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2008年4月 1日 (火)

6月22日「宗盛等梟首の後使庁に渡すべきや否や」

[玉葉]6月22日 
「宗盛等梟首の後使庁に渡すべきや否や」
 大蔵卿泰経が法皇の命令を伝えて言いました。前の内府、並びにその息清宗・三位中将重衡等、義経が連行し入京する所である。而るに生きながらの入京は無骨である。近江の辺に於いてその首をさらし首にすべきである。検非違使の役所に渡すべきか。まさに棄て置くべきか。法皇の命令に随うべきの由、頼朝卿が申されたの旨、義経は申す所である。思案し申すべしと言いました(但し重衡は南都奈良に送ったようです)。
「勅定に在るべし」
私兼実は申して云く、この事の指図はただ天皇(法皇)の命令に在るべしと言いました。

[吉記]6月22日 
「宗盛清宗の首を渡す」
 夜に入り前の内大臣宗盛の首、渡さるべきの由風聞した。非常に希な事なので、自車に乗り六條高倉の辺に送り出した。夕方薄暗くなった頃、六條河原に於いて、検非違使の役人等これを請け取る(左右無く納桶ながら、武士廷尉に渡しました)。先ずかしらの宗盛卿の首(大臣の首これを渡さる。恵美大臣の例か。誠に希代の珍事である。大蔵卿は内密に法皇の意思を奉り、三大臣に仰せ合わすと)、看督□□□□輩(冠退紅)が周囲を囲みました。次いで前の右衛門の督清宗の首、次いで廷尉七人、府生久忠・経弘・志明基・尉□朝・信盛・章貞・大夫の尉知康(已上□袴、弓矢を所持した)。その路、六條を西に行き東洞院に至り、北に行き中御門に至り、西に行き西洞院に至り、北に行き獄門に至ったようです。
「重衡奈良に下さる」
前の三位中将重衡卿・蔵人大夫頼兼・右衛門の尉有綱等は南京奈良に向かわれたようです。

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