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2008年3月14日 (金)

4月21日「景時、義経の不義を訴ふ」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月21日甲戌
「梶原景時、合戦時の吉瑞を報ず」
 梶原平三景時の伝令が九州から到着しました。親類の人を使って、手紙をよこしました。手紙には始めに合戦の経過を述べ、後半は源廷尉〔義經〕の不行跡を訴えて来ました。その言葉に従うと

 四国中国九州などの関西での戦争のさなかに、良い前兆が沢山ありました。無事にできたのは、普段からの信仰の神様の示すところです。その証拠には、まず3月二十日に、梶原平三景時の家来の海太成光が夢の中に、白い清らかな着物を着た男が捧げ文を持って来ました。この人は岩清水八幡宮のお使いと思い、捧げ文を開いてみたら、平家は未(ひつじ)の日に死ぬだろうと書かれていました。と目の覚めた後、その家来が話しました。それで、未の日にその事を意識して合戦の勝負を決めるべしと思っていたら、本当にそのとおりになりました。又、屋島の合戦で敵を攻め落とした時は、見方の軍隊は少数でしたが、なんと数万騎の軍勢が出現したように、敵方には見えたようです。次に去年、長門での合戦のときに、大きな海亀が一匹現れて、始めは海上に浮いて顔を出し、終いに陸へ上って来ました。そこで漁師達は不思議に思って、源參河守範頼様の前へ差し出しました。六人が力を込めて、なおやっとの重さでした。兵隊達は、甲羅を剥がしてしまおうと相談していましたが、そうだ前に夢のお告げがあったんだと直ぐに思いたって、源參河守範頼様は止められました。その上で甲羅に穴を開け札を着けて、海に放たせました。すると、平氏の最後の戦いに、その亀(札をつけていたので同一と分かりました)が源氏の船の前に先導をするように再び浮かんできました。次に八幡宮のお使いの源氏の白鳩二羽が屋形船の屋根の上を旋回しました。丁度その時間に平氏の主だった人達が入水しました。次に周防での合戦の時には、源氏の白旗が空中に現れて、暫く見方の軍勢の前でたなびいていましたが、終いに雲の中へ消えていきました。
「景時、義経の不義を訴ふ」
 又、次に書いてあるのは、判官義經殿には、頼朝様の代官として派遣され、頼朝様の御家人を添えて派遣され、合戦に勝利できたのです。処が、策略の旨かった自分ひとりの手柄だと思い込んでいますけど、大勢の武士達の協力があったからこそ、勝てたのではないでしょうか。様子を伺ってみると、武士達は判官殿に従っておらず、心の中では頼朝様を慕っているから、力を合わせて手柄を立てようと頑張ってきたのです。それなのに平家を滅ぼした後の判官義經殿の態度は、今までとはすっかり変身しています。兵達は心の底では薄い氷の上を歩くようにビクビクとして、本当に従っている者はありません。特に景時は、頼朝様の側近として、必要以上に本当の目的を知っているので、その間違った行動を考えると、頼朝様のお気持ちに違っているのではと注意を促すと、その言葉がかえって仇となって、へたすると刑罰を受けそうになります。合戦が無事に終わってしまった今は、そばに居たところで仕方がないので、早く許可を戴き関東へ帰りたい等と云っております。
 ようするに和田小太郎義盛と梶原平三景時は侍所の長官と副長官です。そこで弟君の二人の将軍を関西へ出発させる時に、武士達の実務をするために、義盛を參河守様に付け、景時を廷尉義經様に付けられましたが、參河守様は、頼朝様の命令に違反する事なく、大きなことから小さなことまで何でも、千葉介常胤・和田義盛と相談します。源廷尉義經は、勝手に自分の意見を優先して、あえて頼朝様のお考えを守りません。何でも自分の意志に任せて、我侭に行動をしますので、武士達は皆恨みに思っておりますのは、景時ばかりではないようです。

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