀を聞き遮って出発する所のようだ。遂に遁れ得べからざるが故なり。侍従の能成(九郎一腹の弟、故長成子)、今朝、保田の男子を同道し都から向うようだ。猶も多くの人々が損亡すべきの由が風聞するようだ。

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2008年5月29日 (木)

12月1日「頼朝、平時実および平氏残党を捜索せしむ」

「吾妻鏡」12月1日 庚戌
「頼朝、平時実および平氏残党を捜索せしむ」
 平氏の一族のうち、死刑や流罪にされていない連中が、沢山京都におります。又、前中将の平時実はこの夏に朝廷から流罪の宣下をされたけど、流罪先へ行かず、今度の源九郎義經と一緒に九州へ行くと噂があります。それなので、あちこち探して早く捕まえて、京都駐留の関東の御家人に渡すように、今日北条殿〔先月二十五日に京都へ来ていました〕に命じられました。

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2008年5月28日 (水)

11月29日「多武峯僧義経を十津河に送る」

「吾妻鏡」11月29日 戊申
「守護地頭、兵粮米の事勅許あり」
 北條時政殿が申し入れた内容の、諸国に守護・地頭を置くことと反別五升の兵糧米の話は、申し入れのとおりに決めるように、後白河法皇が命令されたので、その事を師中納言吉田經房が後白河法皇のお言葉を北條四郎時政殿に伝えられたようです。
「多武峯僧義経を十津河に送る」
 一方、吉野山では多武峰の十字坊が、義經に話して云うには、この寺も余り広くない、僧侶達は沢山居ないので、何時までも隠れ通すのは無理だと思われる。ここから十津川へお送りさせてもらおうと思います。そこは、人馬の行き来しない山深い処なのです。と云えば、義經はこれを承諾して、喜んだので、強い僧兵を八人護衛につけて送りました。その僧兵八人は、道徳・行徳・拾悟・拾禪・樂達・樂圓・文妙・文實のようです。
「東海道駅路の法を定む」
 鎌倉では、頼朝様が、東海道の駅路の規則をお決めになられた。重大な用事を帯びて、京都への使いや下級役人が、伊豆・駿河から西の近江国までの区間は、位の高い人の領地も荘園もかまわずに、乗り換え馬を取上げて、それを乗馬に使うように、又、到着したところでその馬の餌や世話をするように規則を決めるようです。

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2008年5月27日 (火)

11月26日 「頼朝追討宣旨奉行の人々損わるべしという」

[玉葉]11月26日 
「頼朝追討宣旨奉行の人々損わるべしという」
 隆職が来た。昨日、或る武士が語り示して云く、頼朝追討の宣旨を指図した人々は損亡すべしようだ。この事はまた信受出来ない。議事を申し上げの人猶以て重罪ではない。ましてや指図の官吏は当然である。但し近頃の事、いささかの事に依っても追捕に及ぶ。この件は極めて以てその恐れ有るようだ。去る夜鎌倉より泰経卿の許に書状が有り。法皇の御所に於いて相尋ねるの処、当時近くに仕えざるの由、人々これを答えた。時に大に怒り文箱を中門の廊に投げ行方をくらまし逃げた。(中略)頼朝の書状をひらいて見るの処、先ず立文の表書に云く、大蔵卿殿御返事、(文面は11月15日条に同じ)

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2008年5月26日 (月)

11月26日「高階泰經、謀反同意の科により蟄居す」

「吾妻鏡」11月26日 乙巳
「高階泰經、謀反同意の科により蟄居す」
 大藏卿高階泰經様が、蟄居謹慎しました。それは、源九郎義經の申請により頼朝追討の宣旨を出したのは、泰經様が取り次いだことを、頼朝様が特に怒っていると、後白河法皇の耳に入ったので、法王が蟄居を命令したからです。実は、泰經が行家や義經の謀反に味方したと書かれた紙を竹の棒にはさんで、昨日師中納言經房の屋敷に届けた者が居て、經房は驚きながらこれを見て、右少弁定長を通して後白河法皇に見せたからのようです。

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2008年5月25日 (日)

11月25日「北条時政入洛す」

「吾妻鏡」11月25日 甲辰
「北条時政入洛す」
 今日、北條時政殿が京都に入りました。行家と義經の反逆に天皇の命令を与えたことを、頼朝様がとても怒っていることを、師中納言吉田經房を通して事細かに、後白河法皇に申し上げました。
「行家・義經追捕の宣旨下る」
それなので今日、色々と会議を開かれ、今度は行家・義經を絶対に見つけ出すように、宣旨が下されました。その内容は

 文治元年十一月二十五日   宣旨

 前備前守行家と前伊予守義經は、自分勝手に野心を持って、とうとう九州へ行きました。しかし、摂津国で出航しようとしたら、ばちが当たって逆風によって、押し戻されてしまいました。本当に天罰が当たったのです。難破して漂流してしまったとの噂もあるけれども、死んだという確信はありません。早々に従二位源頼朝に命じて、直ちにその所在を捜索し、その身柄を捕らえるべし。
   藏人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅が命により書きました。

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2008年5月24日 (土)

11月23日 「頼朝帰国」

[玉葉]11月23日 壬寅 天晴 
「頼朝帰国」
 伝聞、頼朝は義経・行家等が退散の由を聞き、早く以て帰国したようだ。

[玉葉]11月24日  天晴 

(中略)この日隆職が来た。頼朝は宣下の間の事、頻りにいきどおり怒りの気有るの由、上京の武士の申す所であるようだ。
「北條時政入京すという」
伝聞、頼朝の妻の父、北條四郎時政が今日入京した。その軍勢は千騎のようだ。京都近国等は件の武士の支配たるべきの由、世間の噂では声を揃えて言う。

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2008年5月23日 (金)

11月22日「義経、吉野山より多武峰に向ふ」

「吾妻鏡」11月22日 辛丑
「義経、吉野山より多武峰に向ふ」
 伊予守義經は、吉野山の深雪を掻き分け、忍んで多武峰寺(現、談山神社)へ向かいました。それは、祭神の藤原鎌足の像に祈るためのようです。たどり着いた所は、南院内の藤室で、そこの坊主は、十字坊と名乗る強い僧兵でした。源九郎義經を歓迎したようです。

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2008年5月22日 (木)

11月20日「義経等退散の賞」

[玉葉]11月20日 
「僧事聞書」
 隆職の許より僧侶の人事異動の文書が進上された。去る夜行われたようだ。
「義経等退散の賞」
 義経・行家等が法皇を取り奉るべしの由風聞の間。追討の事に寄せ、御祈り等を行われるの所、有効の貢献の故、賞が行われるようだ。天皇や法皇をを動かし奉り無し。無為に退散した。よって御祈りのしるしである。

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2008年5月21日 (水)

11月20日「八島義清、義経生存の報を京に伝ふ」

「吾妻鏡」11月20日 己亥
「八島義清、義経生存の報を京に伝ふ」
 伊予守義經と前備前守行家は、京都を出立して、先の六日に大物浜で船に乗り込み、出航した時に、逆風に吹き戻されて船は難破してしまいましたと、話が伝わってきたところへ、八島冠者時清がその二日後の八日に京都へ帰ってきて、二人とも死んではいないと報告したようです。
「義経に同行せし平時実捕はる」
 次は、平時忠の子の佐貫中将平時実は、流罪の判決を受けていながら、密かに京都に住んでいました。それが、今度は源九郎義經と一緒に九州へ行くことにしました。しかし、船の難破で失敗して、源九郎義經についていた侍達がばらばらに逃げ散ってしまったので、京都へ戻る途中で村上右馬助經業の弟の禅師経伊が生け捕りにしました。
 この二つの報告は、後白河法皇のお耳に達したと伝わってきたようです。

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2008年5月20日 (火)

11月18日「頼朝上洛の説」

[玉葉]11月18日 
「頼朝上洛の説」
 伝聞、頼朝卿は国を出る事が決定し、当時駿河の国に着いた。彼の国より先立ち上京の武士の説のようだ。その後、参河・遠江の辺に於いて、一日か二日宿泊すべしとのようだ。入京の行程を計り、今月二十五六日に及ぶべしとのようだ。或る説に、また九郎・十郎退散の由を聞き、路より帰国すべしとのようだ。然れども多分上京の由、声を揃えて言う所である。

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2008年5月19日 (月)

11月18日「吉野の僧徒義経を捜索す」

「吾妻鏡」11月18日 丁酉
「吉野の僧徒義経を捜索す」
 静御前の告白に基づき、源九郎義經を探す出すために、吉野山の僧兵達は山狩りをしました。静御前の事は、金峰山寺の事務長はとても気の毒に思って、労って休ませた後で、鎌倉へ護送するように決めたようです。

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2008年5月18日 (日)

11月17日「義経吉野より逃れ、静捕へらる」

「吾妻鏡」11月17日 丙申
「義経吉野より逃れ、静捕へらる」
 伊予守義經は、大和国の吉野山に隠れていると噂が流れたので、蔵王堂の事務長は、豪傑の僧兵に命じて、この数日、吉野山の山林を探させましたが、全然網にかかりませんでした。しかし、今夜午後十時頃に義經の妾の静御前が、藤尾坂から蔵王堂(金峰山寺の本堂)に下ってきました。その様子がおかしいので、僧兵達は怪しいと思い、一緒に連れて事務長の宿舎へ行き、細かく訳を問いただしました。静御前が云うのには、「私は、九郎判官義經〔現在は伊予守〕の妾です。大物浜から義經様とこの吉野山へ来ました。五日間泊まっていましたが、僧兵が立ち上がり攻めて来ると噂が流れたので、源九郎義經様は山伏の姿に変装して逃げ去ってしまいました。その時に数多くの金銀財宝を私に与えて、雑用のしもべを着けて京都へ送ろうとしてくれました。しかし、そのしもべの男は、財宝を私から奪って、挙句に私を山深い峯の雪の中へ置き去りにしてしまったので、このように迷ってしまったと言うようです。

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2008年5月17日 (土)

11月15日「高階泰經の使者、陳弁のため鎌倉に至る」

「吾妻鏡」11月15日 甲午
「高階泰經の使者、陳弁のため鎌倉に至る」
 大藏卿(大蔵大臣)高階泰經様の使いが鎌倉へ到着しました。処罰を恐れてか、直ぐに御所へは行かず、左典厩一条能保様の屋敷へ行って、お手紙を鎌倉殿頼朝様に献上するのですと伝え、ほかの一通を一条能保様へ献上しました。義經たちの事は、私の意思でやったのではなく、ただ武力を恐れて云うがままに後白河法皇に取り次いだだけです。どう云う具合にお耳に入っていますか。世間の噂を本気にして、簡単に話を決めてしまわないように、なだめるように云って聞かせてくださいと。一条能保様はその使いを一緒に連れて行き、詳しい話を頼朝様に申し上げました。高階泰經様の手紙を開き見て、筑後權守俊兼が声を上げて読みました。
「頼朝の反論」
 その内容は、「行家と義經の謀反の行動を許可したのは、天魔の仕業でしょう。もし、(頼朝追討の)宣旨を下さらなければ、宮中に入って自殺すると言ってきたので、当面の災いを逃れるため、一度は朝廷の許可を出したことになりますけれど、本心は別なので、本当の許可はしていないのと同じなのだそうです。」これで後白河法皇の本心が伝わるのしょうか。二品頼朝様は、返事を投げておっしゃいました。「行家と義經の謀反の事は、天魔の仕業だとおっしゃられてきたことは、とんでもなく何の根拠も無いことだ。天魔とは仏法に対して妨げを成し、人に対して迷惑をなすものである。頼朝は朝廷に敵対した平家を降伏させ、年貢の徴収などの務めを朝廷に忠実に奉仕している。それを何で反逆者扱いをして、たいした考えもせずに簡単に院宣を与えたのか。行家も義經も行方を捜して召し取るまでは、諸国も荒れ果ててしまい、人民も滅亡してしまうではないか。その原因を作った日本国第一の大天狗は、他の者ではないでしょう。」

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2008年5月16日 (金)

11月12日 「義経等召し進すべしとの院宣下さる」

[玉葉]11月12日 
「義経等召し進すべしとの院宣下さる」
 義経・行家等を捕らえるべきの由、法皇の命令を下されたようだ。(院宣11月11日条に同じ)
件の書状を、諸国に下された。件の両将は昨日は頼朝を討つべきの天皇の命令を受け賜り、今日はまたこの天皇(法皇)の命令に預かる。世間の転変・朝廷の政務の軽々しい事、これを以て察すべし。弾指すべし弾指すべし。

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2008年5月15日 (木)

11月12日「頼朝上洛延引するも懈怠なきよう家人に令す」

「吾妻鏡」11月12日 辛卯
「頼朝上洛延引するも懈怠なきよう家人に令す」
 二品頼朝様は、駿河以西の御家人達に命令書を伝えた。「源九郎義經は、既に京都から都落ちをしたので、上京は今、延期する。但し、それぞれに、抜かりなく用意をして何時でも出陣の命令に備えて置くべきである。」
「岡邊泰綱平癒し鎌倉に参ず」
 駿河国の岡邊權守泰綱は、暫くの間病気のため勝長寿院の完成祝賀式も、木瀬川に滞在のときも駆けつけられませんでした。「最近、やっと病気も治ったので、頼朝様のご上京を聞いて、病み上りの体を励まして、まず鎌倉へ参上してお供をさせて戴きたい。」と云ってきました。でも、京都へ行くのは止めたので、来る必要はない。貴殿は肥満の泰綱なので、乗れる馬は無いだろう。良く準備を考えて、次の命令を待っていなさい。」と答えられました。
「河越重頼、所領収公せらる」
 今日、河越太郎重頼の領地を取上げました。この人は源九郎義經の舅だからです。その内の伊勢国香取五つの郷は大井兵三次郎實春が与えられました。その他は重頼の老母が預かることになりました。又、下河邊四郎政義も同様に所領などを取上げられました。重頼の娘婿だからです。
「大江広元、諸国に守護地頭の設置を献策す」
 今度の事件は、関東にとって由々しき問題なので、どのように始末を付けるべきかあれこれと頼朝様が悩んでおられると、大江広元が云うには、「世も末なので、無法者が最も栄える良い機会となり、天下では反逆を犯すものが途絶えることはないでしょう。しかし、東海道においては、頼朝様のお膝元なので静かにおさまるとは思いますが、地方においては必ず反乱が起きるでしょう。これを退治するために毎回、関東から軍勢を派遣していたのでは、武士も農民も煩わしいでしょうし、費用もかかるでしょう。ちょうどこの機会に、諸国に権力を及ぼすように、国衙と荘園それぞれに守護と地頭を任命すれば、必ずしも恐れずに済むでしょう。早く京都朝廷に申請すべきです。」ということです。頼朝様はとても感心されて、そうしようと決められました。首尾の通った大江広元の忠言がそうさせたのである。

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2008年5月14日 (水)

11月11日 「雅頼と良経改名の事を談ず」

[玉葉]11月11日 
「雅頼と良経改名の事を談ず」
 夕方、雅頼卿が来た。世間の事等を談じた。私の息子の三位中将の改名の間の事を示し合わせた。中将の名は良経、九郎の名は義経である。良と義とその訓が同じである。義経は当然に改名すべきである。而るに敢えて以て改めず。然る間に忽ち犯罪人に類し滅亡した。今に於いては、中将の改名は異議に及ぶべからざるか。仍って内々その字を長光法師に問うの処、撰び申して云く、良輔・経通と。輔の字は九條殿の御名、経通公卿の名たりと雖も、彼の子孫無し。当時憚るべきに非ず。用いられ何事か有らんやと。

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2008年5月13日 (火)

11月11日 「義経・行家捜索の院宣下る」

「吾妻鏡」11月11日 庚寅
「義経・行家捜索の院宣下る」
 源九郎義經らの反逆の事について、天皇の命令は義經の申請の通り出しました。しかし、跡から頼朝に説明しようと、後白河法皇は考えていましたが、頼朝様のお怒りが激しくなるので、予定していた訳には行きませんでした。そこに、源九郎義經と行家は反逆して九州へ行こうとしましたが、大物浜で難破したと噂があるけれども、死んだとは限らないので、早く勢力のある武士に命令して、山林や河沢を探して彼等を捕まえ出すように、法皇の命令を関西諸国の国の長官達に出されました。その内容は以下の通りである。

 後白河法皇の命令が出ました。源義經と行家は反逆して九州へ行こうとしましたが、六日に大物浜で逆風に遭ったそうだ。難破したと噂があるけれども、死んだとは限らないので、早く武勇のある連中に命令して、山林や河沢を探して、日をおかずに彼等を捕まえ出すように。その国のうちで国有領はこの状のとおり正しく実行し、荘園(私有領)では本家を通して実行する事、これは大事な事であるでの、手抜きをしないようにと命令が出たので、謹んでこの状を書き伝える。
   十一月十一日 太宰権師(吉田經房)
   その国守殿

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2008年5月12日 (月)

11月10日 「範季の息子の範資、九郎の党類を追い戦う」

[玉葉]11月10日 
「範季の息子の範資、九郎の党類を追い戦う」
 夜に入り(式部権の少輔)範季が来た。日頃の恐怖をなす間の事、ならびにその息子の範資が九郎義経の仲間を追い戦うの間の事を語る。愚父は一切知らざる由、誓いの言葉を立ててこれを争い申した。又云く、頼朝追討の宣旨を下さるるの間、私の申し状、道理を存すの由、世間の人々は声をそろえてほめたたえるようだ。

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2008年5月11日 (日)

11月10日 「朝廷首脳会議の動向」

「吾妻鏡」11月10日 己丑
「朝廷首脳会議の動向」
 頼朝様が鎌倉へ帰り着かれたところ、左典厩一条能保様が申されるには、「只今、都の知人からの伝言だと、源九郎義經が反逆して追討の宣旨を出すかどうかについて、左大臣經宗と右大臣兼実、内大臣実貞それと師納言經房とが協議をしている時に、右大臣兼実の意見は、一貫して事の理を展開されました。その内容は全て関東の味方をする言葉でした。内大臣の実定は、どっちにしよう等と明らかなことは言いませんでした。左大臣經宗は早く宣旨を出すように言い切っていました。師納言經房は、再三、反対をしていました。又、刑部卿頼經・右馬權頭業忠等は、完全に源九郎義經の味方をしています。廷尉鼓判官知康も同じです。」

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2008年5月10日 (土)

11月9日「院より頼朝に使いを遣わさんとす」

[玉葉]11月9日 
「院より頼朝に使いを遣わさんとす」
 伝聞、義経等淡路国に渡り終えたようだ。但し未だ実説を聞かない。
法皇より頼朝のもとに御使いを遣わさるべき由、その定めがありました。吉田経房卿、光長朝臣、定長等その謀りを廻すようだ。叉澄憲法印同じく沙汰を廻すようだ。しかるにこの者どもみな停止。若宮の別当丸(頼朝の近臣、日来在京のようだ)が作朝派遣された。その御定めの趣、人知らず。最密の事のようだ。

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2008年5月 9日 (金)

11月8日「義経等の船大風に入海す」

[玉葉]11月8日 
「義経等の船大風に入海す」
 伝聞、義経・行家等、去る五日夜乗船、大物辺に宿泊した。追行の武士等、近辺の在家に寄宿した(手島の冠者、並びに範季朝臣の息子の範資等、大将軍のようだ。件の範資は儒家の生まれと雖も、その性質は武士に受けた。しかのみならず、蒲の冠者範頼と親密の間、在京の範頼の家来等を招集し共に行き向かうようだ)。
「義経等和泉浦に逃れ家光梟首さる」
 未だ合戦せざるの間、夜半より大風が吹き来たる。九郎義経等が乗る所の船、併しながら損亡した。一艘として全くは無し。船の過半は海に入る。その中、義経・行家等、小船一艘に乗り、和泉浦を指し逃げ去ったようだ。行家の息子の家光に於いてはさらし首にしたようだ。豊後の武士等の中には、或いは降参した人と為り、範資が許に来た。また生きながら捕虜となったようだ。

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2008年5月 8日 (木)

11月8日「頼朝上洛を中止し使を派す」

「吾妻鏡」11月8日 丁亥
「頼朝上洛を中止し使を派す」
 大和守重弘と一品坊昌寛らは、使者として木瀬川から京都へ出発しました。頼朝様は行家と義經の件をとても怒っていると伝えるためです。又、義經行家達が既に都落ちしたので、頼朝様は京都へ上るのは止めにして、今日鎌倉へ向けて帰られました。

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2008年5月 7日 (水)

11月7日 「義経等誅伐せられば天下の大慶なり」

[玉葉]11月7日 
「義経等誅伐せられば天下の大慶なり」
 夜に入り、人曰く、九郎義経・十郎行家等、豊後の国の武士の為征伐されたようだ。或いは云く、逆風の為海に入るようだ。両説は詳細ならずと雖も、船出は安穏ではないようだ。事実ならば、仁義の感報すでに空し。遺恨に似たると雖も、天下のため大いによろこぶことである。
「義経の武勇と仁義後代の佳名に胎る」
 義経は大手柄を立て、その詮無しといえども、武勇と仁義とにおいては、後代の美名をのこす者か。嘆美すべし嘆美すべし。
「頼朝への謀反の心は大逆罪」
 ただし頼朝において謀反の心起こすなら、すでにこれ大逆罪である。これにより、天はこの災いを与えたか。
伝聞、豊後の武士等が義経を討つ事は誤りの説のようだ。

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2008年5月 6日 (火)

11月7日「義経院宣賜はると聞き、頼朝不快とす」

「吾妻鏡」11月7日 丙戌
「義経院宣賜はると聞き、頼朝不快とす」
 頼朝様は、軍勢を招集し京都へ攻め上る途中で、京都の情勢を把握するために、木瀬川宿に泊まっておられましたが、先日の三日に行家と義經の両人が都を出て九州へ落ち延びていったと、連絡が入りました。但し、その二人は後白河院の庁の命令書を戴き、四国や九州に侍は二人の命令に従うように書かれており、行家は四国の総地頭に、義經は九州の総地頭に任命されたからです。今度の事は、後白河法皇が出した頼朝追討の宣旨も、行家・義經を総地頭に任命した院の庁の命令書も、行家・義經の要求のままに出した。どうして私の何度も立てた手柄を考えずに捨てて、追討の宣旨を出したのだと、頼朝様は大変ご立腹なされました。それでも、その頼朝追討の宣旨を出すかどうか会議で検討している時に、右大臣兼実は関東の味方をしたと噂で聞いているので、頼朝様は喜んでおられました。一方京都朝廷では、源九郎義經の官職の伊予守と検非違使の職を剥奪しました。

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2008年5月 5日 (月)

11月6日「義経、暴風のため渡海中止、党類離散す」

「吾妻鏡」11月6日 乙酉
「義経、暴風のため渡海中止、党類離散す」
 行家と義經が、大物浜(兵庫県尼崎市)で船に乗ろうとしていた時に、急に突風が吹いて、大波が船をひっくり返してしまいましたので、思いもよらず九州への航海をあきらめたので、仲間達はばらばらに逃げ散ってしまいました。義經と一緒についてきたのは、たったの四人でした。それは、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、武蔵坊弁慶と妾の靜御前でした。その夜は、天王寺のあたりに一泊して、そこから何処かへ逃げ去りました。今日、その行家と義經の二人を見つけて差し出すように、後白河法皇から院の命令を諸国へお出しになられたそうです。

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2008年5月 4日 (日)

11月5日 「義経室津にて乗船」

[玉葉]11月5日 
「義経室津にて乗船」
 九郎等は室泊に於いて乗船したようだ。

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2008年5月 3日 (土)

11月5日「多田行綱ら義経を襲ふ」

「吾妻鏡」11月5日 甲申
「関東家人入洛、頼朝の怒りを経宗に伝ふ」
 関東から派遣した御家人が京都へ入りました。二品頼朝様がとても怒っていらっしゃることを、何はともかく、左大臣藤原經宗に申し入れました。
「多田行綱ら義経を襲ふ」
 一方、源九郎義經は今日、淀川の河口に着いた時に、摂津国の源氏の多田藏人大夫行綱と豊島冠者が行き先に陣を構えて、多少の矢や石を投げかけてきました。源九郎義經が、攻め込むと歯向かってこれる程では有りませんでした。しかし、このドサクサに源九郎義經の軍勢は散り散りに逃げ去り、残った兵は幾らもおりませんでした。

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2008年5月 2日 (金)

11月4日「義経太田との合戦に勝利す」

[玉葉]11月4日 癸未 天晴 
「義経太田との合戦に勝利す」
 今日また、武士等が義経を追討したようだ。伝聞、昨日、河尻の辺に於いて、太田と合戦した。義経は勝利を得て、打ち破り通過したようだ。

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2008年5月 1日 (木)

11月3日 「義経等の所行義士というべし」

[玉葉]11月3日 
「洛中貴賤多く逃げ隠る」
 去る夜より、京都市内の貴人も一般市民も多く以て逃げ隠れた。今朝早朝、九郎等が京都から出発するの間、乱暴狼藉を疑わない為である。
「行家・義経西海に赴く」
 午前8時頃、前の備前の守源行家・伊豫の守兼左衛門の尉(大夫の尉なり。従五位下)同義経(殿上侍臣たり)等、各々身の暇を申し西海に発した。これ則ち指せる過怠無し。頼朝の為征伐されようと欲す。征伐の害を免れんが為京都から出発する所である。始め推して頼朝を討つべきの天皇の命令を申し下すと雖も、事は法皇のお考えより起こらざるの由、ひろく以て風聞するの間、近国の武士は義経らの命令に従わず。還って義経等を以て謀反の者とみなした。しかのみならず、法皇以下然るべきの臣下等を連行し、鎮西に向かうべきの由、披露するの間、いよいよ人望に背き、その勢力は日を遂って減少した。敢えて味方の者無し。
「義経等京都にて関東勢支え難く下向す」
 仍って京都に於いて関東の武士に対抗し難く、これを以て京都から出発したようだ。法皇御所中以下の諸家・京中悉く以て安穏した。
「義経等の所行義士というべし」
 義経等の所行、実に以て義士と謂うべきか。京中の上下、歓喜しない者はいない。もし以前の風聞のようならば、公家は一人として身の安全であるはずがない。しかれば即ち人別に生涯の果報を失うことがあるだろう。これによりこの乱暴は無いのだ。喜ぶべし喜ぶべし。

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