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2008年3月12日 (水)

4月15日「頼朝、内挙なき御家人の任官を禁ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月15日戊辰
「頼朝、内挙なき御家人の任官を禁ず」
 関東の御家人が、頼朝様の推薦を受けずに、手柄も無いのに多くの者が朝廷の近衛府や所司の官職に任官しているのは、それぞれ皆特にけしからぬことであると、命令書を彼等あてに出しました。その人たちの名前を一枚の紙に書いて、それぞれの悪いところを書き添えられたようです。

 命令する 関東の侍のうち、任官した連中へ。

 関東の本の領地の国へ京都から下ってくることを止めるので、それぞれ京都に住んで、守衛の公務を勤めること

 同封する名簿の手紙を一通

 右、任官した者の通例は、京都に勤務していて日数の功労により官職を与えられるか、自らの私費で朝廷に代わって事業をして、その見返りに朝廷から官職を貰うことである。それなのに関東の侍供が、むやみに荘園の年貢を押し留め、國衙から朝廷へ治めるべき租税も略奪し、私財の調達に応ずるのでなくして、勝手に任官を受けている。これでは、任官の秩序の衰えは明白である。すべての任官を停止したのでは、成功(私財を献上して任官する)という私財調達の方法もなくなってしまう。先の官位であろうと、今度の職位であろうと、任官を受けた連中は、永遠に地方への哀愁を断ち切り、京都に住んで官職に勤務すればよいのだ。すでに朝廷の家来として列に連なるのだから、なにも地方へ閉じ篭る必要はないだろう。もし、云うことを聞かずに墨俣川(現在の長良川)から東へ下ろうものならば、一つは本領を取上げて、一つは首切りの刑を朝廷に申請して行う事を伝える。  元暦2年4月十五日 

東國の住人で任官した連中の事

兵衛尉義廉 鎌倉殿(頼朝)は主人としては悪いほうだ。木曾冠者義仲は良い主だと言って、父を始め親戚・親しい人達を引き連れて、木曾冠者義仲の軍勢に参加しようと言った。鎌倉殿に仕えたならば、終いには落人となって処罰されるのが落ちだと云った事を忘れたわけではあるまい。とんでもない悪兵衛尉だ。

佐藤兵衛尉忠信 藤原秀衡の家来の分際で、衛府の官職に任命されることなど、昔から無かったことである。身の程を知ってそのままにおれ。これは、いたちにも劣る奴だ。

師岡兵衛尉重經 石橋山合戦での勘当が、やっとこさ許された。それなので、本領に帰るべきであるのに、今になっても本領に帰らないでいる。

澁谷馬允重助 父の澁谷庄司重國は地元の国にずうっと居た。それなのに平家に付いて一緒にあちこち戦い歩いたが、木曾義仲が大軍で京都へ攻め入った時には、さっさと義仲軍に従って京都に残った。又、源義經が義仲をやっつけて、京都へ入ってきた時はすぐに義經の見方に駆けつけ、その後一緒の度々の合戦に勇気を奮ったので、平家への分と義仲への分の勘当を許して召し使われるところであったが、勝手に任官して首を切られるとは、どんなにか上手に用意をしてくれる鍛冶屋へ言いつけて首っ玉に厚く金具を巻いておくように。

小河馬允 やっと勘当を許してやり、目をかけようと思い始めたのに、心根の様が良くない。何のために任官したのか。

後藤新兵衛尉基淸 目はねずみに似ていて、ただおとなしく仕えていればいいものを。勝手の任官なんてとんでもない事だ。

波多野右馬允有經 小者のくせに。木曾義仲を滅ぼしたので、仕方なく許してあげたので、おとなしく従って居ればよいものを、五位の馬允の任命を受けるとは、在り得ない事だ。

梶原刑部丞朝景 声はガラガラ声で、髪は薄くやっと髷を結ってるのに刑部丞(刑部省の次官の下)の柄ではない。

同じく息子の兵衛尉景貞 合戦の時に勇気を奮ったと聞いている。それなので目をかけようと思っていた所、勝手の任官なんてとんでもない事だ。

梶原兵衛尉景高 悪い心構えの者、前からおかしな奴と見ていたのに、任官など凡そにつかわないので見苦しい。

中村馬允時經 おおぼら吹きが大好きで、知りもせずに任官するのを好み、揖斐庄の知行を失うとは。かわいそうに、うまくいかない人よ。悪い馬を育てるのがせいぜいじゃないか。

海老名兵衛尉季綱 勘当を多少許して上げたのに、無意味な任官だ。

本間右馬允能忠 <同じ>

豊田兵衛尉義幹 色は白っぽく、顔はしまりがない奴なので、おとなしく仕えていれば良いものを、勝手の任官なんてとんでもない事だ。父は下総の国で、何度か呼びつけたが、参上せず、関東を平定したから来た。親子そろって不覚物だ。

兵衛尉政綱

兵衛尉忠綱 本々の領地を少し返してあげようとしたのに、勝手に任官した今となっては叶わない事になった。馬鹿な奴だ。

平子馬允有長

平山右衛門尉季重 久日源三郎。顔はふわふわとしていて、とんでもない勝手の任官だ。

梶原源太左衛門尉景季

縫殿助山内重俊

宮内丞舒國 大井の渡しに来た時には、(私頼朝の怒りに)声を出すのも臆病だったくせに、それが任官だなんて見苦しい。

刑部丞山内首藤瀧口三郎經俊 官職好みの奴め、その役に立たない。つくづく無益なことだ。

 このほかの連中の中にも、何人か任官した奴がいるが、文官武官の何の官職を受けたか、はっきりと分からないので、詳しく書き出していない。このほかの連中も、永遠に京都より外の本国へ帰りたいなんぞと云う思いを止めるべきであろう。

八田右衛門尉知家
小山兵衛尉朝政
 この二人が、九州へ下った際に、京都で官職を任官するなんて事は、どんくさい鈍い馬が道草を食っているのとそっくりだ。前の連中と同様に関東へ帰ってくることを許さないのはこのとおりだ。

(注釈)これが有名な「勝手に任官した、けしからぬ連中の非難の手紙」だが?

兵衛尉 兵衛府(皇宮警察)の次官の下
馬允  馬の役所の次官の下
宮内丞 宮内省の次官の下
刑部丞 刑部省の次官の下
縫殿助 衣服の役所の次官

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