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2008年3月

2008年3月31日 (月)

六月二十一日「義経、宗盛父子を誅せしむ」

「吾妻鏡」元暦二年(1185)六月二十一日壬申
「義経、宗盛父子を誅せしむ」
 朝の六時に源廷尉〔義經〕は、近江国篠原宿(滋賀県野洲市小篠原)に着いて、橘右馬允公長に命じて前内府宗盛を殺しました。それから野路口(草津市野路町)に来たら、堀太郎景光に命じて、前右金吾淸宗を斬首にしました。それでもその間に、大原法成寺の本性上人が、親子の善知識として、その場所へ来られました。親子は上人の教えに従い、怨念を払って、極楽浄土に行けると安堵していたようです。
「重衡入洛す」
又、本三位中將「重衡」は今日、京都へ入りました。

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2008年3月30日 (日)

六月十三日「義経領知の平家没官領を没収し、功臣に分与す」

「吾妻鏡」元暦二年(1185)六月十三日
「義経領知の平家没官領を没収し、功臣に分与す」
 廷尉義經に分け与えていた平家から取上げた領地二十四箇所を全て没収しました。大江広元と筑後權守俊兼が担当手続きをしました。源廷尉〔義經〕の手柄と云うのは、二品頼朝様の代官に過ぎないのだ。頼朝様の御家人が引率されなかったら、どうしたら図りがたい神の力を使っても、一人で敵をやっつけることが出来るんだろう。それなのに全て自分の手柄だと思い込んで自分で言っている。さらに今度、帰京の際、関東に於いて恨みを持つ者は義経に従えの言葉を吐いた。例え、兄の私に逆らうとしても、世間の聞こえを考えずに、そういう事をするとは、何てとんでもない罪作りな奴だとお怒りになられて、このとおり没収したようです。

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2008年3月29日 (土)

六月九日「義経、宗盛らを京に送還す」

「吾妻鏡」元暦二年(1185)六月九日庚申。
「義経、宗盛らを京に送還す」
 源廷尉義經は、酒匂の宿に滞在していました。今日、前内府平宗盛を連行して京都へ向かいました。二品頼朝様は、橘右馬允公長・淺羽庄司宗信・宇佐美平次實政などの勇敢な武士達に、囚人の護衛を追加しました。廷尉義經が思っていることは、関東へ戻れば、平氏討伐の内容を詳細に説明することが出来るだろうから、きっと大きな手柄を褒められて、思っていた通りになるだろうと、思っていたのに、全く違っていた。そればかりか、お会いすることさえも出来ずに虚しく京都へ戻るなんて、その恨みは昔の境遇を恨むよりも深くなったようです。
「重衡奈良へ送らる」
 又、本三位中將重衡は、去年から狩野介宗茂の屋敷におりましたが、今は源藏人大夫頼兼に預けられ、同様に出発しました。東大寺の僧兵達の身柄要求によって、南都奈良へ送られるようです。

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2008年3月28日 (金)

5月24日「義経、腰越えより款状を送る」

「吾妻鏡」5月24日 戊午
「義経、腰越えより款状を送る」
 源廷尉(義経)、思いの如く朝敵を平らげた。あまつさえ前の内府(宗盛)を引き連れ参上した。その恩賞を兼ねて疑わざるの処、日頃から不義のうわさがあり、忽ち御機嫌を損ない、鎌倉中に入ることを許されず、腰越の駅に於いて、いたずらに日を過ごした。愁い思い悩むの余り、因幡(いなば、鳥取県東部)の前の国司(大江)廣元に宛てて一通の嘆願書をお送りした。廣元はこれを見分すと雖も、敢えて明快なお言葉無し。追って指図有るべきの由と。彼の書に云く、
「義経の腰越状」

 源義経、恐れながら申し上げます。この度、兄君のお代官の一人に撰ばれ、天子様のご命令をいただき、朝敵を倒し、先祖伝来の弓矢の武芸を発揮して、父君の汚名を晴らすことができました。それを賞されるべきところ、あらぬ男の告げ口により、計り知れない功績が無視され、罪無くして罰を受け、功績はあっても誤りは無いのにお怒りを受けて、空しく涙に暮れています。
 よくその原因を考えますと、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうという先人のことわざもあります。これにより、告げ口した者の正否を確かめないまま、鎌倉に入れてもらえないので、本心を述べる事も出来ず、いたずらに日をすごしています。今となっては永い間お会いしておらず、肉親である事も空しいようです。私の運命も極まったのでしょうか。または前世の罪のせいでしょうか。悲しい事です。こうなっては、亡き父の霊によみがえって頂く以外に、誰に私の悲しみを伝え、誰が私を哀れんでくれるのでしょうか。
 今更申し上げるのは、述懐のようになりますが、誕生してから、すぐに父が他界したため、みなしごとなり、母の懐に抱かれて大和国宇田郡の竜門牧についてから、一日も安心して過ごした事は無く、生きていても仕方ないと思いながらも、京都の近くで過ごすことは困難であったので、諸国を流浪し、あちこちに隠れて辺境の遠国を住みかとして、土民百姓らの奉仕を受けて来ました。
 けれども好機が到来して、平家一族を追討するため上京しました。最初に木曽義仲を征伐して後、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のため命を落とす事も顧みず、ある時は大海原で風波の難に耐え、身を海底に沈めて、亡骸が鯨にさらされようと悲しみませんでした。さらに甲冑を枕にし、弓矢の武芸に専心する本意は、亡き父兄の魂の憤りわ鎮め、年来の宿願を遂げようとする以外にはありません。
 さらに私が五位の検非違使の尉に任命された事は、このような希な重職に任官は我が源家の名誉であり、これに勝るものはありません。ところが今愁いは深く、嘆きは切なるものがあります。仏神のご加護なくして、この訴えが届くのでしょうか。それゆえ諸国の神社の午王宝印の裏に「私は全く野心を抱いていません」と記し、日本国中の大小の神仏にお誓いし、数通の起請文を書いて献上しましたが、なおもお許しがありません。
 そもそも我が国は神国です。神は非礼な行いをお許しになりません。頼るところは他にありません。ひたすら貴殿(広元)の寛大な御慈悲におすがりするしかありません。時期を見て、頼朝さまのお耳に入れて頂き、手だてをつくされて、(義経に)誤りがないと認められてお許しにあずかれば、その善行は源氏の家に及び、その栄華は永く子孫に伝えられるでしょう。そうすれば私の永い愁いはなくなり、生涯の安心を得ることができます。私の文章では書き尽くせませんので、省略いたします。どうかお察し下さい。義経が恐れながら申し上げます。

元暦二年五月 日 

左衛門少尉源義経 
進上 因幡前司(大江広元)殿

(平家物語と同一文である。)

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2008年3月27日 (木)

5月19日「京の群盗、遠江の不逞武士の鎮定等を評議す」

「吾妻鏡」5月19日 辛丑
「京の群盗、遠江の不逞武士の鎮定等を評議す」
 京都及び近国の群盗等が多発した。敢えて自由に行動させないことが困難の間、鎮定させるべきの詳細、今日指図の手続きをした。先ず平氏の家人等の中、戦場を脱出した者どもが元の在所に帰還し静かにひっそりと居住し、猶田園を支配した。あまつさえ、都や田舎に横行し、窃盗や強盗の犯罪を事と為すようだ。
 次いで近日、遠江の国(静岡県西部)居住の御家人等、武威を以て勝手気ままに内密に朝廷に申し上げ、或いは法皇の命令書を申し下し、或いは諸国に赴任した地方官・荘園の実際の所有者等の下文を横取りし、土地の利権を貪り公平を欠くようだ。
 次いで伊豆の守仲綱の息子で、伊豆の冠者有綱と称する者が、廷尉義経の聟として、多く京都付近の国の庄園や公領を横領するようだ。
これらの事項の箇条について、情報が関東に伝えられたので、殊に朝廷に申し上げを経て、悉く以て罪状を問いただして処罰するように決定したようです。

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2008年3月26日 (水)

5月17日「後藤基清の僕従、伊勢能盛の下部と乱闘す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)5月17日己亥
「一条能保鎌倉に到着す」
 朝六時頃に、先の七日に源廷尉義經と同じ日に京都を出発した左馬頭一条能保様が到着しました。直ぐに御所にお入りなされました。昨日暑すぎて、多少暑気あたりになったようなので、しばらく鎌倉に滞在すると申されました。
「後藤基清の僕従、伊勢能盛の下部と乱闘す」
 実は昨日、左典厩一条能保の部下の侍の後藤新兵衛尉基淸の従者が、廷尉義經の部下の侍の伊勢三郎能盛の下人と揉め事を起こしました。それは、能盛が食事の用意をしている最中に、基淸が馬でその旅館の前を走りすぎました。その後から、旅行道具を担いだ人足供が通りかけたところ、能盛の替え馬が、基淸の従者を踏んだので、口論になりました。そして基淸の従者は、頭へ来て刀を抜いて、その馬の「しりがい」手綱を切った上で走って逃げていきました。これを聞いた能盛は外へ走り出てきて、竹の根で作った鏃の着いてない蟇目矢で、残りの人足達を撃ちましたので、人足達は叫びながら大騒ぎです。後藤新兵衛尉基淸も又その話を聞いて馬を引き返して、伊勢三郎能盛と勝負を決めてやるといきり立ちましたが、左典厩一条能保がこれを宥め止めて、使いを源廷尉義經の元へ行かせました。廷尉義經も又これを止め静められたので、その後は無事に収まりました。この話を左典厩能保はわざわざ頼朝様に訴えるようなことはしませんでしたが、自然と頼朝様の耳に入ることとなりました。頼朝様は、源廷尉義經の侍の伊勢三郎能盛の下人の、義經の手柄に図に乗った態度をするのは、けしからんと大変ご立腹のようです。

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2008年3月25日 (火)

5月15日 「義経、宗盛父子を伴い酒匂に着く」

「吾妻鏡」5月15日 丁酉
「義経、宗盛父子を伴い酒匂に着く」
 廷尉義經の伝令の工藤庄司景光が到着しました。前内府親子(宗盛、淸宗)を連行して鎌倉へ向かって七日に京都を出ました。今夜、酒匂宿(小田原市酒匂)へ到着するところです。明日には鎌倉へ入る予定ですと申し上げました。
「宗盛を迎え入れ、義経鎌倉入りを停む」
 逆に北條四郎時政殿は、使者として酒匂宿へ向かわれました。その理由は、前内府(宗盛)を受け取る為です。牧武者所宗親と工藤小次郎行光等を連れて行きました。廷尉義經様には、そのまま鎌倉へ入らず、しばらくそのあたりで待機していて、呼び出しがあるまで待つように、命令を伝えさせました。
小山七郎朝光が使節となったという。

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2008年3月24日 (月)

5月9日「渋谷重助の任官内挙なきため召名を除かる」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)5月9日辛卯
「渋谷重助の任官内挙なきため召名を除かる」
 澁谷五郎重助は、頼朝様の推挙を受けずに、京都朝廷から官職を貰ったことはけしからんので、今度の任官候補名簿からもはずしてしまうように、改めて命令が出ました。この人の父の澁谷庄司重國は、石橋山合戦のときは敵対したけれども、寛容に許可をして御家人として仕えさせているが、澁谷五郎重助はなおも平家に仕えて、何度もの勧誘に従わなかった。それなのに平家が都落ちをした時は、京都に残って木曾義仲軍に従って、義仲が滅亡したら、廷尉義經軍の忠実な部下となった。それらの沢山の罪も、強い武士だと云う名誉の方が勝っていると許したのに、挙句の果てに勝手に官職を拝領してしまった。とんでもないことなので、任官なんかさせるべきではないとお決めになりました。今回、父の澁谷庄司重國は豊後国へ行ったときに、先陣を切ったと云う手柄はあるけれども、源參河守範頼よりも先に勝手に京都へ帰ってきてしまったのは、やはり不愉快であるので、やはりだめだと、直ぐにこの一つ一つを伝えさせました。
「原田の所領功臣に分ち与ふ」
 又、原田大宰少貳種直の領地は、手柄を立てたものに分配するように、參河守範頼様へ命令を伝えさせたようです。

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2008年3月23日 (日)

5月7日「義経等東国へ下向」

[玉葉]5月7日 
「義経等東国へ下向」
 藤原資隆入道が来た。今朝早く、左馬の頭能保・大夫の尉義経等は東国に下向した。前の内大臣父子、並びにその家来十余人を連行するようだ。これは配流(流罪)のためではないようだ。
[吉記]5月7日 
「義経宗盛等を具し関東に下向す」
 早朝、大夫判官義経は前の内府(張藍摺の輿に乗る)並びに前の右衛門の督清宗(騎馬)、及び捕虜の者どもを連行し関東に下向した。左馬の頭能保朝臣も同じく下向したようだ。

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2008年3月22日 (土)

5月7日「義経起請文を頼朝に進ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)5月7日己丑
「義経起請文を頼朝に進ず」
 源廷尉義經の伝令の亀井六郎が京都から到着しました。頼朝様に対し謀反の心など持っていないことを誓約書にして提出をしてきたのです。前因幡守大江広元が取次ぎをしました。しかし、參河守範頼は、九州からどんどん続けて伝令をよこし、細かいことも報告をしていますし、些細なことも勝手に判断するようなことはなく、頼朝様も快く思っておりました。廷尉義經は、殆ど自分で判断して行動しているので、今頃になって頼朝様が不機嫌なのを聞き知って、初めてこのような行動に出ましたので、許されるばかりか、かえってお怒りの種を作ってしまったようです。

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2008年3月21日 (金)

5月5日「宝剣捜索を範頼に命ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)5月5日丁亥
「宝剣捜索を範頼に命ず」
 草薙の剣を探し出すように、下級役人を伝令として、源參河守範頼に命じました。概ね冬までは、九州に住み留まり、色々な戦後処理占領行政をして世の中を落ち着かせなさい。その連絡のついでに、澁谷庄司重國の豊後国での合戦(実は筑前の芦屋浦合戦)で、加摩兵衛尉(福岡県嘉麻市)を討ち取ったのは、大手柄だと感心していると伝えました。また、源參河守範頼には、従わせている御家人達の事については、たとえ思うように云うことを聞かない連中がいても、勝手に自分の判断で処分をしてはいけない。私が判断をするので関東の私に言いつけてきなさいとの事です。昨年、京都朝廷から正式に平家討伐司令官として、二人の弟の範頼・義經に後白河法皇の任命が出ました。そして、參河守範頼は九州を管理すること、廷尉義經は四国へ攻め入ること、そしてそれぞれの国々を管理するように、かねて命じてありました。しかし、今回廷尉義經が壇ノ浦合戦を終えた後、九州の事まですっかり権限を通り越して勝手に越権行為をしています。しかも、従軍している関東の武士が、少しでも云うことを聞かないとこれを許すことをしないで、又内容を頼朝様に伝えもせずに、ただ自分の意思を持って、勝手に処分をしていると聞こえて来ています。それはもう、多くの人を悩ますこととなっている。その罪は許しがたいので、廷尉義經の事は、頼朝様のお怒りに達しているようです。
「小山朝光帰る」
今日、小山七郎朝光(結城左衛門尉朝光)が関西から帰ってきました。

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2008年3月20日 (木)

五月4日「頼朝、景時の使に書を託し義経を煥発す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)五月4日丙戌
「頼朝、景時の使に書を託し義経を煥発す」
 梶原平三景時の伝令が九州へ戻るそうだ。そこで頼朝様はお手紙を持たせて、廷尉義經を勘当したので、今後は義経の命令に従ってはいけない。但し、平氏の捕虜達はもう京都へ入っているようなので、今一番の大事な仕事である。刑が決まるまで、景時を始めとした御家人は皆心を一つにして警護をするように。自分勝手に気ままに鎌倉へ帰って来てはならないということです。

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2008年3月19日 (水)

県歌「信濃の国」

信濃の国

1 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
  松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれもの沢に 万足らわぬ事ぞなき

2 四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ケ岳 浅間はことに活火山 いずれも国の鎮めなり
  流れ淀まず行く水は 北に犀川 千曲川 南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり

3 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
  しかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け 細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり

4 尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床 木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋
  来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山 著き名所と風雅士が 詩歌に詠いてぞ伝えたる

5 旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も 春台太宰先生も象山佐久間先生も
  皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく 山と 聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず

6 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山 穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
  道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い

長野県の県歌「信濃の国」
 長野県民なら殆どの人が一番は歌えるようだ。殆どの都道府県にも県歌などはあるようだが、ここまで普及しているのは珍しいようだ。
 その5番に著名な4人が並ぶ。木曽義仲はそのうちの1人である。

信濃教育会が今回この4人を特集した。
そのうち木曽義仲について一部を記述した。

「木曽義仲軍の乱暴狼藉事件の真相」

                 (「信濃教育」第1455号)

平家物語の木曽軍の乱暴説は捏造である。

真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である。

 源平合戦の頃、通説では木曽義仲軍のみが乱暴狼藉を働いたとか、「平家物語」や「玉葉」には木曽義仲軍の乱暴狼藉が詳しい。本当だろうか。色々調べてみました。
一.「平家物語」や「玉葉」にも平家軍の乱暴狼藉の記述がある。
二.「平家物語延慶本」に鎌倉軍の乱暴狼藉の記述あり。
三.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や一般市民の放火略奪の記述がある。
四.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や一般市民の放火略奪の記述がある。
      義仲軍入京後には略奪などの記述は無い。
五.「吾妻鏡」に鎌倉軍の乱暴狼藉の記録が多数ある。
 平家物語は物語であり史実では無いと否定できる。しかし歴史解説者が史実とする根拠は九条兼実の日記「玉葉」や吉田中納言の日記「吉記」を参照しているようだ。
 ところが九条兼実の弟の慈円の著書「愚管抄」には平家軍が家屋敷に放火し退却のとき、京都中の物取りが集まり争い入り物取りした。さらに法皇や多数の公家が比叡山に退避し、京都市内の警備が空白になり、京都市内は互いに放火し略奪する大混乱の記述がある。「吉記」にも比叡山延暦寺の僧兵も加わり放火し略奪の記述がある。「平家物語」にはこの混乱の記述は無い。法皇や公家はこの混乱の鎮圧を義仲軍に期待し命令した。「愚管抄」には義仲軍の入京後は「かくてひしめきてありける」という記述で、義仲軍その他が物取りとか略奪の記述は無い。
 木曽義仲軍の乱暴狼藉説は平家物語の捏造であり、「玉葉」の伝聞の大袈裟な表現によるものである。「愚管抄」には全く逆の事が記述されている。義仲軍の入京前に京都市民や僧兵が放火や略奪をし、義仲軍入京後に義仲軍の略奪は無い。
 九条兼実は右大臣であり、後に太政大臣もつとめた人物であるから、その日記を信用したようだ。しかし、彼は後白河法皇やその近臣と意見が合わず、権力中枢から遠ざけられ、単なるご意見番であった。それでも権力中枢への復帰のため各種情報を集めていた。病弱でもあり伝聞が多く信用出来ないので、後日の確認のため記述していた。後日訂正している場合もあるが、訂正していない事も多い。例えば「頼朝上洛」の伝聞は約十回記述されているが殆ど訂正していない。記述された事が事実とは限らない。また屋敷の近くを平家軍が通るので騎馬数を数えさせたら千八十騎でした。これを世間では七ないし八千騎または一万騎と称している。「有名無実の風聞かくの如し」と伝聞の不確かさを確認している。平家物語での倶利伽藍峠へ向かう平家軍や「平家物語延慶本」の一ノ谷へ向かう鎌倉軍の乱暴狼藉とは、「追捕、ついふく、ついぶ」という兵粮米の現地調達によるものである。朝廷公認だが、実態は略奪に等しく、民間人の略奪をも「ついふく」と言うようになった。鎌倉幕府の公式記録とされる「吾妻鏡」には、義経追討の名目で全国に配置した「守護」「地頭」の乱暴狼藉が多数記録されている。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは、これから出たものだろう。
 平家物語は琵琶法師による庶民への語り物として広く伝えられた。このとき庶民の乱暴狼藉を語ることは出来ない。また権力者たる法皇や頼朝、朝廷や鎌倉政権などの批判も厳禁である。死人に口無しと運悪く敗者となった義仲軍に責任が転嫁された。「勝てば官軍、負ければ賊軍」のとおり、勝者が敗者の悪事を強調し、捏造することは珍しい事ではない。平家物語の解説者は義仲軍は京都の一般市民に乱暴狼藉を働いたと語るが、真犯人は実は逆に一般市民である。イラクの首都のバグダッドに米軍が進攻し、警備が手薄になった時など一般市民が略奪に走るのを見た人は多いだろう。乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵、後の鎌倉軍将兵、僧兵、一般市民である。
 このように平家物語は真実を伝えてはいない。次の「猫おろし事件」は多分捏造だろう。さらに「法住寺合戦」の「義仲軍の乱暴」「法住寺御所の全焼」「法皇の幽閉」などの事件は「玉葉」「吉記」「愚管抄」「吾妻鏡」の記述と比較して捏造であると推定出来る。
(参照「史学義仲」第八号、第九号 木曽義仲史学会)
http://www.angl.co.jp/shigakukai.html


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2008年3月18日 (火)

4月29日「頼朝、西海の諸士に義経の命に従わぬやう命ず」

[玉葉]4月26日 
「前の内府、並びに時忠卿以下入洛すと」
 この日、前の内府宗盛、並びに時忠卿以下が入京したようだ。各々乗車、車簾を上げ白衣を着すようだ。清宗卿は前の内府に同車のようだ。盛隆・季貞以下の捕虜並びに投降の者ども、騎馬が車の後に在り。武士等が周囲を囲むようだ。両人共義経の家に安置した。風聞のようすでは、来月四日に義経が引き連れ頼朝の許に向かうようだ。

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月29日壬午
「頼朝、西海の諸士に義経の命に従わぬやう命ず」
 下級役人の吉枝が伝令として九州へ出かけました。これは頼朝様のお手紙を田代冠者信綱に出されたからです。廷尉義經は、関東頼朝様の代官として、御家人を付けて、関西へ派遣したのですが、すべて専断していると聞く。侍達は従わされているかのように思い、みんな恨みに思っているようです。そこで、今後は、関東の頼朝様に忠義の気持ちを感じている者達は、廷尉義經の命令に従う必要はないと内緒で命令するようです。
「備中国妹尾郷を崇徳院法華堂に寄進す」
 今日、備中国妹尾郷(岡山県岡山市妹尾)を崇徳院を祀ってある法華堂の領地に寄付しました。これは、元平家の領地を取上げたのを頼朝様が貰った所です。そこで、崇徳院の菩提を弔うための、僧侶達のお経供養費用に当てられるそうです。

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2008年3月17日 (月)

4月26日「平家捕虜の入洛を法皇見物す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月26日己卯
「頼朝、實平・景時に武士乱行禁止を命ず」
 最近、戦乱が続いているから、武士の連中が武力をもって、諸荘園で略奪暴行をしている。よって、去年の春頃に命令に従って略奪暴行を止めるように天皇から綸旨が下された。それなので関東から土肥次郎實平と梶原平三景時を関西周辺の占領軍司令官として命じた所である。この二人はきちんとした真面目な人たちだが、彼等が任命して現地管理をさせている代官達が、司令官の名を語って勝手に略奪をしているので、人々からの訴えが出てきた。これ等を早く止めさせるように、命令書を作成しているところです。筑後權守俊兼が担当者のようです。

命じる 関西周辺の土肥次郎實平の代官が横領している所へ

 速やかに後白河院の命令書の通りに、實平の乱暴を止めさせる事

 これは、関西とその周辺の荘園や國衙領において、正当な権利の証しもないのに、ずうずうしくも横取りをしている。それぞれの代官が代理と称して平然と現地に住み込んで、領主の命令を聞かないで、國衙の命令も院の庁の命令も無視して、荘園の年貢を横取りし、國衙へ納めるべき国の物を流用している。そのような行動は全く持って不当である。今すぐに現地へ届いている院から命令書に従って、余計な文句議論をせずに、領内から引き上げた後で、正しい理屈証拠があるならば、鎌倉へ詳しく申し出るように命じることは、この手紙の通りである。このことを命令する。元暦2年4月二十六日

命じる 関西周辺の梶原平三景時の代官が横領している所へ

 速やかに後白河院の命令書の通りに、景時の乱暴を止めさせる事

 これは、関西とその周辺の荘園や國衙領において、正当な権利の証しもないのに、ずうずうしくも横取りをしている。それぞれの代官が代理と称して平然と現地に住み込んで、領主の命令を聞かないで、國衙の命令も院の庁の命令も無視して、荘園の年貢を横取りし、國衙へ納めるべき国の物を流用している。そのような行動は全く持って不当である。今すぐに現地へ届いている院から命令書に従って、余計な文句議論をせずに、領内から引き上げた後で、正しい理屈証拠があるならば、鎌倉へ詳しく申し出るように命じることは、この手紙の通りである。このことを命令する。元暦2年4月二十六日

「平家捕虜の入洛を法皇見物す」
 今日、前内大臣宗盛を始めとする平家の捕虜達が、呼ばれて京都へ連れてこられたので、後白河法皇はその京入りの様子を見るために、内緒で牛車を六条坊門(現五条通り)に控えさせたようです。午後四時頃になって、皆京都の町へ入りました。前内府宗盛・平大納言時忠はそれぞれ八葉車に乗り、前後の御簾を上げて、横の物見を開いていたようです。右衛門督淸宗は父宗盛の車の後ろに乗り、共に白い着物に立烏帽子である。土肥次郎實平は黒糸威の鎧を着用して、牛車の前にいた。伊勢三郎能盛は肩は白糸で他は赤糸威の鎧を着用して同様に牛車の後ろにいた。その他の武士達は牛車を囲んでいた。又、美濃前司則淸以下の者達も同様に連行されていた。前内藏頭信基と左中將時實は、怪我をしていたので、裏道を使ったようです。皆、一人残らず源廷尉〔義經〕の六条室町の屋敷に入ったようです。

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2008年3月16日 (日)

4月24日「賢所・神璽帰京、諸臣奉迎す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月24日丁丑
「賢所・神璽帰京、諸臣奉迎す」
 三種の神器の内、神鏡八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が、今津(京都市伏見区)へ届きました。そこで頭中將藤原通資がその場所へ取りに参りました。夜になって、藤中納言吉田經房・宰相中將白河泰通・權右中弁壬生兼忠・左中將藤原公時・右少將滋野井範能・藏人左衛門權佐藤原親雅達が、桂川へ行ってお清めをした後で、朱雀大路を上り、六条大路を越えて、大宮大路から待賢門へ入り、東門を経て太政官の朝所(あいたんどころ)へ着きました。その間、大夫判官義經様は鎧を着けてお供をして、太政官の東門に控えました。檢非違使の部下の看督長が布衣(狩衣)を着て、松明を持って前に居たようです。
「範頼參河守を辞す」
 一方、未だ九州に駐屯している源參河守範頼様は、三河守の官職を辞退しました。その辞退の届出の書状が今日関東へ到着しました。中原親能が頼朝様へ見せ指図を聞いたところ、後白河法皇へ申し上げようとの事でした。

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2008年3月15日 (土)

4月21日「前の内府の事如何」

[玉葉]4月21日 
  泰経卿を以て内密に尋ね問われた事等
「建禮門院の御事如何」
 一、建禮門院の御事はどのように。その御所は京中か、城外か。はたまたご存じなく、ただ武士の家たるべきか。
 申して云く、武士に処置させる事、一切あるべきでない。古来、罪人の女房の罪科は聞かざる事である。然るべき片山里の辺に御住まわせるべきだろう。
「前の内府の事如何」
 一、前の内大臣平宗盛の事はどのように。義経は申して云く、引き連れて入京すべきか。はたまた河陽の辺に留置すべきか。死生の間の事、頼朝に仰せ合わさるべきか。ひそかに申し遣わしました。飛脚未だ到着せず。進退惟(おもい)谷(きわ)む。この上はどのように思慮し申すべし。
 申して云く、この事更に思いわずらうべきではない。追討の由を命令され、さらし首にすべきの由疑い無しと雖も、捕虜として参上した。その上死を賜うべきの由命令され難し。我が朝庭では死罪を行わざるが故である。保元の乱の時この例有り。時の人は感心しなかった。仍って今度はとやかく言うまでもなく遠流に処せられるべきである。而るにその国用意有るべし。南北西の三方に於いては不適切である。東海・東山等の遠国に遣わさるべきである。沙汰の趣は難無し。而るに頼朝の真意に合致するか。御使を遣わされ、徒に数日を経るの條、太だ以て見苦しきものである。また事は内密の故有るに似たるなり。泰経は太だ以て感心した。
「頼朝の賞の事」
 一、頼朝の賞の事、申請に依るの由命令されるべし。将に暗に行わるるべきか。その賞はどのように。
 申して云く、道理では当然暗に命令されるべきである。而るに彼の意趣知り難きか。仍って申請に依るの由命令され如何。但しその賞は正四位の上、都の長官若しくは衛府の長官等の間か。この賞等なら定めて不快の思い無きか。仍って行われるの條宜しきか。但し法皇のお考え在るべしといえり。泰経は事の由を申し上げた。頼朝の賞の事、猶暗に命令される事、猶予有って命令合わさるべしと。他事等御感心有りと。

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2008年3月14日 (金)

4月21日「景時、義経の不義を訴ふ」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月21日甲戌
「梶原景時、合戦時の吉瑞を報ず」
 梶原平三景時の伝令が九州から到着しました。親類の人を使って、手紙をよこしました。手紙には始めに合戦の経過を述べ、後半は源廷尉〔義經〕の不行跡を訴えて来ました。その言葉に従うと

 四国中国九州などの関西での戦争のさなかに、良い前兆が沢山ありました。無事にできたのは、普段からの信仰の神様の示すところです。その証拠には、まず3月二十日に、梶原平三景時の家来の海太成光が夢の中に、白い清らかな着物を着た男が捧げ文を持って来ました。この人は岩清水八幡宮のお使いと思い、捧げ文を開いてみたら、平家は未(ひつじ)の日に死ぬだろうと書かれていました。と目の覚めた後、その家来が話しました。それで、未の日にその事を意識して合戦の勝負を決めるべしと思っていたら、本当にそのとおりになりました。又、屋島の合戦で敵を攻め落とした時は、見方の軍隊は少数でしたが、なんと数万騎の軍勢が出現したように、敵方には見えたようです。次に去年、長門での合戦のときに、大きな海亀が一匹現れて、始めは海上に浮いて顔を出し、終いに陸へ上って来ました。そこで漁師達は不思議に思って、源參河守範頼様の前へ差し出しました。六人が力を込めて、なおやっとの重さでした。兵隊達は、甲羅を剥がしてしまおうと相談していましたが、そうだ前に夢のお告げがあったんだと直ぐに思いたって、源參河守範頼様は止められました。その上で甲羅に穴を開け札を着けて、海に放たせました。すると、平氏の最後の戦いに、その亀(札をつけていたので同一と分かりました)が源氏の船の前に先導をするように再び浮かんできました。次に八幡宮のお使いの源氏の白鳩二羽が屋形船の屋根の上を旋回しました。丁度その時間に平氏の主だった人達が入水しました。次に周防での合戦の時には、源氏の白旗が空中に現れて、暫く見方の軍勢の前でたなびいていましたが、終いに雲の中へ消えていきました。
「景時、義経の不義を訴ふ」
 又、次に書いてあるのは、判官義經殿には、頼朝様の代官として派遣され、頼朝様の御家人を添えて派遣され、合戦に勝利できたのです。処が、策略の旨かった自分ひとりの手柄だと思い込んでいますけど、大勢の武士達の協力があったからこそ、勝てたのではないでしょうか。様子を伺ってみると、武士達は判官殿に従っておらず、心の中では頼朝様を慕っているから、力を合わせて手柄を立てようと頑張ってきたのです。それなのに平家を滅ぼした後の判官義經殿の態度は、今までとはすっかり変身しています。兵達は心の底では薄い氷の上を歩くようにビクビクとして、本当に従っている者はありません。特に景時は、頼朝様の側近として、必要以上に本当の目的を知っているので、その間違った行動を考えると、頼朝様のお気持ちに違っているのではと注意を促すと、その言葉がかえって仇となって、へたすると刑罰を受けそうになります。合戦が無事に終わってしまった今は、そばに居たところで仕方がないので、早く許可を戴き関東へ帰りたい等と云っております。
 ようするに和田小太郎義盛と梶原平三景時は侍所の長官と副長官です。そこで弟君の二人の将軍を関西へ出発させる時に、武士達の実務をするために、義盛を參河守様に付け、景時を廷尉義經様に付けられましたが、參河守様は、頼朝様の命令に違反する事なく、大きなことから小さなことまで何でも、千葉介常胤・和田義盛と相談します。源廷尉義經は、勝手に自分の意見を優先して、あえて頼朝様のお考えを守りません。何でも自分の意志に任せて、我侭に行動をしますので、武士達は皆恨みに思っておりますのは、景時ばかりではないようです。

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2008年3月13日 (木)

4月20日 「神鏡等すでに渡辺に着御す」

[玉葉]4月20日 
「神鏡等すでに渡辺に着御す」
 12時頃、頭の中将通資朝臣が後白河法皇の御使として来た。問いて云く、神鏡等すでに渡辺(大阪市北区中之島)に着御するの由、義経が路より飛脚を進上した(去る夜到来したようだ)。御入洛の日、日次を撰ばるべし。仍って陰陽家に問わるるの処、明日(二十一日)並びに二十五日等吉日たるの由注し申す所である。而るに明日の事、にわかに議すの間、自ずと御後悔有るか。仍って二十五日に延行せらる如何。兼ねてまた建禮門院(安徳天皇の母)、並びに前の内府(平宗盛)同じく以て引き連れる所である。彼の人々の事は何様に指図有るべきか。思慮を申すべしと言いました。

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2008年3月12日 (水)

4月15日「頼朝、内挙なき御家人の任官を禁ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月15日戊辰
「頼朝、内挙なき御家人の任官を禁ず」
 関東の御家人が、頼朝様の推薦を受けずに、手柄も無いのに多くの者が朝廷の近衛府や所司の官職に任官しているのは、それぞれ皆特にけしからぬことであると、命令書を彼等あてに出しました。その人たちの名前を一枚の紙に書いて、それぞれの悪いところを書き添えられたようです。

 命令する 関東の侍のうち、任官した連中へ。

 関東の本の領地の国へ京都から下ってくることを止めるので、それぞれ京都に住んで、守衛の公務を勤めること

 同封する名簿の手紙を一通

 右、任官した者の通例は、京都に勤務していて日数の功労により官職を与えられるか、自らの私費で朝廷に代わって事業をして、その見返りに朝廷から官職を貰うことである。それなのに関東の侍供が、むやみに荘園の年貢を押し留め、國衙から朝廷へ治めるべき租税も略奪し、私財の調達に応ずるのでなくして、勝手に任官を受けている。これでは、任官の秩序の衰えは明白である。すべての任官を停止したのでは、成功(私財を献上して任官する)という私財調達の方法もなくなってしまう。先の官位であろうと、今度の職位であろうと、任官を受けた連中は、永遠に地方への哀愁を断ち切り、京都に住んで官職に勤務すればよいのだ。すでに朝廷の家来として列に連なるのだから、なにも地方へ閉じ篭る必要はないだろう。もし、云うことを聞かずに墨俣川(現在の長良川)から東へ下ろうものならば、一つは本領を取上げて、一つは首切りの刑を朝廷に申請して行う事を伝える。  元暦2年4月十五日 

東國の住人で任官した連中の事

兵衛尉義廉 鎌倉殿(頼朝)は主人としては悪いほうだ。木曾冠者義仲は良い主だと言って、父を始め親戚・親しい人達を引き連れて、木曾冠者義仲の軍勢に参加しようと言った。鎌倉殿に仕えたならば、終いには落人となって処罰されるのが落ちだと云った事を忘れたわけではあるまい。とんでもない悪兵衛尉だ。

佐藤兵衛尉忠信 藤原秀衡の家来の分際で、衛府の官職に任命されることなど、昔から無かったことである。身の程を知ってそのままにおれ。これは、いたちにも劣る奴だ。

師岡兵衛尉重經 石橋山合戦での勘当が、やっとこさ許された。それなので、本領に帰るべきであるのに、今になっても本領に帰らないでいる。

澁谷馬允重助 父の澁谷庄司重國は地元の国にずうっと居た。それなのに平家に付いて一緒にあちこち戦い歩いたが、木曾義仲が大軍で京都へ攻め入った時には、さっさと義仲軍に従って京都に残った。又、源義經が義仲をやっつけて、京都へ入ってきた時はすぐに義經の見方に駆けつけ、その後一緒の度々の合戦に勇気を奮ったので、平家への分と義仲への分の勘当を許して召し使われるところであったが、勝手に任官して首を切られるとは、どんなにか上手に用意をしてくれる鍛冶屋へ言いつけて首っ玉に厚く金具を巻いておくように。

小河馬允 やっと勘当を許してやり、目をかけようと思い始めたのに、心根の様が良くない。何のために任官したのか。

後藤新兵衛尉基淸 目はねずみに似ていて、ただおとなしく仕えていればいいものを。勝手の任官なんてとんでもない事だ。

波多野右馬允有經 小者のくせに。木曾義仲を滅ぼしたので、仕方なく許してあげたので、おとなしく従って居ればよいものを、五位の馬允の任命を受けるとは、在り得ない事だ。

梶原刑部丞朝景 声はガラガラ声で、髪は薄くやっと髷を結ってるのに刑部丞(刑部省の次官の下)の柄ではない。

同じく息子の兵衛尉景貞 合戦の時に勇気を奮ったと聞いている。それなので目をかけようと思っていた所、勝手の任官なんてとんでもない事だ。

梶原兵衛尉景高 悪い心構えの者、前からおかしな奴と見ていたのに、任官など凡そにつかわないので見苦しい。

中村馬允時經 おおぼら吹きが大好きで、知りもせずに任官するのを好み、揖斐庄の知行を失うとは。かわいそうに、うまくいかない人よ。悪い馬を育てるのがせいぜいじゃないか。

海老名兵衛尉季綱 勘当を多少許して上げたのに、無意味な任官だ。

本間右馬允能忠 <同じ>

豊田兵衛尉義幹 色は白っぽく、顔はしまりがない奴なので、おとなしく仕えていれば良いものを、勝手の任官なんてとんでもない事だ。父は下総の国で、何度か呼びつけたが、参上せず、関東を平定したから来た。親子そろって不覚物だ。

兵衛尉政綱

兵衛尉忠綱 本々の領地を少し返してあげようとしたのに、勝手に任官した今となっては叶わない事になった。馬鹿な奴だ。

平子馬允有長

平山右衛門尉季重 久日源三郎。顔はふわふわとしていて、とんでもない勝手の任官だ。

梶原源太左衛門尉景季

縫殿助山内重俊

宮内丞舒國 大井の渡しに来た時には、(私頼朝の怒りに)声を出すのも臆病だったくせに、それが任官だなんて見苦しい。

刑部丞山内首藤瀧口三郎經俊 官職好みの奴め、その役に立たない。つくづく無益なことだ。

 このほかの連中の中にも、何人か任官した奴がいるが、文官武官の何の官職を受けたか、はっきりと分からないので、詳しく書き出していない。このほかの連中も、永遠に京都より外の本国へ帰りたいなんぞと云う思いを止めるべきであろう。

八田右衛門尉知家
小山兵衛尉朝政
 この二人が、九州へ下った際に、京都で官職を任官するなんて事は、どんくさい鈍い馬が道草を食っているのとそっくりだ。前の連中と同様に関東へ帰ってくることを許さないのはこのとおりだ。

(注釈)これが有名な「勝手に任官した、けしからぬ連中の非難の手紙」だが?

兵衛尉 兵衛府(皇宮警察)の次官の下
馬允  馬の役所の次官の下
宮内丞 宮内省の次官の下
刑部丞 刑部省の次官の下
縫殿助 衣服の役所の次官

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2008年3月11日 (火)

4月12日「範頼九州に駐留、義経捕虜を伴い上洛せしむ」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月12日乙丑
「範頼九州に駐留、義経捕虜を伴い上洛せしむ」
 平家が滅亡した後は、中国・四国・九州地方において処理すべき事柄について評議が行われたようです。源參河守範頼様は、暫く九州に駐留し、平家から取上げた領地を始めとする事柄を調査して処置し、源廷尉義經は、捕虜を連れて、京都へ上がるようにと、お決めになられたようです。直ぐに下級役人の時沢と里長を伝令として、九州へ向かったようです。

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2008年3月10日 (月)

4月11日「義経の戦果報告鎌倉に到着す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月11日甲子
「義経の戦果報告鎌倉に到着す」
 午後二時頃に南御堂(勝長寿院)の立柱式(建前)です。頼朝様も立ち会われました。そこへ九州からの伝令が到着して、平家を滅亡させた事を申し上げました。源廷尉〔義經〕は一巻の巻物の記録を進上しました。中原信泰が書いたようです。これは、先月二十四日に長門国(山口県)赤間関の海上に、八百四十以上の軍船を用意しました。平家もまた、五百艘以上で船を漕ぎ出して戦いました。昼頃に反逆者の平家は負けました。

一、先の天皇(安徳)は海底へ沈んでしまいました。

一、海に沈んでしまった人は、二位尼上(平時子)、門脇中納言〔教盛〕、新中納言〔知盛〕、平宰相〔經盛、先に出家か〕
   新三位中將〔資盛〕、小松少將有盛、左馬頭行盛

一 若宮(守貞親王)と建礼門院(平徳子)は無事にお救い申し上げました。

一 生け捕った人々は、、前内大臣(宗盛)、平大納言〔時忠〕、右衛門督〔淸宗〕(宗盛子)
  前内藏頭信基〔負傷〕、左中將〔時實同上〕、兵部少輔尹明、内府が子で六歳の童〔字を副將丸〕
此の外、美濃前司則淸、民部大夫成良、源大夫判官季貞、攝津判官盛澄、飛騨左衛門尉經景、後藤内左衛門尉信康、右馬允家村

女房
   師典侍〔先の帝の御乳母〕、大納言典侍〔重衡卿が妻〕、師局〔二品(平時子)の妹〕、按察局〔先の安徳天皇を抱いて入水したけれど生き残った〕


   僧都公眞、律師忠快、法眼能圓、法眼行明〔熊野別當〕

主たる人達の名簿は、このとおりです。この外に、男女を生取った事は、追て記入し提出します。又、内侍所(の鏡)・神璽はございましたが、宝剣は紛失しました。私の考えつくす限り、探し求めています。

 藤判官代邦道が前にひざまづき、この文書を読み上げました。因幡守(大江広元)と筑後權守俊兼、筑前三郎孝尚達がそばにおりました。頼朝様は、直ぐにその文書を取上げ、自分で巻いて持たれまして、鶴岡八幡宮の方に向かってお座りになられました。お言葉を発することもありませんでした。立柱・上棟式を終えて、大工達に褒美を与えました。やっと御館へ帰られた後、伝令をお呼びになり、合戦の次第を詳しくお尋ねになられたようです。

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2008年3月 9日 (日)

4月5日「勅使長門に下向、神器無事奉還を義経に命ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月5日戊午
「勅使長門に下向、神器無事奉還を義経に命ず」
 大夫尉信盛は、朝廷からの使者として長門国へ出発しました。平家討伐に武門の威光を表し、大きな手柄を立てたことに、後白河法皇は特に感心されたからです。又、三種の神器を無事に京都へ届けるように、源廷尉〔義經〕に命じられるためです。

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2008年3月 8日 (土)

4月4日 「平氏等を誅伐」

[玉葉]4月4日 
「平氏等を誅伐」
 早朝人告げて云く、長門の国に於いて平氏等を征伐したようだ。午後2時頃、大蔵卿泰経の奉行として、義経は平家を伐ちとりましたの由言上した。(略)頭の弁光雅朝臣が来臨した。(略)光雅仰せて云く、院宣に云く、追討の大将軍義経、去る夜飛脚(書状を相副う)を進上し申して云く、去る3月二十四日12時頃、長門の国團(浦)に於いて合戦した(海上に於いて合戦したようだ)。午正より午後4時頃に至り、伐ち取るの者と云い、生け取るの輩と云い、その数を知らず。この中、前の内大臣宗盛・右衛門の長官清宗(内府の子なり)・平大納言時忠・全眞僧都等生虜りのようだ。また宝物等おわしますの由、同じく申し上げる所である。但し旧主(安徳天皇)の御事分明ならずのようだ。(略)

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2008年3月 7日 (金)

4月4日「義経、平家側死傷交名を院に奉る」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)4月4日丁巳
「義経、平家側死傷交名を院に奉る」
 平家は、全て打ち滅ぼされた事を、夕べ源廷尉〔義經〕の伝令が京都へ走って行って申し上げました。今日もまた、源兵衛尉廣綱を使いにして、死傷者や生け捕りになった人の名簿を書き出して、後白河法皇の御所へ提出されたということです。

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2008年3月 6日 (木)

3月28日「平氏伐たれたり」

[玉葉]3月28日 辛亥
「平氏伐たれたり」
 右少弁(総務省の役人)定長が来た。定長云く、平氏伐たれたの由、この間風を聞く。これ佐々木の三郎という武士の説のようだ。然れども義経は未だ飛脚を進上せず。不審猶残るようだ。

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2008年3月 5日 (水)

3月27日「平氏長門の国に於いて伐たれたり」

[玉葉]3月27日 
「平氏長門の国に於いて伐たれたり」
 伝聞、平氏は長門の国(山口県西部北部)に於いて伐たれた。九郎の功のようだ。実否は未だ聞かず。

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2008年3月 4日 (火)

3月22日「三浦を先導に義経壇ノ浦に迫る」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)3月22日乙巳
「三浦を先導に義経壇ノ浦に迫る」
 源廷尉義經は、数十艘の軍船に命じて、壇ノ浦を目指して出航したようです。昨日から乗る船を集め、計略をめぐらしていたようです。三浦介義澄はこの話を聞きつけ、周防国の大島の津で合流しました。源廷尉〔義經〕が云うには、あなたは門司の海を見た経験者なので、案内人と云える。そこで先頭を受け持つべし。三浦介義澄はその命令を受けて、平家の陣営から三十余町(3km以上)離れている壇ノ浦の奥津(干珠・満珠の島のあたり)へ進出しました。その時、平家はこの様子を知り、船を出航させて彦島から、赤間関を通り過ぎ、田ノ浦に陣取ったようです。

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2008年3月 3日 (月)

3月21日「船所正利船を義経に献ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)3月21日甲辰
「船所正利船を義経に献ず」
 大雨です。源廷尉義經は平氏を攻めるため、壇ノ浦を目指して出発しようと用意していましたが、雨のために延期となりました。そこへ周防国(山口県東部)の国司役所の役人の船所五郎正利は、この国の船奉行をしているので、数十艘を献上したので、源九郎義經は正利に鎌倉殿の御家人に列するという文書を与えたようです。

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2008年3月 2日 (日)

3月16日 「平家安藝厳島に」

[玉葉]3月16日 己亥 天晴 
「平家安藝厳島に」
 伝聞、平家は讃岐の国(香川県)シハク庄に在り。而るに九郎襲い攻めるの間、合戦に及ばず退却し、安藝(広島県西部)厳島に到着したようだ。その時僅かに百艘ばかりのようだ。三種の神器が帰り来たる事、法皇あたりでは特別の祈祷無し。兼実が一人この事を欲した。仍って近日、特別に随分の祈り等を修めた。また心底この事を推察した。仏様神様定めて御覧になるか。

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2008年3月 1日 (土)

3月9日「範頼窮状を頼朝に告ぐ」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)3月9日壬辰
「範頼窮状を頼朝に告ぐ」
 源參河守範頼様が、九州から手紙を献上してきました。内容は、平家軍の拠点が近いと思い、何とかして豊後国(大分県)へ着いてみたら、庶民が皆逃げてしまったので、兵糧米を徴収の仕様がありません。そこで、和田太郎義盛兄弟や大多和二郎義成・工藤一臈祐經を始めとする侍達が、云う事を聞かないで(関東へ)帰ろうとするので、強引に押し留めて一緒に海を渡ってきました。なお一層の命令を出して戴いたほうが良いでしょう。
「熊野湛造讃岐に渡る」
 それと、熊の神社長官の湛増が、源廷尉〔義經〕の誘いに乗って、朝廷から追討使の任命を受け、近頃讃岐国(香川県)へ進軍して、今度は九州へもやってくると噂が入りました。四国への進駐は源廷尉〔義經〕が命じられ、九州への進駐は範頼が命じられた処です。それなのに更にそのような奴を指名すれば、まるで私の面子が立ちません。さらに九州には勇士がいないといわんばかりです。人はみな私の恥と思うでしょう。

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