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2008年3月19日 (水)

県歌「信濃の国」

信濃の国

1 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
  松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれもの沢に 万足らわぬ事ぞなき

2 四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ケ岳 浅間はことに活火山 いずれも国の鎮めなり
  流れ淀まず行く水は 北に犀川 千曲川 南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり

3 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
  しかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け 細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり

4 尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床 木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋
  来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山 著き名所と風雅士が 詩歌に詠いてぞ伝えたる

5 旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も 春台太宰先生も象山佐久間先生も
  皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく 山と 聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず

6 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山 穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
  道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い

長野県の県歌「信濃の国」
 長野県民なら殆どの人が一番は歌えるようだ。殆どの都道府県にも県歌などはあるようだが、ここまで普及しているのは珍しいようだ。
 その5番に著名な4人が並ぶ。木曽義仲はそのうちの1人である。

信濃教育会が今回この4人を特集した。
そのうち木曽義仲について一部を記述した。

「木曽義仲軍の乱暴狼藉事件の真相」

                 (「信濃教育」第1455号)

平家物語の木曽軍の乱暴説は捏造である。

真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である。

 源平合戦の頃、通説では木曽義仲軍のみが乱暴狼藉を働いたとか、「平家物語」や「玉葉」には木曽義仲軍の乱暴狼藉が詳しい。本当だろうか。色々調べてみました。
一.「平家物語」や「玉葉」にも平家軍の乱暴狼藉の記述がある。
二.「平家物語延慶本」に鎌倉軍の乱暴狼藉の記述あり。
三.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や一般市民の放火略奪の記述がある。
四.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や一般市民の放火略奪の記述がある。
      義仲軍入京後には略奪などの記述は無い。
五.「吾妻鏡」に鎌倉軍の乱暴狼藉の記録が多数ある。
 平家物語は物語であり史実では無いと否定できる。しかし歴史解説者が史実とする根拠は九条兼実の日記「玉葉」や吉田中納言の日記「吉記」を参照しているようだ。
 ところが九条兼実の弟の慈円の著書「愚管抄」には平家軍が家屋敷に放火し退却のとき、京都中の物取りが集まり争い入り物取りした。さらに法皇や多数の公家が比叡山に退避し、京都市内の警備が空白になり、京都市内は互いに放火し略奪する大混乱の記述がある。「吉記」にも比叡山延暦寺の僧兵も加わり放火し略奪の記述がある。「平家物語」にはこの混乱の記述は無い。法皇や公家はこの混乱の鎮圧を義仲軍に期待し命令した。「愚管抄」には義仲軍の入京後は「かくてひしめきてありける」という記述で、義仲軍その他が物取りとか略奪の記述は無い。
 木曽義仲軍の乱暴狼藉説は平家物語の捏造であり、「玉葉」の伝聞の大袈裟な表現によるものである。「愚管抄」には全く逆の事が記述されている。義仲軍の入京前に京都市民や僧兵が放火や略奪をし、義仲軍入京後に義仲軍の略奪は無い。
 九条兼実は右大臣であり、後に太政大臣もつとめた人物であるから、その日記を信用したようだ。しかし、彼は後白河法皇やその近臣と意見が合わず、権力中枢から遠ざけられ、単なるご意見番であった。それでも権力中枢への復帰のため各種情報を集めていた。病弱でもあり伝聞が多く信用出来ないので、後日の確認のため記述していた。後日訂正している場合もあるが、訂正していない事も多い。例えば「頼朝上洛」の伝聞は約十回記述されているが殆ど訂正していない。記述された事が事実とは限らない。また屋敷の近くを平家軍が通るので騎馬数を数えさせたら千八十騎でした。これを世間では七ないし八千騎または一万騎と称している。「有名無実の風聞かくの如し」と伝聞の不確かさを確認している。平家物語での倶利伽藍峠へ向かう平家軍や「平家物語延慶本」の一ノ谷へ向かう鎌倉軍の乱暴狼藉とは、「追捕、ついふく、ついぶ」という兵粮米の現地調達によるものである。朝廷公認だが、実態は略奪に等しく、民間人の略奪をも「ついふく」と言うようになった。鎌倉幕府の公式記録とされる「吾妻鏡」には、義経追討の名目で全国に配置した「守護」「地頭」の乱暴狼藉が多数記録されている。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは、これから出たものだろう。
 平家物語は琵琶法師による庶民への語り物として広く伝えられた。このとき庶民の乱暴狼藉を語ることは出来ない。また権力者たる法皇や頼朝、朝廷や鎌倉政権などの批判も厳禁である。死人に口無しと運悪く敗者となった義仲軍に責任が転嫁された。「勝てば官軍、負ければ賊軍」のとおり、勝者が敗者の悪事を強調し、捏造することは珍しい事ではない。平家物語の解説者は義仲軍は京都の一般市民に乱暴狼藉を働いたと語るが、真犯人は実は逆に一般市民である。イラクの首都のバグダッドに米軍が進攻し、警備が手薄になった時など一般市民が略奪に走るのを見た人は多いだろう。乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵、後の鎌倉軍将兵、僧兵、一般市民である。
 このように平家物語は真実を伝えてはいない。次の「猫おろし事件」は多分捏造だろう。さらに「法住寺合戦」の「義仲軍の乱暴」「法住寺御所の全焼」「法皇の幽閉」などの事件は「玉葉」「吉記」「愚管抄」「吾妻鏡」の記述と比較して捏造であると推定出来る。
(参照「史学義仲」第八号、第九号 木曽義仲史学会)
http://www.angl.co.jp/shigakukai.html


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