« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月

2008年4月30日 (水)

11月3日「行家・義経西国に出発す」

「吾妻鏡」11月3日 壬午
「行家・義経西国に出発す」
 前備前守行家〔櫻威しの鎧〕と源九郎義經〔赤地錦に直垂に萌黄威しの鎧〕等は、九州へ行きます。ともかく使いを後白河法皇の所へ行かせ、申し上げました。鎌倉からの厳しい責めを逃れるために、九州へ都落ちします。最後にお会いして挨拶をしたかったのですが、戦仕度の武装姿なので遠慮して出発したようです。前中將時實・侍從良成〔義經の同母弟で、一條大藏卿長成の息子〕・伊豆右衛門尉有綱・堀弥太郎景光・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘經・弁慶法師等が従っています。かれこれ、その軍勢は二百騎位のようです。

|

2008年4月29日 (火)

11月2日「義経申請条々につき院宣あり」 

[玉葉]11月2日
「義経申請条々につき院宣あり」 
 右少弁定長が法皇の使いとして来た。定長が法皇の言葉を命じて言うには、義経は明日早朝に九州に向かうべし。其の間いささか申請の旨あり。その状にいわく、天皇(法皇)を動かし奉るべき由、天皇(法皇)のお耳に達した。その恐れあるにより、誓約書を書き進上しました。その上は疑いあるべからざる由存ずるところ、法皇御所に仕える者ども、なお出発の用意を致すようだ。この事全てあるべからざることである。家来等は先行が不安である。なお天皇(法皇)のお出かけが良いだろうと申さしむといえども、義経は内心においては、更に法皇のお考えに背くべきではない。あえてもってご不審あるべきではない。そもそも山陽道や西海道等の荘園公領、供に義経の指図となし、調庸租税、年貢雑物等、確かに指図し進上すべき由、豊後の武士等、法皇御所に招集され、義経行家等、特に支援すべき由命令を下されるように欲すといいました。くだんの両条について命令を下さるべきや否や、宜しく思案し申し上げるべしと言いました。
 私は申しました。頼朝を追討すべき由、天皇(法皇)の命令を下された上は、このような細々のこと、更に議定に及ぶべからず。今においては只申請に任せ、その指図ありて、早速京都を出されるべきであると言いました。
 晩になって、大夫吏隆職が来た。いささか申す旨あり。夜に入り、法皇の命令を義経等に与えるようだ。

|

2008年4月28日 (月)

11月2日「義経海路逃亡のため友實に船を求めしむ」

「吾妻鏡」11月2日 辛巳
「義経海路逃亡のため友實に船を求めしむ」
 源九郎義經は、仕方が無いので九州へ行こうとしました。そこで、舟を用意するため先に、検非違使友実を遣わしました処、庄四郎と言う人に途中で出逢った。元は源九郎義經の家来ですが、今は脱退しています。質問をしました。「何処へ何をしに行くのか。」友実は本当の事情を答えて言いました。これを聞いた庄は、嘘を言って前の通りに源九郎義經様の家来になるのでと、話をあわせました。友実はその事を源九郎義經に伝えましょうと云いながら、一緒に連れて来ました。
「友実、旧家人庄四郎を殺す」
 ところが、庄は直ぐに義経に殺されてしまいました。この友実は、越前国(福井県)斉藤の一族です。子供の頃は仁和寺宮に仕えていました。元服するときに平家に仕えて、平家都落ちの後は、木曾冠者義仲に従って、木曾冠者義仲が追討されると、源九郎義經の家来になっていましたが、とうとうこの始末でした。

|

2008年4月27日 (日)

11月1日「頼朝黄瀬河駅に駐留し、京の情報を待つ」

「吾妻鏡」11月1日 庚辰
「頼朝黄瀬河駅に駐留し、京の情報を待つ」
 二品頼朝様は駿河の国黄瀬河の駅に到着された。御家人等に命令されて云く、京都の事を聞き定めんが為、暫くこの所に逗留すべし。その程乗馬並びに旅粮などの事を用意すべしと。

[玉葉]11月1日 
 今暁、九郎等は京都からの出発を延引した。或いは曰く、西海に向かうの意見を変じ、北陸に向かうべしと。路次の狼藉に依ってか。今夜、定能卿が告げ送りて云く、義経等は法皇を連行しなさるの儀、全てあるべからずの由、再三言上した。この上強いて疑い恐れ無きの処、猶その儀有るべきの由、今日、法皇御所中に声をそろえて言い合った。

|

2008年4月26日 (土)

10月30日 「太田頼基義経等を防ぐ」

[玉葉]10月30日 己卯 天晴 
「太田頼基義経等を防ぐ」
 義経等、明日早朝下向すべしと決定のようだ。或いは云く、摂州(大阪)の武士太田の太郎以下、陣地を構築し、九郎・十郎等もし西海に赴かば、射るべきの由計画しているようだ。また九郎の家来の紀伊権の守兼資、船を調べて没収する為、先ず以て件の男を下し派遣した。太田等の為に討たれたようだ。
「義経等北陸に引退くとの風聞あり」
此の如き事に依って、にわかに北陸に引退すべきの由、また以て風聞した。

|

2008年4月25日 (金)

10月29日「義経法皇連行の風聞」

[玉葉]10月29日
「義経法皇連行の風聞」
 伝聞、義経が猶法皇を連行しなさるべきの由が風聞した。仍って大蔵卿の泰経を以てこれを尋ねられた。仍って誓約書を以て争い申したようです。

|

2008年4月24日 (木)

10月29日「頼朝、義経・行家討伐のため上洛す」

「吾妻鏡」文治元年(1185)10月29日戊寅。
「頼朝、義経・行家討伐のため上洛す」
 予州源九郎義經・備州行家の反逆を征伐するために、二品頼朝様は、今日京都へ向けて出発された。関東の御家人は、直接お供をするが、東山道・北陸道の御家人は、東山道を通って、近江や美濃の東海道沿いで合流するようにと、命令書を回させました。
 又、相模の侍の原宗三郎宗房は、優れた勇敢な武士です。しかし、早川合戦(石橋山合戦)の時に、大庭三郎景親軍に参加して、頼朝様に敵対して弓を射たので、その罪を恐れて何処かへ逃げてしまいました。今は信濃国に居るとのことなので、早く彼を連れて、墨俣川あたりに馳せ参ずるように、と信濃の国の御家人達に命令されたようです。
 午前十時頃に出発なされました。土肥次郎實平が先頭を勤め、千葉介常胤がしんがりにおります。今夜は相模国の中村の庄に宿を取られたようです。相模の国の御家人は全員が集りました。

|

2008年4月23日 (水)

10月27日 「義経家来は人々を連行の風聞」

[玉葉]10月27日 
「義経家来は人々を連行の風聞」
 うわさ話等なお止まず、万人があわてふためくようだ。或いは云く、義経は感心せずと雖も、家来等は猶人々を連行すべきの由勧め申すようだ。また法皇をお連れなされば、一切連行すべからざるの由、各々申すようだ。

|

2008年4月22日 (火)

10月26日「義経、昌俊らを捕へ斬る」

「吾妻鏡」文治元年(1185)10月26日乙亥。
「義経、昌俊らを捕へ斬る」
 土佐房昌俊とそれに味方した三人を鞍馬山の奥から義経の家来たちが捕まえて連れてきました。今日六条河原で斬首にしたとの事です。

[玉葉]10月26日 
「義経法皇等を率いて鎮西に引退くという」
 人告げていわく、明日早朝、九州に退却することが決定した。法皇以下、直に連行なさるべしというようだ。大将軍の周辺の者ども、各々この由を称した。私もその中にあるようだ。この事を信用せずといえども、女房等同宿し、なお恐怖無きにあらず。よって先ず今夜は法性寺周辺の堂に遣わし、今日明日を経過した。

|

2008年4月21日 (月)

10月25日「頼朝の許に使を遣わすべきかを問わる」

[玉葉]10月25日
「頼朝の許に使を遣わすべきかを問わる」
 大蔵卿の泰経が法皇の命令を伝えて云く、使を頼朝の許に派遣し、詳細を隠さずうち明けるべきか。しかし密かにこれを派遣すると、義経等が伝え聞く恐れが有る。仍ってただ件の両将に言って聞かせ、且つは暫く当時の狼藉を止められ、公明正大の御使を派遣し、その次いでに内密の語を含め、詳細を隠さずうち明ける言葉を加えられるのは如何に。思案し申し上げるべしと言いました。
「近国武士義経等に与せざるによりこの儀出来か」
 私が思案するには、天皇の命令を申し下し、近国の武士を招集したところ、あえて承知しなかった。よって準備の相違の状況で、京中の上下の者は恐れ驚きで狼狽してとりみだすようだ。よってたちまちにこのような状況になったようだ。
 私は申して云く、事すでに発覚し、追討の天皇の命令を下されました。その上更に和平の儀を言って派遣される。頼朝はどうして勅使を受けるだろうか。それとなく推察有るべきである。但しその事項については、縦え承引せずとも推して派遣すべきである。頼朝の激怒は使を派遣するといえども、使を派遣しないといえども、更に差別有るべからざるが故である。

|

2008年4月20日 (日)

10月25日「小山・結城ら先発す」

「吾妻鏡」文治元年(1185)10月25日甲戌
「小山・結城ら先発す」
 (頼朝様は)今日の夜明けに、上京を承諾した勇士達を京都へ向けてを出発させました。尾張と美濃に着いたならば、両国の侍たちに命令して、「足近、洲俣(長良川)以下の渡しを固めさせよ。そして、京都へ入ったら何よりも先に行家と義経を征伐せよ。今までの付き合いや向うの立場などを考えたり情けを掛けたりする必要はない。もしも又、二人が京都にいなければ、暫く私の上京を待ちなさい。」と命じたので、皆馬に鞭打って出発しました。

|

2008年4月19日 (土)

10月23日「近江武士義経に味方せず」

[玉葉]10月23日
「近江武士義経に味方せず」
  人云く、近江の武士等、義経等に味方せず。奥の方に引退したようだ。

|

2008年4月18日 (金)

10月23日「伊勢守護山内經俊、反乱軍に包囲さる」

「吾妻鏡」文治元年(1185)10月23日壬申。
「伊勢守護山内經俊、反乱軍に包囲さる」
 山内首藤瀧口三郎經俊の下男が伊勢国(三重県)から走ってきて、申し上げて云うには「伊予守源義經は宣旨を受けたといって、京都周辺の軍勢を召集しています。これはきっと、近くの伊勢に居る山内經俊を攻め滅ぼすためで、十九日には守護屋敷を囲まれた。逃げられなくなっていることでしょう。」ということです。これを聞いた頼朝様が仰せられるには、「このことは事実ではない。經俊は簡単に、人にやられるような奴ではない。」ということです。山内經俊は、伊勢の国の守護に任命されているのです。
「河越重房、御堂供養供奉人より除かる」
 明日の南御堂完成式典への出席の護衛の軍勢などのお供の人事を、今日、選び出されました。その中に河越小太郎重房は、かねて、この人数に入れていたけれど、源九郎義經の親戚(義理の兄)なのではずされました。

|

2008年4月17日 (木)

10月22日「能保の家人、行家・義経らの近況を報ず」

「吾妻鏡」文治元年(1185)10月22日辛未。
「能保の家人、行家・義経らの近況を報ず」
 左馬頭一条能保の家来が京都から走ってきて参上し、申し上げました。「この十六日に、前備前守源行家の家来達の家を捜索して、下男どもを捕まえました。その結果、行家は北小路東桐院の屋敷へ引っ越したらしい。別な噂では、十七日に土佐房昌俊は襲撃に失敗したので、行家と義經は頼朝様追討の宣旨を出させたらしい」との事でした。頼朝様は、特に動揺せず、南御堂の供養の準備に専念していたようです。

|

2008年4月16日 (水)

10月21日 「法皇鎮西臨幸許容無し」

[玉葉]10月21日 
「法皇鎮西臨幸許容無し」
 伝聞、法皇は九州にお出かけの事案は、すべて許容無しのようだ。仍って義経・行家等、忽ち件の事案を変更したようだ。

|

2008年4月15日 (火)

10月19日 「頼朝追討宣旨」

[玉葉]10月19日 
「頼朝追討宣旨」
 早朝、隆職が追討の宣旨を記録紙し送る。その状に云く、
   文治元年十月十八日   宣旨
   従二位源頼朝卿、偏に武力威勢をひけらかし、すでに朝廷の法規を軽んじている。宜しく前の備前の守源朝臣行家・左衛門の少尉同朝臣義経等、彼の卿を追討すべし。
                    蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅奉る
   上卿(首席の公家)は左大臣(経宗)ということです。
「在京武士只義経一人なり」
 伝聞、一昨日、左大臣(経宗)と内大臣(実定)が法皇御所へ参りました。内大臣が先に参り、追討の事を命ぜられた。内大臣はこの事は一身では決め難い、左大臣を待たれるべきである。左大臣が参り申し上げました。およそ異議に及ぶべきもない。早々に宣旨を下されるべきである。その理由は現在在京の武士は義経ただ一人である。彼の申し状に背いてもし重大事が発生したとき、誰が敵対出来ましょうか。彼の申請により指図すべきである。さらに議論に及ぶべきではないと。内大臣はこれに賛同した。経房はこれに参会して、この事を聞き、首を傾けていぶかったようだ。

|

2008年4月14日 (月)

十月十八日「頼朝追討の院宣、行家・義経に下さる」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月十八日丁夘。
「頼朝追討の院宣、行家・義経に下さる」
 源九郎義經が、望み申している頼朝追討の宣旨を朝廷から許すかどうか、昨日後白河法皇の御所で会議を開きました。しかし、今現在、京都で軍勢を持っているのは源九郎義經以外にありません。許可を出さないで、もし武力に訴えてきたら、誰に命じて朝廷を守ることが出来ましょうか。今この場を取り繕うために、とりあえず宣旨を出して、後で詳しい話を関東の頼朝に伝えれば、二品頼朝もきっと分かってくれて怒らないことでしょうと会議を取りまとめました。そこで、宣旨を出されました。懸案決定者は、左大臣〔經宗〕のようです。

 文治元年十月十八日 宣旨 
従二位源頼朝卿は、常に武力を背景に権力を振り回し、朝廷の権威を忘れている。そこで、前備前守源行家、左衛門少尉源義經達は、その頼朝卿を追討せよ。   
 蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅が、命じられて書きました。

[玉葉]10月18日 
「頼朝追討宣旨下さるという」
伝聞、頼朝追討の宣旨が下されたようだ。

|

2008年4月13日 (日)

十月十七日「義経行家の謀反に同意す」

[玉葉]十月十七日
「義経行家の謀反に同意す」
 去る十一日、義経は申し上げました。行家すでに頼朝に反きました。制止を加えるといえども叶うべきも無し。これをいかがいたしましょう。仰せに云く、相構えて制止を加うべしと言いました。同十三日、また申して云く、行家の謀叛に制止を加えるといえども、あえて承引せず。仍って義経は同意しました。その故は、身命を天皇にさしあげ、大功を成すこと再三に及びました。皆これ頼朝の代官としてである。殊に尊重すべきの由存ぜしむるの処、適恩に浴す所の伊豫の国、全て地頭を任命し、国務を遂行出来ない。また没収の所々二十余ヶ所、先日頼朝に分け与えた。而るに今度の勲功の後、皆悉く取り返し、家来等に分け与えました。今に於いては、生涯全く以て執し思ふべからず。ましてや家来を遣わし、義経を殺すべきの由、確かにその告げを得た。遁れようと欲すといえども叶うべからず。仍って墨俣の辺に向かい、一矢を射て、死生を決するの由の所存であるようだ。仰せに云く、殊に驚き思いなされました。猶行家を制止すべしといいました。その後は音沙汰が無い。去る夜重ねて申して云く、猶行家に同意しました。詳細は先度言上しました。
「義経頼朝追討の宣旨を欲す」
 今に於いては、頼朝を追討すべきの由、宣旨をいただきたいと欲す。もしお許しが無ければ、身の暇をいただき九州に向かうべしと。その気色を見るに、天皇・法皇以下、臣下上官、皆悉く連行し下向すべきの様子である。すでにこれ殊勝の大事である。この上の事何様の指図有るべきか。能く思量し計らひ申し上げるべしと言いました。(中略)
「頼朝に過怠なし」
「追討猶予は頼朝引級に似る」
「子細を頼朝に問わるべし」
「勅命に背き濫吹を企つれば追討宣旨を下さるべし」
「義経頼朝を誅滅せんとするは大逆罪なり」

「北方に時の声あり」
 午後10時頃、人走り来たり告げて云く、北方に時を作るの音有り。余これを聞く。すでに事実である。
(略)
「児玉党義経宅に攻めよ寄すも行家追散らす」
 頼朝の家来の中、小玉党(武蔵国住人)三十余騎、中人の告げを以て義経の家に攻め寄せた(法皇の御所の近辺である)。殆ど勝ちに乗らんと欲するの間、行家この事を聞き馳せ向かい、件の小玉党を追い散らしました。

|

2008年4月12日 (土)

十月十七日「昌俊、義経を六条室町亭に襲ふ」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月十七日丙寅。
「昌俊、義経を六条室町亭に襲ふ」
 土佐房昌俊は、先日関東の頼朝様から重大な命令を受けて、水尾谷十郎廣徳を始めとする六十数騎の軍勢を率いて、源九郎義經の六条室町の屋敷を襲撃しました。丁度義經の侍達は、西川の遊郭へ遊びに行っていて、残っている部下達は少なかったのですが、佐藤四郎兵衛尉忠信達を率いて自分の方から門を開いて攻撃をしてきました。行家はこの話を伝令から聞いて、後ろ側から来て戦に加わり、戦いました。暫くすると土佐房昌俊側は、敗色が濃くなり逃げました。源九郎義經の家来達は、走りながら手分けして追いかけました。義經は直ぐに後白河法皇のもとへ走って行き、事の次第と無事であることを告げたようです。

|

2008年4月11日 (金)

十月十三日「義経・行家鎌倉に反くという」

[玉葉]十月十三日
「義経・行家鎌倉に反くという」
 早朝、季長朝臣が来て言いました。義経・行家は同心し鎌倉に反いた。日頃内々の議有り。昨今すでに露見したようだ。世間のうわさ話であると雖も浮言に非ず。義経の周辺の家来の説のようだ。相次いで諸説甚だ多し。頼朝は義経の勲功を失い、還って圧絶の気配が有る。義経の心中は怨みを結ぶの間、また鎌倉の周辺の家来や親族等、頼朝の為に生涯を失い、かねてからのうらみを結ぶの者ども、次第に増加した。彼等は内々義経・行家等の許に連絡した。しかのみならず、頼朝は法皇のお考えに背く事が大変多いようだ。仍って事の形勢を見て、義経は密かにに事の趣を申し上げた。軽く許容有り。仍って忽ちこの大事に及ぶようだ。或いは云く、藤原秀衡また味方したようだ。詳細については実説定まらずと雖も、蜂起についてはすでに露見したようだ。

|

2008年4月10日 (木)

十月十三日「義経参院、頼朝追討の官符を請ふ」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月十三日壬戌。
「義経参院、頼朝追討の官符を請ふ」
 一昨日の十一日と今日と、源九郎義經は内緒で後白河法皇のもとへ行き、申し上げて云うには、「前備前守源行家は、関東に対して背を向け謀反を考えています。それはどうしてかと云うと、行家を殺すように鎌倉の二位卿頼朝様が命令を出しているからです。それが行家の耳に入り、何の過ちを咎めて罪もない叔父を殺そうとするんだと怒り心頭してのことです。源九郎義經は、頼朝様を盛んに止め様としていますが、少しも聞いてはくれません。しかも、義經は平家を滅ぼし、世の中を静かに落ち着かせました。これを大きな手柄だと思いませんか。それなのに頼朝様はその報酬をくれないばかりか、宛がわれていた二十四箇所の領地も全て取上げてしまいました。その上、私を殺すように用意していると耳に入りました。降りかかる火の粉を払うためにと、既に行家と同意しています。こうなったら、頼朝追討の太政官布告を出して下さい。京都朝廷のお許しがなければ、二人そろって宮中で自殺しますよと云ったようです。それに対して、よくよく行家の怒りをなだめなさいと、後白河法皇は回答なされました。

|

2008年4月 9日 (水)

十月九日「土佐房昌俊、義経誅殺に遣はさる」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月九日戊午
「土佐房昌俊、義経誅殺に遣はさる」
 伊予守義經を滅ぼしてしまう事を、日頃、会議を重ねてきました。そして今、土佐房昌俊を遣わす事になりました。この追討の事は、御家人達は殆ど多くの人が辞退の気配を見せていましたが、土佐房昌俊は自分からその役を買って出ましたので、頼朝様から特にお褒めの声を掛けられました。出発の準備が出来たところで、頼朝様の御前へ出立の挨拶に来たところで、「年老いた母と幼い子供が下野におります。是非、後の面倒を見てあげてください。」と申し上げました。頼朝様は特別に承諾をした旨で、下野国中泉荘(栃木県下都賀郡壬生町中泉)を戴きました。土佐房昌俊は八十三騎の軍勢を率いています。三上弥六家季〔昌俊の弟〕錦織三郎・門眞太郎・藍澤二郎以下のようです。京までの行程は九日に決めらたようです。

|

2008年4月 8日 (火)

十月六日「景季帰り義経の動静を語る」

「吾妻鏡」文治元年(1185)十月六日乙夘。
「景季帰り義経の動静を語る」
 梶原源太左衛門尉景季が、京都から帰りました。頼朝様の御前で申し上げました。「伊予守義經の屋敷へ行き、頼朝様の使いできた旨を伝えましたが、病気だといって会ってはくれませんでした。それなので、秘密の命令を伝えられませんでした。仕方なく六条油小路の宿へ戻り、二日開けてからもう一度行きましたら、脇息に寄りかかりながら、会ってくれました。その様子は、本当にくたびれ果てていて、何箇所かにお灸の跡がありました。それでも念のために、行家を滅ぼすようにご命令が出ていると伝えますと、答えられるには、病気は嘘ではない。源九郎義經が思うには、例え強盗のような犯人であろうとも、直接取り調べたい思っている。ましてや行家なら尚更だ。彼は全くの他人ではない。同じ源氏の經基王の子孫として弓馬の道の武士であり、普通の人と同様には扱えない。部下達だけで行かせても、簡単に降伏させることは出来にくい。それなので、早く病気を治して、元気になったら計略を考えましょう。と頼朝に伝えて下さい、と云いました。」と報告をしました。それを聞いて、二品頼朝様は「行家に同意しているので、仮病を使っているのはすでに明らかだ」と言いました。これを聞いた梶原平三景時は「初日に行った時に会わないで、二日たった後で会っている。この様子を良く考えてみると、一日食事を絶って、一晩眠らなければ、その体は必ず疲れ切ってしまうだろう。お灸なんてのは、いくらでも一瞬で据える事が出来る。ましてや日数があれば尚更だ。だとすれば二日の間に巧妙な仕掛けをしたのだろう。行家と共犯していることは疑いない。」と言いました。

|

2008年4月 7日 (月)

九月二日「梶原景季上洛、義経・行家の動静を窺ふ」

「吾妻鏡」文治元年(1185)九月二日壬午
「梶原景季上洛、義経・行家の動静を窺ふ」
 梶原源太左衛門尉景季と義勝房成尋が、頼朝様の使者として京都へ上りました。南御堂の供養の僧侶へのお布施や、お堂の飾り金具等(殆ど京都で買い集めております)を調達するためです。又、平家の共犯者の連中が、流罪を宣告されながら、配流先へ行かずに、京都にいるうちに恩赦でも出されたら仕方が無いけれど、そうではなく、ただ行かせていないだけならば、早く実施するべきだと、伝えるように申されました。それと、頼朝様の使いとして伊予守義經の屋敷へ行って、前備前守行家の居場所を探し見つけて殺してしまうように言いつけて、源九郎義經の挙動を探るように、梶原左衛門尉景季に云って聞かせました。前の五月二十日に前の大納言平時忠を初めとした平家関係者に流罪の太政官布告を出されました。それなのに未だに京都に住んでいるので、頼朝様は怒っていますが、源九郎義經は時忠の娘を妾に貰い、娘婿になっているので、その人情から京都に引き止めております。そればかりか、行家を味方に引き込んで、関東に対して反逆をたくらんでいるとの噂があるので、このようにしたと云う訳です。

|

2008年4月 6日 (日)

8月29日「小除目、源氏多く朝恩に浴す」

「吾妻鏡」文治元年(1185)8月29日己卯。(8月14日改元 文治元年) 
「小除目、源氏多く朝恩に浴す」
 先の十六日に京都朝廷で臨時の人事異動があり、その文書が到着しました。源氏の一族の多くが恩恵を受けた。それは、山名義範が伊豆守。大内惟義が相模守。足利義兼が上総介。加々美遠光が信濃守。安田義資が越後守。義經が伊予守などです。義經殿の官職については、前には頼朝様は渋っていましたが、今度の義經の叙任は先だっての四月に、内々で大藏卿高階泰經殿に申請していた。それなのに今頃になって反逆が露見しましたが、今更中止しろとは云えないので、人事通知書のとおりにしたようです。その他の五カ国の事は、任命された人が希望したことなので、合戦の恩賞として、また頼朝様のご威光のために、絶対にそうするように厳しく催促したようです。それぞれ、自分の任命された国をきちんと治めるようにとの事でした。これは、現在の頼朝様が朝廷からその当地を任された関東の領国です。

|

2008年4月 5日 (土)

8月16日「義経大夫尉兼帯のまま伊豫の守に任ぜらる」

[玉葉]8月16日 丙寅 天晴 
「頼朝申すにより除目あり」
 今夜人事異動有り。頼朝の申請に依るものである。受領(諸国の長官)六ヶ国、皆源氏である。
「義経大夫尉兼帯のまま伊豫の守に任ぜらる」
この中、義経は伊豫の守に任命された。大夫の尉を兼務するのは、いまだかって無し。

|

2008年4月 4日 (金)

七月十二日「群盗取り締まりを義経に命ず」

「吾妻鏡」元暦二年(1185)七月十二日癸巳
「鎮西の巡検を中原・近藤に命ず」
 九州については、武士の自由勝手な狼藉を止めさせ、また横領された荘園を元の通りに国司や領家に任せ、年貢をきちんと納入するように、という法皇の命令を早く下してもらい、それを持って行き巡察して廻るように典膳大夫中原久經と近藤七國平に命じたようです。
「九州没官領に地頭定補の上範頼を帰洛せしむ」
 又、平家を滅ぼした後は、きちんと云うことを聞いて、源廷尉〔義經〕は京都へ戻り、源參河守範頼は現地に残りました。それでも管理している九州の国では武士の横領が相次いでいると訴えがあるので、早く源參河守範頼を帰京するようにとの命令がありましたが、菊地九郎隆直・原田大夫種直を始めとした平家に味方している連中の横領の事、源參河守範頼に事実を確かめさせていると、頼朝様は京都朝廷へ改めてお申し出になりました。すると源參河守範頼は、神社仏閣の領地を妨害していないならば、上京しなくても何の問題もない。上京をしようとすれば後悔あるべしと処置すべきの、追加の後白河院の命令書を出したので、平家から取上げた領地、種直・種遠・遠達の所領である原田・板井・山鹿以下の領地へ、地頭を任命するまでの間は、管理人を置いて、落ち着いて京都へ戻るようにと、今日、頼朝様は源參河守範頼に言いつけられました。

[吉記]七月十二日
「群盗取り締まりを義経に命ず」
 盗賊集団の事、別して戒め命令すべきの由、大夫の尉義経に命じた。これはあちこちの屋敷の囲いが皆破壊したので、多くの人がうれえ嘆くためである。地震の事は法皇は特に御心痛である。尤も当然であるか。(七月九日に大地震)

|

2008年4月 3日 (木)

6月30日「除目聞書」九郎の賞無し。

[玉葉]6月30日 辛巳 雨下る 
「除目聞書」九郎の賞無し。
 人事異動の文書を見た。頼盛入道は備前播磨をいただいた。法皇の(領地?)である。九郎の賞無し。とはいかに。定めて深い由緒が有るのだろうか。凡夫はこれを覚り得ず。

|

2008年4月 2日 (水)

6月23日「宗盛父子らの首を六条河原に梟す」

「吾妻鏡」元暦二年(1185)6月23日甲戌
「宗盛父子らの首を六条河原に梟す」
 前内大臣宗盛と息子の右衛門督淸宗の首を、源廷尉〔義經〕の部下達が、六条河原へ持って行きました。検非違使の大夫尉知康・六位尉章貞・信盛・公朝・志明基・府生經廣・兼康等が、その場所に行き合わせ、これを受け取って、獄舎の門の前の木に掛けました。この事を頭右大弁光雅朝臣が現場に立ち会ったので、検非違使の別當の家通に命じ、別當は弁官の長光雅に命じ、弁官の長は大夫史隆職に伝えました。隆職は、それを検非違使の尉知康に伝えたようです。

|

2008年4月 1日 (火)

6月22日「宗盛等梟首の後使庁に渡すべきや否や」

[玉葉]6月22日 
「宗盛等梟首の後使庁に渡すべきや否や」
 大蔵卿泰経が法皇の命令を伝えて言いました。前の内府、並びにその息清宗・三位中将重衡等、義経が連行し入京する所である。而るに生きながらの入京は無骨である。近江の辺に於いてその首をさらし首にすべきである。検非違使の役所に渡すべきか。まさに棄て置くべきか。法皇の命令に随うべきの由、頼朝卿が申されたの旨、義経は申す所である。思案し申すべしと言いました(但し重衡は南都奈良に送ったようです)。
「勅定に在るべし」
私兼実は申して云く、この事の指図はただ天皇(法皇)の命令に在るべしと言いました。

[吉記]6月22日 
「宗盛清宗の首を渡す」
 夜に入り前の内大臣宗盛の首、渡さるべきの由風聞した。非常に希な事なので、自車に乗り六條高倉の辺に送り出した。夕方薄暗くなった頃、六條河原に於いて、検非違使の役人等これを請け取る(左右無く納桶ながら、武士廷尉に渡しました)。先ずかしらの宗盛卿の首(大臣の首これを渡さる。恵美大臣の例か。誠に希代の珍事である。大蔵卿は内密に法皇の意思を奉り、三大臣に仰せ合わすと)、看督□□□□輩(冠退紅)が周囲を囲みました。次いで前の右衛門の督清宗の首、次いで廷尉七人、府生久忠・経弘・志明基・尉□朝・信盛・章貞・大夫の尉知康(已上□袴、弓矢を所持した)。その路、六條を西に行き東洞院に至り、北に行き中御門に至り、西に行き西洞院に至り、北に行き獄門に至ったようです。
「重衡奈良に下さる」
前の三位中将重衡卿・蔵人大夫頼兼・右衛門の尉有綱等は南京奈良に向かわれたようです。

|

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »