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2008年2月25日 (月)

2月19日「義経、阿波讃岐国境を越え屋島内裏の向に到る」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)2月19日癸酉
「南御堂の事始」
 今日は、南御堂の事始(地鎮祭?)です。頼朝様は香の水干を着て、月毛の馬に乗られ、その場所へ参られました。南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、大工らに祝儀を与えました。祝儀に馬を引き出しました。
「没官領三河国竹谷・蒲形両庄を熊野山に還付す」
 その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので、熊野別当の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。しかし、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に懇望して云うには、「早く事情を関東に訴えて、その両方の荘園を安堵して貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供(彼女が生んだ)に譲渡するから。」そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使いの僧の栄増を鎌倉へよこして申し上げて来たのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。信仰心も厚いのであるようです。
「義経、阿波讃岐国境を越え屋島内裏の向に到る」
 一方、源九郎義經は、昨日の夜通しかかって、阿波国と讃岐国の境の中山を越えて、今日の午前八時頃に屋島の平家軍の向かいの浦へ着きました。牟礼や高松の民家を焼き払った。その煙を見て安徳天皇は建物から出られ、宗盛は平家一族を連れて船に乗り海上へ逃げ出しました。
 源九郎義經様は赤地の錦の直垂に、紅の下濃の鎧を着けて、黒馬に乗り、田代冠者信綱、金子十郎家忠、息子の余一近則、伊勢三郎能盛らを引き連れて、波打ち際へ攻め向かいました。平家は又、船を移動させながら、弓矢を応戦をしました。
「佐藤繼信戦死す」
 一方、佐藤三郎兵衛尉繼信・佐藤四郎兵衛尉忠信・後藤兵衛尉實基・同養子後藤新兵衛尉基淸らは、安徳天皇がおられた内裏や宗盛がいた陣営の建物を燃やしました。黒い煙が空へなびき、日の光を遮るほどでした。これを見た平家の家来の越中二郎兵衛尉盛継・上総五郎兵衛尉忠光達は、船を降りて宮の門前に陣営を構えました。合戦が始まると源九郎義經の家来の佐藤忠信が弓矢で討ち取られました。源九郎義經はとても悲しんで、一人の僧侶にお願いして、千株松の根元に埋葬しました。大事にしている名馬をお布施としてその僧侶に与えました。この名馬は大夫黒と呼ばれ、元々は後白河院の厩においていた馬で、法王のお出ましにお供をするときに、院から戴いたのです。戦場に出るたびにこの馬に乗っていました。この話は、自分の強い家来を大事に慰めた行いなので、美談だと褒めない人はないということです。
「住吉社、鳴鏑の奇瑞を奏上す」
 話し変わって、同じ日に住吉神社の神主津守長盛が京都へやってきて、院への取次ぎを通して云うには、先日の十六日に、住吉神社恒例のお神楽を奉納したら、真夜中の零時頃になって、音の出る鏑矢が神殿から飛び出し、西の方を目指して飛んでいきました。これは、平家追討のお祈りをしていたので、神様の霊験が現れたと云う事でしょう。

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