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2008年3月10日 (月)

4月11日「義経の戦果報告鎌倉に到着す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月11日甲子
「義経の戦果報告鎌倉に到着す」
 午後二時頃に南御堂(勝長寿院)の立柱式(建前)です。頼朝様も立ち会われました。そこへ九州からの伝令が到着して、平家を滅亡させた事を申し上げました。源廷尉〔義經〕は一巻の巻物の記録を進上しました。中原信泰が書いたようです。これは、先月二十四日に長門国(山口県)赤間関の海上に、八百四十以上の軍船を用意しました。平家もまた、五百艘以上で船を漕ぎ出して戦いました。昼頃に反逆者の平家は負けました。

一、先の天皇(安徳)は海底へ沈んでしまいました。

一、海に沈んでしまった人は、二位尼上(平時子)、門脇中納言〔教盛〕、新中納言〔知盛〕、平宰相〔經盛、先に出家か〕
   新三位中將〔資盛〕、小松少將有盛、左馬頭行盛

一 若宮(守貞親王)と建礼門院(平徳子)は無事にお救い申し上げました。

一 生け捕った人々は、、前内大臣(宗盛)、平大納言〔時忠〕、右衛門督〔淸宗〕(宗盛子)
  前内藏頭信基〔負傷〕、左中將〔時實同上〕、兵部少輔尹明、内府が子で六歳の童〔字を副將丸〕
此の外、美濃前司則淸、民部大夫成良、源大夫判官季貞、攝津判官盛澄、飛騨左衛門尉經景、後藤内左衛門尉信康、右馬允家村

女房
   師典侍〔先の帝の御乳母〕、大納言典侍〔重衡卿が妻〕、師局〔二品(平時子)の妹〕、按察局〔先の安徳天皇を抱いて入水したけれど生き残った〕


   僧都公眞、律師忠快、法眼能圓、法眼行明〔熊野別當〕

主たる人達の名簿は、このとおりです。この外に、男女を生取った事は、追て記入し提出します。又、内侍所(の鏡)・神璽はございましたが、宝剣は紛失しました。私の考えつくす限り、探し求めています。

 藤判官代邦道が前にひざまづき、この文書を読み上げました。因幡守(大江広元)と筑後權守俊兼、筑前三郎孝尚達がそばにおりました。頼朝様は、直ぐにその文書を取上げ、自分で巻いて持たれまして、鶴岡八幡宮の方に向かってお座りになられました。お言葉を発することもありませんでした。立柱・上棟式を終えて、大工達に褒美を与えました。やっと御館へ帰られた後、伝令をお呼びになり、合戦の次第を詳しくお尋ねになられたようです。

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