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2008年3月28日 (金)

5月24日「義経、腰越えより款状を送る」

「吾妻鏡」5月24日 戊午
「義経、腰越えより款状を送る」
 源廷尉(義経)、思いの如く朝敵を平らげた。あまつさえ前の内府(宗盛)を引き連れ参上した。その恩賞を兼ねて疑わざるの処、日頃から不義のうわさがあり、忽ち御機嫌を損ない、鎌倉中に入ることを許されず、腰越の駅に於いて、いたずらに日を過ごした。愁い思い悩むの余り、因幡(いなば、鳥取県東部)の前の国司(大江)廣元に宛てて一通の嘆願書をお送りした。廣元はこれを見分すと雖も、敢えて明快なお言葉無し。追って指図有るべきの由と。彼の書に云く、
「義経の腰越状」

 源義経、恐れながら申し上げます。この度、兄君のお代官の一人に撰ばれ、天子様のご命令をいただき、朝敵を倒し、先祖伝来の弓矢の武芸を発揮して、父君の汚名を晴らすことができました。それを賞されるべきところ、あらぬ男の告げ口により、計り知れない功績が無視され、罪無くして罰を受け、功績はあっても誤りは無いのにお怒りを受けて、空しく涙に暮れています。
 よくその原因を考えますと、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうという先人のことわざもあります。これにより、告げ口した者の正否を確かめないまま、鎌倉に入れてもらえないので、本心を述べる事も出来ず、いたずらに日をすごしています。今となっては永い間お会いしておらず、肉親である事も空しいようです。私の運命も極まったのでしょうか。または前世の罪のせいでしょうか。悲しい事です。こうなっては、亡き父の霊によみがえって頂く以外に、誰に私の悲しみを伝え、誰が私を哀れんでくれるのでしょうか。
 今更申し上げるのは、述懐のようになりますが、誕生してから、すぐに父が他界したため、みなしごとなり、母の懐に抱かれて大和国宇田郡の竜門牧についてから、一日も安心して過ごした事は無く、生きていても仕方ないと思いながらも、京都の近くで過ごすことは困難であったので、諸国を流浪し、あちこちに隠れて辺境の遠国を住みかとして、土民百姓らの奉仕を受けて来ました。
 けれども好機が到来して、平家一族を追討するため上京しました。最初に木曽義仲を征伐して後、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のため命を落とす事も顧みず、ある時は大海原で風波の難に耐え、身を海底に沈めて、亡骸が鯨にさらされようと悲しみませんでした。さらに甲冑を枕にし、弓矢の武芸に専心する本意は、亡き父兄の魂の憤りわ鎮め、年来の宿願を遂げようとする以外にはありません。
 さらに私が五位の検非違使の尉に任命された事は、このような希な重職に任官は我が源家の名誉であり、これに勝るものはありません。ところが今愁いは深く、嘆きは切なるものがあります。仏神のご加護なくして、この訴えが届くのでしょうか。それゆえ諸国の神社の午王宝印の裏に「私は全く野心を抱いていません」と記し、日本国中の大小の神仏にお誓いし、数通の起請文を書いて献上しましたが、なおもお許しがありません。
 そもそも我が国は神国です。神は非礼な行いをお許しになりません。頼るところは他にありません。ひたすら貴殿(広元)の寛大な御慈悲におすがりするしかありません。時期を見て、頼朝さまのお耳に入れて頂き、手だてをつくされて、(義経に)誤りがないと認められてお許しにあずかれば、その善行は源氏の家に及び、その栄華は永く子孫に伝えられるでしょう。そうすれば私の永い愁いはなくなり、生涯の安心を得ることができます。私の文章では書き尽くせませんので、省略いたします。どうかお察し下さい。義経が恐れながら申し上げます。

元暦二年五月 日 

左衛門少尉源義経 
進上 因幡前司(大江広元)殿

(平家物語と同一文である。)

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